septet 03 蹄のある足

palomino4th

septet 03 蹄のある足

居眠りの最中、嫌な音と振動、急ブレーキの反動で彼は起こされた。

安全ベルトのおかげで顔を前に打ち付けるのは免れたが首を痛めそうになった。

鞭打ち症をしかけたぞ……。

しかしそんな事を言っている場合じゃない。

「大変だ」隣で声がして今の状況に気がついた。

彼が座っているのは助手席の方だ。

運転席には友人の黒野がいる。

車内から周りを見る。

道路は山の中の途中だった。

山の中腹に拓かれた車道が前後に続いている。

黒野の方はベルトを外し車を降りた。

首筋を押さえながら彼も安全ベルトを解除して降りると、黒野はしゃがみながら車の前部、バンパーの方を気にしていた。

ひしゃげているのを見て何にぶつけたのだろうと思い、向きを変えて車道の先に横たわるものを見て固まった。

若い女性がそこに倒れているように見えた。

首から広がる痛みのせいか、眼の前に光がちらつくようで目蓋を開け閉めしながらそのそばまで行って屈んで確かめた。

ランニングウェアに身を包んだ女性が道路に仰向けになっていた。

開いた眼と鼻から血が流れている。

片耳にイヤフォンが嵌りもう片方は外れて落ちている。

「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」肩を揺すぶり呼びかけたが反応がない。

「……大変だな、これは」そばに立った黒野が他人事のように言った。

「何言ってる」彼は黒野に向かって言った。「救急に連絡してくれ、そして救命措置だ」

「落ち着けよ……もう手遅れっぽいよこれは」

「何言ってるんだ、本当に」彼は黒野を見上げた。「お前、この状況分かってるのか」

確かに女性の様子はひどい状態だ。

だからと言って救命措置もせずに見下ろしている神経が分からない。

「仕方なかったんだ、急に前に飛び出してきた。あれじゃ避けられない」

「そんなことを言ってるんじゃない、救急に通報しろって言ってるんだ」

「しろって……落ち着けよ、通報するのはそこじゃないだろう」黒野は何故か当惑するような様を見せた。「だって鹿だろう」

「何だって」

「鹿にぶつかって救急車を呼ぶったって、どう説明するんだ」

彼は改めて女性の方を見た。

微かに唇が震えている、まだ息がある。

「良いから連絡しろって、まだ助かる可能性も」

「おい落ち着けったら……お前、すごく疲れてただろう。様子がおかしいぞ」

おかしいのはお前の方だろうと言い返そうとして、立ち上がった時に目がくらんだ。


目を開けると助手席に座っていた。

山の中の道路を車は走っている。

さっきのは、と彼は考えた。

顔を俯けて安全ベルトが首に食い込むように居眠りをしていた。

夢だったのか。

夢——ただし首筋に嫌な感覚が残っている。

鞭打ち症に似た、頸椎系の痛みだろうか、急ブレーキで首がしなった際の。

ここまで考えて彼はさっきのことを——夢なのか現実なのか——思い出した。

居眠りの最中、黒田の運転のためにひどい目にあって……。

それで人をはねたのは現実だったのか?

夢にしても薄君の悪い夢だった。

目の前に瀕死の女性が横たわっているのに黒田の方は「鹿だ」と言い張るのだ。


カーラジオが点けられている。

FMバンドのチューニングがちょうど地域のコミュニティFM局に合わされている。

少し昔の邦楽ポップスが流れた後、ラジオDJがなめらかに話し出した。


『……でした。 続いてのメールですね、××××にお住まい、ラジオネーム「しかのみすず」さんです。——いつも楽しく聴いております。さてどのようにしてこの番組を聴いているかと申しますと、山の中に通じる峠の道路を毎度のコースにしてランニングをしながら携帯ラジオで聴いています。……この先にエントリーしている市民マラソンに向けて、張り切って頑張っております。リクエストですがジョン・ウィリアムスの「カヴァティーナ」をお願いします。 しかのさん、ありがとうございます。 ということはちょうど今、山の中を走っているのでしょうか。 空気の良い自然の中、良いですね。市民マラソンの出場、頑張ってくださいねー。番組からも応援させていただきます。走ったらまた番組にメールくださいね。 さ、癒されるギターの名曲です。しかのみすずさんのリクエスト、ジョン・ウィリアムス「カヴァティーナ」』


ラジオからアコーステイック・ギターの音色が奏でられる。

黒田は黙って運転している。

ふと彼はバックミラーを見て奇妙なものに気づく。

後部座席に不自然な荷物がある。

少し使い古しのブルーシートに包まれた何かがそこを占拠していた。

彼は何かが気になる。

ブルーシートの端から覗いている白いもの。

あれは、例えば。

シューズの爪先のようにも見える。

後ろを覗き込もうとしたけれど、首筋が痛んで動かせない。

落ち着け、と彼は自分に言い聞かせる。

お前の名前は何だ?

彼は自分の頭の中で復唱する。

『……B1013、Bの1013。僕の番号。』

カーラジオがノイズの後に音声が途切れた。

地形のためか、電波の受信が切断された。


次に目が開くと、彼はソファに座ったまま寝ていた。

ここは黒田の家だ、と彼は理解していた。

彼の首の痛みはまだ残っている。

鼻の奥にいかにも美味しそうな匂いが届いている。

キッチンで料理がされているのだ。

ゆっくりと立ち上がりキッチンを覗き込むと、黒田が鍋を玉杓子でかき混ぜている。

鍋には薔薇の模様がプリントされている。

「起きたか」

「何をしてる」

「料理だよ、それ以外に何が見える?」

悪い夢の中にいるようで、彼は目眩がしそうだった。

「さっき車で」

「ああ、本当に気の毒なことをした。でも本当に仕方ないだろう。突然すぎて避けられなかったんだ。かわいそうだったな」

「連絡を、通報をしてないんじゃないのか」

「ああ……カモシカだったら通報が必要らしいね。天然記念物で色々と厄介みたいで。でも今回はカモシカじゃなかった。ニホンジカだった」

何を言っている!!

彼は黒田に掴みかかろうとした。

「ベニスン・シチューだ」黒田は鍋をかき混ぜながら言った。「鹿肉のジビエ料理など素人が手を出すもんじゃないが、しっかりと火を通せば何とかなるかもと思ってね。道路の脇に捨てて置いていくのも気の毒な気がしてね、ありがたくいただこうと思ってさ」

彼はキッチンを出て家の外に飛び出した。

見覚えのある黒田の車にはバンパーと車体の前部に衝突の跡がある。

一軒家の敷地、普段は車を入れるガレージにブルーシートが広げてあって、水で洗い流した痕跡があり、その周囲に血糊が残っていた。

黒田は正気じゃないと思い走り出そうとして彼はガレージの一角に吊り下げられた肉塊を見た。

彼は腿肉とその足先の先端の偶蹄類特有の蹄の先を見た。

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