第8話 真説
杉方光則の書斎は、三方を作りつけの本棚が囲む重厚なものだった。
正面には大きな木の机があり、その上には一冊の本が開かれている。
だが、目立つものはそれだけだ。埃の一つも積もらないように掃除はされているが、とりたてて目を引くものは何もない。
僕は閉塞した臭いの漂う部屋を見回した。
「すごい。前時代の本がこんなにある……」
本棚に並ぶ本の中には、同じ作者のものが何冊か混ざっている。
まだ職業作家がいた時代の本だ。今ではもう個人宅で見ることはほとんどない遺物に、僕は感心の声を上げた。
三ツ村さんは感慨の欠片もない声音で言う。
「見てもいいけど、元の場所に戻して置いて。金銭的な価値はないけど、貴重な物が多いから」
「なんで自分の部屋のように言うんだ……」
「占有権があるのはもはや私じゃないかしら」
「人んちだろ! ここ人んち!」
何言ってるんだこの人。本当野放しにできないな。
けど、杉方光則の蔵書に興味があるのは事実だ。僕は三ツ村さんに是も否も言わずに、机の向こうに回った。
本棚を見ようとして、けれど襟首をぐい、と後ろに引っ張られる。
予想していなかった攻撃に、僕は奇声を上げた。
「ぐぎょげぇ!」
「怪鳥みたいだわ、先崎君……」
「いや君のせいだから! 何ちょっと引いてるんだよ!」
「今からそんなことじゃ、断末魔もちょっと不格好になってしまうんじゃないかしら。練習しておいた方がよくない?」
「断末魔を練習するやつはいない!」
人の家でもお構いなしすぎる。
僕は首をさすりながら、三ツ村さんに向き直った。
「で。僕の首をどうしてもごうとするんだ……」
「別に。優先順位を変えてあげようかと思って」
彼女が指し示したのは書斎机だ。
そこには開きっぱなしのハードカバーが一冊置かれている。
そういえば、これは占有権を主張する三ツ村さんの読みかけの本なんだろうか。
ページを覗きこむ僕に、彼女は言う。
「それは杉方光則がいなくなった日から、そのままにしてあるわ」
「杉方光則が……? というか、いなくなったのか」
死んだんじゃなくてよかった。ということは、彼は現在失踪中ということか。
この本はその手がかりになる……ということなのかな。
僕はざっとページを見渡し――――
「あれ、これ……」
「どうかした?」
「これ……『屍の辿る記憶』だ」
間違いない。主人公の名前も描写も『屍の辿る記憶』だ。ただ、こんな場面を僕は知らない。
ハードカバーであることもそうだ。僕は本を引っくり返して、見覚えのない装丁を確認した。
「なんだこれ……厚さが違うんだけど」
「それは、第二版よ」
「は……?」
第二版って、何を言っているんだ。
極稀に本が重版されることがあったとしても、こんな風に装丁や厚さが変わることなんてない。
これが許されるなら、「一冊のみ」の定義が揺らいでしまう。
唖然としている僕に、三ツ村さんは美しい笑みを向けた。
「言い方が不味かったわね。それは出版されていない方の『屍の辿る記憶』なの。杉方光則が後から自分のために作った本。ページが多いのは単に、削られなかった部分も入っているからね」
「そんなものが……」
めちゃくちゃ気になる……。
ただでさえ「屍の辿る記憶」はどうとでも解釈できる箇所が多い幻想小説だ。
未公開本文があるなどとなったら、話はまったく違ってくる。
思わずページを捲ろうとする僕の手を、けど三ツ村さんが唐突に握ってきた。
何か意図があるのだろうと思って、僕は彼女を見返す。
三ツ村さんは、じっと僕を見つめたまま―――― 何秒経っても手を離そうとしなかった。
僕は真面目な顔で、彼女に問う。
「嫌がらせ?」
「ええ」
「離せ」
本当意味分かんないな、この人は!
何なんだよ! 読ませてくれよ!
けど三ツ村さんは手を離さないままだ。
黒々とした目が、まるで夜を切り取ったように僕を見つめる。
「後悔するわよ、先崎君」
「……後悔ってなんで」
「人生が変わるわよ」
なんでそんな大仰なことを言うんだ。
でも……ここにあるのは「屍の辿る記憶」だ。僕が一番影響を受けた、謎めいた本。
その真説とも言うべき一冊に、三ツ村さんの言うような正体の知れぬ圧力を覚えて、僕は息を飲んだ。
三ツ村さんは美しく微笑む。
「あなたがそれでもいいと言うなら、好きにすればいいわ」
「好きにすればって……」
本一冊が人生を変えることなんて、いくらでもある。
それは当たり前のことだ。僕らの人生は、何よりも自分の本と結びついている。
そしてそれ以外の本も、全て誰かの生だ。
―――― 人生が変わって、当たり前なのだ。
本とはもとより、そういうものだ。
だから僕は頷く。
「好きにするよ。だから離して」
三ツ村さんは何も言わない。
ただ彼女は言われた通り、手を離して一歩下がった。
僕は机の前に歩み寄り、「屍の辿る記憶」を手に取る。
そして開いた。
―――― 僕はこの時のことを、今でも悔いてはいない。
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