七日帰り

遠部右喬

第1話

「先輩、帰るんですか」

「うん。流石に六日も寝袋生活ってのも飽きた」


 白衣を脱いだ先輩が、机の上に散らばっていた私物を雑に突っ込んだバッグを、肩に掛ける。

 研究が佳境に入ると、どうしても泊まり込みが増える。まあ、理学系なんてやってると珍しいことじゃないけど。


「って言うか、先輩のアパートって結構近いんだから、別に研究室に泊まり込まなくてもいいんじゃないんすか」

「なんか、帰るの面倒になっちゃうんだよなー。けどまあ、流石に同じパンツを四日も穿いてるのも何だしな。そろそろ風呂にも入らんと」


 アハハハと先輩が笑う。あー、こんな雑な人なのに、研究内容は繊細で、緻密に論理を組み立てる頭脳は教授からも将来を嘱望されてるんだよなあ。おまけに、無精ひげの伸びた顔だって、よく見れば結構整ってる。


 くそ、羨ましい。ちょっと意地悪したれ。


「……先輩、『七日帰なぬかがえり』って知ってます?」

「あ? なにそれ」

「泊りがけで出掛けた日から七日目に家に帰ることを、そう言うんすよ。先輩、アパートに帰るの七日ぶりですよね」


  ……で? って顔をして、先輩が肩に掛けてたバッグを机に降ろす。どうやら興味を引くことに成功したようだ。

 僕はにやっと笑って、話を続けた。


「七日帰りになると、よくないことが起きるらしいですよ」

「例えば?」

「事故に巻き込まれたりとか、家に着いたら具合悪くしたりとか、怖い目にあったりとか?」


 先輩が呆れたように、


「『とか?』って、随分と適当な話だなー。そもそも、出張だのなんだので七日帰りになる奴なんて、この世にごまんといるんじゃねえか?」

「そりゃまあ、そうなんですけど」


 流石に信じないか。けど、先輩をちょっとでも怖がらせてやりたい僕は、以前に聞いたありがちな怪談を披露することにした。


  *


 これ、知人に聞いた話なんですけど、そいつのアパートからコンビニに行く途中に霊園があるんです。で、そこを通り掛かると、たまーに、霊園から出てくるって噂があるらしいんです。


 なにって……霊園って言ったらあれですよ、「ゆ」ではじまって「い」で終わる四文字の……いやいや、「雄蕊ゆうずい」な訳がないでしょう、なんのおしべだってんですか。幽霊ですよ、ゆうれい。


 え、何で幽霊ってわかるのかって……さあ、身体が半透明とか、足がないとかなんじゃないですかね。もー、先輩、話の腰を折るのやめてくださいよ。


 ……で、ある時、その知人のアパートに友人――仮に「U」とでもしておきましょうか。Uが泊りに来たんですって。なんでも、同棲中の彼女と喧嘩して行くあてが無いからしばらく泊めてくれ、ってことみたいでした。知人も人がいいもんだから、一週間くらいならいいぞって、Uを泊めてやったんです。お互いに昼間は仕事があるし、それならどうせ夜しか顔を合わせないから「ま、いっか」って。


 まあ、野郎同士だと、なんだかんだ夜中になったら酒盛りにもなりますよね。そんなの何日か続けてたら、酒もつまみも切らしちゃって、Uがコンビニに買い出しに出ることになったんです。


 Uは勿論、霊園前の幽霊の話なんて知らなかったと思います。で、買い出しの帰りに出くわしちゃったらしいんですよ、霊園前で、何かを呟く幽霊に。でもUは肝が据わってるって言うか、「珍しいもんを見た。ちょっと観察してやろう」って思って、幽霊に近付いたらしいんです。そんでよく聞いてみたら、幽霊氏、「帰る」って呟いてたんですって。それ以外は特に何もしてこない。

 Uはすぐに飽きて、その場を後にしたそうです。知人のアパートに帰って来たUは自分が遭遇した出来事を、思ったより幽霊って怖くねーな、なんて笑いながら話してたらしいです。知人は「あいつ、ホント度胸だけはあるんだよな」って呆れてましたけど。


 そんなことがあったのが、Uが泊りに来て丁度六日目の夜だったそうで、その翌日、「やっぱ、彼女とちゃんと話し合うわ」ってUは帰って行ったんですって。


 それっきり。Uとは二度と連絡が付かなくなったそうです。


  *


「……で?」

「いや、そんだけです」

「それが『七日帰り』のせいだってか?」

「え、いや、まあ……ハイ」


 先輩が溜息を吐いた。


「話の細部が雑過ぎ。なんなん、結局、Uとやらは行方不明にでもなったってこと? 警察沙汰になったりしてねえの? 大体さあ、お前の知人の話が本当の事だとしても、連絡が付かなくなる理由なんて、いくらでも考えられるだろ」

「まあ、そうっすね」

「怪談としてはイマイチ。評価C」

「厳しいっすね……」


 先輩がバッグを肩に掛け直し、にやっと笑う。


「俺が無事に家に帰れれば、お前の話の胡散臭さを証明する事になるわけだ。精々、明日の報告を楽しみにしてろよ。俺はもう帰る。んじゃ、お疲れ」

「お疲れ様です」


 僕に背を向けた先輩は、軽く手を振りながら、


「お前もそろそろ帰れよ」


 ……そして、それっきりになった。



 あの日から先輩は姿を消してしまった。ご家族が捜索願を出している様だが、あれから数か月経った今も行方は分からず仕舞いだ。研究も順調、誰かとトラブルがあったって話も聞かない。事故や事件に巻き込まれたにしても、そんな形跡があったら流石に警察ももう少し真面に捜査するだろうに、研究室の誰一人、簡単な事情聴取すら受けてない。

 先輩が行方をくらます明確な理由があるとは思えなかった。


 結局、先輩の研究は、僕を含めた数人で引き継ぐことになった。自分の研究も進めなきゃいけないので、やることが山積していて、息を吐く間もない。お陰で、研究室に泊まり込みが続いてて、正直もうくたくただ。

 寝袋に潜り込んだ僕は、ぼんやりとした頭で先輩と最後に話した日の事を思い出す。


 ――そう言えば、呟く幽霊の話なんて何時、何処で聞いたんだっけ。いやそれ以前に、「僕の知人」って、誰の事だ?

 あれ? そもそも僕は今、何について考えてたんだっけ?


 酷く曖昧な記憶が、ゆるゆると雲のような痺れとなって僕の脳を覆う。


 ふと「○○帰り」って言葉が浮かんだ。なんだっけ。


「お前もそろそろ帰れよ」


 耳元で聞き覚えのある声が聞こえた。そうだな。誰だか分かんないけど、言う通りにしよう。


 もう六日も家に帰ってない。明日は絶対に、家に帰ろう。

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