第5章
***
あなたが選択しなければならない時が、ついに訪れた。
私の願いは、ただあなたが幸せであること。
でも、たとえこの世界が永遠に続くとしても、それは本当の幸せなのかしら?
私の想いがあなたを縛ってしまうのなら…それは望んでいることじゃない。
けれど、どんな選択をしても、私はあなたを責めないわ。
あなたが見つける真実が、どんなものでも、私は…あなたを愛しているから。
***
5章1節
真弦と明日香は、ようやくノア・ドームの最上階にたどり着いた。足元が震え、床がひび割れる音が響く中、二人は息を切らしながらも、その目の前に広がる異様な光景に凍りついた。
かつては未来的で美しかった都市が、今では赤黒い空の下で異常な速度で崩壊していた。高層ビルは軋みを上げながら倒れ、瓦礫が無数の裂け目に吸い込まれていく。空は禍々しい赤黒い光で満ち、裂け目の周囲から生じる異形の影がうごめいている。人々の叫び声と崩れる建物の轟音が交錯し、世界そのものが終焉を迎えようとしているようだった。
「こんなに早く…」
明日香は震える声で呟いた。その瞳には恐怖と焦燥が混じり、肩が小刻みに揺れている。
真弦はそんな彼女の肩にそっと手を置き、力強い声で答えた。
「落ち着け、明日香。まだ俺たちは動ける。ここで諦めるわけにはいかない。」
彼の声は自分に言い聞かせるようでもあったが、焦燥感を隠しきれなかった。
レムスフィアを構えた真弦は裂け目に向かって手を伸ばし、全力で「想波」を送り込もうとした。しかし、伸ばした手に触れる空気は冷たく、まるで刺すような感覚が全身を走る。
そのとき、裂け目の光が揺れ、闇の中から影――遥の具現化が現れた。彼女の輪郭は以前よりも鮮明で、まるで現実の中に実体を持つかのようだったが、その姿は淡い光を纏い、今にも消え入りそうだった。
「遥…」
真弦の声が震える。彼の目には動揺と懐かしさが入り混じっている。
遥は優しい微笑みを浮かべながら、静かに口を開いた。
「真弦、やっとここまで来たのね。」
その声には愛情と、どこか覚悟のような響きがあった。
遥は続ける。
「裂け目を修復しなければ、私がこの世界を治して元の幸せな生活に戻ることができるわ。あなたはここで、ずっと幸せに過ごせるようにしてあげることもできる。」
その言葉に、真弦の心は大きく揺れた。
この世界で過ごしてきた日々――リョウやアイリとの笑い合った時間、ジンとの真剣な議論、ケイの優しさ、そして明日香との温かな瞬間。それらがすべて彼の頭の中を駆け巡る。
「それもいいな…と思うよ。」
真弦は一瞬笑みを浮かべながら遥を見つめた。
「この街の皆と過ごした時間は、本当に楽しかった。明日香と一緒にいるだけで、俺が世界で一番幸せだと考えてしまうくらいには…な。」
しかし、その笑顔の裏にある焦りと葛藤を隠しきれなかった。
「だけど…遥姉さん、人はたとえ今の幸せを手放したとしても、また別の幸せを掴む生き物だと思う。」
遥は切なげに目を伏せながら、真弦の言葉をじっと聞いている。
「理想だけに生きて、与えられた幸せだけを求めていたら、『真実』には到達できない。理想の幸せを手放し、現実を直視しなければ…俺は、真実の幸せにはたどり着けないんだ。」
「真弦…」
遥の声には悲しみと理解が入り混じり、微かに震えていた。
「この世界がどれほど美しく、どれほど楽しいものか、あなたは知っているわ。」
遥はそう言いながら、弟を静かに見つめた。
「でも、私も気づいていたの。この世界があなたを引き止めている理由。それは…私自身の恐れだったのかもしれない。」
遥の姿が淡く揺らぎ始める。彼女の瞳に宿る深い愛情と悲しみが、真弦の心に突き刺さる。
「それでも俺は現実を捨てられない。どれだけ辛くても、俺は現実と向き合いたい。そして…遥姉さんを救いたい。」
真弦の言葉に、遥は静かに頷き、最後の力を振り絞って言葉を紡いだ。
「わかったわ、真弦。私は、あなたを信じてる。どんな決断をしても、あなたをずっと見守っている…。ただ、この世界での幸せも、決して偽りではなかったことだけは覚えていて。」
「もちろんだ、遥姉さん。」
真弦の声には決意が込められていた。
「どれだけ時間が経っても、ここでの思い出は消えない。それは、俺の中で永遠に生き続けるんだ。」
その言葉に微笑みを返し、遥は静かに消えていった。その姿が完全に消えると、赤黒い空が一瞬だけ静寂に包まれる。
「真弦…裂け目を…」
明日香が、そっと彼に声をかけた。
真弦は拳を握りしめ、裂け目に向かって歩み寄る。だが、その途端に猛烈な力が彼を押し戻し、彼はよろめいた。裂け目から放たれる暗いエネルギーは、まるで生き物のように抵抗し、真弦が近づくのを拒んでいるかのようだった。
真弦は力を振り絞り、裂け目に向かって手をかざした。今度は明日香も彼に続き、二人で力を合わせた。
真弦は拳を握りしめ、裂け目に向かって歩み寄る。だが、その途端に猛烈な力が彼を押し戻し、彼はよろめいた。裂け目から放たれる暗いエネルギーは、まるで生き物のように抵抗し、真弦が近づくのを拒んでいるかのようだった。
「くっ…こんなに強い力が…!」
真弦は歯を食いしばり、必死に耐えた。裂け目を修復しようと「想波」を送り込むが、その力がまるで弾かれるように散り、逆に強烈な反発を受ける。
「真弦!」明日香が彼の肩を支え、焦燥感をにじませた声で叫んだ。
「私と気持ちと合わせて!」
彼女もまた「想波」を集中させ、真弦と共に裂け目に力を注ぎ込む。だが、裂け目はまるで彼らを嘲笑うかのように、その力を飲み込み、再び彼らを弾き返す。暗黒の裂け目は、どんどん広がり、タワー全体が震え始めた。
「これじゃ…俺たちの力だけじゃ…」
真弦は膝をつき、息を切らしながら、裂け目を見上げた。
「でも、やるしかない!このままじゃ、全てが…!」
明日香は涙をこらえながら、もう一度力を振り絞った。
二人は全身の力を込めて「想波」を送り続けたが、その度に反発が強まり、裂け目のエネルギーが彼らに襲いかかる。冷たい風が吹き荒れ、空間がひび割れ、崩壊の前兆が周囲に広がっていた。
「俺は…この世界を救いたいんだ…遥を、そして、明日香を…!」
真弦は苦しみながら叫び、最後の力を振り絞ったが、その力も限界に近づいていた。
その時、タワーの上空に淡い光が差し始めた。夜明けの光だ。ほんのわずかながら、漆黒の闇に染まった世界に柔らかな輝きが注ぎ込まれた。その光が、裂け目を包む闇をかすかに押し返し、タワー全体を金色に染めていく。
同時に、街中のレムスフィアが一斉に緋色の光を放ち始めた。人々の「想波」が真弦の元へと流れ込んでくる。タワーを囲むように無数の緋色の光が天へと集まり、中心部で輝きを増していく。
「真弦!」
リョウの声がレムスフィアを通じて響く。
「お前がここまでやってくれたんだ!俺たちはお前を信じてる!行けよ!お前ならできる!」
「真弦、気をつけて!」
アイリの声も重なる。
「あなたなら絶対に裂け目を閉じられる。あなたの決断を、私たちは全力で支えるから!」
「頼むぞ、真弦。」
ジンの冷静な声が届く。
「お前が裂け目を閉じれば、この街にはまだ希望が残る。絶対に負けるな。」
「お前の背中には、みんなの想いが乗っかってる。気張れよ!」
ケイの言葉が柔らかいながらも、真弦を鼓舞した。
「光が…」
明日香が驚きに目を見開きながら、呟いた。
夜明けの光が差し込むにつれ、真弦と明日香の心にも希望が灯り始めた。彼らの「想波」は、まるでその光に共鳴するかのように再び高まりを見せ、強力なエネルギーとなって再び裂け目に注ぎ込まれた。
「これなら!」
真弦はその光を背に、再び力を振り絞った。
「太陽が…俺たちに力を与えてくれてる!」
明日香もその力を感じ、さらに強く彼に呼応した。
「真弦…私たちならできる!」
二人の「想波」が夜明けの光と共鳴し、強烈な光となって裂け目を包み込んだ。裂け目が激しく震え、内部の闇が押し返され始める。空間が揺らぎ、裂け目の縁が少しずつ縮小していった。
「いけえぇぇ!」
真弦は全身を震わせながら、裂け目を閉じようと必死に力を注ぎ込んだ。その光が裂け目の内部で拡散し、全ての闇を消し去ろうとしていた。
最後の一瞬、裂け目が激しく振動し、全てを呑み込もうとするかのように暗黒が広がった。しかし、二人の「想波」がその全てを押し返し、ついに裂け目は完全に閉じた。タワー全体が揺れ、崩壊が始まるその瞬間、彼らは深い安堵と共に倒れ込んだ。
「これで…終わったんだ。」
真弦は深い息をつき、心に抱えていた重荷が一瞬にして消えたように感じた。しかし、その同時に、彼はこの世界との別れが訪れたことを実感した。
「真弦…」
明日香が彼に寄り添い、穏やかに語りかけた。
「あなたの選んだ道を、私は信じている。どんな未来が待っていようとも…。」
真弦は彼女の手をしっかりと握り返し、優しく微笑んだ。
「ありがとう、明日香。」
彼らの目の前には、崩壊していく世界が広がっていたが、その中で二人はしっかりと手を取り合い、最後の瞬間を共に迎える決意を固めていた。
5章2節
最後の裂け目が消滅した瞬間、真弦と明日香の目の前に広がる景色が、ゆっくりと崩れ始めた。ノア・ドームから見下ろす都市エデンは、すでにその形を失い始めていた。ビルは瓦礫となり、地面は大きく裂けている。かつて繁栄を誇ったこの都市が、砂のように崩れ去っていく光景は、まるで砂時計がひっくり返されたかのようだった。
「真弦…」
明日香の声が、かすかに震えた。彼女の瞳には、逃れられない運命を前にした深い悲しみが映っていた。
真弦は、無言のまま彼女の手を握り締める。その温もりが、二人がまだ生きていること、そしてここにいることを痛感させた。彼の胸の中には、これから訪れる別れの痛みがじわじわと広がり、何か重いものが喉に詰まるような感覚があった。
「明日香…」
真弦は辛そうに彼女の名を呼んだ。
「本当にこの世界が終わるのか…」
明日香は微笑もうとしたが、その笑顔は悲しみに押しつぶされ、涙が溢れた。
「そうみたい…でも、あなたと過ごせたこと、本当に幸せだった。たとえ短い時間でも、私はあなたと一緒にいられたことが…」
言葉が途切れ、彼女は静かに肩を震わせながら泣いた。真弦は彼女を強く抱きしめたが、その腕の力は、絶望をどうにか押し留めようとするかのように震えていた。
「俺も、明日香。君と過ごした時間…どんなに苦しくても、それが俺の支えだった。本当に、ありがとう。」
彼の声もまた、涙で詰まり、かすれた音になった。崩壊が進む都市の音が、まるで二人を取り巻く静寂の中で遠のいていくように感じられた。裂け目が消え、彼らの目の前には何もかもが無に帰していく現実が広がっていた。
「ねえ、真弦…」
明日香は涙を拭い、真弦の目を真っ直ぐに見つめた。
「私は信じてるよ。きっとまた、会えるって。だから、怖くない。」
その言葉に、真弦は小さく頷いた。彼もまた、彼女を信じていた。そして、彼女の信じる力が、彼を支えていた。
「俺も…信じてる。いつか、必ずまた会おう、明日香。」
二人は、お互いの顔を見つめ合い、最後の別れの瞬間を迎える覚悟を決めた。ノア・ドームは、まるで時間が止まったかのように静かだったが、その静寂は崩壊の前兆でもあった。壁がひび割れ、床がきしみ始める音が、二人の耳に届く。
「さよならじゃないよ、真弦。」
明日香が微笑みながら言った。
「これは…また会うための約束だから。」
真弦は涙を浮かべながら、彼女の言葉に応えた。
「ああ、また会おう。約束だ、明日香。」
そして、二人は最後に抱き合った。その瞬間、タワーが大きく揺れ、崩れ落ち始めた。床が崩れ、瓦礫が落ちていく中、彼らはしっかりと抱き合い、静かに目を閉じた。
夜明け前の薄明が、崩壊していく世界を柔らかな光で包み込んでいた。その光は、二人を優しく抱きしめるように、彼らの姿を最後に映し出した。タワーが崩れ落ち、二人がその光の中に消えていくとき、まるで時間が一瞬止まったかのように、全てが静まり返った。
そして、静寂の中、薄明の光が世界を満たし、この世界はその美しくも切ない幕を閉じた。
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