第3章
***
彼と彼女が一歩踏み出す度に、裂け目は広がっていく。
感情の揺れが、二人の共鳴が、何かを引き寄せているのだろうか。
彼の中に響く声を感じ取れる。
彼がその声に耳を傾け、失われた記憶を掴み取る時、すべての歪みが形を持つかもしれない。
***
3章0節
ソファの上で目を覚ました真弦は、昨夜そのままそこで眠り込んでしまったことに気づいた。体を起こすと、首と肩に微かな痛みが走り、いつもと違う寝心地の影響が体に残っている。薄明の光が窓からゆっくりと差し込み、夜の名残を押し出すように部屋を静かに染めていく。朝の静寂に包まれたこの空間には、どこか不協和音のようなものが漂っている気がした。
目が覚める直前、真弦は夢を見ていた。夢の中で、誰かが彼の手を強く握りしめていた。これまでに何度も感じたことのある温かな感触だったが、今回はどこか違っていた。手からは強い切迫感が伝わり、まるで何かを訴えかけるようだった。夢の中で微かに聞こえた声も印象に残っているが、内容ははっきりしない。だがその声には、ただならぬ緊迫感が含まれていたことだけは覚えていた。
ソファから身体を起こし、ぼんやりと天井を見つめる真弦。夢の残滓が脳裏をよぎり、心の奥でざわつく何かを感じた。心臓が鼓動を速め、不安が静かに広がっていく。確かに感じたはずのあの手の感触、そして響いた声が、現実と夢の境界を曖昧にし、彼を現実へ引き戻すことを躊躇わせる。
(誰なんだ…あの声…。俺の記憶について何か知っているのか...。)
真弦は頭を振り、夢の中で感じた焦燥を振り払おうとしたが、その感覚はどうしても心にこびりついて離れない。夢の中の記憶は次第に霞んでいくものの、不安だけが胸の奥に残り続けていた。まるで何かが崩れかけているような――そんな漠然とした恐怖が彼の心を支配していた。
カーテン越しに射し込む朝の光が少しずつ強まり、部屋の輪郭を浮かび上がらせる。それと共に、真弦は今日という日が始まる現実に意識を戻し、重い身体を起こした。けれど、その胸の奥に根を張る不安は、夢が消えた後もなお、彼を離さなかった。
真弦がソファからゆっくりと立ち上がると、部屋の片隅で静かに漂っていたレムスフィアが動き始めた。球体の表面が淡い光を放ち、やがて穏やかな声が耳元に響く。
「おはようございます、真弦さま。昨夜は珍しくソファでお休みになられたようですね。首と肩の筋肉が少し硬直しているようですが、大丈夫ですか?」
真弦は肩を軽く回しながら、苦笑いを浮かべて答えた。「ああ、わかるのか。さすがトワだな。でも、ソファで寝るのはもうこりごりだよ。」
トワの声には、どこか心配と冗談の入り混じった調子があった。「ご自身でお体をいたわっていただければ幸いです。ちなみに、心拍数が通常よりも少し高めです。何かお考え事でも?」
その問いかけに、真弦は少し言葉を選びながら答えた。「…夢を見てたんだ。いつもと同じように、誰かが俺の手を握ってた。でも、今回は違った。何かを訴えてくるような、そんな感覚だった。」
トワは一瞬間を置いてから、落ち着いた声で応じる。「その夢は、これまでの記憶の断片に関係している可能性が高いですね。ただ、具体的に何を示唆しているかは、私のデータでは判別できません。」
「そうか、トワでもわからないか。」真弦は窓の外に視線を向けながら小さく息をついた。
「ですが、真弦さま。」トワの声が少し低くなる。「夢が現実に影響を与えるほど強烈な印象を残す場合、それは無視できないものだと思います。何かの兆し、あるいは警告かもしれません。」
真弦はその言葉にうなずきながら、夢の内容を思い出そうとするが、詳細は霧のように掴めない。「…それでも、俺にはまだ何もわからないんだ。あの声が誰なのか、何を伝えたかったのかも。」
すると、トワの声が少し軽くなった。「では、私が記録したデータを元に、リラックスできる方法を提案いたします。夢について深く考えるよりも、少し気分転換をするのが良いかもしれません。」
「気分転換か。」真弦は小さく笑った。「何かいい方法でもあるのか?」
トワは間髪を入れずに答える。「はい。最近はストレッチが非常に効果的だとされています。それに、私が流行の冗談をお聞かせするという手段もありますが。」
「冗談だって?」真弦は思わず眉を上げた。「お前、そんなこともするようになったのか?」
「もちろんです。真弦さまのメンタルケアも私の重要な役割ですので。」トワの声がどこか誇らしげに響く。
「それじゃあ、一つ聞いてみるか。」真弦は興味深そうに口元を緩めた。
「承知しました。それでは――なぜ、裂け目は自分の周囲を吸い込もうとするのでしょうか?」
「…なぜだ?」真弦が尋ね返すと、トワは間を置かずに答えた。
「それは、裂け目も孤独だからです。」
真弦は一瞬驚いた表情を見せた後、思わず吹き出してしまった。「おい、それは…妙に納得できるな。でも、冗談にしてはシリアスすぎるだろ。」
「失礼しました。ジョーク生成アルゴリズムの調整が必要かもしれません。」トワはしれっとした声で応じたが、その言葉に真弦は肩をすくめながら小さく笑った。
「まあ、悪くないよ。ありがとう、トワ。少し気が楽になった気がする。」
「それは何よりです、真弦さま。」トワの声は相変わらず穏やかだが、どこか安心したようにも聞こえた。
真弦はトワに軽く礼を言い、朝の準備に取りかかる。その背中には、少しだけ肩の力が抜けた柔らかい雰囲気が漂っていた。
3章1節
朝の光が静かに街を包む中、都市の住宅街は一見いつも通りに見える。しかし、その裏には、言いようのない重苦しい雰囲気が漂っていた。真弦は、その違和感を肌で感じながら足を進める。整然とした道路、規則的に配置された建物、そしてその間を流れる風が、どこか無機質で冷たい。風に揺れる街路樹の葉が光を反射し、まるで心の奥底を照らし出すような鋭さを持っていた。
(この街…何かが変わりつつある…。)
胸の奥でざわつく感覚を抑えきれず、真弦は足を止めた。裂け目が現れてからというもの、彼の中では何かが少しずつずれている気がしてならない。まるで、街の表面に張り付いた整然とした秩序が、今にも剥がれ落ちそうな感覚だ。周囲を見渡しても、すれ違う人々の姿には変わったところはない。しかし、その背後にある目に見えない不穏な気配が、確実にこの街全体を包み込んでいる。
真弦は、カフェ「サイレントブリュー」の前に立っていた。透き通るガラス越しに、リョウとアイリが席についているのが見える。二人は何かを真剣に話し込んでいる様子だ。リョウはレムスフィアを手にし、何かを見せながらアイリに説明している。
ドアベルが軽く鳴り、真弦が店内に入ると、店主のケイがいつもの落ち着いた声で迎えてくれた。
「やあ、真弦。いつものだな?」
「ありがとう、ケイさん。」
真弦は軽く会釈し、リョウとアイリの席に向かう。
リョウが真弦に気づき、少し手を挙げた。
「おはよう、真弦!今日は大事な話があるって言ってたけど、何か進展があったのか?」
真弦は席につき、少し間を置いて答えた。
「実は、《影》って存在が俺に語りかけてくるようになったんだ。」
その言葉に、リョウとアイリが目を見開いた。
「語りかけるって、どういうことだよ?」
リョウが身を乗り出しながら尋ねる。その顔には、驚きと疑念が入り混じっていた。
「言葉で直接、俺に伝えてくるんだ。どこからか声が聞こえてきて、裂け目のことを話したり、街の崩壊を警告したりする。ただ…それだけじゃない。」
真弦は窓の外を一瞥して、再び二人に向き直った。
「《影》は、俺の過去にも関係しているみたいなんだ。でも、何を伝えたいのか、その全てがまだ分からない。」
「真弦の過去?」
アイリが驚き混じりに問い返す。その目には、真弦を案じる色が浮かんでいた。
「そうらしい。だけど、俺自身、その過去に心当たりがないんだ。5年前の記憶が無いのは知ってるだろ?どうやら、その部分に絡んでるらしい。」
真弦は淡々と話しながらも、少し苦悩の色をにじませた。
リョウが眉をひそめながら口を開く。
「で、その《影》と裂け目がどう繋がってるんだ?まさか偶然じゃないよな。」
彼はコーヒーを手に取りつつ、その内容に考えを巡らせているようだった。
「それは俺も分からない。だけど、裂け目が現れたタイミングで姿を現すのは間違いないし、まるで裂け目が《影》の存在を引き寄せてるみたいなんだ。」
真弦の落ち着いた声が、かえって二人の不安を煽るように響いた。
「待てよ…じゃあ、裂け目自体が《影》の仕業ってことなのか?それとも裂け目ができることで《影》が活発になるのか?」
リョウが頭を掻きながら続ける。
「どっちにしても、《影》が裂け目を利用してる可能性は高い。裂け目が発生したことで、この世界に《影》が何らかの形で影響を及ぼしているのかもしれない。」
真弦は静かにそう言った。
「それにしても、なんで真弦だけが《影》に話しかけられるんだろう?普通の人には見えないって話だし…もしかして、真弦が裂け目を閉じてるから、それが関係してるとか?」
アイリは考え込むようにしながらも、心配げな視線を真弦に向けている。
「俺が裂け目を閉じてるせいで《影》が動いてる…?」
真弦はその可能性に気づき、眉をひそめた。
「それなら、裂け目が何のために現れるのか、もっと知る必要があるな。裂け目そのものがこの街にどう影響を与えてるのかを。」
「でもそれって、裂け目だけの問題じゃなく、この街全体の問題だよな。」
リョウが深いため息をつきながら言う。
「裂け目のせいで街が壊れるだけじゃなく、《影》って存在が街全体に何か企んでるんだとしたら、俺たちじゃ対処しきれないかもしれないぞ。」
「だからこそ、何か手がかりを見つけないといけない。」
真弦は静かに言った。その目には、強い決意の色が宿っている。
「裂け目を閉じることで街全体がどうなるか…それが本当に良いことなのかどうか、私たちにはまだ分からないね。」
アイリが静かに口を開いた。カップを手にしながら、その目は真弦の表情を真剣に見つめている。
「分からないけど、それでもやるしかないんだ。」
真弦の声は静かだったが、その中には強い覚悟が感じられた。
「俺たちが行動を起こさないで、街が壊れていくのを黙って見てる方が、もっと後悔する気がする。」
リョウはしばらく考え込んだ後、苦笑して口を開いた。
「お前って本当にそういう奴だよな。どっちを選んでもしんどい道なのに、自分から進んで選ぶなんて。」
「真弦らしいと言えば、らしいけどね。」
アイリも薄く微笑みながらカップを置いた。
「でも、その分だけ無理はしないでほしい。街を守るために自分を犠牲にするなんて、そんなことになったら…」
言葉を切ると、アイリは一瞬目を伏せた。真弦はその様子に気づき、優しく首を横に振った。
「大丈夫だ。俺は自分を見失うつもりはない。ただ、できることをやるだけだ。」
真弦の言葉に、リョウもアイリも静かにうなずいた。
その時、カフェのドアが静かに開き、風鈴の音が涼やかに響いた。明日香が軽やかに店内へと入り、真弦たちのテーブルに向かって微笑んだ。「遅れてごめんね。」彼女は軽く会釈して、真弦の隣に腰掛けた。
真弦がリョウとアイリに向き直り、
「リョウ、アイリ、彼女は明日香。前に話したけど、裂け目のことを一緒に調べてる仲間なんだ。」
と紹介する。リョウは少し驚いた様子で、
「ああ、話には聞いてたよ!リョウです、よろしく!」
と軽く笑いかける。その声には、いつもの軽快さに少し控えめな緊張が混じっていた。
アイリも穏やかに微笑みながら、
「図書館ではありがとう。裂け目のこと、正直不安でいっぱいだけど…協力してくれる人がいるのは心強いわ。」
彼女の言葉は落ち着いていたが、その瞳には、明日香への複雑な感情がかすかに揺れている。
明日香は丁寧にお辞儀をして応じた。
「こちらこそ。私もまだ全てを理解してるわけじゃないけど、一緒に考えながら進んでいけたらと思ってるわ。」
その言葉は自然体で、飾らない誠実さが滲み出ていた。それが、かえってアイリの心に微妙な違和感を生じさせた。真弦と明日香が視線を交わすたび、アイリは無意識に少し視線を落とす。
沈黙が少し流れた後、リョウがやや控えめな調子で、
「まあ、みんながいるなら、なんとかなるさ。」
と笑いを誘う。普段の彼ならもっと元気に場を盛り上げようとするところだが、裂け目の話題に絡む複雑な空気を感じ取っているのか、言葉選びに慎重さがうかがえた。
その時、カフェの奥からケイが静かに歩み寄ってきた。手には銀色のトレイを持ち、ゆったりとした動作でコーヒーカップをテーブルに置いた。「ごゆっくりどうぞ。」低く柔らかな声が、自然に場の空気を和ませる。
明日香はカップを手に取り、その香りを楽しむように一瞬目を閉じた。
「本当に…このカフェは落ち着くね。」
彼女はそっと微笑んで言った。その視線が真弦に向けられると、真弦も少しだけ頬を緩めて応じる。その短いやり取りに、アイリは何とも言えない感情を抱きつつ、表情を崩さずにコーヒーに口をつけた。
「二人とも、すごく息が合ってるんじゃない?」
アイリは軽く冗談めかしたが、その声にはどこか針のような微妙なトーンが含まれていた。それを察したリョウがすかさず笑い、
「おいおい、アイリ、焼きもちか?」
と和ませるように茶化す。アイリは少しムッとした表情を見せながら、
「そんなことないわよ!」
と返すと、四人は自然と笑い合った。
ケイはその様子を見届けてから静かにカウンターに戻り、彼らを見守るように優しい目で微笑む。
話が一区切りした頃、真弦のレムスフィアが微かに振動し、ジンの声が飛び込んできた。
「真弦、聞こえるか?今、広場で裂け目が発生したとの報告が入った。早急に対応が必要だ。」
その言葉に、真弦はすぐに立ち上がり、三人に目を向けた。
「行こう。」
明日香もリョウもアイリもすぐに動き出し、カフェを後にした。
3章2節
ジンからの連絡を受けた真弦たち4人は、都市の中心にある広場へと急いだ。裂け目が発生した広場は、すでに混乱のるつぼと化していた。周囲には叫び声と警告音が響き渡り、人々は我先にと逃げ惑っている。広場の中心には不気味な青白い光が脈動する巨大な裂け目が広がり、その周囲では建物や物体が徐々に吸い込まれていく様子が見える。
裂け目の近くにあった看板やベンチが空中で歪みながら消え、ねじれた空間の中に飲み込まれる。地面はひび割れ、周囲の街灯もゆらゆらと揺れている。裂け目から発せられる低い唸り声のような音が、広場全体に不気味な不協和音を生み出していた。
メディアもすでに現場に駆けつけており、複数の記者たちが裂け目をカメラに収めようと混乱の中で機材を構えている。「これが裂け目の最新の様子です!広がり続ける空間の異常により、周辺一帯は危険な状況です!」とリポーターが叫ぶようにレポートしていた。その映像が即座にレムスフィアを通じて街全体に配信されているのが、真弦の耳にも入る。
「真弦!」
ジンの声が響くと同時に、彼の姿が広場の端から現れた。小型のドローンを操作しながら状況を確認しているジンの表情は険しく、彼のレムスフィアが赤く警告を放っている。
「裂け目が急速に拡大している。あの規模なら、想波を集中的に流し込まなければ制御できない。」
「時間がない、行こう。」
真弦は決意を固めた顔で裂け目に向かって走り出す。その背中を見つめながら、リョウとアイリ、明日香も後に続いた。
裂け目の前に立った真弦は、大きく息を吸い込んで目を閉じた。心を落ち着けるように、意識を裂け目に集中させる。周囲の喧騒が遠のき、彼のレムスフィアが緋色に輝き始めた。その光は周囲を淡く染め、まるで裂け目の力に応じるかのように脈動している。他の3人もそれに気づき、目を見張った。
「真弦、レムスフィアのそんな信号見たことないぞ…どうなってるんだ?」
リョウが戸惑いの声を上げる。しかし、その質問に答える暇もなく、裂け目が不気味に波打ち始めた。
突然、裂け目の奥から影が現れる。それはこれまでの影とは明らかに違っていた。はっきりとした人間の形を持ち、女性らしい輪郭を浮かび上がらせている。長い髪が風に揺れるように見え、その足元には黒い触手のようなものがゆらめいている。その触手は地面に絡みつき、裂け目の力を増幅させているかのようだった。
「これが…影?」
アイリが震える声で呟く。彼女は目を逸らそうとしたが、その異様な存在感に引き込まれ、視線を外すことができない。
リョウも初めて見る影に息を呑んだ。
「なんだよこれ…禍々しすぎるだろ。」
しかし、その中で最も冷静ではいられなかったのは真弦だった。
「違う、これは…いつもと違う…いままでの影じゃない...《異質な影》だ」
彼の声は震え、足元が揺らぐような感覚に襲われる。《異質な影》はこれまで以上に存在感を持ち、街全体を覆うような恐怖を発していた。
「お前は誰なんだ?」
真弦は《異質な影》に向かって問いかけた。その声には恐れを隠しきれない鋭さがあった。だが、その問いかけに答えるかのように、影は低く囁いた。
〖...お前は......なるほど〗
その言葉が真弦の耳に届いた瞬間、胸の奥に眠る記憶の断片が突き刺さるように浮かび上がる。目の前の影の存在感が、真弦の心を強く揺さぶった。彼は目を見開き、胸の奥に沸き上がる恐怖と混乱を必死に抑えようとするが、目の前の光景から目を逸らすことができなかった。影はゆっくりと手を伸ばし、その動きには悲しみと威圧が入り混じっていた。
〖...観測者は......いるな..〗
その声は、風のように真弦の耳へ直接響き渡る。言葉の意味をすぐに理解することはできなかったが、その声には深い悲しみと冷たい警告が込められていた。同時に、真弦の意識に幼少期の記憶がフラッシュバックする。
――柔らかな光に包まれた景色。小さな手を誰かと繋ぎ、優しい微笑みに見守られていた瞬間。誰がその微笑みを向けていたのか、彼には分からない。しかし、その記憶は温もりと痛みを同時に蘇らせた。
次の瞬間、激しい頭痛が彼を襲う。真弦はこめかみを押さえながら、意識が飛びそうになるのを必死に耐えた。だが、影の言葉は容赦なく続いた。
〖邇木真弦...お前は大事なことを忘れているようだな...。次々生まれる裂け目を閉じることが、新しい裂け目を生み…街の崩壊を早めることになる。お前が行っているのは、この街の崩壊を進めているだけだ...〗
その冷たい声に、真弦の胸には焦りと怒りが沸き上がった。
「なんだと...嘘だ!そんなはずはない!」
彼の声がカフェの広場に響き渡る。その強い反論にもかかわらず、《異質な影》は微動だにせず、静かに彼を見つめているようだった。その静寂の中で、真弦の想波が乱れ始めた。
レムスフィアの緋色の輝きが激しく瞬き、まるで裂け目の脈動と共鳴するかのように光を放つ。真弦の心が不安定になるにつれ、裂け目の動きも荒々しさを増していく。周囲の空間が激しく歪み、禍々しい気配が街全体に広がり始めた。
《異質な影》の存在感はますます強まり、街の空気全体が重く冷たい恐怖に包まれていくようだった。真弦の心は揺れ、足元がぐらつくような感覚に襲われながらも、必死に立ち続ける。
〖...せいぜい足掻いてみせろ〗
《異質な影》の声が冷たく響き、嘲るような響きが混ざっていた。その言葉を最後に、《異質な影》はゆっくりと裂け目の中に消えていった。裂け目が強く脈動し、周囲の空間が激しく歪む。《異質な影》の気配が完全に消えるまでの間、真弦の目はそれを見届けることしかできなかった。
「裂け目が大きくなってる!」
リョウが声を張り上げる。周囲の状況を把握する間もなく、裂け目の存在が真弦を追い詰めていく。裂け目は不気味な音を立てながらさらに拡大を続け、周囲の空間が激しく歪んでいった。瓦礫や金属片を次々と裂け目の中へ引き込んでいく。その異様な光景に、周囲に詰めかけたメディアのカメラが一斉に向けられ、激しいフラッシュが光る。
「くっ...!」
真弦は乱れる想波を抑えようと必死に裂け目に集中するが、その圧倒的な力に押し返され、顔をしかめながら耐え続けていた。汗が額を伝い、肩が上下するほどの苦しい呼吸が漏れる。
「真弦!落ち着いて!」
明日香が彼の手をしっかりと握り、その温もりで彼を支えようと必死に呼びかける。しかし、真弦の乱れた想波はさらに裂け目の脈動を激しくし、結果としてその拡大を止めるどころか加速させてしまった。
「やばい、裂け目がどんどん広がってる!」
リョウが叫ぶ。アイリもその場に立ち尽くし、顔を青ざめさせながら唇を噛みしめた。
「どうすればいいの?こんな…ただ見てるだけじゃどうにもならない!」
アイリの声には焦りと恐怖が混じっている。ジンも眉間に深い皺を寄せながら、必死に落ち着いた声で真弦に語りかけた。
「真弦、思い出せ!感情を安定させるんだ!」
その言葉に、リョウとアイリも声を合わせて真弦を励ます。
「お前ならできる!何度も街を救ってきただろ!」
「真弦、私たちはここにいる。一人じゃないんだから!」
仲間たちの声が響き渡る中、真弦は肩で荒い息をつきながらも、震える手を一瞬強く握り締めた。
「俺だって、ここで止まるわけにはいかない…!」
彼は再び裂け目に向き直り、苦しそうに目を閉じて深く息を吸い込んだ。激しく乱れる心を必死に抑え、想波を流し直そうとする。だがその間も、裂け目は禍々しい脈動を繰り返し、黒い触手が一層暴れ回るように周囲を引き裂いていく。
「くっ…!頼むから…落ち着いてくれ…!」
真弦の声が掠れるように漏れたその瞬間、仲間たちが手にしたレムスフィアが緋色の輝きを放ち始めた。それは真弦のレムスフィアと共鳴するかのように光り、周囲の空気が微かに変化する。
「ほら、みんなの想いが届いてるんだ!だから諦めんな!」
リョウが必死に叫び、アイリも力強く頷いた。
「真弦、絶対できるよ。だって私たちが信じてるから!」
明日香がその手をさらに強く握り、真弦の震える指にぬくもりを伝える。
真弦は震える身体を押さえながら再び集中を取り戻し、想波を裂け目に流し込む。その波動が次第に整い始めると、緋色に輝く4人のレムスフィアもさらに明るさを増し、裂け目の禍々しい脈動がゆっくりと収まっていく。真弦の心の中には、仲間たちの声とその想いが確かに届いていた。
「俺は…街を守る…!この街を壊させるわけにはいかない!」
真弦の声には、強い決意と覚悟が込められていた。その言葉と共に、緋色の光が裂け目を包み込み、不気味に広がっていた空間がゆっくりと収縮を始めた。そしてついに、裂け目は静かに消滅し、広場には再び静寂が訪れた。
だが、その場にいたメディアが記録していた《影》の言葉――「裂け目を閉じることが、新しい裂け目を生み…街の崩壊を早めることになる。」という発言は、即座にレムスフィアを通じてニュースとして街全体に広まっていった。
その報道はあたかも「裂け目の原因は真弦である」といった解釈を誘導する形となり、街中の人々に急速に拡散されていく。真弦の行動が新たな裂け目を引き起こしているという偏った情報は、不安を抱える市民たちの心をさらにかき乱していった。
3章3節
街中に流れるニュース映像が、真弦を糾弾する声で溢れていた。ホログラムニュースのキャスターは、冷静な口調で情報を伝えているが、その内容は街の不安を煽るものだった。
「裂け目の元凶についての新たな情報が入ってきました。これまで裂け目を封じてきた青年――邇木真弦ですが、彼の行動が新たな裂け目を生み出している可能性が指摘されています。一部の専門家は、裂け目の拡大が彼の行動と関連しているとみており…」
その言葉に続くのは、街の人々のインタビュー映像だった。画面には、険しい表情の女性が映し出される。
「信じられない!ずっと裂け目を閉じてくれる英雄だと思ってたのに…実際はあいつが裂け目を増やしてたなんて!」
次に映った中年男性は拳を握りしめながら怒りを露わにした。
「街を守るフリして崩壊させるなんて!こんな奴を英雄扱いしてたなんて恥ずかしい!」
住民たちの非難の声が次々に映し出される。画面の隅に表示されたコメント欄も、「真弦を追放しろ」「これ以上裂け目を増やさせるな!」といった過激な意見で埋め尽くされていた。
真弦は、自分の部屋でそのニュースをぼんやりと見つめていた。ホログラムの映像が壁に投影され、住民たちの怒りと失望が次々と彼の耳に突き刺さる。
「俺が…裂け目を…増やしてる?」
彼は肩を落とし、ベッドに腰掛けた。頭の中を住民たちの声がぐるぐると回る。
(間違っていたのか…俺がしてきたことは…。街を守るつもりで裂け目を閉じていた。それが、逆に街を壊していた?)
心臓が締めつけられるような感覚に襲われ、真弦は頭を抱え込んだ。これまで信じていた自分の行動が、街の人々に裏切りと映るとは思ってもいなかった。
「俺が元凶だったってことなのか…?」
呟いたその声は、壁に吸い込まれるように消えていった。普段淡々としている真弦の表情も、このときばかりは苦しみに歪んでいた。彼は立ち上がり、カーテンを閉めて部屋の中を暗闇で包んだ。
レムスフィアが、彼の体調を心配するかのように柔らかい声を発した。
「真弦さま、体調が不安定です。リラックスする環境を提案します。」
「…今はいい。」
静かにそう返すと、真弦は再びベッドに腰を下ろし、無意識に手を握り締めていた。その指先が微かに震えていることにさえ気づかないほど、彼は自分の考えに囚われていた。
そのとき、ドアがノックされる音が響いた。真弦は反応せず、沈黙が部屋を支配する。しかし、ノックはもう一度繰り返される。
「真弦、私だよ。入ってもいい?」
明日香の柔らかな声がドア越しに届いた。彼女の声には、真弦を気遣う温かさが込められていた。
「…今は…一人にしてくれ。」
真弦は低い声で返事をしたが、明日香はドアを開け、中に入ってきた。彼の沈んだ表情を目にすると、そっと近づき、真弦の隣に腰を下ろした。
「ねえ、真弦。私は、あなたが何をしてきたか知ってるよ。街のみんながどう思ってても、あなたがやってきたことが間違いだなんて思わない。」
「でも、俺が裂け目を増やしてるなら、全部無意味だろ。」
真弦の声には自責の念が滲んでいた。明日香はしばらく黙った後、真弦の手を取って言った。
「それでも、私は信じてる。あなたがこの街を救おうとしてることも、全力で頑張ってることも。それを否定する人がいても、私はあなたの味方だよ。」
その言葉に、真弦はわずかに顔を上げ、明日香の瞳を見つめた。そこには疑いのない真っ直ぐな信頼が宿っていた。
「明日香…ありがとう。」
彼の声は小さかったが、確かに彼の心を救う一歩になっていた。部屋の中に、静かな温もりが広がっていくようだった。
少しの沈黙の後、明日香は小さく息をつき、意を決したように口を開いた。
「…私もね、本当は自分の過去の記憶がないの。」
真弦は驚いた顔をしたが、何も言わずにその言葉の続きを待った。
「いつからかも覚えてない。でも、気づいたときには、この街で普通に生活していたの。それが当たり前だと思い込んで、誰にも言えなかった。怖かったんだよ…自分だけが違う世界にいるみたいで。」
彼女の声は震えていたが、その言葉には正直さが込められていた。
「でも不思議なんだ。裂け目のことや想波については、なんとなく知識がある気がして…まるで、それが私の役割だって最初から決められてたみたいに。」
明日香の瞳が真弦を捉える。その中には、不安とともに、どこか自分をさらけ出した安堵のような感情も見えた。
「私もね、真弦と同じ。ずっと孤独を抱えて生きてきたの。周りのみんなは笑っていても、本当は自分だけが取り残されてる気がしてた。」
真弦はしばらく黙っていたが、彼女の言葉が自分の胸の奥に深く響いているのを感じていた。
「…明日香も孤独だったんだな。」
「うん。でも、真弦と出会って、少しだけ救われた気がする。真弦はどんなときも、人のために動いてるよね。真弦が街のみんなを助けてきたみたいに、私も真弦を助けたいって思うんだ。」
その言葉に真弦は顔を伏せ、握り締めていた拳を少しだけ緩めた。
「俺は、ずっと一人で何とかするしかないと思ってた。でも、明日香がそう言ってくれるなら…少しだけ肩の力を抜いてもいいのかもな。」
明日香は小さく笑って、真弦の手をそっと握った。その温もりが、真弦の胸の奥に静かに染み渡る。
「私は、真弦の孤独を理解できる。だから、これからも一緒に戦わせてよ。」
真弦は彼女の手をしっかりと握り返した。自分の中にあった孤独の一部が、彼女の言葉とその手の温かさによって薄れていくような感覚があった。
「明日香…ありがとう。」
彼の言葉は短かったが、そこには真っ直ぐな想いが込められていた。明日香の瞳が潤んだように見えたが、彼女はすぐに明るく笑って見せた。
「一緒に乗り越えよう、真弦。どんなことがあっても、私はあなたを信じてるし、ずっとそばにいるから。」
明日香の真っ直ぐな言葉に、真弦は一瞬驚いたように彼女を見つめ、それから静かに頷いた。
「ありがとう。…このあと、もう少し一緒にいられるかな?君と、まだ話していたいんだ。」
真弦の声はいつになく柔らかく、それが明日香の心に温かく響いた。
「...うん...もちろん。」
明日香は微笑みながらも、その頬が少し赤らんでいるのを隠すように視線をそらした。彼女は自分の胸が高鳴るのを感じ、手をぎゅっと握りしめた。
そんな様子に気づいた真弦は、少し気まずそうに肩をすくめながら、自分の部屋を見回して言った。
「リラックスしていいよ。そんなに構えなくても...。」
その言葉に明日香はハッとし、すぐに肩の力を抜いて少し照れくさそうに笑った。
「うん、わかってるんだけど…でも、久しぶりに誰かの家にお邪魔するから、ちょっと緊張しちゃって。」
明日香は髪を軽く整えながら、そっとソファに腰を下ろした。その仕草がどこかぎこちなくも可愛らしく、真弦は少しだけ微笑んでキッチンに向かった。
部屋には、わずかに張り詰めた空気と、互いを意識し合う微妙な距離感が漂っていた。
「コーヒーでいいよな?」
真弦が振り返って尋ねると、明日香は頷きながら「うん、ありがとう」と答えた。
真弦は手慣れた様子でキッチンに立ち、コーヒーを淹れ始める。カップに注がれる音が小さく響き、漂い始めた香ばしい香りが、部屋の雰囲気を穏やかに包み込む。
少しして、彼がカップをテーブルに置き、明日香に差し出した。
「はい、どうぞ。」
明日香はそれを両手で受け取り、ほっとしたようにその温かさを感じながらカップを包み込む。
「いい香りだね。」
明日香が嬉しそうに呟くと、真弦は照れ隠しのように目を逸らしながら小さく笑った。
「そんなに期待しないでくれよ。いつものやつだから。」
それでも、彼の声にはどこか安心感が滲んでいた。
「なんだか落ち着くよ。」
明日香が部屋を見渡しながら微笑むと、真弦は少し照れくさそうに肩をすくめる。
「君がいるから、俺も落ち着くよ。なんだか安心できるんだ。」
真弦と明日香がコーヒーを手に静かな時間を過ごしている部屋。窓から差し込む淡い陽光が、二人の顔に柔らかく影を落としている。お互いに安心感を抱きながらも、言葉を選びつつ、徐々に深い話へと移っていく。
真弦はカップを手にしながら、ふと何かを考え込むように口を開いた。
「最近、思うんだ。人ってさ、どれだけ強くなろうとしても、一人じゃどうにもならない瞬間があるんだって。いくら頑張っても、孤独な気持ちが消えなかったり、不安がどんどん膨らんでいったり…。俺もずっと、それが怖くて、ずっと強くあろうとすることで何とかしようとしてた。でも、それだけじゃ足りないんだよな。」
明日香はその言葉に静かに頷き、少し考え込むように視線を落とす。そして、彼の目を見つめながら言う。
「本当にそうだね。でも、誰かを信じて頼れるってことも、すごく強いことなんじゃないかな。お互いに頼り合って、支え合える存在がいるからこそ、乗り越えられることもあると思う。それって、弱さじゃなくて、むしろその関係があるからこそ強くなれるんじゃないかな。」
真弦は明日香の言葉に目を細め、静かに頷く。
「明日香の言うこと、すごく分かるよ。これまでずっと、誰かに頼るのは負けだって思ってた。でも、そうじゃないんだよな。信じ合って、一緒に歩んでいくことが、本当の強さなんだって、最近ようやく分かってきた気がする。」
明日香は優しい微笑みを浮かべ、真弦の言葉に共感を込めて続ける。
「お互いに信じて、必要な時に支え合える。そんな関係って、すごく貴重だし、簡単に手に入るものじゃないと思う。だからこそ、私たちがこうして一緒に困難を乗り越えられることが嬉しいし、誇りに思うよ。」
二人の間に、静かな絆が深まっていく。言葉にならない感情が流れ、互いの存在がどれだけ大切かを実感する。
しばらくの沈黙の後、真弦は優しい眼差しで明日香を見つめながら口を開く。
「君がいてくれるから、俺は成長できるよ。たぶん、それが俺にとっての本当の意味での支えなんだと思う。これからも、ずっと一緒にいてほしい」
明日香はその言葉に心からの微笑みを返し、穏やかな声で応える。
「もちろん。私も、真弦と一緒ならどんな困難だって乗り越えられるって信じてる。お互いに信じて、支え合っていこうね。」
その瞬間、二人の間に漂う空気が変わる。互いの心がさらに近づき、信頼が深まったことで、恋人同士のような強い絆が生まれていく。
部屋の中に差し込む月光が、まるでその絆を優しく包み込んでいるかのように、温かく輝いていた。
3章4節
翌日、真弦の部屋には静かな空気が漂っていた。窓の外では都市のネオンが夜の闇に浮かび上がり、部屋の中には穏やかな時間が流れていた。ソファで眠っていた明日香が小さく身じろぎすると、毛布がずり落ちかけていた。隣に座っていた真弦はそれに気づき、そっと毛布を掛け直してあげた。
「…ん…」
明日香がゆっくりと目を覚ます。薄暗い部屋の中、目に入ったのは真弦の少し俯いた横顔だった。彼は窓の外を見つめながら、何か考え込んでいる様子だ。
「起こしちゃったか?」
真弦が振り返り、小さく気遣うように尋ねる。その声には申し訳なさと優しさが滲んでいた。
明日香は少しぼんやりした様子で首を横に振り、微笑んだ。
「ううん、大丈夫。私こそ寝ちゃってごめんね。」
彼女は体を起こしながら、毛布の温もりを感じて目を伏せた。
「疲れてただろ。少しでも休めたならいいけど。」
真弦は控えめに言うと、再び窓の外に目をやった。
「ありがとう、真弦。」
明日香は姿勢を正して彼の隣に座り直し、彼の様子を伺うように静かに見つめた。しばらくの間、部屋には言葉がなく、ただ互いの存在を感じ取るような静寂が続いた。
真弦が小さく息を吐きながら、ポツリと呟いた。
「影が次の裂け目について警告していた…それが何を意味してるのか、もう少しヒントが欲しいな。」
その声は、自分の中にあるモヤモヤとした感情を吐露するようだった。
明日香はその言葉に表情を引き締め、そっと答えた。
「影はきっと、裂け目の本質と深く関わっているんだと思う。私たちが気づいていない何かを伝えようとしているのかもしれない。でも…まだ全体像が見えないわね。」
真弦は腕を組み、窓から視線を外して少し考え込んだ後、低く呟くように言った。
「影が言った『裂け目を閉じることが、新しい裂け目を生み…街の崩壊を早めることになる。』って言葉…いつもの影とは違う気がする。あんなに具体的に何かを伝えてきたのは初めてだ。」
明日香はそれを聞きながら、自分の考えを整理するように少し間を取った後、静かに口を開いた。
「でも、その影の姿が少しずつ明確になってきてるのは、裂け目が深まっているから…だとしたら、その影が…もしかして、あなたの記憶の中にある女性に似てるんじゃない?」
真弦は目を見開き、考え込むように視線を落とした。額に手を当てる仕草には、記憶を必死に掘り起こそうとする苦悩が滲んでいた。
「…確かに、あの断片的な記憶と影の存在がどこかで繋がってる気がする。でも、どうして今、それが蘇ってきたんだろう…?」
彼の脳裏には幼い頃の断片的な記憶がよぎる。誰かと手を繋いでいた温もり、柔らかな光、そして優しい微笑み。しかし、それ以上の記憶は掘り起こすことができず、彼の胸には不安が募るばかりだった。
その時、部屋の窓が微かに振動し始めた。静かだった空気に、何か不穏な気配が混じり込んでくる。遠くから低く響く音が徐々に近づいてきた。
「この感じ…裂け目の前兆だ!」
真弦が立ち上がり、窓の外を見つめた。部屋の中に緊張が走り、明日香もその視線を追った。
真弦が立ち上がり、素早く装置を手に取る。モニターには不規則な波形が表示され、エネルギーの揺れが急激に増していることを示していた。
「でも、いつもと違う。影に呼ばれている...そんな気がする。」
明日香もすぐに外の様子を確認し、眉をひそめた。
真弦は胸の奥で強烈な不安を感じ、立ち上がる。
「行こう、裂け目が出現する場所を特定しなきゃ!」
2人は真弦の部屋を飛び出し、レムスフィアの反応を頼りに裂け目の発生が予測される場所へと急行する。街の中心部に向かうにつれて、周囲の空気がどんどん重くなり、異様な静けさが広がっていた。
そしてついに、裂け目が出現するであろう場所――都市の古びた広場にたどり着いた。広場には誰もおらず、風が冷たく吹き抜ける中、真弦たちは立ち止まった。
「ここか…。」
真弦は鋭い視線を広場に向けた。
「気をつけて。いつもとは何かが違う...」
明日香が静かに呟く。
その瞬間、広場の中心にゆっくりと空間の歪みが現れ始めた。空気が引き裂かれるような音が響き、真っ黒な裂け目が徐々に広がり始める。裂け目の中からは、再びあの影が現れ、今度はさらに明確な輪郭を持っていた。細身のシルエットと、長い髪がゆらめいている。だが、その顔はまだぼやけていて、はっきりとは見えない。それでも、その影が女性であることが明確になった。
「お前は誰なんだ…?なぜ俺を呼ぶんだ?」
真弦は影に向かって問いかけたが、返答はない。
影は一歩ずつ真弦に近づく。その度に、真弦の頭の中に断片的な記憶がフラッシュバックする――幼い頃、誰かの手を握りしめていた感覚、優しく微笑みかける女性の姿、そして彼女と共に過ごした時間。それらの記憶がまるで古い映画のフィルムのように浮かんでは消える。
「これって…俺の記憶なのか…?」
真弦は困惑し、思わず影に手を伸ばす。
その瞬間、影が静かに口を開いた。
「もうすぐ...あなたは...選択を迫られる…その時、真弦…あなたは…」
言葉が途切れ、裂け目全体が激しく震え出す。影の姿が揺らぎながら、少しずつ消えかける。真弦は焦りを感じ、どうにかして影の言葉を聞き取ろうとした。
「お前は何を知ってるんだ!?教えてくれ!」
真弦は声を張り上げたが、影はただ無言のまま消えていく。
裂け目も同時に収縮を始め、消滅する寸前に影が最後の言葉を残した。
「…自分の選んだ道を...真実に...」
そして、裂け目は自然と消え去り、広場には静けさだけが残った。真弦はその場に立ち尽くし、胸の中でくすぶる感情を抑えきれないでいた。
「真弦、大丈夫?」
明日香が心配そうに彼に近づき、優しく声をかける。彼女の瞳には、真弦の苦悩を理解しようとする温かさがあった。
真弦は深く息を吐き、影の声をゆっくりと反芻し、声に出した。
「自分の選んだ道を...真実に...?」
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