死者へ贈るモカ・ハラー(珈琲と紅茶にまつわる短編)

代々木夜々一

一話完結 いなかの葬儀場にて

 喪服もふくというものが嫌いだった。


 死者を見送るので黒。それはだれが決めたのだろうか。


加治かじ、来てたのか」


 受付で名前を書いていたところだ。うしろから声をかけられた。


 ひとまずその声には答えず、芳名帳ほうめいちょうに名前を記載した。


「おい無視かよ、おれだよ、田中だよ」

「田中、ちょっと待て。いま書いてるところだ」


 名前と住所を書き終えた。上着の内ポケットから香典もわたす。


 受付をすませてから、おれはふり返った。


 かつての中学の同級生がそこにはいた。ひたいがすこし広くなっている印象を受けた。


 同級生なので、おれと同じ三十五歳。早いやつはそろそろ頭が薄くなるか。


「おまえは来ないと思ったぜ。同窓会にいちどだって顔をだしてないだろ」


 田中が言った。たしかにおれは、中学だけでなく高校の同窓会すら顔をださない。


「苦手なんだ」


 受付を終えたので、おれはロビーのベンチへとむかった。田中がついてくる。


 かなり大きな葬儀会場だった。弔問客ちょうもんきゃくを見れば、知らない顔ばかりだ。


「何年ぶりだ、加治」


 おれがベンチに座ると、田中までとなりに座った。


「加治が進学したのは東京の大学だったよな。いまなにをやってるんだ。こっちに住んでるのか」


 田中が聞いてきた。だから苦手なんだ、同級生というやつは。


「東京だ。今日はこの葬儀で帰ってきただけだ」

「そうか、おれは実家だ。親父の工務店で働いてるよ。仕事は?」

「個人で興信所をしている」

「興信所って、おまえ、探偵か。すげえな!」


 別にすごくはない。大学のアルバイトで東京の興信所に勤めていただけだ。そのまま社員となり、そして数年後に独立した。


「田中にはおれが必要になることなど、ないとは思うが」


 おれは上着のポケットから、一枚だけ入れている名刺をわたした。


 いつも上着に一枚ぐらいは名刺を入れておく。個人事務所をしている者のクセだ。こういうことが、数年後に仕事へつながってきたりする。


 田中は珍しそうに手にしたおれの名刺を見つめた。


「人生相談、浮気調査は当事務所へ。加治興信所」


 田中は、名刺に書かれている文言を口にした。


「おまえ、人生相談なんてするのか」

「それは、きっかけだ。仕事のほとんどは浮気調査だ。客はみな、まず相談というかたちでくる」

「浮気調査なんて、ほんとにあるんだな」

「ああ、仕事の九割はそれだ」

「そんなんで食っていけるのか?」


 田中が名刺から顔をあげて聞いてきた。さきほど父親の工務店で働いていると言っていた。田中からすれば、別世界の話だろう。


 答える義理はないが、すこし田中に興味がわいた。ずっと実家に住み、仕事は父親の会社。こいつは商売を知っているのだろうか。


「月に三件ほどすれば、食ってはいけるかな」

「じゃあ、ひとつが十五万以上か!」


 田中がおどろいている。ふつうなら三件で暮らせると聞けば、一件が十万ぐらいかと考えるだろう。


 この田中は、一件を十五万と計算した。事務所の諸費用などを計算したからだ。そういう計算が瞬時にできるのならば、こいつの工務店はつぶれないだろう。


「だいたい十万ぐらいかな。相手が金持ちなら、五十から百」

「おい加治、それって」

「勘ちがいするなよ、金持ちからだまし取っているわけじゃない」


 調査料金なんてものは、その期間の長さに比例する。ほとんどの者は、払える金額が十万ほど。だから一回か二回、調査をすればあきらめる。だが金持ちになると、納得するまで金を払う。そのちがいだ。


「おまえ、いい死にかたしねえぞ」


 あきれた顔の田中だった。やはり勘ちがいしたか。しかしそれでもいい。こいつとの話を長引かせたのは、別の話がしたかったからだ。


「山岸は、いい死にかただったのか」


 おれがこの葬儀へ来た理由。親しかった山岸が死んだからだ。


 田中がふり返り、葬儀会場へと目をやった。


 まだ葬儀は始まっていない。豪華な白い花があふれる祭壇のまえに集まっているのは親族だろう。


 故人である山岸ぐらいだった。おれが中学時代に仲がよかったのは。


 この田中は親しげに話しかけてきたが、あの当時にそれほど仲がよかったわけでもない。


「おれは地元に住んでいない。なぜ山岸が死んだのか、なんの情報もない」


 無表情を作り、田中に聞いた。こういうとき笑顔で聞いてはならない。なにかを聞くときは無表情で聞く。これは長年にわたり興信所をしてきたおれのノウハウだ。


 おれが無表情で聞いたことで、すこし緊迫した空気が流れたからか、田中がひとつ息を吐いた。


「病気だよ。ここ五年、ずっと入院してた」

「それはたしかか」

「ウソついてどうする。娘が、あいつの娘とおなじ学年なんだ」


 それであれば、この情報はたしかだろう。


 おれはベンチから腰をあげた。


「おい、加治」

「帰るよ、おれは」


 昨日のことだ。葬儀の案内が来た。それがかつて仲のよかった山岸の葬儀だった。まだ三十五だ。なぜ死んだのか。それが知りたくて来ただけだった。


「会っていかないのか」

「山岸は死んだ。もう会えない」


 生きているのなら会ってもいい。だが数十年ぶりに、変わり果てた亡骸を見てなんになる。それなら、おれにとって山岸とは、中学のころの山岸でいい。


「親御さんにあいさつしていけよ、礼儀だろ」

「おれはこっちに住んでないし、山岸の親に会ったこともない」

「そういう問題じゃないだろ。加治、おまえそんな勝手なやつだったか」


 それは昔のおれをよく知っている者が言うセリフだ。


 中学時代をすこし思いだした。この田中は、十人ほどのグループにいた。おれと山岸は、いつもだいたいふたりだった。


 地味なふたり。こいつから見れば、おれと山岸はそう見えただろう。


「田中、知ってたか。山岸は中学のときから洋楽が好きだったぞ」

「なんの話だ」

「いや、知らないだろうと思ってな」


 おれは田中に背をむけて歩きだした。


 入口の自動ドアをぬけて、駐車場へと歩く。


 いなかの葬儀会場、その駐車場だ。見なれた国産の軽自動車や、あとは軽トラックなどがならんでいる。


 そのなかで、プジョーというフランスの乗用車は完全に浮いていた。


 おれはプジョーのキーをポケットからだし、ロックを解除する。青い車体のドアをあけて、運転席へと乗りこんだ。


 喪服の黒いネクタイを引きぬいて、助手席へと投げた。エンジンをかけて、すこし水温があがるまで待つことにした。


「洋楽か」


 さきほど自分が言ったセリフを思いだして笑えた。


 中学という三年間、おれはさほど楽しくなかった。だがそれは思春期というやつで、さきほどの田中が悪いわけでもない。


「山岸か」


 田中と話すことで、鬱々うつうつとした中学時代を思いだした。そして同時に山岸との記憶もよみがえってきた。


 中学生にしては、オシャレなやつだった。どこで調べるのか、イギリスのロックを聴くようなやつだった。


 最後に会ったのは、十年ほどまえか。やつが東京へ出張で来た。ひさしぶりに会おうということになり、二時間ほど新橋の喫茶店で話しこんだ。


 ひさしぶりに会うと、オシャレだった山岸は地味になっていた。ありきたりな安物のスーツを着て、底にゴムのついたニセ革靴をはいていた。


 地方にいつづけた山岸と、東京にいつづけたおれのちがい。


 いや、どこに住んでいるかというより、結婚をしているか、していないかのちがいかもしれない。おれはいまだにひとり者だ。山岸は早くに結婚していた。


 ひとり者だから、おれは車なんてものに金をかけられるのかもしれない。水温がすこしあがったので、おれはシフトを一速に入れて車を発進させた。


 東京までは高速をつかって三時間ほどだ。まずは高速の入口にむかって車を走らせる。


 ありふれた街の、ありふれた国道だった。店といえばファミリーレストラン、またはラーメン屋があるていどだ。東京へ帰るまえに腹ごしらえをしておくべきだろうか。


 そういえば。


 何年かぶりに新橋で会った山岸だ。飲みものだけはオシャレだったか。


 なにか決まった豆を飲んでいるとか、そんな話をしていた。あいにく新橋のカフェには、その山岸が飲んでいる豆はなかった。


 まえを走る車が減速した。赤信号だ。おれも車を減速させ、三速に入れていたシフトを一速へともどした。


「モカ・ハラーだ」


 山岸が話していた豆の名前を思いだした。モカ・ハラーに塩をひとつまみ。いまはそんな飲みかたが好きなんだと言っていた。


 おれはそれを聞いた当時「おっさんになったな山岸」と笑った。おれはあのころ、エスプレッソをよく飲んでいた。はやっていたからだ。


 はやっていたのでエスプレッソを飲んでいたが、いまはふつうのドリップコーヒーを飲んでいる。特に豆などこだわりはない。事務所に来た客へだすのもコーヒーなので、単価が安いブレンドコーヒーを買っている。


 信号が青になったので、前方の車が動きだした。おれもクラッチを切り車を発進させた。


 東京へもどったら、山岸が飲んでいた「モカ・ハラー」とやらを飲んでみるか。


 そう思ったが、思い直した。都会にあるカフェのほうが、メニューは「カフェラテ」など若者むきの場合が多い。こういう地方のほうが、昔ながらのコーヒー専門店などがないだろうか。


 高速の入口へむかうのはやめた。一時間ほど、この国道を走ってみよう。そう思った。一時間走っても喫茶店が見つからなければ、それから東京へむかえばいい。


 十分ほど走ったところで、喫茶店が一軒あった。だが「日替わりランチ」と書かれたのぼりが立っている喫茶店で、コーヒーにっている店には見えない。


 一軒目の喫茶店を通りすぎ、そこからさらに二十分。フロントガラスごしに喫茶店らしき建物が見えた。


 ちょうど進行方向の左側だ。「自家じか焙煎ばいせん」と書かれた看板の文字も見えた。


 国道ぞいなのに、山奥にでもありそうな丸太のロッジ風な店がまえ。道路ぞいの看板には「自家焙煎珈琲ケルン」という、いかにもな店名が書かれてある。


 駐車場に車を乗り入れた。おれのほかは、国産の白い乗用車が一台だけ。


 その白い乗用車のとなりに、おれの青いプジョーを停めた。


 駐車場は六台ほど停めるスペースがあるのに、この二台だけ。おれは車からおりてロックをかけた。


 古びたロッジ風な店を見あげてみる。二階は住居なのだろうか。いなかでは自宅兼店舗というのはよくある。


 さほど期待はせずに店の扉を押した。なんせおれのほかに客はひと組だ。


「いらっしゃい」


 古めかしい木の店内。奥にあるカウンターで店主らしい老人の男性がいた。


 さきほどのおれの予想はまちがっていた。おれのほかに客はいない。外にあった白い乗用車は、この店主の車だ。


「あの、モカ・ハラーってありますか」


 聞いてみた。なければ店をでよう。その理由としてちょうどいい。


「モカ・マタリじゃなく、モカ・ハラーか」


 老人が聞き返してきた。しかもぶっきらぼうな口調で。これは店をでたほうがよさそうだ。


「すいません、あまりコーヒーにはくわしくなくて。知人がモカ・ハラーという豆を探してまして」


 探しているので、その豆がなければ帰る。そういう意味をこめてウソをついた。


「有名なのは、モカ・マタリのほう。どちらもある」


 あるのか。そうなると、たのまないわけにもいかない。


「では、一杯もらってもいいですか。ついでに塩をひとつまみ」


 山岸の飲みかただ。この店はコーヒーに凝っている。それはわかった。ならばさきに言っておかないと、あとで塩を入れようとして怒られても面倒だ。


 塩を入れていいかと聞いたのに、老人は入口に立つおれの姿をまじまじとながめてきた。


「葬式の帰りか」


 聞かれて意味がわかった。ネクタイをはずしたとはいえ、おれは喪服のかっこうだ。


 この老人は、葬式の帰りだから、店へ入るまえに外で塩をふってくると勘ちがいしたのだろう。


「外で塩をふったほうがよければ、そうします。おれが聞いたのは、コーヒーに塩を入れていいかという意味で」

「気にせんよ」


 話が噛み合わない。その「気にしない」というのは、葬式帰りのおれが店に入るのを気にしないのか、それともコーヒーに塩を入れても気にしないのか。


「カウンターか、テーブルか」


 さらに聞かれてとまどった。だれもいない店内だ。


「モカ・ハラーを探しているというのは、エチオピア人か」

「どういう意味です?」

「コーヒーに塩を入れて飲むのは、エチオピア人に多い」


 それは、おもしろそうな話だ。おれはカウンターへ座ることにした。


 大きな木板のカウンターで、そこに木製の小さなイスがいくつか置かれてある。


 老人のマスターは、すでにコーヒーの準備をしていた。大きな木板のカウンターには、五つほど理科の実験みたいな道具があった。たしかサイフォン・コーヒーというやつだ。


 よくよく見れば、カウンターのうしろにならぶ木のたなも変わっていた。


 右半分には、さまざまなコーヒーカップがならんでいる。それに対して左の棚だ。小さな引きだしがならんでいる。漢方薬局のようだった。


「その引きだし、すべて豆ですか」


 聞きながら、おれはカウンターのイスを引いて腰かけた。


「豆だ。おまえみたいな通ぶった客は、いろいろな豆を言ってくる。ないと答えると、そのていどの店か、などという顔をしてな」


 そんなつもりはない。


「変わった店だな」


 へんくつなマスターの店に入ってしまったようだ。


「おまえさん、仕事は」

「個人で興信所をやってます」

「変わった仕事だな」


 うまいことを返された気分になった。たしかに「変わった店」という感想は嫌味いやみに聞こえたかもしれない。


「おれは、コーヒーにくわしくないですよ」

「モカ・ハラーを注文したのにか」

「亡くなった同級生がいまして。モカ・ハラーが好きと言ってたんですよ」


 老人のマスターは、タータンチェックのシャツに黒いエプロンをつけていた。おれに背をむけると、薬棚くすりだなのような引きだしからひとつをぬきだした。


 おれに見せるためか、ぬきだした引きだしをカウンターへと置いた。


「これが、モカ・ハラーだ」


 小さな木の引きだしには、コーヒー豆が入っている。


「つぶが小さいですね」


 おれが買っているブレンドコーヒーより豆が小さいように思えた。


「モカはコーヒーの原種だ。だから小さい。ここから品種改良されて、いろいろなコーヒー豆ができた」


 そうなのか。


「その亡くなった同級生というのは、かなりのコーヒー通だな」


 老人のマスターはそう言うと、コーヒー豆の入った引きだしをさげた。カウンターの上にあるのはサイフォンだけでなく、そのわきに豆の粉砕機ふんさいきもあった。


 業務用だろう。大きな粉砕機へ、大きなスプーンで豆を入れる。マスターがスイッチを入れると、けたたましい音が鳴ったが、同時にコーヒーの香りもただよってきた。


「ドリップか、サイフォンか」


 またぶっきらぼうにマスターが聞いてきた。ドリップというのが、ふつうのコーヒーのれかただろう。


「せっかくなら、この道具で」


 おれは理科の実験みたいな道具を指さした。


 手なれたマスターの動作だったが、そこからの動きも早かった。


 上のガラス容器へコーヒーの粉を入れ、そこにつながった下のガラスびんへは水を入れる。


 下のガラス瓶は、フラスコみたいな底の丸い瓶だった。温めるのは、アルコールランプだ。


 アルコールランプで熱せられたフラスコ瓶。どう見ても理科の実験だ。人生で何度か、この器具を使っている喫茶店で飲んだことがある。


 ながめていると、フラスコのなかの水が沸騰した。上の容器へと流れる。そこでコーヒーの粉とまざりあった。


「何度見てもこれ、おもしろいですね」


 おれが言うと、老人のマスターは笑った。


「子どもづれが、たまにくる。よろこぶのは中学生までだな」

「高校生より上は?」

「スマホに夢中さ」

「なるほど」


 いまはもう子どもからおとなまで、カフェでも喫茶店でも見ているのはスマホだ。


「そういえば、山岸のやつは、カフェで空中をながめてたな」


 思いだしてきた。山岸はコーヒーを待つあいだ、ぼうっと店内をながめていた。それは店の内装をながめていたというより、空中をながめるような視線だった。


「そりゃコーヒー好きの視線だな」

「コーヒー好きの視線?」


 マスターの言葉がわからない。マスターは、サイフォンのコーヒーを木のへらでかきまぜていた。


「コーヒーは香りが強いだろ」

「はぁ」

「その店で、コーヒーの香りはどこへ流れているのか、そんなことを見るやつは多い」


 なるほど。いま目のまえのサイフォンでコーヒーを淹れている。そこから湯気が立ち登っていた。


 湯気とともに香りは天井へ。そこから左右に流れるか。


 マスターの言う意味がわかった。見えない香りのはずだが、目で追いかけてみると、意外に鼻もきいてくる。


 いまこのカウンターの周囲は、コーヒーの香りでいっぱいだ。しかしちがう方向からの香りもある。テーブル席の奥だ。「焙煎室ばいせんしつ」と書かれたプレートの貼られた扉があった。


 扉はぶあつそうな木製の扉だ。しかしその焙煎室のドアを見つめていると、そこからの香りがしてくるような気がする。気のせいかもしれないが、おもしろいものだ。


「この店に、山岸という男は来ませんでしたか」


 視線をマスターへもどして聞いてみた。コーヒー好きの山岸だ。この店を知っていた可能性はある。


「さあ、客の名前までは」


 マスターの言うとおりで、よほど近所の常連でもなければ名前はおぼえないか。


「はいよ」


 いつのまにかコーヒーはできたようだ。


 おれのまえにコーヒー皿へ乗ったコーヒーカップが置かれた。そこへマスターは、フラスコ瓶みたいなサイフォンからコーヒーをそそいだ。


「塩だったな」


 マスターはそう言うと、カウンターの奥へと引っこんだ。


 おれはカーヒーカップを持ちあげ、鼻に近づけてみた。


 コーヒーの香り。それはわかる。しかしこのモカ・ハラーがどういう香りなのか。それはコーヒー通ではないおれには理解できなかった。


 ひと口、熱いコーヒーをすすってみる。


 うまいコーヒーだと思った。おれが飲んでいるような安物ではない。しかし、わかるのはそこまで。


「はいよ」


 老人のマスターがだしてきた。小皿に盛った岩塩だ。


 おれはコーヒーカップを皿へもどし、岩塩をひとつぶだけ入れてみた。スプーンでかきまぜる。


「エチオピア人じゃなかったか」


 マスターが笑ってそう言った。


「それですが、マスター。ほんとにコーヒーへ塩なんて入れるんですか」

「諸説あるがな。むかし、コーヒーは質が悪かったんだ。酸味がエグく、それを弱めるには砂糖より塩だって話がある」

「なるほど」

「もうひとつの説は、単純にむかしは砂糖が高かったって話だ。塩は海さえ近ければ、どこでもれるからな」


 それもありそうな話に思えた。


 塩を入れ、かきまぜたモカ・ハラーを持ちあげた。飲んでみる。


 意外にうまい。輪郭りんかくというのだろうか。酸味や苦みがハッキリとわかる。


「意外にいけるだろ」


 老人のマスターが聞いてきた。そしてなぜか、マスターはもうひとつのコーヒーカップをだしてきた。


「ひょっとして、亡くなった友人の、ですか」

「そんな気分かなと思ってよ」


 そんな気分ではある。


「二杯分のコーヒー代ですよね」

「そりゃそうだろ。おれが見ず知らずの死んだやつにコーヒーおごって、なんの意味がある」


 その理屈は正しい。おれが払ってこその、やつに贈るコーヒーだ。


「モカ・ハラーをもう一杯」

「はいよ」


 老人のマスターは、もうひとつのカップにコーヒーをそそぎ、おれのほうにだしてきた。


 おれはそれに岩塩をひとつぶ入れ、となりの席へと置いた。


 やつの亡骸に最後、会えばよかったか。そんな思いも浮かんでくる。だが人間、死ねば終わりだ。


「興信所ってな、どんな仕事をする?」


 ふいにマスターが聞いてきた。


「そうですね、人間のめごとの手伝いですかね」

「揉めごとってのは、なんだい」

「浮気調査、あと多いのは遺産相続かな」


 遺産相続に関する仕事も多かった。相手の素行調査をしたり、DNA鑑定をするために相手の髪の毛を盗んできてくれなど。


 やはりおれは、亡骸に会わなくていい。そんな結論がでた。おれと山岸との時間は、新橋で会ったあの十年前。あれが最後だ。


「山岸、おまえの飲みかた、おれが引きついでやるよ」


 おれはそう言って、持っていた自分のカップをだれもいない席へとむけた。


 おれはおそらく、家族も知らない、かつての同級生も知らない山岸の側面を知っているだろう。


 塩の入ったモカ・ハラー。さらにひとくち飲んでみる。酸味と苦み。とがった味わいだ。


 事務所へ来る客にもモカ・ハラーを飲ませるか。人生は酸味と苦みだ。


 おれはカウンターに置かれたふたつのモカ・ハラーの香りが、どこまでただよっているのかと空中をながめながら、ゆっくりとコーヒーを味わうことにした。




 死者へ贈るモカ・ハラー 終


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死者へ贈るモカ・ハラー(珈琲と紅茶にまつわる短編) 代々木夜々一 @yoyoichi

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