公衆トイレの落書きがなんかおかしい

十坂真黑

公衆トイレの落書きがなんかおかしい


 午後十一時。

 駅から伸びる通りは閑静な住宅街で、今はひっそりと静まりかえっている。

 陰に呑まれた暗い道を、わたしはひとり歩いていた。


 はあ、はあ。知らず知らずのうちに息が荒くなる。苦痛に顔を歪め、一歩一歩地を踏み締めるように進む。


 腹が痛い。ものすごく。


 居酒屋を出たあたりから不穏な気配は感じていた。騙し騙しここまできたが、もう誤魔化せない。

 こんなことなら駅のトイレに入っておけばよかった。電車の中では脂汗を垂らしながらひたすら耐えていたんだけど、最寄駅に着いた途端ふっと便意が消え失せた。駅から家までは歩いて十五分くらい。「これならいけるんじゃね?」と日和ったのが運の尽きだった。……うんだけに。


 これも全部、今日の合コンがつまらなかったせいだ。会話が盛り上がらなすぎて、飲むか食うかして時間を潰すほかなかったのだ。

 結果、腹を冷やした。

 となると、全ての元凶は今日の私のファッションということになる。ダボっとしたジーンズにゴツいダッドスニーカー。男ウケ0。でも理由がある。母親が今日に限ってわたしの勝負服のお供のブーツやらパンプスやらを洗ってしまったのである。


 残っていたのはシューズクローゼットの奥で埃かぶってたこのスニーカーだけだった。仕方なく量産型女子アナファッションをやめ、このスニーカーに似合うボーイッシュな衣装にチェンジ。その結果、男どもには第一印象で『無し』判定を突きつけられた。内面を見ろよ、と言いつつわたしも向こうの腕時計とか財布にばっかり目がいってしまうから似たもの同士か。



 なんて思考を過去に散らしつつどうにか便意を誤魔化してきたが、そろそろ限界みたいだ。仕方がない。途中でトイレに入ろう。確か近くの公園にトイレがあったはず。

 わたしは大通りを外れ裏通りに回り、街灯の少ない道を歩き始めた。

 少しいくと寂れた公園が見えてきた。公園といっても遊具は錆びたブランコと塗装のはげたゾウの滑り台くらい。ここで遊んでいる子供を見たことがない。いるのは昼間っから酒を呑んで競馬新聞を読み耽るおっさんだけ。


 ほとんど駆け足でわたしは道路沿いの便所へ飛び込んだ。

 中は男女で分かれておらず、個室は一つだけ。たった一つの個室は深淵のような暗さを纏ってこちらを見返す。

 よかった、空いている。


 しかしまあ、なんとも不気味な公衆便所だった。

 照明は交換時期を当に過ぎ、点滅を繰り返している。窓ガラスに無数の羽虫がへばりついて死んでいた。床の網目模様のタイルには泥が詰まっている。とても定期清掃が入っているようには見えない。

 しかしそんなことを気にする余裕は今の私にはない。構わず個室に入った。ジーンズのジッパーを下げ、オンザ便座。と、便座の氷のような冷たさに、ひゃぃ! と我ながら可愛らしい悲鳴が漏れた。

  

 体温が伝導してじわじわ温まっていく便座から、意識を腹へと移す。

 世に蔓延る苦しみの根源を、一気に放出していく。


 ふう……。


 地獄から天国。用を足すときの幸福感は何ものにも代えがたい。特に猛烈な腹痛に襲われた後には。

 

 けど、全てを解放するにはまだ時間がかかりそうだ。スマホでも見ようかと、私はジーンズのポケットを探った。

 そこで、気が付いた。

 ドアの隅に、赤い文字で落書きがされている。


 ”わーい、おんなのこ?”


 その落書きは彫刻刀で刻んだように、直線的に記されていた。


 ……うわ、きっも。モテない陰キャが嬉々として書き込んでいる様子が目に浮かんだ。

 こんなところでしか女と接点持てない哀れな男が、将来このトイレを訪れるであろう女子に向けてメッセージを残したのだろう。

 無視無視。


 すぐさま日課のSNSチェックに移る。

 そうやって時間を潰し、便座に腰かけながらふとスマホから顔を上げた瞬間、わたしは異変に気付いた。


「ん?」


 ”こんー”

 ”顔上げてよー名前なんてゆーの?”


 さっきの落書きの右上の方に、そんな文字列が並んでいる。


 落書き、こんなに多かったっけ?

 ていうか明らかに文字、増えてない?

 額にたらりと脂汗が滲む。

 ここ、なんか変だ。早く出ないと。

 そう思い、瞬きをした瞬間。


「は?」

 また増えた。


 ”はたちくらい? メッシュ入れてんの いーね”

 

 いや、おかしいって。こんなのさっきまで絶対なかった。

 無意識に前髪をさする。わたしはアッシュブラウンの髪に、一部ピンクを入れている。


 脳がようやく異常事態を認識し、心拍数が上がってきた。

 ドッキリ? そういう仕様? 正常性バイアスが働いて、この状況をなんとか説明しようとする。

 相手はわたしの特徴を言い当てている。つまり、何者かがどこかから個室の様子を見てるってこと?

 トイレの中なんて最大のプライベートゾーンだぞ、ドッキリなんてあり得るか。


 仕様という説も頷きがたい。

 たとえば実はトイレのドアが液晶になっていて、AIがチャット的にメッセージを送っているっていうのなら、この現象にも説明がつく。けれどこれ、明らかに木製だし。都心の公衆トイレならまだしも、ありえないでしょこんな郊外で。

 

 結論。

 理解出来ない事象がいま目の前で、現在進行形で起きている。

 逃げなきゃ。本能でそう思うのに、体は動かない。何しろ、まだ全て出し終えていない。

 今トイレを出たら、人として終わる。 

 早く、早く。わたしの恐怖心に反して腸はなおも蠕動運動を繰り返している。


 ”つまんね”

 ”なんか喋れよー”

 ”自己紹介はよ”

 

 そうこうしている間にも、次々と文字が増えていく。


 よく分かんないけど、こいつら(複数なのか?)の機嫌を損ねたらまずい気がする。何か言うべきなのか、いやここは存在感を極限まで無にすべき?


 パニックに陥る私を救ったのは、次に浮かび上がった落書きだった。


 ”お前ら、久々の女の子だからってテンション上がりすぎ ごめんね 怖がらなくていいよ”


「あ、いえ。大丈夫ですけど」

 思わず答えてしまった。しかも敬語で。

 

 ”生きた女の子がくることなんてほぼないからさ 悪気は無いんだよ あ おれのことはゲンキって呼んで”


 他の文字に比べると長文で、紳士的な文章。しっかりした人物(?)のようだった。


 ”おれらはこの近辺で 昔死んだ霊なんだ このトイレ 人がいい具合に来なくて居心地がいいから みんな集まってきちゃってんの たいがい生前に女の子と縁がなかったような連中でさ たまに女の子が個室に入る と絡むことあるんだよね”


 扉に、リアルタイムで文字が刻み込まれていく。

 やはりこの増殖する落書きは、心霊現象らしい。


 ”別に何かしようって訳じゃない それに変態はごく一部だから(笑) おれら暇を持て余して寂しいだけなの 嫌なら無視してもいいよ ただ一つ注意して欲しいのが 君は決しておれらからの ってこと  もし答えてしまうと 君にとって良くないことが起こる これだけは気を付けて”


「わ、分かりました」


 質問に答えてはいけない? 早く云ってよ、そんな重要なこと。

 そういえばさっき、さりげなく名前を聞かれた気がする。もしうっかり答えていたら、どうなっていたんだろう。


 ゲンキとのやりとりで恐怖心が薄れたため、緊張が解けたのだろう。するするっと残りを放出し終え、わたしは生まれ変わったような心地を覚えた。なんて爽快感っ。世界は幸福に満ちていると思えるのは、誕生日とクリスマスとお正月と用を足し終えた時だ。


 わたしは上機嫌のまま、壁付けのペーパーホルダーに手を伸ばした。

 が、そこで血の気が引いた。


「しまった……」

 紙がない。

 

 荷物を漁るが、ポケットティッシュ一つ見当たらない。


 ”カミガナイヨー”


 茶化すような落書きがぽん、と浮かび上がった。本気で腹が立った。


 ”外にいる奴に紙持ってないか訊いてみれば―?”


 外?

 そこで気が付く。

 扉の下部に少しだけ隙間が空いていて、革靴のつま先が見えた。やたらと先のとんがったやつ。ワックスを塗りたくったのか、表面がてらてら光っている。

 男の人がドアを隔てたところに立っているようだ。

 

 トントン。控えめなノックに、びくりと体が震える。

 うわ……どうしよ。

 

 ”出ちゃえ!”

 ”出ろ出ろー”

 ”入ってまーすw”


 誰が出るか!

 と心の中で突っ込みを入れ、私は居留守をすることに決めた。勿論扉が閉まっている以上、中に人がいることは明白なのだけど。もしかしたら相手はさっきまでの私(便意マックス)かもしれないと思うと、ことさら心が痛む。ごめんね、見ず知らずの人。でもどうせこの状況で出ることなんかできないし。勝者がいる以上、敗者も世の中には存在するのだ。


 息を潜めていたら、いつの間にか人の気配は消えていた。

  

 でも紙の問題はまだ解決していない。


 が、ここでもゲンキが助け舟を出してくれた。


 ”おちついて 上の棚に予備があるはず 届くかな?”


 言われた通り、棚を見上げる。

 ……あった。背伸びをすればなんとかペーパーに手が届いた。

 助かったあ。

 

「ありがとう、ゲンキさん」


 ”よかった ちゃんと流した?笑”


 うん、と笑って答えかけて、わたしは口元を抑える。


 『何があっても、質問に答えてはいけない』んじゃなかった?

 

 恐る恐る、扉の方を振り返る。


 濃い緑色のペンキが塗られた扉に、血のような赤い文字で描かれた巨大な目が、ぽっかりと浮かび上がっていた。


 こんなもの、さっきまで無かったのに。

 悲鳴が喉元までせり上がってくる。


 巨大な目が、瞬きした。


 周囲の壁が、赤い文字でびっしりと埋め尽くされる。


チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チ

ッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ チ

ッ チッ チッ チッ チッ チッ チッ


 私は突き破るようにドアを蹴り、トイレから逃げ出した。




「……ってなことがあったんだよー」

 数日後、私は親友のミユキに先日の出来事を話していた。

 高校からの付き合いであるミユキ。ノリが良く、くだらないことにも付き合ってくれる。

 あれ以来、公園どころか駅のトイレにも入れなくなってしまった。せめて話のタネにでもしてやろうと、彼女をカフェに呼び出したのだ。


 話が進むうち、ミユキの顔がみるみる曇っていく。


「トイレって、あのうらぶれた公園の? あんたあそこ入ったの?」

「そうだけど……」

「だってあそこ、通り魔犯のトイレでしょ?」

「通り魔?」

「知らないの? この間捕まった犯人、あのトイレで被害者を物色してたらしいよ」

「どゆこと?」


 はあ、とため息を吐いて、ミユキはカプチーノに口をつける。


「あそこって人通り少ないし、すぐ裏手に車付けられるじゃん。だから公衆トイレに入っているのが若い女の子だったら、出た瞬間に拉致って車で連れ去る、ってことをしてたらしいよ。こないだニュースで見た」


「え」


「扉の下に隙間あるでしょ? そこから見える靴がパンプスとか明らかに女性物だったら、その人をターゲットにしてたんだって」


 私は思わず足元を見た。

 偶然にも、あの日と同じダッドスニーカー。

 妙に厚みがあってごつい、ユニセックスなデザインだ。色はソール部分含めて真っ黒。

 

 ふとあの晩、扉の隙間から見えた男物の革靴のつま先を思い出す。



「……決めた。わたしこれから親孝行するわ」

 そう宣言すると、ミユキは「はあ? いきなりどした?」と首を傾げた。


 



 

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