第10話 敗北
『全ての個人は、生涯に一作のみ、言語の著作物を出版しなければならない』
基本教育法、第二章第十六条にあるこの一文は、僕たちが生まれる前に制定されたものだ。
一生に一冊。それは厳然とした社会の決まりで常識だ。
勿論その法律に反して、「一冊の義務」を売買する人間もいるという噂は聞くが、それはあくまで秘密裏にやるもので、見つかれば刑罰が待っている。おまけにそのまま前科者だ。社会からは一生色眼鏡で見られる。古い言葉で言えば、まともな就職も結婚も出来ない。
でも、三ツ村さんが言っているのは、そういう危ない橋を渡ろうってことじゃないだろう。
もっとずっと―――― 正気の沙汰じゃないことだ。
「僕の義務を、君に?」
「そう。同じ日に出版されるようにするの。審査をどう通すかももう考えてる」
「それは、同じ物語を二冊でってことだよね」
「古典的な言葉で言うなら、前後編ってものかしら」
「三ツ村さん……」
彼女は本気なんだろうか。
それは、法律違反を隠す気がないってことだ。
同じ人間が二冊の本を出す―――― その行為を、他に周知させる。
当然、実行犯である彼女は勿論、僕もまた捕まることになるだろう。
それを分かった上で、彼女は僕に「寄越せ」と言っているのだ。
最初から、彼女はその為に僕を選んだ。
「―――― 君は、正気?」
「勿論よ」
「警察に捕まるよ」
「知っているわ」
「一生が台無しになる」
「知ってるわ。だから何なのかしら」
「僕も巻き添えだ」
「知ってる」
彼女は堂々と笑う。
「でも先崎君は、そんなことを気にしないでしょう?」
悔しいほどに、その姿は美しかった。
どうしてこんなことになってしまったのか。
下読みなんて嘘じゃないか。最悪にも程がある。三ツ村さんの頼みなんて聞かなきゃよかった。
本当にひどい人間だ。
ひどくて、でも、だから僕は。
「……その原稿を読ませてくれ」
彼女に手を差し出す。
三ツ村さんは、そう言われることが分かっていたように、恭しく僕の前に両膝をついた。
「どうぞ」
そして僕の手に、彼女の「世界」が渡る。
物語とは何か。
僕は再三、彼女に語った気がする。
柄じゃないのに、言葉にした。こうあるべきだと訴え、彼女を型に嵌めようとした。
どうすれば読んでもらえるか。どうすれば小説として整うか。名作たり得るか。
―――― 今となっては、全て些末なことだ。
そんなことは意味がない。確かに存在する世界の前には。
物語とは、創作とは、きっとそんなものじゃないんだ。
「先崎君、私たちは物語を『造る』のよ」
かつて創造主がそうしたように。
華やかな英雄の誕生から、儚い草花が枯れる様まで。
全てを一つ一つ造っていく。
そうする自由を、僕らは生まれた時に与えられている。
―――― そうであるはずだ。
彼女の記す文字を、僕は飛ぶように追っていく。
「……馬鹿馬鹿しい」
零れ落ちる涙が、膝を濡らした。
「君は、本当に馬鹿だ……」
「知っているわ」
「僕を選んだのが、もっと馬鹿だ」
「人を見る目に自信はあるわ」
「一番馬鹿馬鹿しいのは、こんな話に乗る僕だ」
震える指が、ページを捲る。
そこにある世界に触れる。
まるで傲然と不器用で、だが美しい世界。
作品から自分を消したいだなんて、愚かな願いだ。この世界は、こんなにも彼女によく似ている。
誇り高く、あるがままの――――
これを愛しいと言わずに、僕は何を愛するのか。
いつか、物語を書きたいと思っていた。
一生に一作を。己が全てを込めて仕上げたいと。
地図帳を見れば想像が広がった。歴史を知れば着想を得た。
けれどそれは、もはや無用の長物だ。
「……何もしていないのに、何も書けないのに、僕まで犯罪者だ。前科者だ」
世間からは、若気の至りと言われるだろうか。先のことを考えられぬ馬鹿のやることだと。
けど、そんな嘲りには塵芥ほどの価値もない。
見知らぬ人間の囀りは、何ももたらさない。
僕は彼女を見つめる。
精緻な人形を思わせる美貌。
世界を孕む目を、僕は見返した。
「三ツ村さん、君は最悪だ」
「ええ」
「そして君の物語は、最高だ」
深く、息をつく。
この息が、彼女まで届くように。
「僕の人生を変えたいなら、好きにしろ」
好きなだけくれてやる。
君がそう、望むままに。
「だから三ツ村さん―――― 僕の一冊を使え」
願わくば、こんな裏切りも敗北も、一生に一度で済むように。
僕は祈る。
「ありがとう、先崎君」
震える声が、耳元で囁く。
「楽しみにしていて。あなたのために書く本なのだから」
彼女のそんな嘘だけが、僕に与えられたものだった。
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