第4話 12月31日 晴れのち氷雨
地元警察署から電話があった朝は、大晦日に相応しく快晴だった。しかし今の
警察からの質問に何と答えたのかは覚えていない。けれど、言われたことだけは頭から離れなかった。
残念ですが、
我々は事件性はないと見ていますが、犬塚さんのスマートフォンを確認したところ
通話を終えるや否や、智泰はトイレに駆け込み、便器を抱えて盛大に嘔吐した。昨夜の酒やらピクルスやらが喉を焼いた。
なんなんだこれは。これは現実なのか。
開人が死んだ?まるで悪い夢の中にいるようだった。だが、こんな状況でも一昨日した雪掻きの筋肉痛が腰を鈍く攻めており、智泰はこれが現実なのだと思い知らされた。
けれど何かの間違いだ。そうでなければ警察を騙る詐欺か何かだ。開人はいつ死んだって?30日の朝に見つかった?そんなワケない。何かがズレている。SEEDの誰かに確認すべきだろうか。けれど決定的なことを言われそうで智泰は怖かった。
なぜなら昨晩、智泰は開人と電話で話しているのだから。
智泰は洗面所でうがいをし冷水で顔を洗うと、鏡の中に昨晩以上に酷い顔色の自分を見つけた。目の下には濃い隈ができ、唇は乾いてひび割れている。濁った眼球の中心では委縮した黒目が不安げに揺れていた。
廊下ですれ違った母親が、「風邪でも引いたんでないの」と心配して声をかけてくれたが、智泰には返事をする気力すらなかった。
台所で水だけを音を立てて飲んだ。気持ちを切り替えたかった。そしてそのおかげで思い出せたのだ。
智泰のスマホには昨晩開人と通話した履歴が残っている。それを確認するために智泰はスマホを置いている和室に引き返し、中途半端に閉じている襖を勢いに任せて開いた。
目の前に真っ黒な人間がぶら下がっていた。
「うわあっ?!」
反射的に叫んでのけ反り、壁に背中を強かに打ちつけ廊下に尻もちをつく。派手な音と叫び声に両親が飛んで来て、「どうした、大丈夫か」と問われるが、智泰の方こそ聞きたい。
俺は何を見た。
心臓が早鐘を打つ。智泰は口を開けたまま恐る恐る室内を見上げると、壁に寄せたコタツのちょうど上辺り、智泰の黒いダウンが鴨居にかけられているだけだった。
見間違いか?
智泰は安堵し大きなため息をつくと、心配する両親を余所に畳に転がっているスマホを掴む。そして着信履歴を確認して、愕然とした。
ない。開人からの着信がない。間違いなくあるはずの昨晩の通話履歴が消えている。こちらから
嘘だ、昨夜は確かに夢現だったが、絶対に会話している。砂嵐の音だって耳に残っているのに、なぜ?何が起こっているんだ?
本当に開人が29日の深夜に命を絶ったとでも言うのか。
スマホを凝視する智泰の思考が、ぐちゃぐちゃに掻き回される。すると、スマホの留守番電話にメッセージが残されていることを示す赤いマークを、眼球が捉えた。反動でタップすると保奈美の名前がいちばん上に表示された。
「保奈美!」
帰省してから連絡がつかなかった恋人。こちらからの着信やメッセージを見て、やっと折り返してくれたらしい。
メッセージを聞くために履歴をタップしようとした智泰の指先が、びくりと止まった。
録音された日付が、12月30日 02:14となっている。
何の冗談だ。昨夜電話するまでの間にもスマホは何度も確認している。そんなに早くから留守電があったのなら、さすがに気づかないワケがない。でも、じゃあこれは一体――
智泰は自問自答しながら震える指先で履歴をタップする。耳に当てたスマホから――ザザ。
不快な音がした。
「ザザ――くん、来たよ――ザ」
大晦日の東京は篠突く雨だった。
留守電を聞いた智泰は大いに錯乱した。
恋人の名を叫び、帰る帰ると取り乱す息子。
それを
一時間半のフライトで智泰の頭もだいぶ冷えたらしい。何が起こっているのかまでは解らなかったが、保奈美に危険が迫っていることだけは確かだった。
頼む保奈美、無事でいてくれ……!
智泰が賃貸している武蔵野のアパートの前に辿り着いたとき、辺りは宵闇に包まれていた。
この雨のせいで傘のない智泰の視界は悪く、すっかり濡れ鼠だった。肌を刺す冷たい雨が体の熱を奪う。智泰は目にかかる雨粒を払いながら、闇に浮かぶ我が家を見上げた。
ごく普通のアパートの二階角部屋。リビングに薄明かりがついている。そこを目指し智泰は慎重に階段を上ると、玄関前に立ち、ドアノブをそっと握った。雨で滑る手で軽く回すとスッと薄く開いた。鍵が開いている。
「保奈美、いるのか……?」
智泰はゆっくりとドアを開くと、「うっ」と顔を歪めた。汚れた便所のような悪臭が漂ってくる。隙間から見ると沓脱には女物のブーツとスニーカーが揃えて置かれていた。
保奈美がいることは間違いない。智泰はドアから体を滑り込ませた。玄関から見て右手に風呂とトイレ、左手にはダイニング兼キッチンがあり、正面のリビングはロフトになっている。
旅行バッグを足下に置いた智泰が顔を上げると、開いたままの扉の向こう、ロフトから見慣れぬものがぶら下がっていた。
「!!」
言葉もなく立ち竦む智泰の目に、常夜灯に照らされたものが映し出される。それは、首が不自然に伸び、眼球と舌が飛び出した、保奈美の変わり果てた姿だった。
「あ、ああ……」
智泰の体が
「おかえり、馬渕くん」
黒い影が立ち上がり智泰を出迎えた。
そして智泰の前に立ち、顔を近づけて嗤う。
「会いに来たよ」
智泰の背筋に一瞬にして
智泰は気づいてしまった。
その影の首は異常に長く、くにゃりと曲がっていた。そしてそれは、開人の声をしていた。
雨で滑り盛大に転ぶが、もう智泰には起き上がることはできなかった。
背後に影の気配を感じる。
「どうしてだ」
「保奈美が好きなんじゃなかったのか?あいつはこれからだったんだ。これから、俺だって、なのに……」
振りそぼる雨が智泰の言葉を消していく。
こんなことになるなら帰省なんてしなければよかったのか。智泰には分からなかった。
分かっていることは、保奈美の瞳は二度と星のようには煌めかないということ。そして自分は、ツイてる人間ではなかったということだけ。
だって開人は、年内に終わらせたい案件があると言っていた。
智泰はとっくに帰る家を無くしていたのだ。
「帰ろう、馬渕くん」
氷雨降る宵闇に、智泰の慟哭だけが響き渡っていた。
完
帰る家 皐月あやめ @ayame
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