第4章

***

すべての終わりが近づいている。

あなたが選ばなければならない時が来る。

その選択が、私たちの結末を決めることになる。

どうか…迷わないで。

たとえどんな結果になったとしても、私はずっと、あなたを見守っているから。

ここが消え去ったとしても、あなたが見つけるべき真実はきっと…。

***

4章0節

朝日が静かに窓から差し込み、真弦は目を覚ました。薄白く染まる空が、ゆっくりと部屋全体を包み込んでいる。夜明け前の静けさが、まだ眠りから完全に覚めきっていない世界に薄いベールをかけていた。しかし、その静寂にはどこか不協和音のような、奇妙な歪みが混じっているような気がした。

目覚める直前、真弦はまた夢を見ていた。ぼんやりとした映像の中、誰かが彼の手を強く握りしめていた。その手はこれまでの夢と同じく温かさを持ちながら、今回は一層の切迫感が伝わってきた。そして夢の中で聞こえた声――「迷わないで」という言葉が、うっすらと彼の意識にこびりついて離れない。だが、その声が誰のものなのか、目覚めと共に再び霧の中へと消えていった。

カプセルの中で身体を起こし、ぼんやりと天井を見つめる真弦。夢の残滓が脳裏をかすめ、心の奥でざわつく不安が静かに広がっていく。確かに感じたはずのあの手の感触、そして響いた声が、現実と夢の境界を曖昧にし、彼を現実へ引き戻すことを躊躇わせる。

(誰なんだ…あの声…。どうして俺に迷うなって?)

真弦は頭を振り、夢の中で感じた焦燥を振り払おうとしたが、その感覚は心にこびりついて離れない。夢の記憶は次第に霞んでいくが、不安だけが胸に残り続ける。まるで何かが崩れかけているような、漠然とした恐怖が彼の心を掴んでいた。

ふと、隣で寝息を立てている明日香の姿に目を向ける。柔らかな陽光が彼女の髪を照らし、静かな呼吸が安らぎをもたらす。その姿を見つめると、真弦は胸の奥で少しだけ安心するのを感じた。明日香がそばにいてくれること――その事実が、彼を不安から解放してくれる。現実がどれほど歪み、裂け目が広がっていようとも、彼女がいる限り、この世界にまだ希望は残っていると思える。

薄明の光が部屋を満たし始めた頃、真弦はゆっくりと身体を起こした。隣では、明日香がまだ静かに眠っている。彼女の髪が柔らかな光を受け、ほのかにきらめいていた。目を閉じた彼女の表情は、どこか幼く見え、真弦の胸に温かい感情を呼び起こした。

(こうして穏やかな時間を過ごせるのも、今だけかもしれないな…。)

淡い光がカーテンの隙間から静かに部屋を照らしていた。真弦は目を覚ますと、隣で静かに眠る明日香の寝顔に目をやった。肩まで引き上げられた毛布の隙間から、彼女の穏やかな寝息が聞こえてくる。ふっと微笑みを浮かべた真弦は、そっと彼女の髪に触れた。柔らかな感触が指先に伝わる。

レムスフィアのトワが小声で囁くように話しかけてきた。

「おはようございます、真弦さま。本日も素晴らしい1日が始まります。」

「ありがとう、トワ。でも、少しだけ静かにしてくれると助かる。」

真弦の言葉に、トワはすぐに音量を落としながら続けた。

「失礼しました、もうすぐお目覚めの時間ですね。」

彼は軽く頷き、耳元で優しく囁いた。

「明日香、朝だよ。起きる時間だ。」

「ん…?」

まだ夢の中にいるような明日香が、微かに身じろぎしながら瞼を開けた。

「おはよう…真弦。」

「おはよう。よく眠れた?」

彼女は微笑みながら小さく頷き、毛布の中で体を伸ばした。

「うん、隣に真弦がいると安心して眠れるの。」

その言葉に、真弦は少し照れたように笑い、「それは良かった」と返した。部屋の隅で控えていたレムスフィアが気を利かせてカーテンを開けると、朝の光が一層鮮やかに差し込み、部屋を明るくした。窓の向こうには、エデンの街並みが朝日に照らされて美しく輝いている。

「今日はいい天気だな。散歩に行こうか。」

「いいね。朝の空気を感じるの、好きだもん。」

明日香は笑顔を浮かべながら、真弦の提案に頷いた。

二人は身支度を整え、街へと出た。早朝のエデンは静寂に包まれており、人工的な整然さと自然の調和が溶け合う光景が広がっている。街路樹の葉は朝露を纏い、柔らかな風に揺れている。空中庭園に咲く花々が、朝日を浴びて鮮やかな色を輝かせていた。

「静かで気持ちいいね。」

明日香が足を止め、木漏れ日を浴びながらつぶやく。

「そうだな。でも俺は、君とこうして歩けるのが、一番の癒やしだよ。」

真弦が柔らかい声で答えた。彼女の瞳に映る朝の光景が、まるで絵画のように美しい。

しばらく歩いた後、二人は「サイレントブリュー」の前で足を止めた。ガラス越しに柔らかな光が漏れ、店内には穏やかな音楽が流れている。明日香が店のロゴを見上げながら微笑んだ。

「ここに初めて来たときのこと、覚えてる?」

真弦もその言葉に微笑み、軽く頷いた。

「もちろんさ。あの日の君のこと、今でも鮮明に覚えてる。」

二人は店内に入り、窓際の席に腰を下ろした。ケイがカウンターから挨拶してくる。

「やあ、真弦君。」

「ありがとう。いつものコーヒーを頼むよ。それと、彼女には何か甘めのものをお願いできるかな。」

コーヒーが運ばれるまでの間、明日香が椅子に腰を落ち着けながら静かに語り始めた。

「初めてここに来たとき、なんだか不思議な感じがしたんだ。街全体があんなに整然としている中で、このカフェだけは、少し余裕があるように感じられて…」

「君もそんな風に思ったのか。」

真弦はカップを持ちながら、当時の光景を思い出すように目を細めた。

「あの日、君が店に入ってきた瞬間、僕の目を引いたのを覚えてる。あのときの君は、本当に自然体で自由な雰囲気だった。」

明日香が首を傾げて微笑む。

「自然体?そんなに目立つようなこと、してたかな?」

「いや、むしろその逆だよ。普通の動きなのに、どこか他の人とは違うリズムが感じられてね。カウンターで注文している姿が、妙に印象に残った。」

真弦の言葉に、明日香は楽しそうに笑う。

「ああ、私、あのとき結構迷ってたんだよね。普段はあまりコーヒーを飲まないから、メニューを見てもどれがいいのか分からなくて。」

「そうだったのか。ケイさんが親切に説明していたのを覚えてるよ。その後、君がカップを持って振り返ったとき、ふっと微笑んでくれて、それがすごく印象的だった。」

「真弦の方こそ、窓の外を見ながら何を考えているのかなって気になったよ。」

明日香はカップを両手で包みながら続けた。

「だから、つい声をかけちゃったんだ。『ここに座ってもいいかな?』って。」

「驚いたけど、すごく嬉しかった。」

真弦の表情が少し柔らかくなる。

「初めてなのに、昔から知っている人に話しかけられたみたいで、不思議な安心感があった。」

明日香は頷きながら、窓の外に視線を向ける。

「あのときの景色も、今と似てたよね。整然としたビル群と風に揺れる木々。それを眺めているあなたの横顔が、とても落ち着いて見えたの。」

「でも実際は、君が来てくれたおかげで落ち着きを取り戻したんだ。」

真弦は小さく笑いながら明日香を見つめた。

「君が隣に座ってくれなかったら、たぶん僕はあのままモヤモヤした気持ちを抱えていただろうな。」

「それって、私も同じだったのかも。」

明日香の声はどこか懐かしさを含んでいる。

「この街の完璧さに息苦しさを感じていたけど、あなたがいてくれたから、少しだけその隙間を見つけられた気がしたの。」

ケイがコーヒーを運んでくると、二人は静かにカップを傾けながら、その柔らかな香りに包まれる。しばしの沈黙の中で、二人の間に漂うのは言葉にできない安心感だった。やがて真弦が口を開いた。

「あの日から、僕の中で少しずつ何かが変わった気がするよ。」

「私もそう。あなたと会ったあの日が、きっと何かの始まりだったんだね。」

そう言って微笑む明日香の姿に、真弦は静かに頷いた。二人にとって、このカフェはただの店ではなく、特別な記憶の場所として刻まれている。そしてその記憶は、今もなお二人の心を温かく包み込んでいた。

散歩とカフェを楽しんだ後、明日香が提案する。

「ねぇ、今日は私の部屋に来ない?」

「えっ?」

真弦は一瞬驚いた表情を浮かべた。

「いいのか?初めてだよな。」

「いいのよ。たまには場所を変えてみるのも楽しいでしょ?」

明日香は微笑みながら誘い、二人はそのまま彼女の住む建物へ向かった。

明日香の部屋は、彼女の性格を映したような空間だった。落ち着いた色合いの家具と、適度に飾られた観葉植物が整然と配置されている。それでいて、どこか温かみを感じさせる雰囲気が漂っていた。真弦は部屋を見渡しながら、少し緊張した様子で立ち止まる。

「どうぞ、座ってリラックスして。」

明日香が優しく声をかけると、真弦は少しぎこちなくソファに腰を下ろした。

「綺麗な部屋だな。君らしい。」

「ありがとう。でも、そんなに構えなくていいのよ。」

明日香が笑いながら言うと、真弦は苦笑いを浮かべた。

「いや、初めての場所だと、どうしても緊張しちゃうんだよ。」

明日香は冷蔵庫からボトルを取り出しながら言った。

「そんなに気を遣わないでいいのに。ねぇ、夕飯は一緒に作りましょうよ。」

「俺が手伝って大丈夫かな。君の台所に不慣れだから、足手まといになるかも。」

真弦は少し心配そうに答える。

「大丈夫。私がメインでやるから、真弦はサポート役ね。」

明日香が軽やかに答えると、彼は肩の力を抜いたように小さく頷いた。

「わかった。よろしく頼む。」

トワがホログラムでいくつかのレシピを投影する。

「こちらのレシピはいかがでしょう?野菜たっぷりのスープとグリルチキンがおすすめです。」

「それ、いいじゃない。体にも良さそうだし。」

明日香が提案を受け入れると、真弦も頷きながら冷蔵庫を開け、材料を取り出し始めた。

「じゃあ、俺は野菜を切るよ。包丁ぐらいは使えるはずだし。」

真弦が野菜をまな板に置いて包丁を手に取ると、明日香がくすりと笑った。

「そのセリフ、すごく不安なんだけど。」

彼女が冗談めかして言うと、真弦は苦笑しながら包丁を持ち直した。

「大丈夫だよ…多分。」

彼がキュウリを厚めに切るのを見て、明日香が後ろから手を伸ばす。

「もう少し細かく切った方がいいよ。ほら、こんな感じ。」

彼女は真弦の手に自分の手を添え、一緒に包丁を動かす。

「…明日香、こんなに近いと緊張するんだけど。」

「何か問題でも?」

明日香が無邪気に笑うと、真弦は少し戸惑いながら首を振った。

「いや、悪くないけどさ。」

その時、トワがホログラムで投影したレシピが切り方をアニメーションで示した。

「野菜のカット方法を補助します。」と、丁寧な案内が続く。

「これ、前時代的すぎない?」真弦が軽く笑うと、明日香が肩をすくめた。

「でも、こうして手で切るのが楽しいんでしょ?ほら、次はこの指示通りにやってみて。」

明日香は調味料を取り出しながら、グリルチキンに丁寧に下味をつけていた。ふと手を止め、静かに口を開く。

「どれだけ未来が進んでも、こうやって手で作ることには特別な意味があるわね。最新の技術や自動化では味わえない、何か大切なものがそこにある気がするの。」

真弦は包丁を握りながらその言葉に頷いた。

「たしかに、そうだな。自分の手で食材に触れて、時間をかけて何かを作る。それ自体が、安心できる行為なのかもしれない。自分と向き合う時間っていうか。」

「分かるわ。」

明日香が微笑みながら言葉を続ける。

「技術がどれだけ進化しても、自分で手を動かすことには独特の価値があるのよね。それは、ただ食べるものを作るだけじゃなくて、生きるっていう行為そのものに繋がっていると思うの。」

真弦は少し考え込みながら、包丁を握り直した。

「こうやって自分の手で作ると、ただ生きてるだけじゃなくて、生きてることを実感できる。何かを作り上げる過程が、その証みたいな気がする。」

「そうよね。」

明日香は目を輝かせながら頷いた。

「たとえ道具がどれだけ効率的になっても、私たち人間は、こうやって自分の力で作ることに意味を見出していくんだと思う。それはきっと、どんな時代になっても変わらない普遍的なことなんじゃないかしら。」

真弦はしばらく黙った後、柔らかい笑みを浮かべて言った。

「普遍的…か。たしかに、食材を切ったり調理したりするこの感覚は、どれだけ環境が変わっても人間であり続けるための根っこの部分なのかもな。」

真弦は包丁を握り直しながら答える。

「ねぇ、真弦。そのニンジン、ちょっと厚すぎない?」

明日香が横目で指摘すると、真弦は少し困ったように手を止めた。

「やっぱり?…料理って難しいな。」

「まぁ、練習あるのみだね。」

明日香は笑いながら手伝いに回る。

「よし、これで完璧!スープに入れる分も私が手伝うから、次は盛り付けをお願い。」

真弦は言われた通り、完成した料理を慎重に皿に盛り付け始める。

「盛り付けなら、これでもセンスあるかもしれない。」

「へぇ、見せてもらおうじゃない。」

明日香が手を拭きながら後ろから覗き込むと、思わず吹き出した。

「それ、野菜が山盛りになってバランス悪いよ!」

「え、そうか?俺的には良いと思ったんだけど。」

真弦が首を傾げると、明日香は笑いながら野菜の配置を直した。

「これで完璧。」

二人で完成した料理をテーブルに並べ、向かい合って座る。スープの香りが部屋を満たし、グリルチキンの焼き目が食欲をそそる。明日香が一口スープを飲み、目を輝かせながら言った。

「これ、すごく美味しい!」

「本当か?俺が切った野菜でも?」

真弦が少し心配そうに尋ねると、明日香は微笑みながら頷いた。

「もちろん。私たちが一緒に作ったから、もっと美味しく感じるんだよ。」

真弦もチキンを口に運び、満足げに頷いた。

「確かに。一緒に作ると、ただの料理でも特別になるんだな。」

二人は笑顔で食事を続けながら、時折視線を交わしては自然と笑みを浮かべた。その時間は、言葉では表せないほど穏やかで心地よいものだった。料理を通じて深まった二人の絆が、温かな空気となって部屋を満たしていた。

食後、二人は窓辺に並んで腰を下ろし、静かな夜景を眺めていた。外の街並みは灯りに彩られ、まるで星々が地上に降りてきたようにきらめいている。部屋の中はレムスフィアによって柔らかな光に包まれ、二人を心地よい空間で満たしていた。

「今日は、本当に楽しかった。」

明日香が微笑みながら小さな声でつぶやく。

「幸せ...。」

真弦が彼女の手を取りながら答えると、しばらく二人は夜景に視線を向けたまま沈黙した。その沈黙は重くなく、むしろ心地よく二人の間に漂っていた。

やがて、真弦が視線を街の灯りから移し、ぽつりと口を開いた。

「でも、こうして穏やかな時間を過ごしていると、今の自分がちょっと不思議に思えるんだ。」

「どういうこと?」

明日香が彼を見つめ、問いかける。

「どんなに気にしないようにしても、非難する声って正直、胸に引っかかるんだよ。」

真弦は少し困ったように微笑み、夜景に目を戻した。

「俺は未来に向けて動いているつもりなんだけど、周りの人たちにはそう見えていないらしい。むしろ、俺が原因で不安を煽っていると思われてる。」

明日香は少し考えるように沈黙してから、静かに口を開いた。

「みんな、不安なのよ。未来に希望を見つけようと必死に何かに縋っているの。でも、その『何か』が本当に彼らを救っているわけじゃない。」

「どういう意味だ?」

真弦が彼女を見つめる。

明日香はティーカップを両手で包み込みながら続けた。

「不安をなくしてもらうことに頼りすぎると、次にまた別の不安が生まれたとき、また別の何かに縋りつこうとする。それを繰り返しているだけじゃ、本当の意味で未来には進めないわ。」

「確かに…俺が見てきた人たちも、何かにすがりついては失望して、また新しいものを探しているように見えることがある。でも、それをどうすれば止められるんだろう。」

真弦の声には、どこか迷いが混じっている。

明日香は彼の手をそっと握り返し、穏やかに微笑んだ。

「自分自身が変わらないと、どれだけ希望を求めて動いても、同じことを繰り返すだけなのよ。」

「自分が変わる、か…」

真弦は彼女の言葉を噛み締めるように呟く。

「でも、自分を変えるって簡単なことじゃないよな。」

明日香は視線を真弦に向けて、優しい声で続けた。

「ねぇ、鏡に映った自分の寝ぐせを直そうとして、鏡を触ったらどうなると思う?」

「鏡を触る?それじゃ何も変わらないだろ。」

真弦は少し驚いたように答える。

「そう。それと同じなのよ。」

明日香は微笑みながら言葉を続けた。

「周りを変えようとするだけじゃ、自分が何も変わらなければ、見える世界も変わらない。自分の寝ぐせを直すには、自分自身に手を伸ばさなきゃいけないの。」

真弦はその言葉にしばらく黙り込んだ。彼女の言葉が、心の奥深くに響いているのを感じていた。

「…俺もみんなと同じで、鏡ばかり見ていたのかもしれない。自分を変えずに、周りの反応ばかり気にしてたんだな。」

「気づいたなら、それで一歩進んだってことよ。」

明日香の声は温かく、真弦を励ますような響きだった。

「でもね、真弦。あなたが変わろうとしている姿は、きっと周りの人たちにとっても希望になる。あなたの未来は、他の誰かの未来でもあるんだから。」

「俺の未来が、他の人の未来になる…か。」

真弦はもう一度夜景に目を向け、深く息をついた。

「それなら、俺は自分自身をもっと信じてみようと思う。自分を変えることで、何かが動き出すかもしれない。」

明日香は彼の横顔を見つめ、満足げに微笑んだ。

「そうよ。それが本当の希望につながるんだと思う。」

二人の会話は静かに途切れたが、その沈黙は何かを共有した後の心地よいものだった。外の星明かりのような街の灯りが、二人を柔らかく包み込んでいた。

4章1節

明日香の部屋は、夜明け前の静寂に包まれていた。薄暗い中、真弦はふと目を覚ました。隣では明日香が穏やかな寝息を立てて眠っている。彼女の横顔を一瞬見つめた後、静かにベッドを抜け出した。

部屋の窓際に立ち、カーテンの隙間から外の街を眺める。夜の帳がまだ降りたままの街並みは、散りばめられた星明かりのような街灯が静かに輝いていた。その光景に目を向けながら、彼は深く息を吸い込む。

「おはようございます、真弦さま。」

トワの落ち着いた声が耳に響く。

「ああ、おはよう、トワ。」

真弦は少し笑いながら応じた。

「静かだな、この時間帯は。」

「はい。この街が静寂に包まれるのは、ほんの短い間だけです。」

トワが控えめに答える。

真弦は視線を夜空へ向けたまま、少し考え込むような表情を浮かべた。

「なあ、トワ。覚えてるか?以前、ホログラムの夜空についてお前に聞いたことがあったよな。」

「もちろん覚えています。確か『このホログラムの夜空をどう思う?』というご質問でした。」

「そうだ。それでトワが言ったんだ。『本物の夜空には、その場でしか感じられない温度や音、匂いが存在しています』って。」

真弦は目を細め、何かを思い出すように語る。

「はい。その通りです。」

トワは丁寧に返す。

真弦は短く息を吐き、続けた。

「たぶん、それだけじゃなくて――」

彼は少し間を置いて言葉を選びながら話し始めた。

「きっと、本物の夜空には、そこにいる自分自身の存在を見つめ直す何かがあるんだと思う。ホログラムは完璧かもしれないけど、その『自分自身を見つめ直す感覚』はきっと与えてくれない。たぶん、それが本物と偽物の決定的な違いなんじゃないか。」

トワはしばらく沈黙してから答えた。

「興味深い考察です。おそらく、それは『真実を映す』ということに近いのではないでしょうか。」

「真実か。」

真弦は呟くように繰り返した。

「そうだな。本物の夜空を見上げると、自分がどこにいるのか、本当は何を求めているのか――そういうものを考えさせられる気がするんだ。ホログラムじゃ、そこまで感じられない。」

部屋の中にしばし静寂が戻り、真弦は夜空に視線を落としたまま思索にふけっている。その時だった。静けさを破るようトワから着信音が室内に響いた。

「真弦!すぐに来てくれ!中央タワーだ。ノア・ドームの中央タワーに特大の裂け目が出現した!今までの比じゃない規模だ。あそこが崩れれば、街全体が巻き込まれる可能性がある!」

ジンの声は焦燥に満ちている。真弦の心臓が激しく鼓動を打ち始めた。

「わかった、すぐ向かう!」

電話を切り、真弦は明日香を見つめた。まだ眠っている彼女に一瞬迷いが生じたが、彼はその小さな不安を振り払うように、大きく息を吸い込んだ。

「明日香、起きてくれ。すぐにのノア・ドームに行かなきゃならない。」

明日香は彼の声に反応して目を開け、すぐにその表情が真剣なものに変わる。

「…裂け目?」

「あぁ、今度は特大の裂け目らしい。ノア・ドームに現れた。このままじゃ街が飲み込まれるかもしれない。」

二人は一瞬だけ視線を交わし、互いに無言でうなずき合った。それぞれの心の中に浮かんだのは、この世界の運命を左右する決断を下す覚悟だった。

「行こう、真弦。」

明日香が決意を込めた声で言い、彼女の瞳には強い意志が宿っている。

真弦は再び深呼吸し、手を伸ばして明日香の手を取り、固く握りしめた。彼女の手の温もりが、僅かに残っていた不安を打ち消してくれるようだった。

二人は急いで身支度を整え、ジンと合流するためにノア・ドームへと向かう。裂け目が広がる中、彼らはこの世界を救うための戦いに挑もうとしていた。

4章2節

都市の中心にそびえるノア・ドームへ向かう途中、真弦、明日香は裂け目の影響で変わり果てていく街並みに足を止めざるを得なかった。普段は賑わっているはずの広場も、今はひと気がなく、逃げ去った人々の残したゴミが風に舞っている。ビル群の間を抜ける冷たい風が、まるで不安そのものを運んでいるかのように肌を刺し、遠くでは建物の崩れる音がかすかに響いていた。

「こんなに早く裂け目が…次から次へと現れるなんて。」

明日香が不安を押し隠すように、震える声で呟く。

真弦は緊張で固まった表情を崩さず、周囲を鋭く見渡す。

「裂け目の出現が加速してる。修復が追いつかないんだ…まるでこの街全体が限界を迎えているみたいに、空間そのものが壊れ始めてる。」

その言葉が終わるや否や、彼らの視線の先で突然、空間が大きく歪んだ。瞬間、黒い亀裂が空中に走り、それが裂けるようにして広がっていく。その裂け目からは、暗く底知れない虚無が覗き、周囲のビルがゆっくりと軋むように歪み始める。ビルはねじれたまま倒壊し、瓦礫が地面を覆っていく。裂け目から漏れ出す暗いエネルギーが、街を呑み込むかのように周囲の空気を不穏に変えていく。

その時、真弦のレムスフィアが突然、緋色に輝き始めた。トワの声がいつになく鋭く響く。

「警告!異常なエネルギー反応を検知しています。裂け目の広がりは臨界点を超える可能性があります。このままでは街全体が崩壊の危機にさらされます。」

真弦は鋭い眼差しで裂け目を見つめながら、決意を込めて拳を握り締める。

「やらないと…俺たちがやらなきゃ、この街が本当に終わる!」

「承知しました。全システムを貴方の集中力支援に割り当てます。」

トワの声には冷静な中にも緊張が滲む。

真弦と明日香はすぐに目を合わせ、共鳴するように想波を集中させる。真弦が裂け目に向かって手をかざすと、明日香もその力に同調し、二人の間にエネルギーが流れ出す。まるで二つの心が一つになったかのように、感情と意志が共鳴し、裂け目に向かって集中していく。

すると、虚無のように広がり始めた裂け目が、ゆっくりと閉じ始めた。だが、周囲のビルが軋む音が止むことはない。裂け目の修復が進むにつれて、その歪んだ空間の反動が街全体に響き渡る。だが、真弦と明日香は、その中でもひたむきに裂け目を閉じようと力を注ぐ。

「一つ…!」

真弦が裂け目に向けた手を力強く突き出す。彼の額には汗が滲み、顔は疲労と緊張で歪んでいる。それでも、その目には決して諦めないという強い意志が宿っていた。

最初の裂け目がゆっくりと収束していくが、すぐに別の裂け目が空間を切り裂くように現れる。

「二つ目…!」

真弦は手をかざし、全身の力を込めてエネルギーを注ぎ込む。裂け目が渦を巻きながら縮まり始めると、暗闇が静かに閉じていく。しかし、次から次へと現れる裂け目は止まることを知らない。三つ目、四つ目…。それぞれの裂け目に全力を注ぐたび、真弦と明日香の体力は削られ、息遣いが荒くなっていく。汗が頬を伝い、身体が鉛のように重くなる中で、それでも二人は動きを止めなかった。

「真弦、そこ!」

明日香が叫ぶと同時に、裂け目が街の中心部に近づき、迫りくる瓦礫が人々の頭上へと崩れ落ちそうになっている。

「くそっ!」

真弦はエネルギーを裂け目に向ける手を一瞬止め、瓦礫の崩落する方向へと走り出した。その瞬間、彼のレムスフィアが光を放ち、トワが緊急モードで警告を発する。

「警告!市民の安全が最優先です。裂け目修復よりも人命救助を優先してください。」

「わかってる!」

真弦は瓦礫の下敷きになりかけた人々を救うべく、全力でその場へ駆け込む。

「こっちだ、早く逃げろ!」

彼の叫び声が響き渡る。

近くで明日香は倒壊しそうな建物の下から、身動きが取れない子供の姿を見つけた。幼い男の子が小さな手を必死に伸ばしながら泣き叫んでいる。

「助けて!お母さん!お母さんどこ?」

明日香は即座に駆け寄り、子供に優しく声をかける。

「大丈夫!お姉ちゃんがここにいるよ。すぐ安全なところに行こう!」

彼女は子供を抱き上げ、その軽さに驚きつつも、全力で瓦礫を避けながら安全な場所へと走った。

その間も子供は泣きじゃくりながら明日香の肩を掴んでいる。

「お母さん、見つかる?僕、お母さんのところに戻れる?」

「絶対に見つけるから。お母さんもきっと待ってるよ。」

明日香は声に力を込め、必死に子供を安心させようとした。

瓦礫の少ない広場まで辿り着くと、男の子は震える声で言った。

「ありがとう…お姉ちゃん、すごい強いね。」

その言葉に明日香は微笑み、そっと子供の頭を撫でる。

「君もすごく頑張ったね。もう大丈夫だから、ここで待ってて。」

その時、少し離れたところで真弦の声が聞こえた。

「明日香!まだ裂け目が増えてる!」

明日香は振り返り、再び裂け目へと向かって走り出す。

「ここで立ち止まれない。真弦、一緒に最後までやりきるよ!」

「三つ目の裂け目が無事閉じられました。しかし、新たな裂け目が近隣ビルの基盤を侵食しています。」

トワの声が真弦に状況を伝える。

「くそっ、終わりが見えない…!」

真弦は拳を強く握りしめ、街の崩壊していく光景を見つめる。

空は灰色に染まり、瓦礫が次々と地面を覆う。近くのビルはねじれるように崩壊し、悲鳴と叫び声が街中に響き渡る。その中で裂け目を閉じ続けることは、まるで底なしの闇に抗うような感覚だった。

「真弦、このままじゃ…!」

明日香の声には限界を迎えた疲労が滲んでいる。それでも、彼女の手は次の裂け目に向かって動いていた。

「諦めるな…!」

真弦は声を絞り出すように叫ぶ。

「ここで俺たちが止まったら、この街は…全部終わるんだ!」

二人は力を振り絞り、裂け目に向けてエネルギーを送り続ける。だが、裂け目を閉じれば閉じるほど、街全体が崩れていくような感覚が彼らの心に重くのしかかる。激しい葛藤の中、真弦と明日香は瓦礫の下敷きになりそうな人々を助けつつも、裂け目に向かう手を止めることはしなかった。

4章3節

裂け目の出現が都市中で急増し、真弦と明日香は疲労で足元がふらつきそうになりながらも、必死に裂け目の修復に奔走していた。街の至る所でビルが倒壊し、空間の歪みが拡大し続けている。その混乱の中、二人は裂け目を次々と閉じていったが、そのたびに身体の限界が迫るのを感じていた。

瓦礫と崩壊した建物の間を駆け抜ける中、真弦の視界に見覚えのある二つの影が飛び込んできた。それはリョウとアイリだった。彼らはノア・ドームの方向から逃げてきたのだろう。傷ついた服や埃まみれの姿が、そこがどれほど危険な場所だったかを物語っている。

「リョウ!?アイリ!?こんなところで…!」

真弦は驚きの声を上げながら駆け寄った。

リョウは息を切らしながらも苦笑いし、冗談めかした口調で返した。

「お前らも無事でよかった。まったく、どこに行っても裂け目が現れてやがる…」

「ノア・ドームはもう危ない。次の崩壊が始まったら、間違いなく巻き込まれるよ!」

アイリが真剣な表情で叫ぶ。

真弦は二人の言葉に一瞬息を呑むが、すぐに首を振る。

「それでも行く。ノア・ドームの裂け目を止めない限り、街全体が崩壊する。」

「おい、正気か!?」

リョウが真弦の肩を掴むようにして叫ぶ。

「そこに行けば、お前たちだって無事じゃ済まないかもしれないんだぞ!」

アイリも不安そうな瞳で真弦を見つめる。

「真弦…お願い。みんなを助けたい気持ちは分かるけど、自分を犠牲にしなくてもいい。街の人たちも、あなたたちが生きてくれる方が嬉しいはずだよ。」

明日香が少し先から振り返り、力強い声で答えた。

「それでも、行かなくちゃいけないの。私たちだけが、この裂け目を止める力を持っているんだから。」

真弦もリョウの手を振りほどきながら続けた。

「俺しか止められないんだ、リョウ。ここで俺が諦めたら、もっと多くの人が危険にさらされる。」

リョウは苦い顔をして沈黙するが、やがて歯を食いしばりながら言葉を絞り出した。

「…お前、本気で覚悟してるんだな。」

真弦は静かに頷いた。

「リョウ、アイリのことは任せたよ。君が彼女を守ることが、俺にとっても一番の安心なんだ。」

真弦はリョウに向かって静かに言った。

リョウは一瞬真剣な表情を見せた後、にやりと笑い、

「おう、任せとけ。俺たちの方は心配いらねえから、そっちはそっちでしっかりやれよ」

と答えた。

「真弦!」

アイリの声が震える。

「どうか無事でいて。みんなのためだけじゃなくて、自分のためにも。」

その言葉には、彼女の中で残っていた淡い恋心が切なく滲んでいた。

アイリをちらりと見て、真弦は小さく微笑む。

「ありがとう、アイリ。君たちの思いが無駄にならないようにするよ。」

リョウが最後に、明るさを装いながら真弦の肩を叩いた。

「…お前らが死んだら、俺たちがめちゃくちゃ困るんだからな。絶対に生きて帰ってこいよ!」

「分かってる。」

真弦が静かに答え、明日香と共に裂け目の方向へと向かって走り出す。

「真弦!」

背後からアイリの声が聞こえる。

「どんな結果になっても、私たちは応援してるから!」

明日香が振り返り、精一杯の笑顔で手を振り返した。

「絶対に生きて戻る!また会おうね!」

別れる間際、リョウはアイリの手を握り、彼女を守るように引き寄せる。

「さあ、俺たちも行こう。ここで立ち止まってる場合じゃない。」

アイリは真弦と明日香の背中を見つめながら、力強く頷いた。

街の混乱と崩壊が進む中、真弦と明日香は全力で裂け目の修復に向かっていく。その決意が、街全体に静かに響き渡るようだった。

4章4節

真弦と明日香は、次々と現れる裂け目を修復しながら、彼らがこれまで過ごしてきた街を駆け回っていた。しかし、街全体がまるで限界に達したかのように、裂け目が急激に広がり、そこから漏れ出す暗黒のエネルギーが空間を歪め、あちこちで崩壊が進んでいく。

最初に目に飛び込んできたのは、街の中央に位置する大庭園「エターナルグローブ」。かつては手入れの行き届いた樹木や色とりどりの花々が咲き誇っていたが、今では裂け目によって空中に浮かび上がった大地が引き裂かれ、まるで渦巻く闇の中へと吸い込まれていくかのように崩れ落ちていた。大木が音を立てて裂け目に飲み込まれ、根こそぎ引き抜かれる様子は、この世界が崩壊しつつあることを痛烈に感じさせる。

「ここまで崩れるなんて…」

明日香は震える声で呟く。

その先には、彼らがよく訪れていたカフェ「サイレントブリュー」があった。しかし、もはや静かな雰囲気を残しているはずもなく、建物は裂け目の影響で歪んだ形に変わり果てている。カフェの壁がひび割れ、ガラス窓は粉々に砕け、内部は完全に崩壊していた。いつも穏やかな音楽が流れ、香ばしいコーヒーの香りが漂っていた場所は、今や虚無の風が吹き抜けるだけの廃墟と化していた。

「ここも…もう戻れないんだね。」

真弦は呟きながら、その場所に残るわずかな記憶を心に刻みつけようとする。しかし、裂け目がさらに広がり、カフェの残骸さえも次第に飲み込まれていく。かつての居心地の良さは、今ではもはや取り返しのつかないものとして過去のものとなった。

そして次に目に映ったのは、真弦と明日香が情報を求めて訪れた図書館だった。知識と静寂が支配する場所も、今や裂け目によって歪んだ時間の中で朽ち果てていた。巨大な本棚が倒れ込む中、裂け目から溢れ出る闇が図書館全体を覆い尽くそうとしている。巻物や書物が空中でバラバラに引き裂かれ、文字が一瞬にして消え去っていく様子は、まるで過去の知識や記憶が無へと還っていくようだ。

「この図書館も…。」

明日香は悲しそうな声を漏らすが、すぐに意識を裂け目の修復に集中させる。だが、彼女の目にはほんの一瞬、涙が浮かんでいるように見えた。ここで過ごした時間が、二人にとってどれほど大切なものであったか、その一つ一つが消えゆく光景が彼女の心に深く突き刺さっている。

裂け目の数はさらに増え、街全体を飲み込もうとしていた。道沿いの店舗やビル群は次々と歪み、崩壊していく。崩れ落ちた瓦礫が空中で静止するように宙に浮き、その後、裂け目へと引き寄せられていく。空間そのものがねじ曲げられているかのように現実感が薄れていき、目の前の街並みは砂の城が波にさらわれるように、音もなく虚無へと消え去っていった。

「もう、この街も長くは持たない…。」

真弦は裂け目の広がりを止めようと全力を尽くしていたが、その表情には悲しみと無力感がにじんでいた。崩れていく街には、彼と明日香が過去に思い出を作った場所も含まれており、その一つ一つが静かに、しかし容赦なく飲み込まれていく。

それでも二人は立ち止まらなかった。彼らは最後の力を振り絞り、迫り来る裂け目に向かっていく。だが、無情にも街の崩壊は加速し、地面は激しく振動し始めた。暗い空はさらに低く垂れ込め、彼らを試すように圧し掛かる。

「真弦、次はそっち!」

明日香が叫ぶが、彼の動きが止まった。その瞬間だった。

「――!」

真弦の頭に激しい痛みが走り、視界が一瞬白く霞む。彼は思わず膝をつき、両手で頭を抱え込んだ。

「くっ…頭痛が…」

「真弦、大丈夫!?」

明日香が駆け寄り、彼を支えながら必死に呼びかける。

だが、真弦の意識は別の場所に引き込まれるかのようだった。頭の中で、聞き覚えのない低い男性の声が断片的に響く。

⦅…ふた…とも…想波が…安定して…な…!レム……奇跡……を…⦆

「何…だ…?」真弦は混乱し、必死に声を追いかけようとするが、言葉は霧のように散り、完全には聞き取れない。頭痛は治まらず、彼の視界は歪み始めた。

その間にも裂け目は街を容赦なく呑み込んでいく。遠くでビルが崩れ落ち、人々が逃げ惑う中、絶望的な叫びが響く。

「助けてくれ!」

「逃げろ!」

だが、次々と裂け目に吸い込まれ、彼らの姿は虚無の中へと消えていく。

「…っ…!」

明日香が目を見開き、唇を震わせながらその光景を見つめる。その瞳には、助けられない無力感と、なおも戦おうとする意志が交錯していた。

真弦は震える手を地面に突き、痛みに耐えながら立ち上がった。

「くそ…俺たちが止めなきゃ、この街は…!」

彼の言葉には決意がこもっていたが、身体は明らかに限界を迎えつつあった。それでも彼は再び裂け目に向かって手を伸ばす。

裂け目は一瞬、反発するように揺らめき、暗いエネルギーを放出したが、やがてゆっくりと閉じ始める。だが、その周囲では崩壊が止まることはなく、裂け目の修復が終わるたびに別の場所でさらなる歪みが広がっていた。

「…真弦、急ごう!タワーに行かなきゃ!」

真弦は頭痛に耐えながら明日香を見た。

「…行こう。ここで止めなきゃ、この街が…」

二人は裂け目を修復しながら、崩れゆく街を全力で駆け抜けた。人々の叫びや虚無に飲まれる音を背に、彼らの決意だけが街の崩壊の中で静かに輝いていた。

4章5節

ノア・ドームの中央タワーの足元にたどり着いた真弦と明日香は、タワーを見上げる。通常なら街のランドマークとして輝くはずのその姿は、今では不穏な影を落としている。空は鈍い灰色に染まり、霧が低く垂れこめていた。塔の頂上は見えず、その全貌がまるで何か恐ろしいものを隠しているかのようだ。

「ここに裂け目がある…」

真弦は歯を食いしばり、決意を込めて呟いた。

その時、通信端末が震え、ジンからの連絡が入る。焦りと警戒を滲ませた声が真弦の耳に届いた。

「真弦、ノア・ドームの屋上に巨大な裂け目が発生してる。全ての機器が役に立たん!急いで向かえ!だが気をつけろ、この裂け目はこれまでとは桁違いだ!」

「わかった、今すぐ行く!」

真弦は即答し、明日香と視線を交わした。

「急ごう、でも…無理はしないで。」

明日香が心配げに言う。

「ありがとう、でもここで止まるわけにはいかない。行こう。」

二人はタワーの入口に向かって走り出す。しかし、歪みによってエレベーターは歪み、扉が不気味にねじ曲がって閉ざされている。

「エレベーターは使えない…階段だ。」

真弦は冷たい視線で階段の方を指し示し、明日香も無言で頷いた。

二人は階段へと駆け込む。タワーの内部は薄暗く、壁には裂け目の影響で生じた歪みが広がり、亀裂が走っている。足音が階段にこだまする中、息が上がり、汗が流れ落ちていく。

「どこまで続くんだ…」

明日香が息を切らしながら呟く。

「頂上まで…でも俺たちなら行ける。絶対に。」

真弦は強い意志を込めて答える。彼の中で、焦りと不安がせめぎ合っていたが、それを表には出さないよう必死に隠していた。

4章6節

階段を駆け上がる真弦と明日香。だが、数階を上ったところで、空間が急に歪み始め、冷たい風が階段の吹き抜けを舞う。気温が急激に下がり、壁や床に黒い亀裂が広がっていく。

「待って…何かいる…」

明日香が足を止め、息を詰めながら呟く。

その瞬間、周囲が不気味な静寂に包まれた。まるで空気が凍りついたかのように、周囲の音が消え、ただ心臓の鼓動だけが耳に響く。そして、階段の上方から、ゆっくりと黒い影が現れた。影は人の形をしており、長い髪が風になびく。その輪郭が揺らぎながらも、次第にはっきりとした形を取り始めた。

「また…影だ…」

真弦は警戒心を露わにし、戦闘態勢を取ろうとする。しかし、その時、影が静かに口を開いた。

「…真弦…」

その声は、かつて聞いたことのある、懐かしい響きを持っていた。けれど、それは真弦が長い間、忘れていたものであり、今は霞んだ記憶の中に埋もれている。

「…お前は誰なんだ?」

真弦は混乱しながらも問いかけるが、影は近づくと、手をそっと差し出した。

「私は…遥……」

「遥…?」

真弦は眉をひそめ、その名前に聞き覚えがあるようでない、曖昧な感覚に捕らわれる。

影は悲しげな表情を浮かべながらも、再び静かに語りかけた。

「思い出して、真弦…あなたを守るために、私はずっとここにいた。この世界で、ずっと…」

その言葉は真弦の心の奥底に響き、彼の混乱をさらに深める。まるで心をかき乱されるような感覚に耐え切れず、彼は頭を抱えて後ずさった。

「俺にはわからない…お前が何を言ってるのか…!」

影はそれでも手を差し出し、さらに近づく。その動きには強い意志が宿り、どこか切迫した雰囲気が漂っている。

「大丈夫。私はいつもあなたのそばにいた。だから…信じて。」

その時だった。真弦の腕に装着されたレムスフィアが突然緋色の輝きを放ち、空間が淡い赤い光で包まれた。トワの声が響く。

「緊急警告。高レベルの想波を検知。」

だが、トワの声が響く中、緋色の輝きはさらに強まり、影が発する不思議な力に反応しているかのようだった。真弦はその光に目を眩ませながら、頭を抱え込む。

「くっ…何が起きている…!?」

「怖がらないで。」

影の手が真弦に触れた瞬間、心の中で何かがはじけた。遠い昔の記憶が、まるで洪水のように押し寄せ、頭の中で断片的だった映像が次々と繋がり、彼の記憶が鮮明に蘇り始める。

===============================

目の前には、幼い少年と少女の笑い声が響く世界が広がり始めた。

「真弦!ほら、早く!」

少女の声が明るく響く。振り返った彼女の顔には、無邪気な笑顔が浮かんでいる。少女は手を差し出し、幼い少年の手をしっかりと握った。

「待ってよ、姉ちゃん!」

少年は少し背伸びをするようにして彼女の手を掴むと、一生懸命その後ろを追いかける。

二人は広い草原の中を駆け回っていた。風が二人の髪を撫で、草の香りがどこまでも広がっている。少女が笑いながら少年を振り返ると、彼の小さな手をぐっと引き寄せて言った。

「ねえ、真弦!私が見つけた秘密の場所、教えてあげる!」

「秘密の場所?どこどこ?」

少年の瞳が輝き、子供らしい好奇心でいっぱいになる。

「ふふ、ついてきて!」

少女は楽しそうに笑い、彼の手を引いて小さな林の中へと駆け込む。二人の足音がサラサラとした草むらを揺らし、木漏れ日が優しく二人の影を照らしていた。

やがて、木々の間から小さな池が現れた。水面は太陽の光を受けてキラキラと輝き、まるで宝石が散りばめられているようだった。少女は少年の手を引いたまま、池のほとりで足を止める。

「どう?きれいでしょ?」

少女が自慢げに胸を張ると、少年は目を丸くして頷いた。

「うん!すっごいきれい!」

「ここ、私たちだけの秘密ね。」

少女が指を口元に当ててウインクすると、少年も真似をして口元に指を当てる。

「わかった!誰にも言わないよ!お姉ちゃん!」

二人は手を繋いだままその場に腰を下ろし、楽しそうに笑い合う。少女が水面に映る少年の顔を指さしながら冗談を言い、少年も負けじと笑顔で応じる。その笑顔――間違いない。それは遥か昔に忘れてしまった、姉の笑顔だった。

===============================

目の前の記憶が急速に鮮明になるにつれ、真弦の心にある名前が浮かび上がる。「遥」という名前だ。彼の目に涙が滲み、震える声で問いかけるように呟いた。

「姉さん…?本当に…姉さんなのか?」

影は悲しげに微笑み、静かに手を差し出した。その手は、記憶の中で感じた温もりと同じだった。

「そうよ、真弦。私はずっとあなたのそばにいた。そして、ずっと待っていた。」

遥の声は穏やかで、切なくも優しく、真弦の心に深く響いた。その声を聞いた瞬間、記憶の欠片が全て繋がり、彼は目の前の影が確かに姉であると確信した。

「姉さん…遥…。」

その名を口にした瞬間、遥は微笑みながら涙を浮かべ、手を真弦に差し伸べた。「やっと思い出してくれたのね、真弦。」

真弦はその手を握り返しながら、心の中で溢れる感情を必死に抑えた。忘れていた過去が蘇り、失われた家族の絆が今、再び繋がり始めたのだった。

「私は…あなたをずっと待っていたの。思い出して、真弦。あの約束を…私たちが交わしたあの日のことを。」

彼女の声はどこか切なく、真弦の心の奥深くに響く。だが、それでも彼はまだその記憶の扉を開くことができないでいた。

「約束…?何の話なんだ?」

真弦は頭を抱え、必死にその記憶を探ろうとするが、断片的な映像が一瞬浮かんでは霧のように消えていく。それは、遥か昔に感じた感覚――誰かの手を握りしめ、何かを誓った記憶。しかし、それが何だったのかまでは思い出せない。

「もう一度、私の手を握って…真弦。」

遥が差し出した手は、どこか懐かしく、真弦の心に深い共鳴を引き起こす。彼は戸惑いながらも、その手にゆっくりと手を伸ばした。指先が触れた瞬間、温もりが彼の身体全体に広がり、心の奥で何かが解き放たれる感覚に襲われる。

===============================

目の前が暗転し、現実感が遠ざかる。視界がぐらつき、次の瞬間、真弦は全く異なる場所――かつての「現実」に引き戻されていた。

「――真弦、早くこっちに来て!」

その声に振り向いた瞬間、そこには自分自身と姉・遥の姿があった。二人は幼い頃よりも成長しており、真弦は既に遥の肩の高さに近づいている。遥は軽やかな足取りで少し前を歩き、振り返りながら手を振って真弦を呼んでいた。その笑顔には以前と変わらない明るさがあったが、どこか大人びた雰囲気が漂っていた。

「もう少し待ってよ、遥姉さん!」

真弦は、少し足を速めて追いかけながらそう叫んだが、遥は笑いながらさらに少し先へ進む。

二人は両親と共に家の近くにあるショッピング街を歩いていた。賑やかな街並みの中、遥は手にした小さな買い物袋を揺らしながら楽しそうに歩いている。真弦は、そんな彼女の後ろ姿を見て安心感と頼もしさを感じていた。この頃の遥は、少しお姉さんらしい態度を取ることが増えており、真弦にとっては「守ってくれる存在」として心の支えになっていた。

だが、次の瞬間――。

突如、空が暗くなり、周囲の空間が歪み始めた。聞き覚えのない低い轟音が響き渡り、地面が不気味に揺れる。街全体が異常な振動に包まれ、家々の窓が砕け散る音が響く。真弦は混乱し、何が起きているのか理解できずにいた。

「…何が起きてるんだ…?」

遥も困惑した表情で空を見上げるが、次の瞬間、彼女の身体がまるで引き寄せられるかのように前方に引き込まれた。振り向いた遥の顔には恐怖が浮かんでいた。

「真弦…助けて…!」

彼女の叫びが空気を切り裂くが、真弦は動けなかった。足が硬直し、身体がまるで石に変わったかのように感じられた。必死に手を伸ばそうとするが、その手は届かない。遥は不気味に歪んだ空間へと吸い込まれていき、その姿は徐々に消えていった。

そして――閃光が走り、耳をつんざくような轟音が響いた後、全てが暗転した。

===============================

目を覚ました時、真弦は病院の一室にいた。ベッドに横たわる遥は、まるで眠るように静かに目を閉じていた。しかし、その周りには彼女を囲む無数の医療機器があり、彼女の命を保つために無機質な音を発していた。

「姉さん…どうして…」

真弦が病室の片隅で静かに座っていると、無機質な機器の音だけが部屋の中に響いていた。ベッドに横たわる遥の姿は痛々しく、彼の胸を締め付ける。彼は何も考えることができず、ただ彼女の手を握りしめ、涙をこらえることしかできなかった。

その時、病室のドアが静かに開き、白衣を着た男性が入ってきた。彼は優しい表情で真弦の方に目を向け、静かに声をかけた。

「真弦君、目が覚めたんだね。」

その声に反応し、真弦はゆっくりと顔を上げた。まだ意識がぼんやりとしている彼に向けて、男性は軽く頷くとそばの端末を操作し始めた。

「無理をしなくていい。君の状態を少し確認させてくれ。」

男性は真弦の近くにある小さな機器を手に取り、彼の脈拍や血圧を測定しながら安心させるように微笑んだ。

「意識がしっかり戻っているみたいだね。体調も安定している。ひとまず安心していい。」

真弦はかすれた声で問いかけた。

「…ここはどこですか…?俺はどうして…」

男性は一瞬だけ視線を遥の方へ移し、静かに答えた。

「ここは都市の中心医療施設だよ。君が意識を失った後、すぐに運び込まれたんだ。精神的にも肉体的にもかなりの負担がかかっていたけど、今は大丈夫。」

真弦は目を伏せ、遥の顔に視線を戻した。その横顔は穏やかで、しかしどこか儚さが漂っていた。

「遥さんのことについて、少し話してもいいかな?」

男性は柔らかい声で慎重に尋ねた。その表情は穏やかだったが、どこか重い責任感を抱えているのが分かる。真弦はゆっくりと顔を上げ、男性の方に視線を移した。

「まずは、君が無事に目を覚ましてくれてよかった。本当に頑張ったね。」

そう言いながら、男性は椅子を引いて真弦の隣に座る。そして、遥のベッドに目を向けながら、静かに続けた。

「真弦君、遥さんの状態について正直に伝えるね。彼女は磁場による事故で脳に深刻なダメージを受けて、昏睡状態に陥っているんだ。」

その言葉を聞いた瞬間、真弦の心は再び深い闇に飲み込まれるようだった。ベッドに横たわる遥の穏やかな顔が、かえって彼に現実の厳しさを突きつける。

「…どうして…どうしてこんなことに…」

真弦の声は震え、今にもかすれそうだった。男性はその痛みに寄り添うように、少し言葉を選びながら続ける。

「残念だけど、遥さんの意識が自然に回復する可能性はとても低いんだ。脳の損傷が大きすぎて、通常の治療法では回復は難しい。」

真弦はその言葉に目を伏せ、絶望感が胸に広がるのを感じた。しかし、男性の声にはどこか希望を滲ませる響きがあった。

「でも、方法が全くないわけじゃない。」

男性は一拍置いてから、真弦をしっかりと見つめる。

「とある装置を使えば、遥さんを救える可能性が残っている。」

真弦は一瞬戸惑いながらも、希望を捨てきれずに問いかける。

「どういうことですか…?そんなことが…」

男性は少し姿勢を正し、優しく説明を続けた。

「遥さんの脳を壊したのは磁場の異常な乱れだね。でも、彼女の潜在意識――いわば《内なる世界》にはまだ活動の兆しがあるんだ。我々の技術には、潜在意識にアクセスしてその中の異常を修復するインタフェースがある。それを使えば、君が彼女の意識に入り込み、そこを修復することで目覚めさせられる可能性がある。」

その言葉に真弦は驚き、同時に大きな不安が押し寄せるのを感じた。

「…そんなことが本当にできるんですか?」

「可能性はあるよ。」

男性は頷きながら続ける。

「ただし、この方法は非常に難しい。遥さんの潜在意識は、今はとても不安定なんだ。君がその中に入れば、現実と同じように感じるあらゆる状況に巻き込まれる。その中で異常を修復できなければ、彼女の意識はさらに深く閉ざされるだけでなく…君自身も戻れなくなる危険がある。」

真弦はそのリスクに言葉を失ったが、遥の穏やかな寝顔に視線を向けると、心の中で迷いが吹き飛んでいくのを感じた。

「俺がやります。」

真弦は力強く言葉を紡ぎ、遥の手をしっかりと握った。

「どんな危険があっても、彼女を助けてみせる。」

男性はその決意を受け止めるように、小さく頷き、穏やかな声で応じた。

「分かった。君がその覚悟を持っているなら、僕たちも全力でサポートするよ。準備が整い次第、インタフェースを起動しよう。」

真弦は遥の手をさらに強く握りしめ、心の中で静かに誓った。

「遥…俺が必ず助ける。どんなことがあっても、絶対に。」

病室の静けさの中で、真弦の決意が静かに固まっていった。その沈黙を優しく破るように、彼はふと男性に向き直り、問いかけた。

「そういえば、あなたの名前を聞いていませんでした。」

男性は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに柔らかく笑みを浮かべた。

「そうだね、自己紹介もせずにいろいろ話しちゃったな。」

彼は軽く頷いてから続けた。

「稲氷悠斗(イナヒ ユウト)。一応アルテ・アニマ工学の第一人者…ってことになってる。」

彼の声にはどこか照れ隠しのような響きが混じっていたが、真弦はその名前に聞き覚えがあるような気がして、少し眉をひそめた。

「アルテ・アニマ工学…?」

稲氷は苦笑しながら椅子に深く座り直し、優しい声で補足した。

「まあ、簡単に言えば、人間の心や潜在意識に関わる技術を研究している分野だ。今回のインタフェースも、その技術の応用だよ。」

真弦はその言葉に頷きながら、自分がこれから向き合う未知の領域の広さを改めて実感した。

「あなたがその分野の第一人者なら…遥を助けるための方法、本当に信じていいんですね。」

稲氷の目が真剣な色を帯びる。

「全力で君をサポートするよ。ただし、道のりは決して簡単じゃない。だからこそ、君の覚悟が必要なんだ。」

その言葉に、真弦は再び遥を見つめ、手を離さずに小さく頷いた。

「俺には迷う余裕なんてありません。どんなに難しくても、俺が彼女を助ける。」

稲氷はその答えに満足したように微笑み、そっと立ち上がった。

「そうだな、準備を急ごう。」

病室に再び静寂が訪れる中、真弦の心には揺るぎない決意が満ちていた。

===============================

「姉さん…!俺は、確かに…覚えてる…。俺たちは…」

真弦は息を詰め、震える声で言葉を絞り出した。長い間忘れていた約束、その背後にあった真実が、今ここにきて鮮やかに蘇ってくる。

「そうよ、真弦。」

遥の声は静かでありながら、どこか力強い響きを持っていた。彼女はそっと真弦の手を握り、続ける。

「あなたは、私を助けるためにここに来た。そして、私を救うと約束してくれた。その約束が、あなたをこの世界に繋ぎ止めてきたの。」

その言葉が真弦に深い確信を与えると同時に、頭の中で何かが一気に解放されるような感覚が襲い、彼の心は激しく揺さぶられる。真弦は額を押さえ、膝をつきながら呻いた。

「俺は…この世界に、遥を救うために来たんだ…」

遥は優しく彼の肩に手を置き、悲しみを宿した瞳で見つめた。

「そうよ。そして、その使命が果たされるとき、この世界は終わりを迎える。」

「この世界が終わる…?」

明日香が遥に向き直り、静かに問いかける。

「それって…どういうこと?ここで起きている裂け目は何なの?」

遥は少し目を伏せてから、穏やかな声で答える。

「この世界は私の心が作り出したもの。事故の後、私の中に取り残された不安や恐怖が形を成し、やがて裂け目となって現れたの。そして、裂け目が広がるたびに、この世界は崩壊へと近づいていく。でも、その代わり、私の意識は現実に引き戻されていくの。」

真弦はその言葉に目を見開き、遥を見上げた。

「じゃあ…裂け目を修復すれば、姉さんは現実に戻れる。でも、この世界は消えるってことなのか…?」

遥はゆっくりと頷いた。

「そう。この世界は私の心が生み出した幻想。裂け目が全て修復されれば、私は現実の世界に戻れる。でも…この世界での全ては消えてしまう。」

真弦は拳を強く握りしめ、震える声で続けた。

「じゃあ、ジンやリョウ、アイリ…そして、明日香との絆も全部…失うってことなのか…?」

遥は真弦の問いに答える代わりに、ただ静かに見つめる。その沈黙が、全てを物語っていた。

「そんな…どうして…」

真弦は目を伏せ、肩を落とす。その姿を見た明日香がそっと彼の肩に手を置き、優しく語りかけた。

「真弦…それでも、あなたが選ぶ道を私は信じてるよ。どんな選択をしても、私はあなたのそばにいるから。」

その言葉に真弦は顔を上げ、明日香の瞳を見つめた。彼女の温かい言葉が心に染み渡り、揺れる心をほんの少しだけ支えてくれるようだった。

「でも…どうしてこんな選択をしなきゃいけないんだ…」

真弦は再び俯き、唇を噛む。その言葉に、遥がそっと答えた。

「真弦、この世界での全てが大切なものになったのは、あなたがそれを本気で守り、向き合ってきたから。だけど、現実を救うには犠牲が必要になることもある。それは…私の弱さが招いた結果でもある。」

「弱さ…?」

明日香が遥を見つめながら問いかけると、遥は寂しそうに微笑みながら答えた。

「私が事故で感じた恐怖や無力感、それがこの世界を作り、裂け目を生み出したの。そして、その裂け目が広がるたびに、現実への道が開かれる。あなたたちが私を救ってくれるたびにね。」

真弦はその説明に耳を傾けながらも、苦しそうに声を絞り出した。

「俺が選ばなきゃならないんだな…どちらの世界を選ぶかを…」

遥は真弦に一歩近づき、そっと手を握りしめた。

「あなたが選ぶ道が、全てを決める。でも、あなたがその先に幸せを見つけられると、私は信じてる。」

真弦は瞳を閉じ、深く息を吸い込んだ。その中で、彼の中にある決断がゆっくりと形を成し始めていた――。

4章8節

真弦はその場に崩れるように膝をつき、拳を階段の支柱に叩きつけた。乾いた音が響き、手に鈍い痛みが走るが、それさえも彼には無意味に思えた。

「俺には…無理だ。どちらを選んだって…大切なものを失うことになる。どうしてこんな残酷な選択をしなきゃいけないんだ…!」

拳を何度も打ちつけるたびに、胸の中で燻っていた苦しみと悲しみが一層鮮明になり、涙がこぼれ落ちる。

「俺は、ただみんなと一緒にいたいだけなんだ…!遥を救いたいのに、でも、明日香も…リョウもアイリも…!全部失うなんて…こんなの、あんまりじゃないか…!」

真弦は頭を抱え込み、全てを放棄したくなる感情が押し寄せていた。その場に響くのは彼の荒い息遣いだけで、階段の吹き抜けに冷たい空気が満ちていく。

明日香がそっと彼に近づき、その背中に手を置いた。彼女の手は暖かかったが、その温もりすら真弦には届かないようだった。

「真弦…」

明日香の震える声が空間を満たすが、彼女もまた、この絶望的な状況に言葉を失っていた。ただ、彼女はそばにいることを諦めなかった。

突然、空間が低い唸り声を上げるように震え、階段全体が微かに揺れ始めた。その異様な感覚に、真弦も明日香も顔を上げる。

「…何か来る。」

遥が静かに呟いたその瞬間、裂け目が激しく歪み始め、空間に黒赤い光が放射される。空がまるで血のように染まり、黒い霧が空間全体に広がった。

「なんだ、この気配…!」

真弦が息を呑む中、裂け目から暗黒の触手がゆっくりと姿を現した。触手は禍々しく蠢き、空間そのものを侵食するように広がり始める。その動きは異様で、まるで生きているように蠢いていた。

「この気配…前に《異様な影》が現れたときの…!」

真弦の脳裏に過去の記憶が蘇る。その時と同じ、底知れない恐怖が襲ってきた。

街中では、この異常事態に人々が次々と外に出てきては、裂け目から放たれる赤黒い光に怯えていた。

「なんだ、あれは…!」「助けてくれ!」「もうこの街は終わりだ!」

絶望の声が至る所から響き渡り、群衆はパニックに陥っていた。瓦礫の崩れる音や悲鳴が混じり合い、街全体が地獄絵図と化していく。

裂け目から声が響く。

〖この世界のおかげで我の復活も近くなった。〗

重々しいその声は、真弦の心に深い不安を植え付ける。

〖皆、我の言葉一つで負の感情を抱え、一人の敵を作り、不安を募らせた。〗

触手は真弦たちに向けてゆっくりと伸びていく。その動きは緩慢ながらも、確実に捕らえようとしているようだった。

「真弦、危ない!」

明日香が叫び、咄嗟に真弦を引き寄せる。触手は目の前を掠め、階段の一部を破壊しながら通り過ぎた。その破壊音が、さらに彼の心を引き裂く。

〖この世界はもうすぐ終わりを迎える。観測者、視ているのなら、また相まみえるときがあろう。〗

その言葉を最後に、触手は裂け目と共に消え去り、空間は静寂を取り戻した。だが、赤黒く染まった空はそのままに、禍々しい気配だけが残された。

「…何だったんだ、今のは…」

真弦は額の汗を拭いながら立ち上がり、裂け目が消えた空間を睨みつけた。明日香は彼の横顔を見ながら、不安そうに問いかける。

「真弦、大丈夫?あれ…何だったの?」

「わからない。でも、何かを伝えようとしていたようだ…俺たちを試すかのように。」

その時、レムスフィアが震えると同時に、リョウの声が焦りに満ちた調子で飛び込んでくる。

「真弦!お前、無事か!?今どこだ!」

「なんとか無事だ。今、中央タワーの屋上へ向かっている階段だ。そっちの状況はどうだ?」

「状況なんてレベルじゃねえ!街中が混乱してるんだよ!」

リョウの声に割り込むように、アイリの声が通話越しに響く。

「裂け目の声が響いた後、みんなおかしくなっちゃったの!『裂け目を誰かが操っている』とか、『邪神の仕業だ』とか、根拠のない噂がどんどん広がってる。もう、誰も信じられなくなってるのよ!」

アイリの震えた声に、真弦の胸は締め付けられる。明日香もその様子に険しい表情を浮かべた。

「暴動も起き始めてる!」

再びリョウが言葉を継ぐ。

「裂け目からの光に触れたやつらが何かに取り憑かれたみたいに暴れ回ってるんだ!互いに罵り合ったり、物を壊したり、街そのものが崩壊しかけてる!」

ジンの冷静な声が、通話越しに響く。

「真弦、状況はそれだけじゃない。裂け目周辺の磁場が乱れて、主要なセキュリティシステムが機能停止してる。交通網もダウン、避難誘導もままならない状況だ。」

「そんな…」

真弦は拳を握りしめ、重く息をついた。

「ジン、裂け目そのものはどうなってる?」

「消えたわけじゃない。むしろ、声が出た後に広がりが加速してる。裂け目が吸い込むエネルギーが増していて、このままじゃ街全体が飲み込まれるだろう。」

リョウが苛立ち混じりに叫ぶ。

「街が崩れるのも時間の問題だ!くそっ、なんでこんなことに…!」

「落ち着いて、リョウ。」

アイリが静かに諭すが、彼女の声にも隠せない焦燥が滲んでいた。

「真弦…私たちは、できるだけ避難を手伝うわ。でも、裂け目そのものを何とかできるのは、やっぱりあなただけなの…。」

「アイリ…」

ジンが続ける。

「お前の力で裂け目を閉じられるなら、この街を救えるかもしれない。でも、無理をするな。もしお前が倒れたら、それこそ全てが終わる。」

通話の向こうから、瓦礫が崩れる音や、人々の悲鳴が断続的に聞こえてくる。それは、街全体が終焉に向かって進んでいることを示していた。

真弦は深呼吸をし、拳を強く握りしめる。彼の心の中で、迷いと使命感がせめぎ合った。しかし、彼が動かなければ、この街も人々も救えない――その思いが彼を突き動かした。

「分かった。俺たちも裂け目へ向かう。」

真弦の言葉は静かで、しかし決意に満ちていた。

「真弦…」アイリの声が小さく震える。「どうか無事でいて。あなたが無事でなければ、何も始まらないんだから…」

「アイリ、ありがとう。リョウ、ジン、街の人々を頼む。俺たちもできる限り急ぐ。」

リョウが最後に応じた。

「わかった!お前らも死ぬなよ!俺たちは、ここでなんとか踏ん張ってみせる!」

通話が途切れると、真弦は視線を明日香に向けた。彼女の表情には迷いも見えたが、それ以上に確かな意志が宿っている。

「街全体が崩れ始めてる。でも、俺たちが行かなきゃ…止められるのは俺しかいないんだ。」

明日香はその言葉に静かに頷き、優しく微笑んだ。

「あなたならできる。私は信じてる。そして、どんな状況でもそばにいる。」

真弦は裂け目のあった空間を睨みつけ、再び視線を前に向けた。

「俺は…この街を守りたい。そして、その先にある何かを見据えなきゃいけない。裂け目の正体、その裏にあるもの…全部終わらせるために。」

彼の声にはこれまで以上の力強さが宿り、拳を握りしめながら、崩れゆく街を背にして進み出した。その背中には、街を救うという覚悟がはっきりと刻まれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る