蒼の旅人は帰りゆく

いいの すけこ

確かにここにいた

 雪が降っていた。

 この雪は、彼を連れて行ってしまう。

 そんなふうに思えてならなくて、私は学校からの帰り道を急ぎ駆けていた。首に巻いたマフラーの端が、走る調子に合わせて揺れる。ほどけかかった白いそれが視界で暴れるのが邪魔で、余計に焦燥に駆られた。

 彼はスマホなんて持っていない。だから私の声を電波に乗せて届けることができない。

 足になる車やバイクも、電子マネーどころか現金もろくに持ってないから、遠くには行けないはずだ、けど。

 彼は健脚の持ち主で、信じられない距離を平気で歩くし。それにそもそも、移動距離は問題ではなくて。

蒼樹朗そうじゅろう!」

 我が家ながら立派な数奇屋門に、転がるように飛び込こんだ。勢い、庭を突っ切る敷石につま先が突っかかって、転びそうになる。

「っと」

 冷たい敷石でなく、あたたかなものが私を受け止めた。


「おかえり、アサ」

 片腕だけで支えられた体をそのままに、顔だけを上げると、私を受け止めてくれた彼――蒼樹朗が微笑んでいた。舞い落ちる雪のようにふわりと、そしてどこか儚げな笑みが、私の胸を鳴らす。

「やっぱりアサは、そそっかしい」

 お小言ですら優しく響く。

 私とほとんど歳は変わらないのに、蒼樹朗はずっと落ち着いていた。

「雪も降ってきた事だし、足元には気をつけること」

 そのまま片腕一本で、私の体勢を立て直す蒼樹朗の腕は硬かった。小柄だけど、鍛えている人の腕だ。

 蒼樹朗は自分の肩に羽織っていたコートを、私の肩にかけた。

「なんで、コート渡すの」

 私はすでに、ボアのジャケットとマフラーまで着込んでいるのに。

「寒いから」

 それは蒼樹朗の優しさだと分かっている。

 雪は珍しく本降りになりそうで、私は確かに震えていた。だけどそれは、寒さのせいだけじゃない。


「それに、にこれを持って行ったら目立つだろう」

 胸がきりりと痛む。

 あっち、それはつまり。

「……帰る気なの」

「ああ」

 蒼樹朗がコートの下に着ていたのは、うちに来た時に纏っていたもの。

「このコート、買ったばっかりなんだからね」

「申し訳ない」

「蒼樹朗、身長は私とあんまり変わらないのに、ガタイが良いから。マジで苦労したんだから、探すの」

 私の身長は、百六十センチに少し足りない。女子高生の平均身長だ。だから蒼樹朗の身長でメンズコートを探すとなると、丈はXSなのに腕や肩周りがぱつぱつになってしまう。

「アサたちが大きいんだ」

 こっちで過ごして驚いたことのひとつだと、蒼樹朗は言う。

 蒼樹朗が小柄なんじゃない。私たちが大きい。

 あっちのことは、知っているようで。私には全てを想像できない。

 この空の色も舞い落ちる雪も、蒼樹朗の故郷とは違うものなのだろうか。


「本当にすまないことをした。その長羽織は売るなり捨てるなりしてくれ。そもそもあっちは夏だった」

 ああ、そうだった。

 蒼樹朗が現れた時、季節は夏の盛りでうだる様な暑さで。

 日差しの凶悪さは、今、とは絶対に違うものだ。

「なによ、なによ。いきなり現れて、また突然、帰るとか」

 普段ほとんど出入りしない庭の隅にある土蔵から、漂ってきた焦げ臭い匂い。火事でも起きたかと扉を開け放ったそこに、蒼樹朗は転がっていた。

「不審者が入り込んでるって、死ぬほど驚いたんだから」

「顔を上げたら棍棒を構えたアサがいて、俺も驚いた」

「だからあれはバットでしょうが……」

 弟の陽太が使ってた、古い木製バット。蔵の入り口脇に立てかけてあったそれを、私はうずくまっていた蒼樹朗につきつけた。

「女だてらに、侍のようだった」

 サムライとか言われて喜ぶ女子高生がいるか。

 けれどそれは蒼樹朗にとって、あまりに身近なもので。


「野球もなかなか面白いものだったな。両軍、真剣に勝負しながらも実に清々しく、平和だった」

 そうだよ、平和なんだよこっちは。

 少なくとも私の毎日は。

 蒼樹朗が来るまでは、毎日平凡で。

 それを貴方がひっくりかえして、毎日騒々しくなって、振り回されて。でも楽しくて。

 いつまでも平和で賑やかな日々、良いじゃない。

「野球ならあっちに帰っても、十年か二十年も待てば見られるかもしれんのだろう」

 蒼樹朗は穏やかに言う。

 その十年後、二十年後は、私には永遠に届かない時間だというのに。

「長生きできることを願って、楽しみに待つよ」

「死んだらどうする馬鹿ッ!」

 堪えきれなくて、怒鳴りつけてしまった。

 蔵に現れた時、蒼樹朗はボロボロだった。

 すすだらけで、火傷もあって、体を折り曲げながら咳き込む背中は裂けていた。燃えてしまったのか、それとも斬りつけられた、か。はっきりしたことは、分からなかったけど。


 裂けた十字絣じゅうじかすりの着物、泥だらけですり潰れた草履。

 手甲に脚絆に――腰の刀。

「ひとんちの蔵にズタボロで現れやがって。アンタは関ヶ原の戦いにでも参加してたんか、馬鹿」

「……関ヶ原なら、二百五十年以上も前に終わってるんだが」

「うっさい!」

 何が二百五十年だ。令和から数えたら、四百年以上も昔なんだよ、くそ。

「私は日本史なんて興味なかったの、苦手なの。戦の区別なんかつかない!」

「御所での戦なんて、あれくらいだと思うんだが……」

 教科書には乗っていた。記述は少しだったけど。

 だけどそのほんの数行の中で。

 百六十年前に、蒼樹朗は確かに生きていた。

 それが不法侵入した、身元不明者の妄想だと思ったことは数しれず。今だって蒼樹朗が、歴史オタクをこじらせたバリバリの現代人だったらいいなと思っている。


 だけど、ねえ。

 本当に、あなたは違う時代の人で。

 だから私の前から、いなくなってしまうんでしょう?

「……帰らなくったって、良いじゃない」

 ズタボロになって、逃げてきたんじゃないの。

 危険を冒してまで、なんで帰らなくちゃならないの。

「こっちだって、悪くないでしょ」

「ああ。戸惑うことばかりだったが、平穏だった。アサも陽太も、こんな素性の知れない男を受け入れてくれて。……本当に」

 ありがとう。

 その言葉を、雪とともに溶けてしまいそうなほど、淡い笑顔で言うから。

(行かないで)

 それは声にならずに。

 言葉の代わりに、涙になって零れた。

 一度流れた涙は止まらず、はらはらと頬を落ちてゆく。


「なに泣いちょる。泣き虫じゃ、アサは」

 口にしてから、蒼樹朗は我に返ったように目を丸くした。

「……郷里くにの言葉が出たな」

 蒼樹朗が意識して、訛りを出さないようにしていたのも知っている。

 クニてなんだよ、同じ日本じゃないか。

 そんな狭い世界で争って、何になるんだよ。

 ……なんてことは、現代いまの私が偉そうに言っていいことじゃないんだろうな。

 己の時代を生き抜くために、真剣に戦う人には。

「ほら泣くな」

 乾いた指先が、私の頬を拭う。

「陽太にも、最後に会っておきたかったな。野球、頑張れよと伝えておいてくれ」

 足元はどんどん白くなっていく。この雪じゃ、野球の練習に行った陽太は早々切り上げて帰ってくるだろう。

 それほど少しの時間も、待ってくれないの。

 あたたかな指先の感触が、いっそう涙腺を刺激した。


「ああもう、湿っぽいのは嫌だ。俺は元の時代に帰る、アサはこれまで通りの生活に戻る。それだけのことだ」

「それだけで済むかばかあああああ」

 蒼樹朗との日々を、忘れられるわけがないのに。

「だから泣かんでくれって」

 指だけでは拭いきれなくなったのか、蒼樹朗は私の巻いているマフラーを頬に押し付ける。安物のウールが、私の涙を吸い込んでいった。

 へぶし、と。寒い中での押し問答に、蒼樹朗がくしゃみをする。私に被害が及ばないように顔を逸らして、蒼樹朗はそのまま体の向きを変えた。

「……本当に、もう行く。これ以上は寂しゅうなる」

 ああ、また。

 滲み出る彼の故郷の言葉は、マフラーに落ちた淡雪のように、じわり、沁みて。


「これ、持って行って」

 もう、本当に、蒼樹朗を止めることはできないんだ。

 全然受け入れられたわけじゃないけど、せめて、と。私は巻いていたマフラーを外した。

「安物だけど、あったかいから」

「向こうは夏だったと言ったろう」

「寒くなったら使って!」

 丸めたマフラーを、私は蒼樹朗に押し付けた。

「寒くなるまで元気でいて。次の冬も、その次の冬も、その次の次も、ずっと、ずっと使って」

 私とあなたの時間が、未来永劫重ならなくても。

 どこかの時間で、必ず生きていて。

「……かたじけない」

 柔らかな白が、蒼樹朗の首を覆った。マフラーをたなびかせながら、蒼樹朗が去っていく。遠くなってゆく背中を、私はただ見つめていることしか出来ない。

 降りしきる雪はいっそう激しくなり、やがて視界を白く染め上げて――。

 蒼樹朗は、私の前からいなくなった。

「死ぬまで生きろよ、ばか」

 当たり前のことを、見届けることが出来ない私は祈る。

 雪は世界を塗りつぶし、全てを曖昧にしてゆく。

 どうせなら、時間も時空も全部曖昧になっちゃえばいいのに。

 私はひとり、立ちつくし。降りしきる雪が蒼樹朗の足跡を消してゆくのを、ずっと眺めていた。







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