第2章

***

世界が少しずつ歪んでいく感覚がある。

彼はその理由を探し続けているけれど、正しい道を進んでいるのか、私には分からない。

それでも、彼が迷わず進んでいけるように、私はただそばで見ているしかない。

私がここにいる理由を、そしてこの都市が抱える真実を…。

彼が目覚める日が来るまで、私はただ見守るしかない。

***


2章0節

真弦は睡眠カプセルの中で静かに目を開けた。カプセル内部には柔らかな青白い光が広がり、少しずつ明るさを増していく。外界から隔離された空間の中、彼は一日の始まりを迎えたが、その静けさの中には何かしらの違和感が混ざっているように感じられた。

カプセルから出ると、部屋はまだ薄暗く、静まり返っていた。控えめな明かりが部屋の片隅から徐々に灯り始め、眠りから覚める彼をゆっくりと現実へと引き戻していく。まだ完全に目覚めていない世界が真弦を包み込む中、その静寂に一抹の不安が混ざっていた。

目が覚める直前、夢の断片がふっと頭をよぎった。彼の手は誰かの手としっかり繋がれていた。その手は昨日の夢と同じく温かで、彼を導くかのようにしっかりと包んでくれている。しかし、今回はその温もりの中に、かすかな不安が混じっていた。「放してはいけない」と訴えかけるような切迫した感覚が、真弦の胸に一瞬で刻まれた。

けれども、夢はいつものように薄れていき、掴みかけた記憶は儚く消え去った。真弦はその手の主を思い出そうと記憶を辿ったが、どうしてもその人物の顔が浮かばない。ただ胸の奥には、小さな波紋が広がり、不安と焦燥がじわりと湧き上がってくる。

(あの手は、誰のものなんだろう?)

考えを巡らせても答えは見つからず、目覚めるたびに訪れるこの得体の知れない虚無感と消えそうで消えない不安が、真弦の心をじわじわと締めつけ続けていた。

部屋の隅で浮遊しているレムスフィアが、柔らかい光を放ちながら動き始めた。トワの穏やかな声が静寂を破る。

「真弦さま、おはようございます。睡眠データによると、深い眠りは取れていたようですが、心拍数がいつもより安定していないですね。」

真弦は小さくため息をつきながら、椅子に腰掛けた。その言葉に対して答えるのを少し迷ってから、ぽつりと口を開く。

「…トワ…お前は、不安を感じることはあるか?」

レムスフィアの光が一瞬、ほんの僅かに揺れたように見えた。トワの声は変わらず穏やかだったが、その問いに少し考え込んだような間があった。

「私はAIですので、真弦さまのような『感情』を持つことはありません。ただ、機能として持つ『危険予測』や『状況分析』が、不安と似た役割を果たしていると言えるかもしれません。」

その返答に、真弦は小さく笑った。

「そっか。お前はいつも冷静だよな。でも、時々羨ましいと思うよ。その冷静さが、俺にあれば…」

「真弦さま、それは違います。」

トワの声が少しだけ強調された。彼は思わずレムスフィアを見上げた。

「冷静であることが全てではありません。真弦さまの『不安』や『迷い』は、考える力、そして進む力に繋がっています。それは私が持ち得ない、大切なものです。」

その言葉に、真弦は一瞬言葉を失った。トワの声は続ける。

「確かに、今の真弦さまの心拍数には微妙な変動が見られます。それは、夢に関連するストレスかもしれません。でも、それが悪いことだとは限りません。」

「夢…か。」

真弦は俯きながら、自分の手を見つめた。夢の中の感覚がまだ微かに指先に残っている気がした。

「最近、誰かと手を繋いでいる夢を見るんだ。その手がすごく温かくて…でも同時に、何か失いそうな気がして怖い。放しちゃいけないって、何かが俺にそう叫んでる気がするんだよ。」

トワの光がまた小さく揺れる。

「その夢は、真弦さまにとって重要な意味を持つのかもしれません。それを解き明かすためにも、今は無理に忘れようとせず、少しずつ手がかりを探してみるのはいかがでしょう。」

真弦は少し考え込むように視線を落としたあと、ふっと小さく笑みを漏らした。

「トワ、お前の言葉には時々ハッとさせられるな。…そうだな、焦らず少しずつ考えてみるよ。」

「ありがとうございます。それが私の役目であり、喜びです。」

部屋の空気は、静かながらも少しだけ軽くなったように感じられた。真弦は再び立ち上がり、朝の準備を始めるために動き出す。その背中を見守るように、トワは静かに浮かび続けていた。


2章1節

翌日、真弦は、昨日の庭園での出来事が頭から離れず、裂け目の正体を突き止めるべく、未エデン中央図書館へと足を運んだ。この図書館は、ガラス張りの外観と広大なフロアが特徴で、ホログラフィックな書籍やデータが整然と並んでいる。自然光が広がる静かな空間は、都市エデンの中でも特に落ち着ける場所だった。

図書館の受付を通り抜けると、向こう側にアイリの姿が見えた。幼馴染で、この図書館で働いている彼女は真弦に気づくと、表情をぱっと明るくし、こちらに駆け寄ってきた。

「真弦じゃん、どうしたの?急に来るなんて珍しいね。」

アイリは驚きと嬉しさが入り混じった様子で声をかけてきた。彼女の視線は、いつものように静かな図書館の中で、普段から足を運んでいる真弦に何か特別な用があるのか気になっているようだった。

「ちょっと調べたいことがあってさ。実は昨日、不思議な現象に遭遇したんだ。」

真弦は少し言い淀みながらも、昨日目撃した「裂け目」の出来事をアイリに打ち明けた。吸い込まれそうなほど強い引力を持つ空間の裂け目と、それに引き寄せられたナオのことを説明する間も、真弦の中には不安が広がっていた。アイリがこの話を信じてくれるかどうか、少し心配だったからだ。

しかしアイリは、真剣な表情で話を最後まで聞いてくれた。そして、彼が話を終えると、少し驚いた様子で尋ねた。

「そんな話、信じがたいけど…本気で調べる気?」

アイリは普段から冷静で理論的だが、真弦の真剣な様子を見て、疑いの色を変えて考え始めた。

「本気だよ。あれが何だったのか知りたいんだ。何か心当たりはない?」

真弦の真剣な訴えに応えるように、アイリは思案するように小さく頷き、ホログラムパネルを操作し始めた。

「あるわけないじゃない、そんなもの!ただ、待ってて。古いアーカイブにアクセスしてみるわ。」

アイリは冷静に言いながらも、次々とデータを開き、検索結果を確認していく。その手際は素早く、目の前で資料が整然とホログラム上に並び、彼女の指先で操作される様子は、まさにデジタルの未来を象徴しているかのようだった。

「真弦、これ見て。」アイリはふと手を止め、ホログラムに映し出されたリストの中から一冊のタイトルを指差した。「『Disentangle』っていう本が引っかかった。かなり古い文献みたい。」

「Disentangle?」

真弦はその言葉を口にしながら、意味を噛み締めるように考えた。「“ほどく”とか“解きほぐす”って意味か…。」どこか謎めいた響きがそのタイトルには宿っているようで、真弦は自然とその内容に興味を引かれた。

「ちょっと待って…これ、どうやら電子媒体じゃないみたい。」

アイリが驚いた様子で続ける。「データベースによると、紙の本らしいわ。」

「えっ、この時代に紙の本があるのか?」

思わず声を上げる真弦。2272年の未来都市では、ほとんどの書籍がデジタル化されており、紙の本は過去の遺物として扱われ、もはや博物館やごくわずかな専門施設にしか保存されていない貴重な存在だ。図書館にもあるはずがないと思っていたが、どうやら違うようだ。

アイリはホログラムに映し出された保管場所を確認し、少し驚きつつも微笑を浮かべた。「図書館の保管庫にあるみたい。ちょっと待ってて、すぐに持ってくるわ。」

彼女は静かな足音を響かせながら、閲覧エリアを抜けて奥の保管庫へと消えていった。真弦はその背中を見送りながら、紙の本がどんな形で保管されているのか、また「Disentangle」というタイトルが示す意味が裂け目の現象にどう関わってくるのか、さまざまな考えが頭を巡っていくのを感じた。

アイリが資料を探しに行き、真弦は図書館に一人残された。静かな空間に再び戻ると、ふと背後から誰かが近づいてくる気配を感じた。

「何か考えごと?」

耳に届いた柔らかな声に、真弦が振り返ると、昨日出会った明日香が微笑みを浮かべて立っていた。彼女の視線が真弦に向けられ、まるで何かを見透かすようにじっと見つめている。

「君…昨日の…」

真弦は少し驚きながらも、昨日の庭園での出来事について尋ねた。「昨日のあれは、いったい何だったんだ?裂け目みたいなものが見えたけど、君は何か知っているんじゃないか?」

明日香はその問いに一瞬だけ視線をそらし、少し困ったような表情を浮かべた。

「うーん、すぐに説明できるものじゃないの。でも…あなた自身で探り当てるべき『真実』だと思うのよ。」

「はぐらかさないでくれよ。何が起こっているのか、全然わからないんだ。」

真弦がさらに詰め寄ると、明日香は少し思案顔になり、ふと目を細めて微笑んだ。

「真弦、『From Dust To Dust』って聞いたことある?」

「いや、初めて聞くな。何のことだ?」

「『From Dust To Dust』…塵から生まれ、塵へと帰る。人も物もすべてが塵に帰る運命で、そこにこそ真実が隠れているの。何も残らないように見えても、そこには確かな意味がある。」

彼女は真剣な眼差しを真弦に向け、続けた。「だから、消えていくものや失われるものが、すべて無意味とは限らないのよ。」

「塵から生まれて、塵へと帰るか…でもそれじゃあ、何も残らないってことだろ?それが真実なら、少し寂しい気がするな。」

真弦は考え込むように呟いたが、その言葉に何か引っかかる感覚があった。

明日香は微笑を浮かべ、柔らかい声でヒントを与えるように続けた。「でもね、虚無や消滅の中にも真実があるかもしれない。すべてが塵に帰る瞬間、その中から本当に残るべきものが現れることがあるの。例えば、見えないものが現れたり、大事なものが浮かび上がるようにね。」

真弦は彼女の言葉に少し驚きつつも、何かを掴みかけた気がして黙り込んだ。

「それって、何かが壊れて、初めて見えてくるものがあるってことか?」と尋ねると、明日香は優しく頷いた。

「そう、表面的なものが壊れたときにこそ見えてくるのが、真実の姿かもしれないわ。」

彼女の視線が真弦に語りかけるようで、そこには確かな意図が込められているようだった。「きっと、昨日見たものもあなたの中で『ほどけて』いく時が来るわ。焦らないで、少しずつ近づいていけばいいのよ。」

真弦はその言葉の意味を探るように考え込んでいた。昨日の出来事、裂け目とあの異様な感覚…何かが自分の内側で解き明かされる時が本当に来るのだろうか。胸の中で小さな波紋が広がるように、彼女の言葉がじわじわと染み込んでいく。

そのとき、アイリが薄暗い色合いの古びた本を手にして戻ってきた。その表紙には「Disentangle」という文字がかすかに刻まれている。紙の感触は真弦にとっても久しく感じるものであり、どこか懐かしさと不思議さが入り混じった。

「確かにこれだね。でも…文字がかすれて読みにくい。」

真弦は表紙を撫でながらじっと本を見つめ、何か重要な情報が隠されている予感がした。

その時、横から明日香が本を覗き込みながら興味深げに言った。「Disentangle…『絡み合ったものを解きほぐす』って意味ね。今のキミにはピッタリの言葉かもしれないね。」

彼女の言葉には、まるで何か知っているかのような確信が込められていた。真弦はその言葉に少し戸惑いながらも、さらに本の中身を確認しようとページを開いた。

「うわ...中身もボロボロだね。でも、ところどころは読めるかも。」

アイリがページの一部を指差した。そこにはかすれた字で「裂け目」「量子もつれ」「地磁気」「太陽」「薄明」「想波」「緋色」といったキーワードが並んでいる。

「量子もつれ…想波…?」真弦はそれらの単語を目で追いながら、思わず呟いた。「これ、ただの古書じゃなさそうだな。昨日の出来事に関係しているような…。」

アイリが頷きながら言った。「たしかに、『裂け目』とか『緋色』なんて、昨日のことを思い出させる感じだよね。普通の本だったら、こんな直接的な表現は見ないし。」

「『想波』っていう言葉、もしかして君が感じたあの力に似てるんじゃない?」

明日香が興味深そうに考察を始めた。「もし感情や意識が量子レベルで何か影響を与えているとしたら…現実そのものが、私たちの意識で絡み合っているのかも。」

「意識が現実を作り出してるってこと?」真弦は不思議そうに眉を寄せた。「量子もつれが僕の心や意志と関係しているとしたら…僕が裂け目に集中したことで、あの空間が影響を受けたってことになるのか?」

アイリがさらに深掘りするように口を挟む。「『地磁気』や『太陽』っていうのも気になる。もしかしたら、何か大きなエネルギーの変動が、昨日の現象を引き起こした可能性もあるよね。地磁気と量子もつれがリンクして…それがキミの体験と重なってるとしたら?」

明日香は真弦に視線を向け、静かに付け加えた。「それに、『緋色』…昨日、レムスフィアが光り出したときの色よね。もしかしたら、君自身の意志が何らかの形で現実に反映されてるってことかも。自分がどう感じ、何を強く願うかで、世界に変化が起きる可能性があるって考えると…面白いわ。」

「現実と意識が絡み合っている…」真弦は考え込むように呟いた。「もし本当に僕の意志があの裂け目に影響していたなら、これは偶然じゃないのかもしれない。『Disentangle』の意味…絡まったものを解きほぐすってのも、僕自身の内側に向けられたヒントみたいだ。」

アイリが続けて本の表紙をそっと撫でながら言った。「もしかしたら、あの裂け目の正体や、キミが感じた力を解き明かす鍵が、この中にあるのかもね。でもこれは…まだほんの始まりに過ぎないかも。」

真弦は二人の話を聞きながら、胸に新たな決意が湧き上がってくるのを感じていた。この不思議な本が示すものは単なる偶然ではなく、何か深い真実に触れようとしている。

その時、アイリが少し不安げな表情を浮かべ、明日香に向けて口を開いた。

「挨拶が遅れました。私は真弦の友人のアイリです。あなたは…?」


「明日香よ。昨日、真弦と知り合ったの。」

明日香が穏やかに微笑みながら応じるが、その視線はどこか鋭さを帯びている。アイリはその表情を気にするように少し眉をひそめたが、すぐに微笑み返した。


「そうなんだ…」

アイリの声にはほんのわずかに緊張が混じっている。彼女は何か感じ取ったのか、少し気まずそうに視線をそらした。

「うーん、全部は読めないし、肝心な部分がぼやけてる…。」 真弦がページをさらに読み進めようとしたその瞬間、図書館全体が不穏な揺れに包まれた。周囲の光景がゆがみ、空気がねじれるような異様な感覚が広がっていく。

「な、なにあれ…?」

アイリは恐怖に息を呑み、怯えたように囁きながら一歩後ろへと下がった。彼女の視線の先には、図書館のドームの上空でゆっくりと広がっていく黒い亀裂。空間が布を引き裂くようにねじれ、暗闇がじわりとその裂け目から溢れ出してくるようだった。

「ちょ、待って…!」

真弦が持っていた本が急にふわりと浮き上がり、彼の手からすり抜けるようにして宙に舞った。彼は思わず本に手を伸ばしたが、その瞬間、裂け目の吸引力が急激に強まり、空間全体が引っ張られるような感覚が広がる。

「くっ…!」

真弦は必死に手を伸ばし、本の背表紙にかかりそうになるが、あと少しのところで空気がねじれ、彼の指先から本が離れていく。

「ダメだ、待ってくれ!」

裂け目は本を引き寄せる力を増し、本はまるで見えない手に引きずり込まれるかのように、裂け目の中へと吸い込まれていった。真弦の目の前で、その本が暗闇の中へと沈んでいくと、一瞬でその存在が消えてしまう。

「唯一の手掛かりだったのに…」

真弦は悔しそうに呟き、消えていった本を見つめたまま、拳を握りしめた。指先にはまだ本の重みが残っているような気がするのに、その手掛かりはすでに裂け目の中に消えてしまった。

唇を噛み締め、目の前で裂け目がさらに広がっていくのをただ見つめることしかできない自分に苛立ちを覚えながら、真弦はどうすればいいのかと焦りが胸の中で渦巻いていた。

「真弦、悔しいのはわかるけど、今は先にこの裂け目を閉じることが先決よ。」

明日香が裂け目から目をそらさずに凛とした表情で告げた。

明日香は落ち着いた口調で続ける。

「まず、レムスフィアに意識を集中して。君の想いが鍵になるから。」

戸惑いつつも、彼女の言葉に従い、真弦は肩に浮かぶレムスフィアを見つめた。すると、レムスフィアが淡い青色の光を帯び、静かに輝き始める。光が強まると同時に、裂け目の周囲の不安定な空間が少しずつ収まっていくように見えた。

真弦は驚きながらも、その不思議な変化に何かが目覚めるような感覚を覚えた。明日香は力強く続ける。

「今度は、この裂け目にどうなってほしいか、強く想いを込めて。『閉じてほしい』『収まってくれ』って、強く願うのよ。」

彼女の声には揺るぎない確信があり、その言葉が真弦の心を奮い立たせた。真弦は深く息を吸い込み、レムスフィアを通じて裂け目に意識を集中させる。

「…消えてくれ、収まってくれ…!」

心の中で強く念じ、裂け目が収縮し、再び静寂に戻るように祈ると、レムスフィアの光がさらに強まり、それに呼応するように裂け目がゆっくりと収縮を始めた。揺らいでいた空間が少しずつ安定を取り戻し、吸引力も弱まっていく。

「その調子よ、真弦。最後までしっかりとその意志を持って。」

明日香は彼の横で見守りながら、励ましの言葉をかけ続けた。

その時、裂け目の奥深くから、ぼんやりとした《影》が浮かび上がってきた。真弦の視線の先で揺らめくその影は、まるで彼をじっと見つめているかのようだ。姿は曖昧で、輪郭もぼやけているが、どこか懐かしく、そして不安を掻き立てるような存在感を放っていた。

「また…お前か…!」

思わず声を荒げる真弦。その胸には恐怖と苛立ちが混ざり合い、彼の心は激しく揺れ動いていた。影の正体を掴もうと焦るものの、記憶の断片がぼんやりとしたまま遠ざかるもどかしさに、彼の心はかき乱されていく。

その瞬間、真弦の肩に浮かぶレムスフィアがふっと揺れ、まるで彼の不安に呼応するかのように緋色の光を放ち始めた。普段の穏やかな青白い輝きから一転し、深い緋色の光がじわりと広がり、真弦の周囲を染め上げる。光は脈打つように強まり、まるで彼の内なる感情を映し出しているかのようだった。

「レムスフィアがまた、緋く…!」

真弦は驚きの中でレムスフィアに目を向けたが、次の瞬間、影はゆっくりと裂け目の中へと引き込まれ、静かに消えていった。闇の中へと戻っていくその姿を見送りながら、真弦は緋色の光に照らされた裂け目をじっと見つめ、心のざわめきを静かに押さえ込んでいった。

「真弦。今よ!」

明日香の手が真弦の手に重なり、彼女の鋭い声が真弦の胸を打つ。その声にはただの励ましを超えた、確信に満ちた響きがあった。彼女の言葉に応えるように、真弦は自分の内側へと意識を集中させた。

(止めなければ…犠牲者が出る前に…!)

その一念が彼の中で強まり、心の奥底から湧き上がる波動となって放たれた。感情が一点に集中し、それが波動として形を取り始める。その瞬間、裂け目は一瞬だけ抵抗するかのように震えたが、やがてその力に押し返されるように縮み始めた。

空間のねじれがゆっくりと静まる。裂け目の周囲に漂っていた不安定な空気が収束し、ついに裂け目は完全に閉じられた。再び図書館には静寂が戻り、空間も正常に戻ったかのように見える。しかし、真弦の心には大きな不安と疑問が残り続けていた。

あの本に何が書かれていたのか、真弦にとって重要な手がかりだったはずだが、もう二度と手に入らないかもしれない。アイリは落ち着きを取り戻そうと深呼吸しながら、二人に駆け寄った。

「大丈夫?今の…何だったの…?」

アイリの不安そうな声が耳に届くが、真弦はどう返事をすればいいのか分からず、ただ息を切らしながら視線をさまよわせる。胸の奥で渦巻く恐怖と焦りを抱え、頭の中には一つの疑念が浮かんでいた。何かが確実にこの世界を蝕んでいる――そんな感覚が、彼の心を静かに、しかし確かに締めつけていた。

「アイリ、…ごめんね、私たち行かなきゃならないところがあるから。」

明日香がアイリに向かって落ち着いた口調で言うと、すぐに真弦の腕をつかみ、彼をその場から連れ出した。突然のことに驚きながらも、真弦は抵抗せずに引っ張られるまま、アイリの不安げな視線を背に、明日香についていく。

図書館を出た後、明日香は何も言わずに足早に歩き続ける。真弦は引きずられるようにしてその後を追いかけながら、頭の中には先ほどの裂け目の光景と、影の存在がしっかりと焼き付いていた。

2章2節

図書館を出た後も、明日香は何も言わず足早に歩き続けた。真弦は引きずられるようにその後を追いかけながら、頭の中には先ほどの裂け目や影のことが渦巻いていた。

「明日香、待ってくれ。いったいどこに行くつもりなんだ?」

真弦が問いかけると、明日香は一度足を止め、真剣な目で彼を見つめた。

「あなたに会わせたい人がいるの。裂け目のことや、あなたの力について…彼から説明してもらえると思う」

短くそう言うと、明日香は再び歩き出した。その言葉に不安と期待が入り混じる真弦は、黙って彼女の後を追うことにした。

街の賑わいが遠ざかる中、二人は静かな路地へと足を進めていく。明るい街灯も少なくなり、次第に人影も疎らになっていく。建物が密集し始め、冷たい空気が漂う狭い路地へと入ると、昼間とは異なるひんやりとした静寂が辺りに広がっていた。

二人はさらに奥まった暗がりの路地へと向かう。二つのビルの隙間に挟まれたその場所は、街の光がほとんど届かない暗闇に包まれている。真弦が少し後ろを振り返ると、明るい街並みがすでに遠くなり、まるで異次元に迷い込んだような感覚を覚える。

「ここにいるのか…?」

真弦が不安げに尋ねると、明日香はわずかに頷いて「もうすぐよ」と小さく答えた。

ビルの隙間をさらに進むと、奥に一筋の青白い光が揺らめいているのが見えた。その光は、まるで二人を誘うかのように路地の奥から淡く照らし、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。その青白い光を目印にして歩みを進めると、暗がりの街灯の下に立つ一人の男が視界に入った。

男はひと昔前の作業着を身にまとい、古びた手回し式の機械を手にしていた。街灯の薄明かりが彼をぼんやりと照らし、その手には使い込まれたコンパスのような道具が握られている。耳には大きなヘッドホンがかかり、どこか懐かしさと異質さを漂わせているその姿は、まるで別の時代からやって来た人物のようだった。

そして、男の肩に浮かぶのは、今では見かけることのない、かなり大きくて古い型のレムスフィア。真弦のものがコンパクトで洗練されているのに対し、この男のレムスフィアは一回りも二回りも大きく、くすんだ外装には無数の傷が刻まれている。その古びた球体は、青白い光を淡く放ち、まるで彼の存在を静かに見守るようにゆっくりと点滅を繰り返していた。

その青白い光こそが、二人を誘導するように路地の奥から漂ってきていたものだと気づいた真弦は、男の姿と古びたレムスフィアを交互に見つめ、ただならぬ気配に圧倒される思いだった。


男は暗がりの中、じっと古ぼけた装置を覗き込んでいた。針が微かに振動し、ゆっくりと回転を始めるのを確認しながら、彼は低く呟いた。

「…磁気が狂ってるな…」

その声には、長年の経験からくる冷静さと、何かを読み解こうとする鋭さが含まれていた。男は装置を軽く叩きながら顔を上げ、真弦の方に目を留める。その瞳には、彼をまっすぐ見透かすような光が宿っていた。男は少し顔を近づけ、真弦の顔を覗き込むように見つめた。

「お前が裂け目を消したんだな?」

不意に投げかけられたその問いに、真弦は戸惑いと警戒心が交錯するのを感じた。この男が一体何者なのか、何故そのことを知っているのか。真弦は視線を外さず、慎重に答えた。

「…誰だ?どうしてそのことを知ってるんだ?」

真弦が言い終える前に、明日香が二人の間に入るように立ち、男の紹介を始めた。

「彼はジン。裂け目について研究していて、この都市の異常現象を追い続けている技術者なの。私も彼には色々と助けられてるんだ。」

ジンは少しだけ微笑みを浮かべ、軽く手を挙げて挨拶の代わりとした。冷静で落ち着いた態度だが、その奥には鋭い洞察が垣間見える。

「ジンだ、よろしく頼む。ここに来たのも、こいつが反応したからでな。」

ジンは手にしている装置に視線を落とした。真弦もその装置に目を向けると、それは古びた真空管が使われ、手動で調整するように作り込まれた測定器のように見えた。どこか無骨で時代遅れな印象を与えながらも、緻密に調整されたその装置は、ジンの手で改良を重ねられてきたことがうかがえる。

ジンはその視線を受け止めるように装置を軽く持ち上げ、説明を始めた。

「これは地磁気や空間の歪みを感知するために改造した装置だよ。裂け目が現れるのには磁場が関係しているとみている。この装置があれば、空間が不安定になる前兆をキャッチできるってわけさ。古い技術ではあるが、まだまだ現役で役立つもんだ。」

その言葉に、真弦は少し考え込みながら視線を落とした。この古びた装置が、彼の遭遇した裂け目とどんな関係にあるのか。そしてこの男は何を意図して動いているのか。

「それで…裂け目を見つけて何をしようっていうんだ?」と、真弦は問い詰めるように尋ねた。

ジンは少し肩をすくめ、落ち着いた声で答えた。

「おいおい、そんなに警戒しないでくれ。俺はただの技術者さ。この都市には、磁場だけじゃなく異常なエネルギーが満ちていて、それが裂け目として現れているんだ。」

ジンの言葉を聞き、真弦は息を呑んだ。この男が知る「裂け目」とは何なのか。彼がただの技術者にとどまらないことを、真弦は直感で感じ取った。

「それだけじゃない。」ジンはさらに説明を続けた。

「裂け目が発生する理由には、人間の感情や意識も関係しているらしい。この都市の特性上、次元の歪みが発生しやすい場所がいくつもあるんだ。だから俺は、この装置で歪みの場所を探知し、発生箇所を追いかけている。」

「それで、俺に何ができる?」と真弦が問いかけると、ジンは少し目を細めながら言葉を選ぶように話し始めた。

「お前が裂け目を制御するためには、感情をもっと安定させる必要がある。裂け目の制御には、お前が持つ特別な力…『想波』をうまく活用することが重要なんだ。」

「想波…?」と、真弦はその聞き慣れない言葉に戸惑いを見せた。「それが、この力の名前ってことか?」

「そうだ」とジンは頷き、説明を続けた。「想波というのは、人の感情や意識から発生する特殊なエネルギーの波動だ。お前が無意識に裂け目を修復できたのも、この想波の力が働いたからだ。だが、その制御が不安定だと、逆に裂け目を広げたり、悪化させる可能性もある。」

真弦はジンの話に耳を傾けながら、目の前の力について徐々に理解を深めていたが、まだその全容が掴み切れず、困惑していた。

「そんなこと言われても、正直どうすればいいのかよく分からないよ。具体的には何をすればいいんだ?」

その問いに対し、明日香が一歩前に出て、真弦を見据えながら言った。

「明日の夜明け前に西区画のアーケード廃墟へ行きましょう。あそこなら、他に誰もいないし、想波の制御を練習するには最適な場と思う。」

ジンもその提案に頷き、同意を示した。「そうだな。あそこは過去に大きな磁場変動が記録された場所でもある。裂け目が生じやすい環境だから、想波の実験にはうってつけだ。」

真弦は不安と期待が入り混じった表情で二人を見つめ、「…分かった、行ってみよう」と頷いたが、まだ内心の動揺が完全には収まらない様子だった。それでも、彼の心の奥底には、自分の力を少しでも理解し、制御できるようになりたいという決意が静かに芽生え始めていた。

2章3節

次の日の早朝、まだ夜明け前。真弦と明日香はレムスフィアに位置を指定し、その案内に従いながら都市エデンの中心から少し外れたアーケードの廃墟に向かっていた。青白い光を放つレムスフィアが、淡々と行き先を指し示し、二人を先導する。

やがて目的地に近づくと、かつてはネオンで輝いていたアーケードが姿を現した。今やその華やかさは失われ、店のシャッターは錆びつき、ひび割れたガラス窓が無人の空間を物語っている。暗闇に沈む廃墟には、かつての賑わいが静かに影を落としていた。

風が廃墟の中を通り抜け、微かにうねる音が遠くから響いてくる。真弦は、わずかに胸の奥に不安を覚えながら、レムスフィアの光に照らされる足元を見つめた。

「ここなら、誰にも邪魔されずに実験ができるだろう。」

ジンは無表情のまま、手にした装置を慎重に確認しながら言った。その様子に少し緊張しながらも、真弦は周囲を見回し、不安そうな表情を浮かべる。

「こんな時間にやるんだな…。夜明け前の廃墟なんて…正直、不気味なんだけど。」

冷たい風が廃墟を吹き抜け、辺りに静かな寒気が漂う。真弦は背筋がぞくりとするのを感じた。

「時間と場所を選ぶ理由があるんだ。」

ジンは装置を調整しながら淡々と説明を始める。

「ここは過去に強い磁場変動が記録されている。この変動は裂け目と関連があるとされていて、特に感情の共鳴が影響を受けやすい。しかも、この時間帯――薄明時(はくめいどき)には、地磁気が特殊な変動を起こし、想波の力が強くなる。つまり、この場所は裂け目が発生しやすいポイントなんだ。」

「薄明時…?」真弦が訝しげに聞き返す。

「夜明け前や夕暮れ時のことよ。この時間帯は地磁気の影響が特に強くなるの。想波を制御するためには、そのエネルギーを逆手に取るのが効果的なの。」

明日香が真弦に優しく説明する。

「磁場変動と想波…それがどう関係してるんだ?」

真弦が疑問を投げかけると、ジンはモニターを指さして答えた。

「感情エネルギーや精神波動は量子レベルで作用する。この廃墟の地磁気異常は、それらを増幅させる働きを持っているんだ。言い換えれば、裂け目の出現を促進する環境が整っているということ。だから、ここでの実験は感情の共鳴と裂け目の制御をテストするために最適な場所なんだよ。」

「よくわからないけど、とりあえずこの時間がベストなんだな。で、具体的にどうやって想波を制御するんだ?」

真弦が疑問を口にすると、ジンは冷静な表情で答えた。

「まずは、お前のレムスフィアの力を使うんだ。レムスフィアはただのサポートAIじゃない。お前の想波を感知し、増幅して制御を助ける装置でもある。」

真弦は驚き、肩に浮かぶレムスフィアに視線を向けた。

「レムスフィアが、俺の想波を…?どうやってそんなことができるんだ?」

ジンは淡々と説明を続ける。

「レムスフィアはお前の感情の波を感じ取り、想波を増幅させる仕組みだ。だが、もし感情が乱れると、そのまま裂け目を悪化させる可能性もある。そのリスクも忘れないでおけ。」

「じゃあ、裂け目を暴走させないためには、具体的にどうすればいい?」

真弦が少し不安げに尋ねると、明日香は優しい眼差しで彼を見つめ、穏やかに答えた。

「大丈夫、真弦。あなたがレムスフィアを通して増幅した想波を、私がそばで整えているの」

明日香はそっと彼の肩に手を置き、彼を安心させるように続ける。「あなたの想波と私の想波、どうやら波長が合うみたい。だから、あなたの想いが不安定になっても私が共鳴して、ちゃんと安定させられるのよ」

真弦は少し照れくさそうに目をそらし、頬がわずかに熱くなるのを感じた。この状況の中で、彼の中に少し柔らかな気持ちが生まれるとは思ってもいなかったが、明日香の言葉は、どこか彼の不安を和らげてくれる。

「だから、安心して。私がいるから、真弦は自分の想いをそのままぶつけてくれていいの」

明日香の微笑みがじんわりと彼の心を包み込み緊張が少しずつほどけていく中、真弦は彼女の言葉に耳を傾けながらもふと疑問が湧いてきた。

「君は…どうして、俺を助けてくれるんだ?裂け目やこの都市の異変に巻き込まれるなんて、普通なら避けたくなるはずだろう。」

真弦の問いに、明日香は少し驚いたように目を見開いた後、柔らかく微笑んだ。

「確かに、普通ならこんな状況からは逃げたくなるかもしれない。でもね、私は逃げることができないの。あなたが…”何か”を持っているから。」

「何か?」

真弦は戸惑いの表情を浮かべる。

「そう。あなたの中にある力、それは想波だけじゃない。きっと、あなた自身がまだ気づいていない“何か”を持っているの。その“何か”が、この世界を救うかもしれない――少なくとも、私はそう信じてる。」

彼女の言葉には、確信と切実な願いが込められていた。真弦は少し戸惑いながらも、彼女が自分に期待しているものが何なのかを考えずにはいられなかった。

「でも、どうしてそこまで俺を信じるんだ?ただ、裂け目を消せるからってだけじゃないだろう?」

その問いに、明日香は一瞬目を伏せ、まるで遠くを見つめるように静かに答えた。

「私もね、この裂け目と何か関わりがあるの。それが何なのか、まだはっきりとはわからないけれど、あなたと一緒にいれば、その答えにたどり着ける気がしてるの。だから、あなたのそばにいるのは、自分自身のためでもあるのよ。」

彼女の瞳には、決意とどこか儚げな輝きが見えた。真弦は、その言葉に共感を覚え、彼女の存在が自分にとってただの協力者ではないことに気づき始めていた。

「そっか…。君も、答えを探してるんだな。」

明日香は小さく頷き、穏やかに微笑んだ。

「そう、だからお互いに助け合っていきましょう、真弦。」

その瞬間、二人の間に以前よりも強い絆が生まれたような感覚が広がった。彼らはそれぞれの目的と謎を抱えながらも、共に進むことを決意し、裂け目に立ち向かう準備を整えた。

「来たか…」

ジンが低くつぶやいた瞬間、空気がひんやりと冷たくなり、廃墟に不気味な振動が響き渡った。天井の崩れた部分から黒い亀裂がゆっくりと広がり、周囲の空間が歪んでいく。裂け目が現れた途端、真弦の肩に浮かぶレムスフィアが静かに動き出し、裂け目の方を向いた。いつもは彼の側を漂うように浮かぶレムスフィアが、その青白い光を微かに揺らめかせながら、じっと裂け目に向かっている。


「感情の乱れを感じるか?しっかりと意識を集中させろ。」

ジンの指示が響く。真弦は自分の心を落ち着け、裂け目を閉じようと意識を集中する。すると、彼の肩に浮かぶレムスフィアがふわりと青白い光を強め、真弦の想波に共鳴するかのように光の波動を裂け目に向かって放ち始めた。

しかし、真弦の中に一抹の焦りが広がり、想波が不安定になる。彼の心の乱れに呼応するかのように裂け目が再び広がり始め、焦りが募るほどに空間がさらに歪みを増していく。

「大丈夫、落ち着いて」

明日香がそっと真弦の手を握り、穏やかな声で励ます。彼女の温かな手が伝わり、真弦はわずかに心が安定していくのを感じた。

だがその時、裂け目はさらに拡大し、空間の歪みが強まった。そして、裂け目の奥から《影》がゆっくりと現れた。レムスフィアがその瞬間に反応し、青白い光から緋色の光へと変わって輝き出す。影に向けられたその緋色の光は、まるで彼の内面の恐怖や不安を映し出すように、深く燃えるような色で揺れていた。

その影は、揺らめくように形を変えながら、じっと真弦を見つめている。真弦はその視線に捕らえられ、言葉にならない恐怖が胸の奥で膨れ上がるのを感じた。

真弦はその異変に驚きつつも、視線を影から離せない。

「お前...何なんだよ…!」

真弦が掠れた声で問いかけると、影がわずかに揺らぎ、かすかな声が彼に届く。

「ミツ…ル…」

影からかすかな声が聞こえた。その瞬間、真弦の内面に突然断片的なイメージが走る。

――まだ幼い自分が、誰かの手を握っている。目の前には柔らかな光が差し込み、その手は小さくて温かい。だが、相手の顔はぼやけていて、見覚えがあるはずなのに記憶から抜け落ちているようだ。ふと、誰かが優しく微笑みかける――女性の影が、そこにいた。

「この記憶…誰なんだ…?」

真弦は歯を食いしばり、何とかして力を引き出そうとするが、感情が安定せず、裂け目を押し返すことができない。影は再び裂け目の中に消え、その直後に裂け目が激しく揺らぎ始めた。

「真弦、聞いて…」

明日香はそっと彼の肩に寄り添いながら、優しい声で諭すように語りかけた。

「焦らないで。大丈夫だから、私はここにいる。私を信じて、ゆっくりでいいの。」

その声に導かれるように、真弦は深呼吸をし、過去の不安や恐怖を抑え込もうと努めた。少しずつ裂け目が収縮し始め、最終的には完全に消滅した。廃墟に静けさが戻る中、ジンはその様子を冷静に観察していた。

「よくやった。だが、まだ不安定だ。感情のブレが裂け目に直接影響する。次はもう少し感情のコントロールを強化する必要がある。」

ジンの言葉に、真弦はさらなる試練を予感しながらも、この先に何が待ち受けているのかを確信できない不安を感じていた。

2章4節

その日の午後、都市エデンのカフェ「サイレントブリュー」は、静けさに包まれている。窓から差し込む穏やかな光が、木々の影を床に描いていた。テーブル席でコーヒーを楽しむ真弦、リョウ、そしてアイリの三人。いつも通りの風景の中、アイリが真剣な表情で口を開いた。

「真弦…昨日の図書館でのこと、あれは一体何だったの?」

彼女の声には疑問と不安が滲んでいる。真弦はアイリの視線を受け止め、少しの間黙って考えた後、意を決して口を開いた。

「あの時、裂け目を消すために『想波』という力を使ったんだ。これは俺の感情や意識がエネルギーになって発動するものなんだけど…実は、まだ自分でも完全に理解できていないんだ。」

リョウは驚いた表情で真弦を見つめた。

「想波?感情がエネルギーになって裂け目を消す?そんなの、現実とは思えないけど…真弦、本気で言ってるのか?」

「俺も最初は信じられなかった。でも、ジンっていう技術者と出会って、彼に色々教えてもらったんだ。裂け目は歪みとして、この都市全体に広がっていて、俺たちの感情がそれに影響を与えているらしい。それに、想波がうまくコントロールできないと、逆に裂け目が拡大してしまうんだ。」

アイリはしばらく考え込んだ後、真剣な目で彼を見つめた。

「じゃあ、あなたが裂け目を消すことができたのは、あの力を使ってたからなんだね。でも、そんな力どうやって?」

「正直、俺にもよくわかってないんだ。ただ、裂け目が出現した後、レムスフィアが反応して...感情を強く集中させたら自然に発動する。でも、まだ安定して使えるわけじゃない。」

リョウは少し肩をすくめ、冗談めかした口調で言った。

「まさか、お前がそんな超能力者みたいな力を持ってるとはな。でも、それが本当に都市を救う手がかりになるなら、全力で協力するしかないかもな。」

アイリも軽く笑みを浮かべたが、その瞳には深い不安が残っている。

「想波が感情に影響されるなら、もっと安定させる方法を見つける必要があるよね。私たちも手伝えることがあったら言ってね。」

真弦は二人の言葉に感謝しながらも、自分が背負う責任の重さを改めて感じていた。裂け目と想波、そして彼がまだ見えていない「何か」。その全てが複雑に絡み合い、都市全体に影を落としていることを感じ取っていた。

その時、アイリのレムスフィアがホログラム映像を浮かび上がらせ、ニュース映像が映し出された。深刻な表情のニュースキャスターが映し出され、報道が続いていた。

「市内各所で空間に異常な変化が確認されています。周辺では建物が歪むといった現象が現れるといった報告が増加しており、専門家が原因を調査中です。」

ホログラムには、歪んだビルやねじれた道路が映り、不安そうに周囲を見渡す人々の姿が確認できた。アイリは息を飲み、ホログラムを見つめ続けている。真弦もその異様な光景に違和感を覚え、都市そのものが静かに崩れていくような不安が胸の奥に広がっていくのを感じた。

リョウはホログラムに映るニュース映像をじっと見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「これも、やっぱり裂け目のせいだよな。」

リョウが肩をすくめると、アイリも不安げな表情で呟いた。

「裂け目が出た場所って、いつも周りの空間が歪んでるよね。ニュースで見る度に思うけど、現実そのものが壊れていくようで怖い…」

真弦は一度ホログラムに映る映像から視線を外し、カップをテーブルに置きながら冷静に答えた。

「裂け目が人間の感情にも作用してる。不安や恐怖が次元の歪みを生んで、裂け目が発生しているみたいなんだ。逆に、感情を安定させれば裂け目も安定させられる。ジンがそう言ってた。」

アイリは目を見開き、真弦に詰め寄った。

「え…それじゃあ、私たちの不安とかが影響してるってこと?」

「その可能性はあるな。でも、だからと言って感情を抑えるなんて無理だろ。誰だって怖いもんは怖いし、不安になるのも当然だ。」

真弦の淡々とした言葉に、リョウは苦笑を浮かべながら肩をすくめた。

「お前がそれを言うと、余計に説得力があるな。…けど、まあ無理だけはすんなよ。」

ニュースキャスターの声が再び耳に届いた。

「しかし、この危機に立ち向かう希望の存在もあります。それは、この裂け目を閉じるために立ち上がった一人の青年です。市民の間では、彼が次々と裂け目を封じているという報告が相次いでおり、多くの人々が彼の行動に感謝と敬意を示しています。」

映像は図書館の中へと切り替わり、司書のナオさんが笑顔でインタビューを受けていた。

「彼には助けてもらいました。裂け目が図書館に現れたとき、私はパニック状態でした。でも彼は落ち着いて対応してくれて...彼がいなかったら、図書館も大勢の命もどうなっていたか…本当に感謝しています。」

ホログラムの中でナオさんが微笑む姿を見て、リョウは目を細めて感心したように呟いた。

「…これ、真弦のことだよな。」

アイリも静かに頷きながら、ホログラムに映るナオの笑顔を見つめていた。

「本当に、頼りになるよね、真弦ってさ。裂け目なんて普通じゃ近寄れないのに、いつも平然としてる。」

リョウは真弦の顔を見やりながら、口元を緩めて言葉を続けた。

「頼もしい限りだよ、全く。俺には絶対真似できないことだな。」

真弦は二人の言葉を受け流すように静かに視線を外し、窓の外に目を向けた。いつもと変わらない冷静な表情だが、その奥にはどこか静かな覚悟が宿っているようだった。

リョウがふとその様子に気づき、軽く肩を叩いた。

「ま、これからも無理しすぎるなよ。お前が倒れたら、困る人間が山ほどいるんだからさ。」

アイリも柔らかい笑顔で真弦を見つめながら付け加えた。

「そうそう。頼りにしてるんだから、ちゃんと頼り甲斐のあるところを見せ続けてよね。」

その言葉に、真弦は小さく息をついて応じた。

「…俺にできることをやるだけさ。それだけだよ。」

その冷静で淡々とした返答に、リョウとアイリはどこか安心したように顔を見合わせた。

リョウはコーヒーを飲みながら、ふと思い出したように声を上げた。

「そういや真弦、このカフェに通ってるの、ちょっと多すぎないか?下手したらもうオーナーのケイさんから店員認定されてるんじゃねぇの?」

アイリはその言葉に吹き出し、すかさず突っ込んだ。

「リョウ、そういうあんたも同じくらい来てるけどね。むしろ、真弦のほうがカフェに馴染んでるし。リョウが店員やったら、絶対お客さんと喧嘩になるでしょ。」

リョウは大げさに肩をすくめ、作り笑いを浮かべながら答えた。

「おいおい、俺が接客下手とか心外だな。むしろ俺が店長だったら、真弦とアイリを雇って、俺は悠々自適なポジションにつくぜ。」

その冗談に、アイリは目を細めて冷たい声で返す。

「リョウが店長?お客さんが『この店、潰れそうだから他に行こう』って思うのがオチだね。」

リョウはその言葉にショックを受けたような素振りを見せ、胸に手を当ててオーバーに言った。

「なにぃ!そんな冷酷なこと言うか、アイリ!?」

すると、真弦がぽつりと口を開いた。

「…まぁ、確かにリョウが店長だと俺も通うのを考えるかもな。」

リョウは驚いて真弦を指差し、大声で抗議した。

「お前までかよ!なんでだよ、俺の才能をもっと信用してくれよ!」

その様子に、アイリは腹を抱えて笑い出した。

「才能?接客業に必要なのはね、リョウみたいなトラブルメーカーじゃなくて、真弦みたいな冷静な人間なの!」

真弦はアイリの言葉に軽く肩をすくめ、レムスフィアのトワが静かに会話に加わった。

「リョウさま、データ上、接客業に必要なスキルにおいて、真弦さまの方が適性が高いと判断されます。」

リョウは机に突っ伏しながら、悔しそうに唸った。

「トワまで俺を攻撃するのかよ!おい、俺の味方はいないのか!」

アイリはそんな彼を見下ろしながら肩をすくめた。

「いると思う?…ほら、次はお客さんが来たらどう接客するかのシミュレーションでもやってみたら?」

リョウの不貞腐れた表情に、真弦も小さく笑いを漏らした。その和やかな空気に、裂け目の話題がいつの間にか薄れていたことに、三人は気づかなかった。

2章5節

リョウやアイリと別れた後、夕暮れが街を包む頃、真弦は裂け目の影響が残っているという場所へ向かうために、事前に明日香と合流することにした。合流場所は街の端にある静かな広場。柔らかなオレンジ色の光が広場に差し込み、周囲は静寂と夕方の冷ややかな空気に包まれている。人通りは少なく、広場に到着すると、夕陽を背にした明日香の姿が目に入った。

「真弦、来てくれてありがとう。準備はできてる?」

明日香の声が静かに響き、彼女の優しい笑顔が夕陽に照らされている。その一言で、真弦の中にあった緊張が少しほぐれるのを感じた。

「いや、正直まだ緊張してるよ。でも…明日香が一緒なら、なんか大丈夫な気がするよ」

そう言って少し照れ笑いを浮かべると、明日香はその笑顔に応えるように目を細め、微笑んだ。その微笑みが彼の心に温かな余韻を残す。

「そう感じてくれるのは嬉しいわ。私も、真弦がそばにいてくれるから安心できるの」

明日香が小さく囁くように言ったその言葉に、真弦は不思議と心が満たされるのを感じた。彼女が隣にいることで、これから向かう未知の場所への不安が少しずつ和らいでいく。

並んで歩き出した二人は、夕焼けに染まる街並みを眺めながら静かに会話を交わし、裂け目の影響が残るエリアへと足を進めていった。ふと、明日香が遠くを見つめるように目を細め、柔らかな声で呟く。

「夕陽が綺麗ね…」

その横顔が夕日を受けて少し赤みがかった光に照らされ、儚げでどこか物憂げな表情を浮かべているのが印象的だった。真弦はその一瞬に見とれながらも、口を開く。

「…そうだな。こんな夕焼け、久しぶりに見た気がするよ」

二人の間に漂う穏やかな空気が、夕焼けの色とともに染み渡っていく。互いに少しずつ意識し合うように歩み寄りながら、影を並べて街の奥へと進む彼らの姿は、まるで静かに重なり合う心の距離を映し出しているかのようだった。

二人の間に漂う穏やかな空気が、夕焼けの色とともに染み渡っていく。互いに少しずつ意識し合うように歩み寄りながら、影を並べて街の奥へと進む彼らの姿は、まるで静かに重なり合う心の距離を映し出しているかのようだった。

「この街、今は見た目には変わらないように見えるけれど…空間の違和感が確実に大きくなってきてる気がするんだ。まるで感情も引っ張られて、不安定になってるみたいで…」

真弦は自分の中に芽生えている不安を言葉にしながら、ちらりと明日香を見た。彼女は穏やかに微笑んでいるが、その瞳には深い決意と、わずかに影を落としたような光が浮かんでいる。

「私も同じことを感じてるわ。裂け目が現れた場所の周りって、何かが『ずれてる』みたいな感覚があるのよね。空間だけじゃなく、私たち自身の気持ちまで揺さぶられるような…。」

明日香の言葉は落ち着いているが、その奥には隠しきれない不安が滲んでいた。

「感情って、私たちの力の源でもあるけど、時にはその揺れが大きな影響を与えることもあると思う。特に裂け目が現れる場所では…私たちがどれだけ冷静でいられるか、それが鍵になるんじゃないかしら。」

真弦は彼女の真剣な表情を見つめながら、短く頷いた。

「冷静でいるのか…それって簡単じゃないな。実際に裂け目の前に立つと、どうしても感情が揺れる。でも、それを制御しなきゃいけないのか。」

「でも、真弦ならできるわ。」

明日香のその一言が、静かに真弦の心に響いた。彼女の信頼が彼に勇気を与え、少しだけ肩の力が抜けた気がした。

二人は話しながら、ジンに指定された場所へと静かに歩を進めていた。辺りは沈みかけた夕陽に染まっているが、薄暗いビルの間に差し込む光はどこか不安定な雰囲気を漂わせている。真弦と明日香は少し緊張しつつも、互いに励まし合いながら、指定された場所へと向かう。

人気のないアーケード街に到着してしばらく待っていると、遠くから足音が近づいてきた。見上げると、ジンが手にホログラム端末を持ちながら現れた。彼は軽く手を挙げて声をかける。

「待たせたな。さっそくだが、裂け目に関連する重要な話をしておきたい。」

ジンは立ち止まると、ホログラム端末を操作し、都市の地図を浮かび上がらせた。地図には、過去に裂け目が発生した地点が赤い点で示されている。

「裂け目が現れる場所には共通点がある。それは『歪み』だ。」

「歪み?」

明日香が尋ねると、ジンは頷きながら続けた。

「簡単に言うと、空間が不安定になっている状態だ。この歪みがある場所は、想波、つまり人々の感情や意識に大きな影響を受けやすい。そして想波が強く揺れ動くと、歪みがさらに拡大し、裂け目が生じる。」

「じゃあ、裂け目が生まれるのは俺たちの感情のせいだってことか?」

真弦が冷静に問いかけると、ジンは少し間を置いて答えた。

「それだけじゃない。感情がきっかけの一つではあるが、もっと根本的な原因があるはずだ。ただ、感情が裂け目に直接作用しているのは確かだ。特に薄明時、つまり夕暮れや夜明けの時間帯は想波が増長される。だから、この時間は歪みが強くなりやすい。」

「薄明時か…たしかに裂け目が現れるのは、その時間が多い気がするな。」

真弦が頷きながら言うと、明日香が続けた。

「感情が空間に影響するなら、私たちがどれだけ冷静でいられるかが重要になるわね。でも、それだけじゃ解決しない。歪みそのものを取り除く方法が必要よ。」

ジンはホログラムを閉じながら答えた。

「その通りだ。裂け目を閉じても、歪みが残れば同じことが繰り返される。もっと情報を集めて歪みの根本を突き止める必要がある。」

真弦はジンの言葉に深く頷きながら、ふと頭を過ぎるものがあった。裂け目の「原因」という言葉を聞いた瞬間、これまで感じていた《影》の存在が、それと無関係ではないような気がしたからだ。

裂け目が現れるたびに、真弦は妙にリアルな《影》を目にしていた。それはただの幻覚ではなく、まるで彼に何かを訴えかけるように漂っていた存在だ。その影が見えるたび、彼の中でどこか焦燥や不安が増幅され、感情が不安定になっていたことに気づく。

「裂け目の原因って聞いて、少し思い当たることがあるんだ…」

意を決したように、真弦は口を開いた。

「実は裂け目が現れるたびに妙な《影》を見ているんだ。その影が俺に何かを伝えようとしてるような気がして。見えた瞬間、気持ちがざわついて、自分でも制御できない感情が溢れ出すんだ。」

明日香はその言葉に反応し、眉をひそめながら真剣な表情で問いかけた。

「影…?どんな影なの?」

真弦は、記憶の断片を思い出すように目を閉じた。

「ぼんやりとしたシルエットだけど、女性だって感じる。声も聞こえたんだ、俺の名前を呼ぶような…その声、どこか懐かしいんだ。でも、はっきりとした姿は見えなくて、顔も思い出せない。ただ…幼い頃の記憶の中に、その人がいる気がするんだ。」

ジンは興味深そうに真弦の話を聞いていたが、口元に手を当てて何か考え込む様子を見せた。

「影が具体的な形を持つってことは、単なる幻影じゃないかもしれないな。感情や記憶が影響して具現化している可能性が高い。それに、裂け目と一緒に現れるってことは、影も裂け目と密接に関係してるんだろう。」

「具現化…。」

真弦はジンの言葉を反芻し、さらに思いを巡らせる。

「それじゃあ、影が現れるたびに俺が感じるこの不安は、その影の持つ感情が俺に影響を与えてるってことか?」

明日香が、ジンの言葉を受けて補足するように話し出す。

「感情や記憶は、裂け目や歪みと強く結びついているっていうのは、私たちも理解してきた。でも、その影が何を伝えたいのか…そこがまだ不明瞭ね。もしかしたら、影はあなたに何かを思い出させようとしているのかも。」

真弦はその言葉に反応し、思い出せない記憶の断片が心の中でざわつく感覚を覚えた。

「確かに…あの影は、俺に何かを訴えているようだった。けど、そのメッセージがまだ分からない。」

ジンは真弦をじっと見つめた後、装置を再び調整しながら続ける。

「影は、お前の深層意識に隠された記憶かもしれない。それが裂け目を通じて顕在化しているとしたら、お前自身がその記憶を解きほぐさない限り、影の正体も裂け目の謎も解けないだろう。」

「それって、俺がもっと自分の感情に向き合う必要があるってことか?」

真弦は戸惑いながらも、自分自身に問いかける。

「そうね。」

明日香は優しく頷いた。

「影や裂け目に対処するためには、感情の深層に潜むものを引き出し、しっかりと向き合うことが必要になるわ。でも、そのためには私たちも一緒に支え合わないと…感情の乱れが裂け目をさらに不安定にするリスクがあるから。」

「要は、影を追い払うだけじゃダメってことだ。自分自身と向き合う覚悟がなければ、裂け目を制御することも難しいだろう。」

ジンは冷静な口調でこういった。

真弦はふと立ち止まり、目を閉じて深く息を吸い込む。影と向き合うことで、今まで見えなかったものが見えてくるかもしれない。その一方で、幼少期の記憶に触れることで、さらなる不安や葛藤が生まれることも予感していた。

「わかった。まずは、自分の感情に向き合ってみるよ。」

真弦は決意を固め、ジンと明日香に目を向けた。

2章6節

真弦は自宅に戻った。ソファに身を沈めると、しばらくそのまま動けずにいた。部屋の静けさの中で、頭の中にジンと明日香の言葉が反芻される。「感情が空間に影響を与え、裂け目が現れる。」自分自身の内面がこの世界にどれほどの影響を及ぼしているのか、その実感が少しずつ湧き上がってくる。

部屋の窓から見える都市の夜景は、依然として整然と輝いている。高層ビル群がきらびやかに光を放ち、完璧に管理された都市エデンの姿を映し出している。しかし、真弦の目にはその風景がどこか歪んで見えた。空間の揺らぎが、まるで見えない波紋のように街全体を覆っているような感覚が、彼の心をざわつかせる。

ぼんやりと天井を見つめていると、意識が次第に遠のき、頭の奥から断片的なイメージが浮かび上がってきた。――まるで霧の中を漂うように、幼少期の記憶が不意に押し寄せる。

薄暗い部屋の中、小さな自分が誰かの手を握りしめている。優しい日差しがカーテンの隙間から差し込み、その光の中で握られている手は小さく、温かい。けれど、その手の持ち主――女性の姿はぼやけていて、はっきりと顔を思い出すことができない。真弦は必死にその顔を思い出そうとするが、記憶はかすれていて、まるで遠ざかる幻のように掴みきれない。

「真弦…」

ぼんやりとした女性の声が耳元で囁く。その声は、裂け目の中で聞いた《影》の声と同じだった。甘く切ない響きが胸を締め付け、彼の中に何か大切なものを失った感覚を呼び起こす。

「お前は一体、誰なんだ…?」

真弦はその言葉を自問しながら、胸の奥で強烈な不安が広がるのを感じた。記憶は断片的で、明確な形を持たないが、それでも確かに自分の過去に深く関わっていることは間違いない。影、記憶、そして都市に漂う歪みと裂け目――すべてが何かしらの形で繋がっている。

ソファに身を預けたまま、真弦は目を閉じて深く息を吐いた。自分の中で何かが軋むような感覚を覚えながらも、次に訪れる不穏な未来を予感していた。

真弦が胸のざわつきを感じながら目を閉じたその時、頭の奥から再びあの《影》の声が聞こえてきた。低く、かすれた声が、まるで霧の中から呼びかけるように囁く。

「…真弦…聞いて…」

突然耳に響くその声に、真弦はハッと目を開けた。だが、視界に映るのは自宅の天井と無機質な光景だけで、周囲には誰もいない。にもかかわらず、その声ははっきりと続けていた。

「裂け目は...私の...」

声は途切れ途切れで、ところどころしか聞き取れない。それでも、影が何かを必死に伝えようとしていることは明白だった。真弦は恐怖を感じながらも、心を落ち着けてその言葉に耳を澄ませた。

「…彼女から...離れ...で」

影の声はかすれて聞こえにくいが、その中には焦りと懸念が込められているようだった。裂け目の不安定化がさらに進行し、次に何か大きな異変が起こることを暗示しているのかもしれない。

「気...付けて...裂け目が...もっと…強く…」

影の言葉が終わると、真弦の頭の中に冷たい風が吹き抜けるような感覚が残った。部屋は静寂に戻り、声も消えてしまったが、その言葉は彼の心に強く残る。

「裂け目が強くなる…?」

自分の言葉に驚き、彼は息を飲む。

「まさか…次の裂け目が、もっと危険なものになるってことじゃないのか?」

真弦は立ち上がり、額の汗を拭いながら考え込んだ。影は確かに警告を発していた。次の裂け目が現れる時、これまで以上に強い感情の揺らぎと、それによる現実の崩壊が予測される。感情をコントロールできなければ、すべてが裂け目に巻き込まれる可能性がある。

「くそ...俺に…できるのか…?」

自問しながらも、次に迫りくる不安と恐怖を抱えたまま、真弦は次の行動に備えようと心を決めた。

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