第9話 転回
真の『屍の辿る記憶』とも言える一冊。
その中に書かれていたのは―――― 同じで、だが非なる物語だ。
あちこちに足されている描写。パラグラフ。新たな場面。
数行読むだけで解釈の枝葉が広がる。見えなかったものが見えてくる。
要らない情報などない。思考が広がる。
それから僕は五時間、『屍の辿る記憶』を読み続けた。
五時間経って、ようやく三ツ村さんがいなくなっていることに気づいた。
様子を見に廊下に出たら、三ツ村さんは夕飯を相伴にあずかってた。
「先崎君は好きにしたら?」と言われたし、杉方さんの母君にも「ゆっくりしていって」と言われたので、読書に戻ることにした。
それから僕は、一週間をこの書斎で過ごした。
「後悔したかしら?」
一週間ぶりに書斎にやってきた三ツ村さんは、ぼろぼろの僕を見てそう言った。
飲み食いは、三ツ村さんが置いていった食料で出来たし、杉方さんも気にかけてくれたけど、当然学校は行っていない。家にも帰ってない。
全部を投げだして、ただ本を読んで考えていた。
体を動かすことさえ億劫な僕は、床に座ったまま目だけで三ツ村さんを見上げる。
「してないよ。全然してない」
後悔なんて、するわけがない。
僕はこの本を読めて、幸福だ。世界一幸福だと断言できる。
生まれてきた意味があった。この本を知れてよかった。
ただそれだけだ。
杉方さんには申し訳ないけど、でも、埋め合わせは必ずする。
一生かかってでも。この本にはそれだけの価値がある。
けど断言した僕に、三ツ村さんは笑った。
「勘違いしてるわ、先崎君」
かつん、と音を立てて、彼女は書斎の中に入ってきた。
ぼろぼろの僕の隣をすり抜けて、部屋の奥へと向かう。
その先には壁の本棚があり―――― でも彼女は本棚ではなく、その下の戸棚に手をかける。
嫌な予感がしたのは、一瞬だ。
でもそれは、嫌な、なんて予感じゃなかった。むしろ喜ぶべきことだった。
彼女は戸棚を開ける。
その中には、無数のノートが並べられていた。
「これは全部、杉方光則の書いたものよ。設定資料集だったり、本編にかかれなかったエピソードだったり」
「……この量が、全部」
一冊の本で、一週間。
けど、そこにあるのは十数倍の量の資料だ。
どれだけかかるか分からない。でも読みたい。
読まないわけにはいかない。僕は、踏みこんでしまったからだ。
―――― 『書くことを許された一冊』を越えた、領域に。
そう。
どうして僕たちは、ただの一冊しか書くことができないのか。
僕は乾いた喉を鳴らす。
「先崎さん」
「何かしら」
「僕はまだ、正気でいるのかな」
「勿論」
人生が変わる。
彼女の言っていたことは、事実だ。どうしようもなく変わってしまう。
一つの物語が、それを可能にする。
ほんのささいな断片でも、見逃さずにいたいと思うほどに。
彼女は、そんな僕に微笑む。
「あなたがそういう人間だから、私はあなたを選んだの」
「僕が『屍の辿る記憶』のファンだから?」
「違うわ。『知ったら戻れない』人種だからよ」
「知ったら戻れない?」
「感じたでしょう? 一冊じゃ足りない、と」
三ツ村さんは、そう言って自分の鞄を開ける。
取り出したのは分厚い原稿と、三冊のノートだ。
杉方光則のものじゃない。彼女の書く、彼女自身の物語だ。
長すぎる、と僕が断じた話の―――― 。
「先崎君、あなたはいい読者だわ」
―――― ああ。
この先の言葉を、僕は既に予期している。
最初から彼女は言っていたじゃないか。
『僕は何も書かなくていい』『ただ彼女の書く話を読めばいい』と。
言葉を惜しむ僕を、読むことの執着を捨てられない僕を、彼女は選んだ。
僕たちに許された一冊では、あまりにも不足しているからだ。
そして彼女は、杉方光則のように描けない物語を捨てることも選ばなかった。
代わりに僕を、
それはきっと
「だから先崎君、あなたの持つ一冊の義務を、私に頂戴」
この為だった。
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