きみのいた季節
渚音
第1話
遠くから笑い声が聞こえる。飲み会の帰りだろうか、それとともに何やら話す声が聞こえて、ゆっくりと遠ざかっていく。
時折通る車の音。マンションのすぐ下を通っている、片側二車線ある道路はしんとしていて昼間の交通量がまるで嘘みたいだった。車が通らないだけでちょっと、魔法がかかっみたいに見える。
自分の吐く息が白いことに気がついて、彼と過ごしていたのは暖かい季節だけだったと思った。あの日厚手のパーカーを着ていた彼は今日暑くない?と言っていたけれど、今はあんなパーカーじゃ寒くてとても過ごせないだろう。昼間は少しだけ春めいてきたけれど夜はまだ冷える。暖かくしてすごしているだろうか。やることに追われて、体調を崩してなどいないだろうか。
春がきたら、彼に初めて出会った日が来る。
確かに私は彼のことが好きだったけれど、正直ここまでずっと好きでいるとは思っていなかった。ひと夏の夢。単なる年上への憧れだろう。どうしても彼の隣にいたいという強い思いと同時に、ただの憧れであって好きではないんじゃないか、恋に恋しているだけではないかと疑う冷静さも持ち合わせているつもりだった。まだ暑さの残る秋の日、彼に会うまでは。
「恋は人生を豊かにする」なんていうけれど、そんなの恋が叶った人の言葉だ。傷つくくらいなら最初から勇気なんて出さない方がいい。思い出すと苦い顔になってしまうような記憶のどこが美しいというのだろう。自分の気持ちなんて、この痛みごと消えてしまえばいい。
「君はいい人だから、きっとすぐに恋人できるよ」なんてよく言うと思った。いつも語彙力のある彼に、「いい人」としか形容されない自分が悔しかった。振ったくせに可愛いとか美人とか、わかりやすいお世辞を言われたらそれはそれで嫌だっただろうし、彼はそんな無責任な褒め言葉を使う人ではなかった。だけど「いい人」ほど無色透明な褒め言葉なんてない。彼にとって私は優しいでも面白いでもなく、何も印象のない存在だったんだな、と思ってしまう。
彼氏…「彼氏」という存在が欲しいなら、忙しくて恋愛興味なさそうな人にわざわざ連絡しないし震える手でご飯誘ったりもしないよ。彼氏が欲しいんじゃなくて、あなたと付き合いたかったんだよ。ばか。
嘘ばっかり。私が本当に「いい人」だったら今更あなたのことなんて思い出してない。
彼は確かにどこかで生きているのに、私の生きる世界にはもう彼はいないのだ。
寒くなってきたな、と思って部屋に戻った。私は私の歩みを止めるわけには行かなかった。どんなに傷ついていても、残酷なほどに時は経っていくのだ。少しずつ、でも着実に彼と最後に会った日が遠ざかっていく。
おやすみなさいとつぶやいた。明日も彼のいない世界でちゃんと生きていくために。
きみのいた季節 渚音 @nagine_28
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