第6話 閑話
出版が権利とはいえ、それを書くための取材や資料は自費だ。
この辺りは当然と言えば当然で、いわゆる「仕事もの」の本の作者が本職ばかりの理由でもある。
余程の理由がなければ、自分の知らないことを自費で調べて本にしようという人はいない。
でも、最初からそれも含めて政府はこの政策を通したのかもしれない。
本は、作者の人生を映す鏡だ。
それは国民一人一人にあるもので、そこから乖離したものは、もはや今の世では求められていない、のだろうか。
僕は三両しかない古い列車に揺られながら、窓の外の景色を眺める。
人の少ない漁師町は、風景もまるで一枚絵のようだ。言ってしまえば動きがない。
僕はボックス席の向かいに座っている三ツ村さんを見る。
「この取材旅行がどこに向かっているのか、そろそろ聞いてもいいかな」
「駅に向かっているわ」
「そんなことは自明の理だし、むしろ駅を経由しないなら途中で飛び降りることになるからやめて欲しい。そうじゃなくて、駅を出た後、どこに行くのか聞きたいんだけど」
「昼食を食べに行こうかしら」
「そうだね。それ以外ないね」
もう聞くのやめよう。彼女の好きにさせよう。
駅で降りて昼ごはんを食べるのには僕も異議がない。それが魚料理だろうと洋食だろうとあんまりこだわりはない。
船盛でもジンギスカンでも好きにすればいいと思う。
列車はいつの間にか山の間を縫うようにして走っている。
すぐに会話がなくなってしまう僕たちは、自然と同じ車両のどこかから聞こえてくる会話に耳を傾ける。
中学生くらいの男子たちだろう。数人の話声は奇しくも自分たちが出版した本について語っているようだ。
一際大きい声が言う。
「お前の本、読んだけどよく分かんなかったよ」
「いいんだよ、分かんなくて」
応える声はいささかぶっきらぼうだ。
向かいで三ツ村さんが目を閉じるのが見えた。寝るつもりだろうか。取材はどうした。
「なんか場所もぽんぽん飛ぶしさ、いたはずのやつがいなくなってたりして、恐えーんだよ」
「ガキの頃に見た夢がもとになってるからだよ。なんか印象に残ってたんだ」
「へえ。そういうの面白いな。他にそういうの書いている人いる?」
「知らない。夢日記でデータベース調べてみろよ」
データベースは、全国民の著作が記録されているものだ。一般市民の閲覧権限では、公開されているタイトルと著者名、あらすじなどが調べられる。本屋に全ての本が入るわけではない以上、そうやって発行される本を調べては取り寄せている好事家もいる。
「そういうお前はいつ頃本出すんだよ。大人になってからだと時間取れないって聞いたぞ」
「今考えてんだよ。自信作だって。小学生の頃から考えてるんだからな。楽しみにしとけ」
「えー、よく知りあいに読ませる気になるよな。オレ、絶対地元には並べないようにしてもらうぜ」
「別に、みんな出すもんだし。気にしたことねえよ」
「―――― センシティブな問題ね」
「起きてたのか、三ツ村さん」
「別に寝ていないわ」
黒々とした目が天井を仰ぐ。三ツ村さんは、僕だけに聞こえる声で言った。
「自分の本というものがどんな存在かは、人によってあまりにも違うわ。鞄につけているキーホルダーと大差ないものなのか、引き出しにしまって誰にも見せられないものなのか」
「誰にも見せないものを本になんてしないだろう」
「自分を知らない人になら見せられることもあるでしょう」
返事はしなかったが、それには大体同感だ。
知り合い以外になら見せられる、むしろ見せたいと思う。
その感情は繊細で、一様に塗り潰せるものではない。
三ツ村さんはおもむろに鞄の中から一冊の本を取り出す。
それは僕の知らない本だ。タイトルは「うきぐさに杭」。まったく内容が想像できない。
「これは、七年前にある女性が出版した本。一応フィクションということになっているけれど、その中見は告発本よ」
「告発本……」
「ええ。彼女が務めていた会社の不正にまつわるお話ね。仮名は使っているけれど、読む人が読めばすぐわかるわ。作者はこれを、自分の地元に集中して配本させた。結果は推して知るべしね」
「なるほど。そういうこともあるだろうね」
本当に、人によって本とは異なる意味を持つのだ。
ならば、僕にとって僕の本とは何か。
考えようとする僕に、三ツ村さんは微笑む。
「たとえば私が余命幾許もない身であるとしたら」
「嫌な仮定がきた」
「私の書く本も、私の口にする言葉も、付加的な意味をもってとらえられることになるでしょう?」
「おそらくはそうだろうね」
「それはいささか無粋だとは思うけれど、今のこの時代、本は作者と近すぎるの。作者と本はほぼイコールで考えられる。それが嫌な人が、遠くで本を売ろうと思うんでしょうね」
作者というフィルターを通さずに、作品を見てほしい、とはなかなか難しい願いだ。
勿論、本名を隠すことはできる。でもどうしたって作品の中に作者は現れる。
それは知識量であったり、教養であったり、思想であったり、育ちであったり、様々だ。
僕たちは、それを消すような訓練を少なくとも受けていない。
余命僅かな美少女が書いた本と言えば、それは売れるだろう。
ただ三ツ村さんは、そういったことに我慢がならない人だ。彼女を見ていれば分かる。
彼女はおそらく―――― 本からできるだけ「自分」を消してしまいたいのだ。
黒い瞳が、じっと僕を見る。
「本の出版が義務になる以前は、人が生きた証なんて、そうは残らなかったわ。名前が記録に残るだけなんて人もざらだった」
「うん」
「でも今は違う。本が残る。―――― それは、全ての人間の思考が残るということよ」
ふっと脳裏に浮かんだのは、墓標だ。
人の死した後に建てられる石。それは、分厚い本によく似ている。
名前だけを刻んでいた墓標は、これから死者の思考をも刻んでいくのだ。
そんなものが増え続ける。墓標の中を、僕らは歩いていく。
僕は、美しい彼女に問うた。
「自分の思考が残るのは、厭?」
「剥き出しの思考を曝すなんて、無様だわ」
挑むように、彼女は微笑む。
「私たちは物語を『造る』の。そうでしょう? 先崎君」
まるで、ささやかな反抗だと―――― そう思いながら、僕は頷いた。
三ツ村さんは、それから何度か乗り換えを指示した。
昼食は駅のホームの立ち食いソバ屋で食べた。改札さえも出なかった。
僕はかけソバにコロッケを乗せた。三ツ村さんが羨ましそうにしていたので半分あげた。
「先崎君の舌は庶民派だわ。私は好きだけれど」とほくほく食べる姿はシマリスみたいだった。
僕たちはそうして半日電車を乗りついで、元の駅に戻ってきた。
僕は三ツ村さんに言った。
「何故戻ってきた……」
「探していたものはすぐ近くにあるのよ」
「いや、探してなかったよな!? めちゃくちゃ乗り換え指示してきたよな!? わざとぐるっと回ってきただろ!」
「でも人の話を聞くのが楽しかったわ」
「…………」
別に楽しくはなかった。
ちょっと興味深くはあったけど。
中学生も、大学生も、社会人も、大人も。
あちこちから本についての話が聞こえてきた。
ある人にとっては結婚よりも軽く
ある人にとっては人生と同等で
ある人にとっては煩わしい些末事で
そんな思考が、車両の中には溢れていた。
そして彼女は、きっと誰とも同じではない。
三ツ村さんは、苦い顔になった僕に微笑む。
「じゃあ、行きましょうか」
「どこに? 家に帰るの?」
「違うわ。取材旅行よ」
彼女は、忌まわしいほどによく通る声で囁く。
「杉方光則。―――― 『屍の辿る記憶』の作者のところに、行ってみましょう」
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