トゥー・キス
はくすや
やっと会えたね
彼がその店を訪れたのは三度目だった。
毎週金曜日の夕方、彼は姿を現す。そしていくつか靴を見ては手に取り、その一部につま先を通す。
彼が履いているウォーキングシューズはかなりくたびれていた。底はすり減り、溝はすっかり浅くなっていた。
おそらく彼は買い替えを考えているのだろう。しかし毎週顔を出すわりに彼が買うことはなかった。
気に入ったものがなかったのかもしれない。財布の中身と相談したのかもしれない。安売りの日が来るのを待っていたのかもしれない。
あるいは今履いているシューズにとても愛着があるのかもしれない。その靴は彼を遠い異国まで運んだかもしれないし、彼が愛する女性と一緒に歩いた幸せの靴なのかもしれない。
しかしそうした思い出の靴であったとしても、いつか別れる日は来るものだ。
三度目の今日、彼はとうとう買い替えを決意してやって来たようだ。
「この靴――先週より安くなってますね」彼は店主に声をかけた。
「現物しかないのですよ」初老の店主は答えた。「ずっと店頭にペアシューズとしてディスプレイしていたものです」
「ペアシューズ?」
「女性ものが先に売れたあとは、メンズコーナーに並べました。かなり試着されましたよ。それで少し値引きしました」
「なるほど」
彼は同じサイズのものが他にないか訊ねたが、あいにく欠品とのことだった。
「そうか……」
彼はかなり迷ったようだったが、店主がもっと値引きするというので、買うことにしたようだ。
「古い靴は処分してもらって良いかな?」
「返品できませんが、よろしいでしょうか」
「かまわない」
彼は古い靴に愛着をもたないタイプなのかもしれない。あるいは幸せな思い出がまるでなかったのかもしれない。
「今日は気分が良いから出歩いてみるか」
休みの日、彼はひとり街を歩いた。
「新品だけれど履き心地が良いな。足の裏が痛くならないし、つま先も楽だ」
彼の足指は優雅に踊った。
「まるで靴が僕をどこかに運んで行ってくれるみたいだ」
休みの日に彼が街を歩き続けることはなかったのかもしれない。
「公園にこんなにもひとがいるなんてな」
彼の口は滑らかになっていた。ひとりごとが増える。
「犬の散歩か――のどかだな」
真冬でも日中は陽射しが暖かく、外を歩くひとも多い。
歩いてみて初めて見える光景もある。
「こどもが走り回っているな」
彼が見る先に子連れの家族がいくつもいた。
「犬もこどもも――僕には縁がないがな」
自虐的なことまで口に出るのは、彼がずっと独り身だからだろう。
ショッピングモールの屋外広場にファーストフードを売る車が並んでいた。
その一つ――クレープ屋に彼のつま先が向いた。
「クレープなんて食べた記憶がないな」
彼は苦笑しながらも足の向くままクレープ屋に並んだ。
メニューがよく見えない彼は少し身を乗り出す。
前にいた若い女性が彼を振り返った。
「見えますか?」
「ええ、何とか」
彼女はとても可愛らしい顔をしていた。
「お薦めとかってあります?」
彼は思わず彼女に訊いていた。
「私も初めてここのクレープを食べるので」
彼女はにっこりと笑った。
「美味しそうな気がして、つい足が向いちゃいました」
「僕もです」
彼と同じく、彼女もまたひとりでこのクレープ屋に並んでいた。そして意気投合する。
「やっぱりアレですよね」
二人して同じものをオーダーした。
違うものを買ってシェアすれば良いのに。
彼も彼女もまだ気づかない。履いているウォーキングシューズがペアシューズになっていることを。
ようやく会えたね。
ずっと待っていたわ。
彼と彼女が向かい合った瞬間、ぼくときみはキスをする。
ぼくたちの再会を祝して。
トゥー・キス はくすや @hakusuya
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