第11話 卒業




 高校の卒業式は、あっさりとしたものだった。

 特に感慨とかそういうものはなかった。校長の話が長くて、眠気を堪えるのが大変だったくらいだ。

 むしろ、記憶に残るのはこれからだろう。

 僕は屋上の給水塔にかかる梯子を登っていく。その上には既に三ツ村さんがいて、座ってハードカバーの本を開いていた。



 黒と青の二冊の本。

 それが、一週間前に彼女が出版した本だ。

 僕は、彼女の隣に座ると僕名義になっている一冊を手に取る。

 自宅にはとっくに見本誌が送られてきているけど、これは三ツ村さん自身が買った一冊だ。

 彼女は前編たる自分名義の本を見たまま言った。



「予想はしていたけれど、審査の呆気なさには拍子抜けね」

「同じ人が見るんでなきゃ気づかないよ。固有名詞が変わっているし」



 この二冊は、同じ世界を舞台に同じ登場人物たちが描かれているが、前編と後編では「違う国の視点」で描写されている。

 だから、登場人物の名前や国名が微妙に変わる。英語読みとドイツ語読みのようなものだ。

 盗作防止の審査は固有名詞や文章で検索一致を調べるから、そういう点で上手くすりぬけられたんだろう。


 三ツ村さんは、失望したように溜息をついた。


「みんなが出版できるから、社会から見て一作の重みはないに等しいのよ。ただ決められた通り順調に動いているかが大事なだけ。分かりやすいところだけを拾って見て、それ以外に興味はないの」

「どんな物事でも、大局的には大体そうだよ」

「つまらないわ」


 あっさりと、彼女は話を打ち切る。

 でも、そろそろ問題にはなっている頃だろう。

 彼女が本を出したという話は校内に広まっていて、配本指定は僕の本と揃えた。

 生徒の中には気づいた者も多いはずだ。実際、あちこちで噂する声が聞こえてきてる。

 僕は、何度目かも分からない読み返しをしながら言った。


「多分、いい加減警察が来る頃だよ。先生方が卒業を待って通報するらしいから」

「それは親切なのかしら」

「在校生から逮捕者を出したくないんじゃないかな。特に君は優等生だしさ」


 校内指折りの才女から犯罪者では、先生方も扱いに困るだろう。

 でも、進路を決めるにあたって二人とも推薦を取らなかったのは、せめてもの学校への配慮だ。

 大学合格が取り消されるのはまあ、仕方ないと割りきっている。

 それでも一応受験勉強をしたのは、社会への義務感のようなものだろうか。



 式の終わった校庭は、卒業生とそれを見送る在校生で賑わっている。

 花束を持った下級生の女子が、誰かを探してかうろうろと所在なく歩き回っているのが見えた。

 きっと三ツ村さんを探してる人もいっぱいいるんだろうに、こんなところにいていいのか。

 僕は彼女をちらりと見たが、三ツ村さんは真剣に読書しているだけだ。誤字でも探してるんだろうか。第二版があるつもりなのか。

 綺麗な横顔に溜息をついて、僕は鞄からあるものを取り出した。

 それを、三ツ村さんに差し出す。


「これを」

「……先崎君」


 手渡したのは、分厚い原稿だ。

 三ツ村さんは、大きな目を見開いて表紙に視線を落とした。


「この原稿……」

「僕が書いた」


 もはや、一生本にはならないだろう原稿だ。

 本屋には決して並ばない、人の目に触れないであろう物語。

 でも受験が終わってから、僕はこれを書いた。

 一生分全てを注ぎこむ気で、微塵も手を抜かず書いた。僕の一生に一作だ。


「読んでほしい」




 誰かのために物語を書くなんて、今のこの時代では当たり前だろうか、それとも欺瞞だろうか。

 少なくとも、三ツ村さんが「僕のために」書くのは、僕を犠牲にすることへの贖罪だろう。

 自分が書くものが、せめて僕の愛する物語であるように。それともただの願いだろうか。


 だから僕は、僕のために書いた。そして彼女のために。

 難しいことじゃない。僕が好きなものは、きっと彼女も好きだろうというだけのことだ。

 そして僕の話を読むのは、彼女しかいない。だからだ。



 三ツ村さんは、膝の上に原稿を乗せた。深く息を吐きだす。

 そうして姿勢を正すと彼女はゆっくりと原稿を捲り始めた。

 僕は彼女の長い睫毛を見る。黒い瞳が文字を追っていくのが分かる。




 昔彼女は「目の前で読んで」なんて言ったけれど、立場を変えると「よくそんなことを言ったな」と思う。

 正直、自分の原稿を隣で読まれるのは気恥ずかしい。三ツ村さんが小さく息をつく度にどきりとする。

 結局、僕は下読みも何もしてもらってない。一発勝負だ。不公平な気もする。

 でも僕は僕の全力を尽くした。それだけは間違いない。



 静かな屋上に、紙を捲る音だけが聞こえる。

 随分時間が経ったけど、三ツ村さんは一度も顔を上げない。

 僕は隣でぼんやりと校庭を見下している。

 そんな僕たちに気づいたのか、校庭にたむろしている何人かが、僕たちを指さして何かを言いあってるのが見えた。

 屋上の給水塔の上っていう場所がさすがに悪いんだろうか。次第に人が集まってくる。



「三ツ村さん、そろそろ不味いかも」

 心中でもするように見えているのかもしれない。いつの間にか先生たちまでもが校庭に出てきている。

 屋上の鍵は閉めてきたけど、通報されたりドアを破られたりするのも時間の問題な気がする。

 僕は動かない三ツ村さんの肩を揺すろうとした。

 だが、その手は彼女に払われる。

 何をするんだ、と言いかけた。

 それより早く、彼女の白い手が僕のシャツの首元を掴む。

 振り返った彼女の顔が近づいた。

 その黒い目に思わず見惚れた―――― その瞬間、唇が触れる。

 長い睫毛が、僕の顔を撫でた。



 砂を含んで柔らかい風が吹く。

 彼女の顔がゆっくりと離れた。

 三ツ村さんは、唖然とする僕に囁く。



「愛しているわ、先崎君」



 その声は、何よりも透き通って聞こえた。

 美しい顔が、至近から僕を見つめる。黒い瞳に映る自分の顔が、他人のもののように思えた。


「……三ツ村さん、ついに狂ったか」

「本気で言っているのだけれど。照れ隠しならここから突き落すわ」

「死ぬからやめて」


 急に何だって言うんだ。

 僕の一生を巻き添えにしたから、っていうなら余計なお世話だ。今更にも程がある。

 そうじゃなくて、僕の小説を読んだからっていうなら――――


「僕は、作品と作者を混同されるようなものを書いた覚えはないんだけど」

「そうね。登場人物と先崎君はまったく違うわね」

「なら何で」


 彼女は、こんなことで嘘をつかない。

 短い付き合いだけど、それくらいは分かる。分からないのは、なんでそんなことを言い出したかだ。

 けど、僕の困惑を吹き飛ばすように、彼女は笑った。


「私は、これを書いたあなたを愛している」

「物語で僕の何が分かるんだ」

「精神が。―――― 人の精神以外の何を愛するというの」


 彼女の手が、僕の手を取る。

 唇が触れる。

 それは息で、言葉だ。

 僕たちが一生を費やす祈りだ。

 限られた世界で、それでも自由を彼女は謳う。


「だから先崎君、あなたが私の人生を変える人だわ」


 少しだけ涙の滲む目で、三ツ村さんははにかむ。

 それは、ただ一冊に値する笑顔だった。





         ※




 一生に一冊だけの本と、人はどんな風に向き合うのだろう。

 きっとそれは、人の人生を映すに似た行いだ。誠実であれ不実であれ、書かれる本が一つの鏡だ。

 でも僕は、彼女は、そんなものを望んでいない。よしとしていない。

 本は、世界はもっと自由だ。

 そうあればいい。僕たちが自らの世界を造り、挑むように。


 給水塔の上から僕は、校庭を見下す。

 誰かが通報したらしく、パトカーが校門から入って来るのが見えた。

 既に下は生徒の人だかりが出来ている。次に始まるのは説得だろうか。出版違反についても、そこで問われるのかもしれない。

 僕は立ち上がると、三ツ村さんに手を差し出した。


「全部読んだ?」

「読んだわ。もう全部覚えてる」

「読むの早いな」


 これが成績の差に直結するんだろうか。羨ましいけど、今はそれどころじゃない。

 僕は受け取った自分の原稿を見下した。プリントアウトし、黒紐を通しただけのそれを掴む。

 毎晩深夜までかけて書き上げた小説だ。あちこち直して、もう正直よくわからない。

 そんな苦労の結晶を、僕は苦笑と誇りをもって見つめた。

 そしてその紐を解く。

 僕は校庭の生徒たちにも届くように、声を上げた。


「人が誰しも、一生に一冊は名作と呼ばれる本を書くことができると言うなら」


 物語を綴る紐を引き抜く。

 白い紙が、僕の手の中から溢れる。


「僕の一冊は、彼女に捧げた。それで十分だ」


 誰よりも、この世界を愛してくれるだろう彼女のために。

 それが、僕の選んだ自由だ。

 僕が向き合う自分自身だ。

 そして彼女が僕の物語を愛してくれるなら―――― 作者として、こんな幸福なことはない。





 僕の手を離れた原稿が、断片となって校庭に降り注ぐ。

 何人もの生徒たちが舞い散る紙を拾い集めようと動きだすのが見えた。

 三ツ村さんが、呆然とした顔で僕を見上げる。


「……先崎君、すごいことをするのね」

「一枚でも見て続きが読みたいと思ってもらえたなら、その人が集めてくれるよ」

「それは……自信家にも程があるわ」

「君ほどじゃない」


 ずっと驚かされて、敗北してきたんだ。

 たまには彼女のこんな顔を見るのもいいだろう。

 空っぽの手を、僕は彼女に差し出す。

 その手を取る三ツ村さんは、まるで年相応の女の子のようで――

 やっぱり特別な、僕の恋人だった。




        【End】

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緩慢な表象と虚ろな幻想 古宮九時 @nsfyuki

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