第7話 『屍の辿る記憶』
『屍の辿る記憶』は、いわゆる幻想小説として区分される本だ。
主人公の一人称で語られるこの本は、「私」という男が見知らぬ駅で目覚めたところから始まる。
何故そこにいるのか分からない主人公は、駅を出て黄昏時の街を彷徨いだすのだが、ありふれた景色は少しずつ狂いだし、「私」の記憶にも齟齬が出始める。
何が現実で、何が幻影であるのか分からなくなり、進むにつれ主人公が何者であるかも曖昧になる。
最後には、生死の境界さえも揺らぎ、とうに死んだはずの同級生と連れだって砂丘を行く主人公は、自分を「屍と同じだ」と漏らす。
そうして月下の砂丘の景色だけが描写されて終わる、という話だ。
僕はその当時、毎週のように新たな本を買っては読んでいたが、『屍の辿る記憶』を手に取ったのはほんの偶然だった。
いつものように立ち寄った本屋で、じっと平台を睨んでいる男がいた。
その視線を追って目にしたのが、月夜の砂丘を描いたこの本の表紙だ。
広い砂丘を俯瞰から描いたイラストで、中央に小さな人影が描かれている。
おそらくは主人公だろう。だが黒い小さな影からは様子が窺えない。
ただなんとなく謎めいた空気に惹かれて、この本を手に取ったのだ。
結果として僕は、この本を読み解くのに三年かかった。
今でもまだ読み解けている自信はない。
それはこの作品が、綿密に計算され張り巡らされた伏線をそこかしこに隠してあるからだ。
―――― 『屍の辿る記憶』とは、底のない箱で、作者の杉方光則とは怪物だ。
僕はそう、思っていた。
「杉方光則に会いに行く……って妄想の中で?」
「私がそれをする理由が分からないわ。どうやって私の妄想にあなたを伴うのかも」
「妄想だったら、伴っていると思いこんでいるだけで伴ってないんだと思う」
「それじゃまるで、私が淋しい人間みたいじゃない。いもしない空想上の人間と取材に行くなんて」
「待て。僕は実在してる」
「仕方ないわね。じゃあ杉方光則のところには、空想の先崎君と行こうかしら。空想の先崎君だからバス代もかからなくていいわね」
「いやだから、なんでナチュラルに杉方光則に会いに行こうとしてるのかと!」
問題は僕が実在しているかどうかじゃないし、空想の僕と出かけようとしているのはただの嫌がらせだ。
僕は歯軋りしたい気分で脱線した話題を戻す。
「杉方光則がどこに住んでいるか知っているの?」
「知っているわ。この市内よ」
「近い」
さすがに驚いたが、よく考えれば驚くことじゃないかもしれない。
毎日のように発売される本の中で、平台に積まれていたということは何かしらの理由があるからだろう。
そしてもっとも多い理由が、近所に住んでいる、というものだ。
今まで僕がそんな当たり前のことに思い当たらなかったのは、杉方光則のことを、それこそ空想上の人物のように感じていたからだろう。
作者と登場人物を同一視してしまうことはよくあることだが、僕自身がそう思いこんでいたとは恥ずかしい。
三ツ村さんにそれを指摘されたら悶死してしまうかもしれない。
「先崎君、さては杉方光則をまるで小説内の登場人物のように思っていたでしょう」
「死なないよ! 残念だったな!」
「急に狂ったの? それとも想像上の人物と戦ってるの?」
「大体三ツ村さんのせいだ」
もう全然ここから移動できない。
三ツ村さんとの会話は、彼女の小説そのものだ。冗長で話が進まない。
僕は「とにかく移動しよう。ほら移動しよう」と彼女を促して駅前から離れる。
郊外に向かうバス路線に乗って、僕たちは移動を開始した。
乗客の少ない車内で、一番後ろの席に座った僕は窓からの景色を眺める。
電車であちこちをぐるぐる回っていたせいで、時刻はもう夕方だ。
隣に座った三ツ村さんが口を開く。
「先崎君に任せておくと、冗長で話が進まないから説明するわね」
「君が言うなよ! 君のせいだよ!」
「杉方光則は、私が子供の頃、隣に住んでいたの」
「ああ、なるほど」
「中学生の頃に引っ越してしまったのだけれど。彼が出版した時はまだ隣人だったわ」
三ツ村さんの話を聞きながら、僕は『屍の辿る記憶』について知っていることを振り返る。
この本は、五年前に発売されたが、多くの他の本がそうであるように、大して売れなかった。
本の実売数は公的機関のみが知る情報で、僕たち一般人には知る由もないが、この本を知る者がネットの口コミサイトでもほとんどいなかったことから大体それは事実だろう。
ただ極一部の人間には、熱狂的な支持を受けているのも事実だ。
『屍記憶』の解釈を行うサイトは、今でも十近く残っている。
そのうち稼働しているのは二つ。熱心な読者は、あの不思議な話を読みこんでは己の考えを書きこんでいるのだ。
それくらい、『屍の辿る記憶』とは、如何様にも読める謎めいた話だ。
主人公は誰なのか、それぞれのシーンで話している相手は誰か、意味ありげな描写の真意は何か。
作者に真意を問いたいと思った人間も多いだろう。
だが、奥付に連絡先はなかった。だから僕たちは自分で主人公の記憶を辿って悩むしかなかったんだ。
―――― その作者に、三ツ村さんは会えると言う。
「三ツ村さんは、勿論『屍の辿る記憶』を読んだんだよね?」
「ええ。なんだか分からない話よね」
「まあそうなんだけど」
身も蓋もないな。これが信者と読者の温度差か。
バスは閑静な住宅街を走っていく。
並走して、八十過ぎに見えるおばあさんが自転車を漕いでいるのがさっきからちょっと気になっていた。
なんだろう、このおばあさん……すごい脚力だな。僕だったらバスと同じ速度で走るとか無理だ。
三ツ村さんが年を取ったらこんなになるかもしれない。こわい。
僕の心象として、学校のヒロインから得体の知れない怪人へと降格した三ツ村さんは、長い黒髪を払った。
「なんだか分からない話なのは仕方ないわ。出版されたのは、全体のほんの一部であるのだし」
「ああ、そうなのか……って、へ!?」
全体の一部? 全体の一部って言った!?
なんだそれ。つまり僕たち読者は、数少ない手がかりをあーでもないこーでもないしていたわけで、でも本当はそれ以上のものがあって……
「もっと早く教えてほしかった!」
「でも知らないでいることの楽しみもあると思うけれど。知れば知ったで別の喜びと苦しみがあるわ」
「その選択の権利を僕にください、という」
「知ったら選択なんてできないでしょう。生まれてしまったらとりあえず生きるしかないのと同じよ」
「そうなのかなあ!」
三ツ村さんと話していると、主題をどんどんずらされていく。
「そうかもしれないけど多分違う」という話に大体が集約されるので、まともに取り合いすぎると病んでしまう。
僕はこれ以上彼女に好きに話させないよう、自分から話題を振ることにした。
「杉方光則さんとは、最近も会ってるの?」
「最後に会ったのは三年前かしら」
「めちゃめちゃ疎遠になってる! それ今日行って平気なのか!?」
「別に平気よ。ほら、次で降りるわよ」
三ツ村さんが言うなり、バスはゆっくりと減速して止まった。
戸惑いを隠せないまま、僕は人気のない住宅街へと降り立つ。
様相こそ違えど高い塀ばかりが並ぶ街並みは、まるで異国のような空気だ。
人通りも何もない忘れ去られた街を、僕は三ツ村さんの半歩後ろについて歩いていく。
そうして一歩歩むごとに緊張が全身に染みわたって、息苦しくさえあった。
三ツ村さんは、五分も行かないうちにぴたりと足を止める。
そこはなんの変哲もない瀟洒な二階建ての家だ。三ツ村さんが壁のインターホンを押すと、ややあって中から老婦人が顔を出した。
化粧けのない、だが綺麗な顔立ちの老婦人は、三ツ村さんを見るなり表情を和らげる。
「あら、紗季ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは。すみません、今日は友人も一緒なんです」
三ツ村さんがいいながら一歩脇に避けたので、僕はあわてて挨拶をする。
老婦人は、杉方光則の母君だろうか。親しげに三ツ村さんとやりとりをしているのを見て、僕は違和感を覚えた。
スリッパに履き替え、廊下の奥にある一室へと僕らは案内される。
老婦人はドアを前に「お茶を淹れて来るわね」と行ってしまった。
ドアノブに手をかける三ツ村さんに、僕は声を潜めて問う。
「失礼なことを聞くけど、杉方光則さんは―――― 」
「存命かどうか? どうしてそう思ったの?」
「三年ぶりにこの家に来たって感じじゃなかったから」
老婦人の口ぶりからして、三ツ村さんはしょっちゅうこの家に来てるんじゃないだろうか。
にもかかわらず、杉方光則に三年も会っていないとは、つまりはそういうことじゃないのかと。
三ツ村さんはにっこり微笑む。
それは彼女の顔立ちの繊細さを思いださせる、すごく綺麗な笑顔だった。
彼女はドアノブに手をかけ、重い木の扉を開く。
「ようこそ先崎君、杉方光則の書斎へ」
その先に広がっていたものは、世界だった。
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