九陽-1部
@XinRen
第1章
***
遠い昔の記憶が、霧の中でぼんやりと揺れている。
彼の手を握っていた幼い頃の私は、ただその温かさだけを頼りに、確かな現実を求めていた。
今、私はこの場所に漂うだけ。
彼が歩むこの道に、どれだけの困難が待ち受けているのだろう。
記憶の片隅で眠っていた感情が、今になって彼を引き戻そうとしている。
彼が思い出すべき何かを、ずっと待っている…裂け目が彼を引き裂く前に。
***
1章0節
薄暗い部屋の中で、静寂を引き裂くように、
夢の中、彼の手のひらには誰かの手が握られていた。その手はどこか懐かしい温もりを帯び、触れるだけで心が落ち着くような感覚があった。その温もりは幼い頃に感じたものであり、どれだけ月日が経とうと忘れることのない、深い安堵感を伴っていた。しかし、その手が誰のものかを思い出そうとすると、顔も名前も霧の奥へと隠れ、記憶の端でぼやけて消えていく。どれだけその存在に触れようと試みても、まるで指の隙間から砂が零れ落ちるように、すべては虚ろにすり抜けていくのだった。
真弦はその断片を掴み取ろうと、もう一度記憶を手繰ろうとするが、現実の意識が徐々に彼の思考を引き戻し、夢はかすかな残像だけを残して霧散していく。完全に目が覚めた時、心の中にはぽっかりと空いた虚無感と、何とも言えない寂しさが広がっていた。
1章1節
2272年の朝。未来都市「エデン」の一角、静かな個室の中で、真弦は睡眠カプセルの中で目を覚ます。カプセルの中は、完全に外界と隔離された環境だ。薄いブルーの光が穏やかに広がり、彼の生体リズムに合わせて徐々に明るくなる。カプセル内部は、外の喧騒や光を全て遮断し、快適な睡眠を約束する、理想的な睡眠空間だ。
彼が横たわっているマットレスは、彼の体温や姿勢に応じて自動的に形を変え、ちょうど良い硬さと柔らかさを提供している。首元を支える枕も、体圧を完璧に分散し、彼の眠りを最大限サポートするように設計されている。周囲には微かに香る、リラックス効果を持つアロマが漂い、すべてが彼に最適化された環境だ。
しかし、その完璧さとは裏腹に、目覚めた瞬間、真弦の胸に広がるのは、いつもと同じ違和感だった。どれだけ理想的な環境が整っていても、この空虚な感覚は消えない。無音の静けさが、かえって彼の心の中にぽっかりと空いた孤独を強調しているように感じられる。
真弦はカプセルの天井をぼんやりと見つめた。視界には淡いブルーの光が揺らめき、周囲を包み込んでいる。その光はまるで夢の残像のように、触れられそうで手の届かない場所に漂っている。彼は手を伸ばしてみたが、そこにあるのはただの空虚。温かい感触を求めて伸ばした指先は、冷たい空気を掴むだけだった。
「また、あの夢か…」
小さく呟くと、その言葉は無反応なカプセルの中に吸い込まれていく。夢の中で感じた温もり、それは一体誰の手だったのか。その人物の顔も名前も、どうしても思い出せない。だが、それが非常に大切な存在であることだけは、心の底で確信していた。
真弦がゆっくりと体を起こし、カプセルの側面に手を当てると、内部のスクリーンに今日の予定が自動的に映し出された。フルカラーで表示される日程表は、まるで効率的に管理された生活を象徴しているかのようだが、彼にとってそれはどこか機械的で無味乾燥に思えた。
「…いつも通り…幸せそうな予定だな」
彼はつぶやき、いつも感じるこの違和感に苛立ちを覚えながらも、それが何なのか分からず、ただ漠然とした不安を抱えたまま、朝の準備を始める。都市エデンの完璧なシステムの中で生活していても、この違和感だけは決して拭えない。まるで、自分が本来いるべき場所ではないかのような感覚。それが、真弦の心に深く根を下ろしていた。
真弦がカプセルを出て部屋に立つと、肩の後ろで浮遊していた小さな球体、レムスフィアが静かに動き始めた。球体から穏やかな声が耳元で響く。
「おはようございます、真弦さま」
それは彼のAIアシスタント、トワの声だ。レムスフィアは現代の人々にとって生活の基盤とも言える存在で、ほぼ全員が所持している小型の浮遊型デバイスだ。家の中でも街中でも、持ち主の近くに浮遊し、絶えず情報を提供したりサポートを行ってくれる。レムスフィアは、単なる便利な道具ではなく、健康管理、スケジュール管理、支払い、道案内など、日々の生活に必要なあらゆる機能が集約された「生活の相棒」としての役割を果たしている。
「おはよう、トワ」
真弦が返事をすると、レムスフィアに内蔵されたトワが、昨夜の睡眠データに基づいて体調とスケジュールについて丁寧に伝えていく。透明なホログラムディスプレイが視界に浮かび、今日の計画が映し出される。
「昨夜は良質な睡眠が取れました。今日の栄養摂取バランスを基に、朝食には特定のアミノ酸を多めに含むキューブを準備します。また、午後には軽いエクササイズを推奨します。気分の安定に最適です」
「あぁ、ありがとう」
真弦は曖昧に頷きながら、カーテンが自動で開いていくのを見た。窓の外には、整然と並ぶ高層ビル群が広がり、その間に緑豊かな庭園が広がっている。人工的に設計された樹木や草花が、見事に整備され、まるで緻密に配置されたパズルのピースのように完璧に調和している。
人々にとってレムスフィアは、個人のデータを管理し、毎日の生活を支える「個人アシスタント」としての役割が大きい。外出先でも道案内をしたり、重要な通知を見逃さないようにしてくれるだけでなく、彼らのライフスタイルに合わせて常に最適な提案を提供することで、生活そのものが合理的かつ快適になるようにサポートしている。
その景色は、一見すると自然と人工が見事に共存する理想郷のようだが、真弦にはどこか冷たく無機質に感じられた。
「美しい景色ですね」
トワの声が彼の感想を代弁するかのように問いかけてくる。真弦は一瞬言葉を探したが、結局「うん、そうだね」と短く答えるだけだった。
真弦が部屋を出ると、ドアが無音で閉まり、室内の照明が彼の背後でゆっくりと消えていく。廊下に出ると、温度や湿度が瞬時に変わり、彼にとって最も快適な状態へと自動調整された。微かな風が彼の髪を揺らし、肌に触れる空気は絶妙な温かさを保っている。都市全体が彼の存在に応じて変化しているかのような精巧さだ。
シャワールームに入ると、照明が自動で彼を包み込むように灯り、彼の動きを感知してシャワーシステムが起動する。真弦が温度を指定する前に、システムは彼の体温や皮膚感覚を読み取り、最適な水温と水圧を設定している。彼が一歩前に進むと、細かなミスト状の水が肌を優しく包み込み、心地よい温もりが広がった。
水は分子レベルでカスタマイズされ、彼の肌に必要な栄養素と保湿成分が緻密に配合されている。その感覚はまるで霧の中を歩いているようで、体の芯からリフレッシュされるような爽快感をもたらした。シャワーの終わりには、心拍数と脳波を分析し、必要なリラクゼーション効果を加える蒸気が放たれる。全てが完璧に計算され、真弦にとって理想的な朝の始まりを提供する。
「これで今日も一日、最高のコンディションが保てます。」
トワの声がそう告げるが、真弦はどこかで「違う」と感じていた。すべてが過剰に整えられているような違和感――それは、完璧すぎる環境がかえって彼の心に空虚さをもたらしているかのようだった。
リビングルームに戻ると、すでに朝食が準備されている。テーブルの上には、小さなキューブ状の結晶体が並べられていた。トワが彼の好みと栄養バランスを考慮し、その日の体調に合わせて最適な味覚を再現したものだ。真弦はキューブを口に入れ、優しい甘さと微かな酸味を感じながら、ゆっくりとその味を噛みしめた。
「今日は、昔好きだった味を少しアレンジしました。記憶のデータから選び出し、再現しました」
トワの声が穏やかに響く。
真弦はふと、昔のことを思い出そうとしていた。いや、正確には「思い出せない」のだ。
(そう…俺には5年間の記憶がないんだ。どれだけ手を伸ばしても、霧の向こうに隠れているような感覚だ)
事故だったのか、あるいは何か別の原因があったのか。医師たちは一時的な後遺症だとか、恐怖心が記憶を封じているのだとかいろいろ言っていたが、真弦にとってはただひとつの現実だった。気づいたときには、すでに5年間の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。思い出せないのは、あの時間の中で誰と過ごし、何を大切にしていたのか――それだけが心にぽっかりと穴を開けていた。
(毎日こうして、過去の「味」や「データ」だけを頼りに生きているけど、本当に俺が探しているのはそんなものじゃないんだ)
キューブのなめらかな食感と、口に広がる優しい甘さは心地よい。けれど、それはデータに基づいて再現された「味覚」に過ぎない。本物の食卓の温かさや、そこにいたはずの誰かとのふれあい――そんな大切なものを探して、真弦は空白の5年間に手を伸ばし続けている。
彼は無言でキューブをもう一つ口に運んだが、その虚しさは消えることなく心の奥に残り続けていた。
(何かが、足りない。)
真弦は内心でつぶやきながら、ふと視線をテーブルの端に向けた。そこには、かつて家族が囲んだ古びた写真立てが飾られている。未来的な空間に不釣り合いなその小さな物体が、今の彼の生活に欠けている「何か」を象徴しているかのようだった。
都市エデンの生活は、全てが最適化され、完璧なバランスで整えられている。だが、その整いすぎた世界が、彼にとってはどこか無機質で、心の奥底にある「何か」を満たすことはできないでいる。
「...考えても仕方ないか」
真弦はそう呟きながら、今日のスケジュールを確認し、部屋を出る準備を整えた。すべてが整えられた一日の始まり。しかし、その完璧さの裏側には、満たされない何かが静かに横たわっていた。
1章2節
都市エデンの朝。太陽の光が高層ビル群に反射し、空中を漂うレムスフィアの柔らかな輝きが街全体を包んでいた。真弦が歩く街路は、人々が静かに行き交いながらそれぞれの日常を送る姿で溢れている。その中で、彼は控えめに歩みを進めていた。
「真弦、おはよう。」
カフェの自動窓口でコーヒーを受け取っていた中年の男性が声をかける。
「おはようございます、ケンジさん。」真弦は軽く会釈する。
「昨日のトラブル、助かったよ。防犯システムが作動しなくなってさ。君が来なければ夜中じゅう不安だった。」
「いえ、大したことじゃありません。システムの設定ミスでしたから。」
彼は淡々と答え、再び歩き始めた。
広場に差しかかると、数人の子どもたちが駆け寄ってきた。
「真弦、おはよう!今日も誰かを助けに行くの?」
「おはよう、リク、ユウナ、ミオ。今日は何もないといいけどね。」
短い返答に、子どもたちは笑い声を上げてその場を駆け回る。その姿を見守る老人たちが話し始めた。
「あの子はほんと頼りになるよ。こないだもレムスフィアが急に動かなくなったとき、すぐに直してくれた。」
「俺なんて、交通システムのエラーで空中タクシーから降りられなかったところを助けられたよ。冷静に操作してくれてさ。」
真弦はその言葉に耳を傾けることなく、広場のベンチに腰掛けた。すぐに近くで作業をしていた清掃ロボットが彼の姿を認識し、「おはようございます、真弦さま」と機械的な音声を発する。彼は無言で小さく頷いた。
周囲の視線や声を意識することなく、真弦はただ座りながら風景を眺めている。彼にとって人を助けることは特別なことではなく、ただ「そこに困っている人がいるから」という理由で動くだけだった。そのシンプルさが、人々に安心感を与えている。
「また困ったら頼むよ、真弦!」
通りがかった男性が声をかけると、彼は振り返り、「もちろん、リュウジさん。いつでも声をかけてください。」と穏やかに答える。それだけで、街全体がどこか穏やかな空気に包まれる。エデンの住民にとって、真弦は当たり前のようにそこにいて、いつでも頼れる存在だった。
そんな中で、真弦自身が抱える孤独を知る者はほとんどいない。多くの期待と尊敬を一身に集める英雄でありながら、彼自身がその期待に応えられなくなるのではないかという不安を抱えているのだ。それでも彼は、自分にできることを精一杯行うだけだと信じ、今日も都市エデンの街を歩く。
1章3節
都市エデンの中心に位置する大庭園「エターナルグローブ」。都市全体を見渡せる広大な庭園には、まるで自然とテクノロジーが一つになったかのような美しい景色が広がっている。緑豊かな並木道の上には、微細なホログラムの蝶が舞い、風に乗って揺れる花々が色とりどりに咲き誇る。どこまでも澄み渡る青空と、遠くにそびえる未来的な高層ビル群が調和し、心地よい静けさを演出していた。
その庭園の一角を、真弦は親友のリョウと幼馴染のアイリと共に歩いている。木々の間を抜ける柔らかな光が三人の顔を照らし、爽やかな朝の散歩が始まる。リョウは少し遅れて到着したため、アイリに軽く小言を言われていたが、今は笑顔で大きく伸びをしながら声を弾ませた。
「やっぱりここ、いつ来てもいいよな。リセットされる感じがするぜ!」
リョウが気持ちよさそうに言いながら、手に持ったデジタルペットのスクリーンをいじっている。
「本当にリセットされるべきなのは、あんたの遅刻癖でしょ?」
アイリが軽く皮肉を返し、リョウに向けて少し冷ややかな視線を送るが、どこか親しげなやり取りだ。
「おいおい、そんな冷たいこと言うなよ、アイリ。俺にはこうやってのんびりする時間が大事なんだって!」
リョウは誇張した仕草で頭を抱えて抗議する。真弦は、そんな二人のやり取りに思わず笑みをこぼした。
「でも、リョウの言う通りだね。ここに来ると、なんか心が落ち着くよ」
真弦は周囲の美しい自然とテクノロジーが融合した景色を眺めながら、穏やかな口調で言った。
その言葉に応じるように、アイリが真弦の方に視線を向けた。彼女の視線には、ただの親しみだけでなく、彼の様子を気にかける鋭い観察力が光っていた。
「真弦、最近元気ないよね?なんか悩んでることでもあるの?」
アイリが鋭い視線で真弦を見つめる。彼女の観察力にはいつも驚かされるが、真弦は軽く首を振り、笑ってみせる。
「いや、大丈夫。ただ、何か大事なことを忘れてる気がしてさ…。でも、こうしてみんなと一緒にいると、なんか気が楽になる。」
真弦はそう言って、わざとらしく肩をすくめる。
「おーい、考えすぎはよくないぞ、真弦!こういう日はさ、頭空っぽにしてリラックスするのが一番だろ?」
リョウは真弦の肩を叩き、明るい声で励ます。
「そうだね。ありがとう、リョウ。」
真弦は笑顔で答え、リョウに感謝の気持ちを伝える。アイリはその様子を見て、少し満足そうにうなずく。
「じゃあさ、今日の夜は久しぶりに『ノア・ドーム』で集まるってのはどう?リラクゼーションエリアがリニューアルされたらしいし、何か面白い体験ができるかもしれないよ」
アイリが提案する。
「いいね!仮想現実エリアも新しいアトラクションが入ったらしいし、ちょっと遊んでみるか!」
リョウが勢いよく賛成する。彼の楽しそうな表情を見ると、真弦も少しだけ気が軽くなったような気がした。
真弦は、自分のレムスフィアに向かって軽く指示を出す。
「トワ、今夜の予定をノア・ドームでの集合に変更しておいて」
トワの柔らかな声が返ってくる。「了解しました、真弦さま。夜の予定を更新いたしました」
アイリとリョウもそれぞれのレムスフィアに夜の予定変更を指示する。淡く光るレムスフィアが、各々の肩付近で一瞬ふわりと動き、更新完了のサインを示すかのように輝いた。
「それ、良さそうだね。じゃあ、夜にまた集合しよう」
真弦も同意し、三人は軽やかな足取りで庭園を後にした。
三人と別れた真弦は、エターナルグローブから街へと向かう道をゆっくりと歩き始めた。街中には、レムスフィアを身につけて会話を楽しむ人々の姿が広がっている。誰もがそれぞれのレムスフィアに話しかけたり、気軽に指示を出して何かを操作したりしているのが目に入る。レムスフィアが、現代の人々の生活にどれほど欠かせない存在になっているのかが改めて感じられる光景だ。
ふと街を見渡しながら、真弦は考え込んでいた。聞くところによると、昔の子供たちは、大人が働く姿に憧れを抱いていたらしい。スーツを身にまとい、背筋を伸ばして職場へ向かう大人たちの姿には、何か特別な強い意志や誇りが感じられたと言う。誰もが忙しそうに動き回り、役割を持って働くことが当たり前の時代だったそうだ。けれど今、街中でそんな姿を見ることはほとんどない。すべての仕事はAIやマシンが肩代わりし、人々はそのおかげで自由な時間を手に入れ、日々の生活を自由に過ごしている。
それでも、趣味として仕事をする者はいる。たとえば、アイリは図書館の司書として働いている。彼女にとってはただの「趣味」とは言えないほど、知識と情報への愛情が感じられる仕事だが、それでも今の社会では趣味としての働き方に過ぎない。ほとんどの人々は、働く必要がなくなったことで生まれた時間を使い、街を自由に散策したり、レムスフィアと会話を楽しんだりして、個々の興味や余暇を満喫している。
その日の夜、真弦、リョウ、アイリの三人は「ノア・ドーム」に集まった。この巨大な複合施設は、エデンの象徴とも言える存在だ。地上からスカイツリーのようにそびえ立つ電波タワーを中心に、周囲には巨大な商業エリアが広がっている。施設全体の規模は、小さな街1つ分もの広さを誇り、その中には無数の店舗、レストラン、エンターテインメント施設がひしめいている。
タワーの上層部は都市全体に通信とエネルギーを供給する中枢であり、都市の発展を支える重要な機能を担っている。一方で、下層部は人々の憩いの場として設計されており、ショッピングモールや映画館、VR体験エリア、さらには広大なフードコートやスポーツ施設まで備えている。
施設内を歩けば、目を奪われるようなガラス張りの天井が広がり、その奥にはドーム型の構造を活かした美しい装飾が施されている。夜には天井に星空を模した光が輝き、訪れる人々を幻想的な世界へと誘う。
ノア・ドームは単なる商業施設にとどまらず、都市の中心的なランドマークであり、エデンの生活と文化を象徴する場所だった。
「おー、見ろよ!ここ全部リニューアルされてるじゃん!」
リョウは興奮気味に周囲を見渡しながら、笑顔で叫んだ。ドームの中心には、360度のスクリーンで映し出される幻想的なホログラムが浮かび、周囲の人々を魅了している。
「確かに、前に来た時よりも全然豪華になってる。まるで空を飛んでるみたいな感じだね。」
アイリも感心しながら、ふわりと広がるホログラムの光の中を手でかき分けるように触れている。
「じゃあ、まずはリラクゼーションエリアに行こうか。今日はゆっくりリラックスしたい気分だし。」
真弦が提案し、三人はリラクゼーションエリアに向かった。そこには、植物に囲まれた温かな光の空間が広がり、座るだけでストレスが解消されるという特別なチェアが並んでいる。
「こういうのさ、逆に本物の自然に勝てないんじゃないかって思うけど…まあ、気持ちいいことには変わりないよな!」
リョウはチェアに深く腰掛け、目を閉じてリラックスしながらつぶやいた。
「確かに。でも、どこかで本物の自然とは違う、人工的な感覚もある気がするね。」
アイリが冷静に答える。その言葉には少しの皮肉と、それでも楽しもうとする柔らかさが混ざっていた。
真弦も同じようにチェアに座り、静かに目を閉じる。安らぎの波が体全体を包み込み、まるで重力が消えたかのように体が軽く感じられる。しかし、その心地よさの中で、彼の心には小さな違和感が浮かび上がった。どれだけ快適で完璧な環境でも、なぜか満たされない気持ちが消えない。その感覚が、ふとした瞬間に現れては消えるのだ。
(…やっぱり、何かが欠けてる...。)
真弦は心の中でそうつぶやく。リョウやアイリと一緒にいると楽しいし、彼らとの時間は確かに大切だ。でも、その楽しさの裏側に、何か得体の知れない不安が常に付きまとっているような気がしてならない。
「どうした?真弦、何か考え込んでるのか?」
リョウが目を開け、心配そうに真弦を見つめる。
「…いや、大したことじゃない。ただ、こんなに楽しいのに、どうして満足できないのかなって、ちょっと考えてたんだ。」
真弦は苦笑いしながら答える。
「満足なんてさ、追い求めたらきりがないんじゃない?どれだけ贅沢な環境でも、心のどこかが満たされないときはあるものよ。」
アイリが静かに言葉を添える。その冷静な分析に、真弦は少しだけ心を軽くした気がした。
「まぁ、そんなこと考えるより、今は楽しいことだけ考えようぜ!今日は遊ぶ日だろ?」
リョウが軽い調子で言い、再び明るい笑顔を見せる。
真弦も、リョウの無邪気な姿に影響され、肩の力を抜いて笑みを返す。
「そうだね。今は楽しむのが一番だ。」
三人は、最新技術で作られたVRエリアに足を踏み入れ、未来的なスポーツゲームに挑むことにした。ホログラムで再現されたフィールドには障害物や浮遊するボールが散りばめられており、彼らはそれらを巧みにかわしながらスコアを競い合う。
「よし!俺についてこれるか、真弦!」
リョウが楽しげに叫び、目の前に浮かぶホログラムのボールを狙って猛ダッシュする。
「いやいや、リョウ!またそんな無駄に体力使って…先にバテるのはあんたでしょ!」
アイリが軽く突っ込みを入れ、リョウを笑い飛ばしながら、冷静に動きを見極めてボールに接近していく。
「ほら、見ろよ!まだまだ余裕だって!」
リョウは息を弾ませながらも得意げにポーズをとるが、その瞬間、次のボールが横から飛んできて不意を突かれる。
「キャー!リョウ、どんくさい!」
アイリが即座に突っ込みを入れ、真弦も思わず笑ってしまった。彼もまた、ホログラムの指示に従いながら走り回り、仲間と共に一つの目標に向かう楽しさに引き込まれていく。
「真弦、もっと前に出ろよ!そっちの方が楽しいぞ!」
リョウがふざけながら叫ぶ。真弦は、リョウの言葉に軽く頷きながら前に出ると、ホログラムのフィールドが一気に拡がるように見え、ゲームへの没入感が増していった。
「まったく…リョウってほんとに遊びに全力よね」
アイリが少し呆れたように言いつつも、顔には笑顔が浮かんでいる。彼らのやりとりの中、真弦は少しずつ心の重荷が和らいでいくのを感じていた。
しかし、その瞬間、ふと「この楽しさも一時的なものではないか?」という思いが頭をよぎる。完璧な都市エデン、気の置けない友人たちとの時間――それでも、自分の心の中に埋められない何かがあるような感覚。その漠然とした思いは、何かこの世界の背後に潜む真実を指し示しているようだった。
けれど今は、その思いを一旦押しやり、三人は笑顔でゲームを続けた。
VRエリアでのスポーツゲームを終えた三人は、次にアーケード「ミラーハブ」に向かうことにした。ここは最新のデジタルガジェットやファッション、アートが並ぶショッピングエリアで、都市エデンでも特に賑わいを見せる場所だ。ホログラフィック広告が空中に浮かび、次々と色鮮やかな映像が流れる中、多くの人々が思い思いに買い物を楽しんでいる。
「ここ来ると、いつもいっぱい買っちゃうんだよなぁ。」
リョウが笑いながら、ショーウィンドウを覗き込んだ。彼の目には、最新モデルのホバーブーツが映っている。靴底が薄いエネルギーフィールドで浮遊するこのブーツは、デザインも未来的で、街中を軽快に移動できると評判だ。
「またそんな無駄遣いするつもり?リョウ、ちゃんと貯金してるの?」
アイリが少し呆れた表情で尋ねる。彼女はデジタルファッションストアのディスプレイを見ながらも、リョウに鋭い視線を送る。
「もちろん!ちゃんと計画的に…って、あれ?今月の領収データどこだっけ?」
リョウが慌ててレムスフィアを操作し始めるが、どうにも上手くいかないようだ。その様子を見て、アイリは思わずため息をつく。
「計画的っていう言葉、リョウには一番似合わないよね。」
アイリが微笑を浮かべながら皮肉ると、真弦もつい吹き出してしまう。
「まあ、でもリョウのこういうとこ、ちょっと羨ましいかもな。欲しいものは迷わず手に入れるんだから。」
真弦が軽く肩をすくめて言うと、リョウは誇らしげに胸を張った。
「だろ?人生、楽しんだもん勝ちだって!真弦もたまには自分にご褒美あげなきゃ損だぞ?」
リョウは楽しそうに言いながら、隣の雑貨屋に並んでいる未来的なサングラスを手に取る。透けるようなフレームに、レムスフィアの情報を直接視界に表示できる機能が搭載されたハイテクなアイテムだ。
「…まあ、たまにはそういうのもいいかもね。でも、僕はどっちかっていうと、こういうのより普通の本とかが落ち着くかな。」
真弦は周囲のデジタル商品に目をやりつつ、少し遠慮がちに答えた。
「真弦らしいね。いつも慎重派って感じ。」
アイリが真弦に視線を送る。彼女はすでに、興味を引いたデジタルアートの展示に足を止めていた。壁一面に映し出された抽象的なアートは、視覚的な波動と音楽が連動していて、見ていると引き込まれるような感覚を味わえる。
「これはなかなか面白いね。アートと科学の融合って感じかな。」
アイリは目を輝かせながら、デジタルアートをじっくりと観察する。
「アイリがこういうのに夢中になるの、よくわかる気がする。何かを解き明かすのが好きだもんな。」
真弦が言うと、アイリは軽く頷いて笑った。「そうね。どんなものでも、背後にある意味を考えちゃう性分だから。」
「俺はそこまで深く考えなくていいや。楽しければそれで満足!」
リョウは肩をすくめ、陽気に笑う。そのシンプルさが、彼の魅力でもある。
「ねぇ、そろそろ小腹が空いてこない?ここのデジタルスイーツ、結構評判らしいよ。」
アイリが提案する。
「賛成!甘いもの食べると、元気出るしな!」
リョウが即答し、三人はカフェコーナーに向かうことにした。
カフェのカウンターには、ホログラムで彩られた未来的なデザートが並んでいる。空中に浮かぶ透明なプレートの上には、発光するゼリーやカラフルな泡が揺れており、見た目だけでなく味覚も次元を超えた体験ができると評判だ。
「これは…食べ物なのか、アートなのか、どっちなんだろうね。」
真弦が不思議そうに眺めると、リョウが笑いながら肩を叩く。
「どっちでもいいさ!楽しいことには変わりないんだからさ!」
リョウはさっそく発光ゼリーを口に運び、その瞬間、口の中で小さな星が弾けるような感覚に驚きの声を上げた。
「おい、これすげえぞ!真弦も試してみろよ!」
リョウが興奮気味に叫ぶと、真弦もつられてゼリーを食べ、同じように驚きの表情を浮かべた。「確かに…なんだか夢の中みたいだね。」
アイリも小さく笑って、「こういうのも、たまには悪くないわね」と言いながら、彼女もデジタルスイーツを楽しんだ。
夜も更け、アーケード「ミラーハブ」の賑わいが少しずつ静まっていく。ホログラムの広告が優しい色合いに変わり、空中に浮かぶ光のオブジェが、星空のようにきらめいている。真弦、リョウ、アイリの三人は、賑やかだった一日を締めくくるため、広場に設置されたベンチで一息ついている。
「今日も思いっきり楽しんだな。好きなもの食べて好きに遊んで最高だぜ。」
リョウが満足そうに言いながら、夜風に吹かれる。
「本当にね。幸せってこういうことなんだって感じる!」
アイリも軽く微笑んで頷く。彼女はホログラムの星を見上げ、その幻想的な輝きを目に焼き付けるように眺めている。
真弦は二人を見て、微笑みながら頷いた。「うん。今日は本当に楽しかった。ありがとう、二人とも。」
「真弦、いつも固いからさ、たまにはこうやって気楽にやろうぜ!」
リョウが肩を軽く叩き、いつものように明るい笑顔を見せる。
「そうだね、これからも時々こういう日を作ろう。」
真弦は応えるが、その言葉の裏にあるわずかな空虚さに、自分でも気づいていた。
夜の風が心地よく、三人はしばらく無言のまま、静かな時間を共有する。それぞれが一日を振り返り、穏やかな満足感に包まれているようだった。
「さて、そろそろ帰ろうか。明日も仕事だしね」
アイリが立ち上がり、軽くストレッチをする。その動きは相変わらずきびきびとしていて、真弦もリョウも思わず感心する。
「アイリって、ほんとすごいよな。毎日仕事してさ」
リョウが感嘆の声を漏らすと、アイリはリョウに向かって小さくため息をつきながら言い返した。
「アンタみたいに怠惰な生活を送りたくないだけよ!」
彼女の目は冷ややかだが、どこか微笑ましさも感じさせる。
リョウは肩をすくめて笑い、「俺だって忙しいんだぜ?毎日遊び疲れてるんだから」と、冗談交じりに答える。その場の空気が和み、三人はお互いの顔を見て笑い合った。
「あー今日はぐっすり眠れそうだ」
リョウも立ち上がり、大きく伸びをする。その様子を見て、真弦もゆっくりとベンチから立ち上がった。
「また近いうちに集まろうね。それじゃ、おやすみ。」
アイリが軽く手を振り、歩き出す。リョウも「またな!」と陽気に声をかけ、反対方向に歩き去っていく。
真弦は二人を見送り、ふと深呼吸をする。静けさが戻った広場に一人取り残され、彼はしばらく夜空を見上げた。ホログラムで彩られた星々は、美しく輝いているが、どこか現実味に欠ける。彼はその光を見つめながら、胸の中に渦巻く微かな違和感を再び感じた。
「楽しかったはずなのに、どうしてだろう…何かが欠けてる気がする」
真弦はそうつぶやきながら、空を見上げた。VRエリアで見たホログラムの夜空は、満天の星々が輝き、まるで本物の夜空のように美しかったが、心の奥底でどこか物足りなさが拭えない。ふと、肩越しに浮かぶレムスフィアに声をかけた。
「トワ、このホログラムの夜空をどう思う?」
レムスフィアから穏やかな声が返ってきた。「美しく再現されていますね、真弦さま。夜空の星々も、視覚的なデータとしてほぼ完璧に構築されています。ですが…」
「ん?どうした?」真弦は続けを促した。
「…本物の夜空には、その場でしか感じられない温度や音、匂いが存在しています。データに基づいた再現はできますが、すべてを完璧に表現することは難しいでしょう」
トワの言葉に、真弦は少し驚きつつ、小さく頷いた。
「そうだね…やっぱり何かが違う気がするんだ」
真弦は一瞬だけ空虚感を抱えつつも、自分に言い聞かせるように気持ちを切り替えた。今日は友人たちと笑い合い、楽しい時間を過ごした。それだけで、十分なはずだ。自分は満たされている、と。
けれども、その思いはどこか表面的で、心の奥深くに眠る不安や満たされなさを消し去ることはできなかった。
「…そろそろ帰ろう」
真弦はつぶやき、都市エデンの夜景に溶け込むように静かに歩き出した。ビルの間に漂う人工的な光と、完璧に整備された街並みが彼を包み込む。その完璧さが、逆に彼にとっては何か大切なものを失ったような気にさせていた。
その夜、真弦は家に帰り、睡眠カプセルに横たわりながらぼんやりと今日の出来事を思い返していた。楽しかった、充実していた、でも何かが足りない。その感覚が、彼の意識の中でかすかな不協和音を奏で、彼はその不協和音を抱えたまま、いつの間にか眠りに落ちていった。
1章4節
翌日、真弦は、都市エデンの整然とした街並みを歩いていた。高層ビル群は規則正しく並び、そのガラスの外壁には周囲の緑と空が美しく映り込んでいる。街を覆う淡いブルーの磁気フィールドが、心地よい風を運び、温度や湿度を一定に保ち、歩く人々の快適さを守っている。まるで一つの巨大な生き物のように、この都市は無駄なく、完璧に調和して動いている。
人々の動きにも狂いはない。整然とした歩調で移動する彼らの服装は、自然の色合いを取り入れたものが多く、未来的なデザインでありながら、どこか落ち着いた調和を感じさせる。AIによって管理される交通システムも静かに稼働し、車両が音もなく滑るように行き交う。全てが完璧に最適化され、無駄がない。この都市では「混乱」や「誤り」といった概念が存在しないかのようだ。
しかし、その完璧な秩序の裏には、目に見えない静かな不安感が漂っていた。真弦はその感覚を無視しようと努めたが、胸の奥に微かな違和感が残り続ける。どれだけ完璧に整えられていても、どこか「作られた」ものの匂いがするのだ。それは、この世界があまりにもうまくいきすぎているからこそ感じる、不自然な「滑らかさ」だった。
昼下がり、真弦はいつものようにカフェ「サイレントブリュー」へと足を運んだ。このカフェは都市の中心部に位置し、無機質な都市の風景と自然が見事に調和した空間を提供している。街の騒音が遠く霞んだかのように感じられるこの場所は、真弦にとって特別な逃げ場のような存在だった。
カフェの外観は、シンプルかつ洗練されている。壁一面は透明なガラス張りで、その向こうには公園の豊かな緑と、整然と並ぶ高層ビル群が交互に映り込む。遠くでそよぐ木々の葉が、ゆっくりとしたリズムで光を受け、柔らかな影を作り出している。その光景は、まるで絵画のような完璧さを持ちながらも、どこか人工的な印象を与えていた。
店内に一歩足を踏み入れると、AIによって徹底的に最適化された環境が真弦を包み込む。柔らかな色調の照明が、窓から差し込む自然光を補完するように店内を照らしている。光は冷たさを感じさせることなく、むしろ穏やかで温かな雰囲気を演出している。テーブルや椅子は、リラックスできる距離感と角度を計算されて配置されており、どの席に座っても居心地の良さが感じられるように設計されている。温度や湿度も、その日の気候に合わせて自動で微調整され、常に快適さを維持している。
「いらっしゃい、真弦君。いつもの席でいいかな?」
カウンターの奥から、カフェのマスターが声をかける。彼は一見、無機質なアンドロイドのようにも見えるが、その声にはどこか人間味が感じられる不思議な響きがあった。彼の名前はケイ。冷静沈着で、皮肉めいたユーモアを持ちながらも、常に客の心情を読み取る鋭い洞察力を備えている。
「うん、いつもの席で頼むよ。」
真弦は軽く頷き、窓際のいつもの席へ向かった。カフェの外には、公園の木々が穏やかな風に揺れ、木漏れ日が地面に美しい模様を描き出している。その背後には、青空を背にしてそびえる高層ビル群が静かに佇んでいる。ビルのガラスに映る空は澄み渡っており、都市全体が静けさと秩序に包まれているようだった。
しばらくすると、カウンターで作業を終えたケイが、真弦の元へコーヒーを運んできた。カップをテーブルに置くと、彼は少し意外な表情を浮かべて言った。
「何か悩んでいるのかい?」
真弦は少し驚きながらも、その言葉に耳を傾けた。
「はい、少し。最近、この都市のことをいろいろ考えてて、完璧な場所のはずなのに、どうも落ち着かないんだろうって。」
ケイは少し間を置いてから、穏やかに笑みを浮かべた。
「完璧すぎる場所には、どこか居心地の悪さがつきものさ。特に、感情を持った人間にとってはね。でも、だからこそ面白いとも言えるんじゃないかな?」
その言葉に真弦は考え込むようにカップを見つめた。ケイが運んできたコーヒーは、いつも通り完璧に淹れられている。焙煎具合も温度も申し分なく、口の中で広がる深い味わいとほのかな余韻が彼の感覚を心地よく満たしていく。しかし、その完璧さが逆に彼にはどこか過剰に感じられ、何かが欠けているように思えてならなかった。
「これが、居心地が良いってことになるのかな…?」
真弦は心の中でそう問いかける。ここには何も欠けていない。すべてが揃い、最適化された空間が彼の前に広がっている。それでも、彼の心には、どこか空白がある。自分が何を求めているのか、その答えはまだ見つからない。けれど、この完璧すぎる世界が、彼にとって本当に「リアル」なのか――その疑念だけが、彼の中で静かに、しかし確実に広がり続けていた。
ケイはそんな真弦をじっと見つめながら、優しく語りかけた。
「この場所が君にとって居心地の良い場所である限り、僕はいつでも君を迎えるよ。だけど、もしその答えを見つけた時は…教えてくれると嬉しいな。」
真弦は曖昧に微笑み返しながら頷いた。ケイの言葉はどこか意味深で、その裏に何かを隠しているようにも感じられたが、彼はそれ以上問いただすことはしなかった。ただ、窓の外を見つめながら、心の奥でさらに深まる違和感を抱え続けた。
外の公園では、光と風が織り成す自然のリズムが流れ続けている。しかし、真弦にはそれさえもどこかフィルターを通した映像のように感じられた。その感覚が、彼にとっての現実と非現実の境界を曖昧にしていくように思えた。
店内は、穏やかな静けさに包まれていた。低く流れる音楽は、まるで空気に溶け込むように耳に届き、訪れる人々の思考を乱すことなく優しく包み込んでいる。空調もまた、微細に制御され、ほんのわずかな温度と湿度の変化まで計算されていた。その空間は、無駄のない心地よさが徹底的に追求された「完璧な」場所だ。
店内の客たちは、それぞれが静かに自分の時間を過ごしている。ある者はノートデバイスに集中し、ある者は読書に没頭している。それらの姿勢や動きでさえも、まるでこの空間の一部であるかのように整然としている。誰一人として、その秩序を乱す者はいない。すべてが規則的で、調和の取れたリズムで進行している。
真弦は、そんな整いすぎた光景の中で、やはり自分の中にあるわずかな違和感を振り払うことができなかった。この完璧な都市、そしてカフェ「サイレントブリュー」――すべてが整然としているが、彼にはその背後に何か見えないものが隠されているように感じられた。
ケイがカウンターの奥から真弦を見守るように視線を送る中、真弦は再びコーヒーを口に運んだ。その温かさが、どこか冷たく、作られたもののように感じられることを、彼はまだ言葉にすることができなかった。
そんな中、真弦の視界にふと一人の女性が映り込んだ。彼女は明るい色の服を纏い、軽やかな足取りでカフェに入ってきた。彼女が放つ雰囲気には、周囲の整然とした空間とは対照的な「自由さ」があった。無機質な中にひっそりと揺れる風のような、その柔らかさと自然体の佇まいが、真弦の意識を自然と引き寄せる。
彼女の動きは、他の客たちと同じように洗練されているはずだったが、どこか違うリズムが感じられる。それは、スケジュールに制御された動きではなく、微妙な余白があり、息づかいのような揺らぎが含まれていた。まるで、この都市の完璧なルールに対して、意図的にほんの少しだけズレを生み出しているかのようだった。その微細なズレこそが、彼女を特別に見せている。
カウンターに向かい、彼女は注文を済ませた。その動作は一つ一つが自然で、優雅だった。まるでこの瞬間を楽しんでいるかのように、ゆっくりとした動きでカップを受け取り、軽く会釈をしてから振り返る。その時、真弦と彼女の視線が交わった。
彼女はふっと自然な微笑みを浮かべる。その笑顔には、まるで旧友に向けるような親しみと温かさが滲んでいた。初めて見るはずの顔なのに、どこか懐かしさを感じさせるその表情に、真弦は思わず目を留めた。彼女はそのまま空いてる席に向かい、スムーズに腰を下ろした。
彼女が座った席からは、公園の緑と高層ビル群が一望できる。彼女はしばらくレムスフィアを使用して、何かを確認していたが、その間も時折、真弦に視線を送っているのが感じ取れた。その視線は、好奇心と親しみが入り混じった柔らかさを帯びており、真弦はその度に不思議な心地よさと軽い戸惑いを覚えた。
真弦は再び窓の外に目を戻すが、彼女の存在が頭から離れない。公園の木々が風に揺れ、整然としたビル群がその背後に聳え立つ、完璧に調和した都市の風景。その景色を眺めながらも、彼の意識は自然と彼女に引き寄せられていた。彼女にはこの「完璧な都市」のルールに縛られない、どこか自由で柔らかな雰囲気が漂っている。それが何であるのか、彼はまだ言葉にできないが、確かにその存在は真弦にとって特別に感じられた。
しばらくして、彼女は静かに席を立つと、真弦のテーブルに向かって歩み寄ってきた。その歩みは軽やかで、決して急がず、しかし確実に彼の前へと進んでくる。真弦は少し驚きつつも、彼女が何を言おうとしているのかを静かに待った。
彼女はふわりと柔らかな笑顔を浮かべ、親しみのある声で話しかけてきた。
「ねぇ、君。ここに座ってもいいかな?」
その言葉は、まるで昔からの知り合いに向けられるような、自然で温かいものだった。初対面にもかかわらず、真弦は彼女の言葉に違和感を抱かず、逆に心がほぐれていくのを感じた。彼は一瞬戸惑ったが、彼女の柔らかい雰囲気に引かれ、軽く頷いて応じた。
「あ...あぁ、どうぞ。」
彼女が向かいの席に腰を下ろすと、二人の間に柔らかな沈黙が流れた。言葉を探す必要もなく、ただ心地よい空気が漂っている。彼女は視線を窓の外に移し、カップを手に取った。その指先はリラックスしており、その動きには焦りも無駄もない。
窓の外には、穏やかな日差しの中でそよぐ木々と、整然としたビル群が広がっている。彼女がその風景を眺める姿には、この都市の「完璧さ」とは異なる、柔らかで心地よい隙間があった。その隙間が、真弦にとっては新鮮であり、同時にどこか懐かしさを感じさせるものだった。
「あなたも、ここよく来るの?」
彼女は穏やかな声でそう言いながら、真弦に視線を戻した。その瞳には、純粋な好奇心と、共感のような光が宿っている。真弦はその瞳に一瞬戸惑いながらも、自分の心が自然と引き寄せられているのを感じた。
この完璧な都市の中で、彼女だけが持つ「余白」や「柔らかさ」が、真弦の心に微かな変化をもたらしていた。彼はまだその意味を理解していないが、確かに何かが自分の中で動き出したことを感じ取っていた。
「うん。ここに来ると落ち着くんだ。」
真弦は一瞬、彼女の瞳に視線を重ね、静かに言葉を紡いだ後、ゆっくりと窓の外へ目を移した。
二人はまだほとんど言葉を交わしていなかったが、沈黙には奇妙な安堵感が漂っていた。言葉がなくても、彼女の存在が真弦の中に静かに響き渡っている。それは、彼がずっと無意識に探し求めていた「何か」に触れたような感覚だった。自分の中に潜んでいた空白に、彼女がぽんと石を投げ入れたような――そんな微かな揺らぎが、彼の心に広がっていた。
彼女は窓の外の景色に視線を向けながら、ふっと微笑みを浮かべ、柔らかな声で言った。「ほんとね、落ち着く。でも…なんだか整いすぎていて、息苦しい気がするのは私だけかな?」
その一言に、真弦は驚きを隠せなかった。彼女が感じているその「息苦しさ」は、まさに彼が抱えていた漠然とした違和感と同じものだと感じたからだ。この完璧に整えられた都市の中で、彼が感じていた何かが欠けているという感覚を、彼女もまた同じように捉えているのだろうか。
「君も?僕も最近、そんなことばかり考えてたんだ。何もかも整いすぎてて、逆に…何かが欠けてる気がするんだ。」
真弦が思わず言葉にすると、彼女は軽く頷き、楽しそうに笑った。その笑顔には、理解と共感が込められており、真弦は彼女に対して不思議な親近感を覚えた。
「君は目に見えないところに、本物があることを無意識に感じ取っているのかもね。」
彼女の言葉はさらりとしたものだったが、深い意味が含まれているように感じられた。真弦は彼女の瞳をじっと見つめたが、彼女はただ柔らかく微笑みを返すだけだった。その微笑みには、自由でしなやかな強さが感じられた。彼女は、この完璧な都市の中にありながらも、その表層に流されずに、自分のリズムを保ち続けているようだった。
真弦がカップを手に取りながら言った。
「なんていうか、この都市みたいに、全てが整っている場所だと、どうしても極端に走りがちな気がするんだよ。完璧を求めるほど、どこかでバランスを崩してしまう感じがするんだ。」
明日香が軽く頷きながら、彼の言葉に答える。
「私もその考え方、わかるよ。完璧を追求せずに中正を保つって、言葉にするとすごくシンプルだけど…意外と難しいものだよね。」
真弦は少し微笑みながら、さらに考えを続けた。
「そう、頭ではわかっていても…実際には難しい。この都市みたいに何もかもが整いすぎていると、かえって不自然に思えてくる。だからこそ、逆に不安定さや揺らぎを求めたくなるのかもしれない」
明日香は小さく笑って、「人って、完璧よりも少しの欠けや不完全さに惹かれるのかもね」とつぶやき、真弦に目を向けた。その視線には、どこか共感が感じられ、真弦もまたその言葉に思わず頷いた。
明日香は窓の外を見ながら、少し考えるような表情を浮かべた。そして、柔らかい口調で話し始める。
「神様が、小魚に目に見えないものの大切さを教えようとした話を知ってる?最初、小魚は目に見えないものになんて関心を持たなかった。だから神様は、一瞬だけその小魚の周りから水をなくしてしまったの。小魚は苦しみ、乾きに耐えられなくなってようやく『目に見えないものがなければ私は生きていけないんだ』と気づいた。水が戻ると、もう二度と水から離れようとはしなくなったんだって。」
真弦はその話を聞いて少し考え込む。
「それって、この都市にも言えることかもしれないな。表面的には何もかもが整っていても、見えない何かが欠けていると、その中で生きるのが苦しくなるってことか。」
「えぇ、そうかもしれない。」
明日香は頷いて続ける。
「その話には続きがあって、小魚が川辺でキツネにからかわれるの。『陸に上がって楽しく遊べばいいのに』って。でも小魚は言うんだ。『私たちは水の中でしか生きられないんですよ』って。」
「確かに、水がなければ魚は生きられないし、私たちも見えないものに支えられて生きてる。完璧な見た目や秩序だけじゃなくて、その奥にあるものが大事だってことか…。」
「ええ、たとえこの都市がどれだけ整っていても、本当に必要なものは目に見えないところにあるんだと思う。それに気づかないでいると、どこかで自分を見失ってしまうかもしれない。」
二人はそのまま穏やかに会話を続けた。都市の中でのちょっとした出来事や感じたこと――特別な話題ではないが、その会話は静かに心に響き、どこか安心感をもたらしていた。
二人はその後も、日常的な雑談を交わし続けた。話題は取り立てて特別なものではない。最近読んだ本、都市の中で見かけた面白い出来事など――どれもささやかな話題ばかりだ。しかし、彼女とのやり取りはどこか心地よく、真弦が抱えていた疑念を和らげるような効果があった。彼女の声や言葉の調子が、まるで音楽のようにリズムを持ち、心にスムーズに染み込んでくる。
同時に、彼女がこの「完璧な都市」に対して持っている独自の視点が、真弦の中に鮮明に刻まれていった。彼女は、この都市が持つ美しさと不安定さを、どこか客観的に、そして自然体で受け止めているように見える。その視点は、真弦がこれまで意識的に避けていた部分に焦点を当て、彼の内面に新たな光を当てているようだった。
「ねぇ、ちょっと散歩しない?」
彼女が突然提案した。彼女の言葉には、誘いの気軽さと同時に、何か特別なものを共有したいという意図が込められているように感じた。真弦は、その提案に乗ることで、彼女との距離がさらに縮まる予感がした。
彼は、心の中で感じていたわずかな不安が薄らいでいることに気づいた。彼女の存在が、どこかほっとするような安心感をもたらし、同時に未知の感情を呼び覚ましつつある。それはまだ曖昧で形を成さないものだが、確かに彼の心の奥底で、小さな変化が芽生え始めていた。
「うん、いいね。」
真弦が静かに頷くと、彼女は満足そうに微笑んで席を立った。その仕草には柔らかさと決意の強さが同居していて、真弦はその佇まいに自然と惹かれていた。
会計のために、真弦は自分のレムスフィアを指先で軽く呼び寄せた。球体のホログラムディスプレイが静かに浮かび上がり、支払い情報を確認する画面が表示される。彼はレムスフィアに向かって「支払いをお願い」とつぶやき、奢るつもりでトワに精算の指示を出そうとした。
しかし、明日香が真弦の手をそっと制して、「奢られるの、好きじゃないの」と微笑んだ。彼女の言葉は柔らかいが、その瞳には確固たる意志が宿っているようだった。
二人はカフェを出て、澄んだ日差しの中に身を投じた。完璧に整った都市の中に漂う微かな不自然さ――その中で、明日香の存在だけがどこかリアルで、温かみを持っていた。その違和感を含んだ感覚が、真弦の心に小さな波紋を広げていく。
この完璧な都市に対する疑念と、明日香との交流が生み出す新たな感情――それが、真弦の心に新しい扉を開き、未来への小さな予感をもたらしていた。
二人はカフェを出て、日差しの中に身を投じた。完璧に整った都市の中に漂う微かな不自然さ――その中で、彼女の存在だけがどこかリアルで、温かみを持っていた。その違和感を含んだ感覚が、真弦の中で新たな感情を生み出しつつあった。
この都市の完璧さに対する疑念と、彼女との交流が生み出す新たな感覚――それが、真弦の心に小さな波紋を広げ、物語のさらなる展開への伏線となっていくのだろう。
1章5節
都市エデンの市街地を抜け、二人は都市の中心部に位置する大庭園「エターナルグローブ」へ足を踏み入れた。ここは豊かな自然と人工美が見事に調和する空間で、訪れる者に静かな安らぎを与える。緑が広がる中、小川が静かに流れ、整然と並ぶ木々が優しく風に揺れていた。都市の喧騒を遠くに感じさせるこの場所は、まるで別世界のように穏やかな静寂に包まれている。
二人が園内を歩いていると、庭園の管理人であるナオが気づき、柔らかな笑みを浮かべながら近づいてきた。ナオはこの庭園を愛し、植物と人間の共存に情熱を注ぐ理想主義者だ。彼の落ち着いた口調と穏やかな表情が、この空間に自然と溶け込んでいる。
「ようこそ、エターナルグローブへ。本日はゆっくり過ごしていってくださいね。」
ナオはそう言い、二人に軽く会釈をした。彼が去った後も、庭園には静かな空気が漂っている。太陽の光が柔らかく降り注ぎ、温室のガラスを透過して色とりどりの花々を優しく照らしている。二人はその光景を眺めながら、ゆっくりと歩を進めた。
「自然ってさ、どれだけ制御しても、完全には手に負えない部分が残るよね。」
彼女は、小川の流れを見つめながら話し始めた。
「たとえば、この庭園も綺麗に整えられてるけど、よく見ると勝手に生えてる野生の草花がある。そういう自由な部分があるから、逆に魅力が増すんだと思う。」
真弦はその言葉に頷きながら答えた。
「確かに。自然には人間がコントロールできない部分がたくさんある。それが自然らしさであり、予測できない魅力なんだろうね。計画的に作られたものに、少し不確定な要素が混じることで、自然らしさが生まれるんだと思う。」
彼女は微笑んで、ふわりと舞う葉を見上げながら言った。
「人間も同じだと思わない?どれだけ自分をコントロールしようとしても、感情とか無意識って、完全には制御できない。むしろ、その不完全さが人間らしさを作ってるんじゃないかな。」
その言葉に、真弦は少し考え込んだ。
「そうだね。感情や無意識って確かにコントロールできないものが多い。でも、それがあるからこそ、人生には予想外の展開があるし、それが面白さにもつながる。もし理想通りに生きていたら、逆に退屈かもしれない。」
「その通りだね。」彼女は楽しげに笑った。
「完璧な世界が必ずしも幸せだとは限らないってことだよね。どんなに整った環境でも、自由や余白がないと、人は窮屈に感じちゃうんだろうな。」
二人はそのまま緑豊かな丘の上にあるドーム状のガラス温室の前にたどり着いた。温室内では、さまざまな植物が鮮やかに咲き誇り、柔らかな日差しがガラス越しに降り注いでいた。時間がゆっくり流れるような感覚が広がり、二人の間に穏やかな沈黙が訪れた。
光に透けるように揺れる葉の音や、柔らかな風が運んでくる草木の香りを楽しんでいた。だが、その穏やかな空気は突如として一変した。
温室の上空が不気味に揺らぎ始め、青空に不穏な「歪み」が生じた。空気がねじれ、空間にひびが入るようにゆっくりと裂かれていく。そこには何もない暗い深淵が現れ、静かに蠢きながら周囲の空間をじわじわと侵食していく。その異様な闇が広がるにつれ、周囲の風景が波打つように不自然に歪み始め、まるでこの現実がひとつずつ崩れ去っていくかのようだった。
「…なんだ、あれは?」
真弦は息を呑み、思わずつぶやいた。隣にいる明日香も裂け目をじっと見つめているが、その表情には驚きや恐怖といった感情はなく、むしろ冷静に観察するかのようだった。その目には、ただの「異変」を超えた何かを見通そうとする鋭い光が宿っていた。
庭園の管理人であるナオが温室から姿を現し、異常に気づき近づいてくる。次の瞬間、突然強烈な吸引力が彼女を捉えた。ナオはバランスを崩し、裂け目に引き寄せられるように倒れ込みそうになる。
「ナオさん、危ない!」
真弦は咄嗟に叫び、駆け出した。
「助けて…! だめ!引き込まれる!」
ナオは泣きそうな声を振り絞りながら、指先で地面を必死に掴み続けている。しかし裂け目の吸引力はますます強まり、彼女の体がずるずると引き寄せられていく。
「ナオさん、掴まって!」
真弦は左手を伸ばし、何とか彼女の腕を掴んだ。しかし、その瞬間、裂け目がさらに広がり、二人の周りの空間が一気に歪み始めた。強烈な風が巻き起こり、真弦の右手はバランスを取るために温室の柱を掴んで体を支えたが、ナオの体が徐々に引き上げられ、二人の間にかかる力は限界に近づいていく。
「お願い、離さないで…!」
ナオは必死に真弦の左腕にしがみつき、泣き叫ぶように言った。だが、裂け目の引力はさらに強まり、地面に食い込んでいた彼女の指がついに滑り始める。真弦も懸命に踏ん張っていたが、次第に足元が揺らぎ、二人はじりじりと裂け目に引き寄せられていく。
「くそっ、これ以上は…!」
真弦は左手でナオを引き留めながら、全身の力を振り絞って耐えていたが、ついにナオがふわりと浮き上がった。
そのとき、真弦の肩に浮かんでいたレムスフィアが、ふわりと前に出て裂け目に向かい、淡い光を放ち始めた。まるで彼の意思に応えるかのように震え、光を強めていく様子に、真弦は戸惑いと驚きを感じた。
(どうして、レムスフィアが…?)
真弦は右手で温室の柱をしっかり掴み、レムスフィアに意識を集中させると、裂け目に向かって強いエネルギーを注ぐかのように震え始めた。風がさらに荒れ狂う中、レムスフィアはその中心で、まるで彼の意思を代弁するように光を強めていく。
風が激しく荒れ狂う中、レムスフィアを中心に波動のようなエネルギーが広がっていく。その気迫と共に、真弦の右手に温かな感触が伝わった。振り返ると、明日香が真弦の右手にそっと手を添え、強い意志で彼を支えるように握りしめた。
「裂け目が閉じるように、強く想って!」
彼女の声が響き、彼の中に微かな安堵が広がった。明日香の手は真弦の手を包み込むように、さらに強く握りしめられ、その温もりが彼の心に深く染み渡る。彼女の手から伝わる確かな感覚が、彼に力を与えた。二人の思いが共鳴し合うと、周囲の空気がさらに震え、かすかに波打つエネルギーが彼の体中に行き渡る。彼は深く息を吸い込み、心の奥から湧き上がる強い意志を感じながら、再び裂け目に向けて力を込めて集中した。
その瞬間、真弦の視界の隅に《影》が揺らめいた。裂け目の中に、ぼんやりとした黒いシルエットが浮かび上がっている。それは人間の形をしているが、輪郭が曖昧で、どこか不気味な不安定さをまとっていた。真弦はその影に奇妙な既視感を覚え、まるでどこかで見たことがあるかのような感覚がよぎる。しかし、その記憶に触れようとした瞬間、まるで霧散するかのように掴みどころなく消えていく。
その影は、裂け目の奥からじっと彼を見つめているかのようだった。だが、彼が凝視する間もなく、その存在は薄れていき、やがて虚空の中に溶け込むように消え失せた。
(あれは…?人...?)
そのとき、真弦のレムスフィアがふわりと緋く光を帯びた。いつもは穏やかな青白い光を放つレムスフィアが、まるで彼の決意に応えるように、一瞬だけ静かに赤みがかった輝きを見せる。
「頼む…!閉じてくれ!」
真弦はその言葉を強く念じ、さらに力を込めた。その想いが波動となって周囲に広がり、裂け目の吸引力が少しずつ弱まり始める。温室のガラスや宙に浮いた草花が、引き寄せられていた力から解放されるように、元の位置へと戻り、風景が徐々に安定を取り戻していった。
ついに、裂け目はゆっくりと収縮し始め、やがて完全に消え去った。周囲には静寂が訪れ、庭園は再び穏やかな日常に戻ったかのようだったが、真弦の胸には高鳴る鼓動と、不安に似た重い感覚がまだ残っていた。裂け目が消え去った空を見上げながら、彼は肩で息をし、緊張でこわばった表情を浮かべていた。さっきまであった異様な裂け目はもう見えないが、その残像と張り詰めた緊張が、深く心に刻まれていた。
収縮する裂け目の力が完全に消えたと同時に、真弦の左手に掴まっていたナオがぐらりと体の力を抜き、真弦の腕の中に落ちかけた。その瞬間、彼はとっさに彼女を抱き寄せた。
ナオは恐怖に震え、泣きじゃくりながら真弦の胸に顔を埋めるようにしてしがみついていた。体全体が小刻みに震え、先ほどの恐ろしい体験の余韻に打ちのめされているのが伝わってくる。真弦もまた、その異様な出来事が理解しきれないまま、戸惑いと驚きが入り交じった表情で彼女を見つめ、ただ彼女の背中にそっと手を回し、そっと抱きしめることしかできなかった。
恐怖と達成感が交錯する中、真弦は自分の手に残る微かな震えを感じながら、ふと手を握りしめた。そのとき、彼の横から落ち着いた声が聞こえた。
「すごいね。君の想いの力、思ってた以上だよ」
その声には驚きや不安ではなく、どこか穏やかで確信に満ちた響きがあった。
「どうして…?俺にこんなことができるんだ?」
真弦は困惑したまま問いかける。彼女は少し考え込むように視線を伏せた後、柔らかな表情で答えた。
「たぶん、君自身がまだ気づいていないだけ。でも、これから少しずつ分かってくるんじゃないかな」
彼女の言葉は深い意味を含んでいるように思えたが、その真意の全てを明かすことは避けているようだった。
「俺が…気づいていない?」
真弦は戸惑いつつも、彼女の言葉にどこか引き寄せられる感覚を覚えた。
「うん。でも、焦らなくていいよ。きっと、その答えは自然と見えてくるから」
彼女は微笑んだが、その目の奥には複雑な感情が混ざっているように見えた。その視線には、ただの共感ではない、何か深い理解と期待が込められているかのようだった。
真弦はしばらく彼女を見つめ返し、軽く息を吐いた。自分でも何が起こっているのか分からないが、彼女の言葉が妙に心に染み渡っていくのを感じた。
彼女はふと、穏やかに微笑みながら言った。「そういえば、まだ名前を言ってなかったね。私は
真弦は一瞬戸惑い、わずかな間を置いてから答えた。「…真弦、
「真弦…いい名前だね」
明日香は軽く頷き、その名前を心の中で繰り返すように、小さく呟いた。その表情には、確かな信頼と、どこか期待が込められているようだった。
二人の間には、静かな余韻が漂った。裂け目が消えた後の空は再び青く澄み渡っているが、真弦の心にはまだ解けない謎が重くのしかかっていた。
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