スニーカー

東雲そわ

第1話

 汚れていた。


 いつからだろうか。白のゴム地で覆われていたつま先に、何かを擦ったような黒い筋が、一つ、二つ。

 落ちないだろうなと、試すこともせずに諦めがついてしまうぐらいには履き古しているスニーカーだ。内側の布地もところどころ擦り切れていて、靴底の溝もすっかり浅くなっている。踵部分に至っては、踵を引き摺る耳障りな歩き方をするせいで、ゴム底の下地が覗くほどに擦り減ってしまっていた。

 買い替え時なのだ。愛着を理由に履き続けるには、余りにもみっともないなりをしている。

 解けた靴紐を結び直そうと、雑踏を避けて屈み込んだテナントの軒先。改装中の張り紙を貼られたシャッターが、わずかな振動を受け、語り掛けるように音を響かせている。

 色のくすんだ靴紐をきつく結び直して立ち上がり、身を隠すように人の奔流に身を投じる。歩き始めてすぐに左右の締め付けの違いに違和感を覚えても、再び立ち止まるだけの余裕はなかった。次の電車まで、もう一秒たりとも無駄にはできない。つま先で地面を弾くように歩みを速め、目の前の人間を一人追い越し、浅く、息を紡ぐ。


 そのスニーカーは、キャンプ用品を扱う海外メーカーがアウトドアブランドの強みを活かして、耐久性と耐水性を売りに、ごく短い期間だけ製造していた代物だった。都会の水溜まりぐらいならうっかり足を踏み入れても中まで濡れることなく、小熊をモチーフにしたブランドロゴもどこか子供じみていて、当時の自分にはなぜかお似合いだと思ったのだ。雨の日に限らず、晴れの日でも履いて出かけるぐらいには、愛用していた。

 数年を経て、いよいよ買い替えようと思い立った頃には、メーカーが日本市場から撤退した後だった。もともと流通量が少なかったこともあり、暇を持て余した休日に靴屋を巡り歩いたこともあるが、同型のスニーカーどころか、そもそもこのメーカーを取り扱っている店にはついぞ辿り着くことができなかった。オンラインショップを検索をすれば同一の製品が検索結果に並ぶけれど、それらの商品ページにはことごとく在庫切れの文字が並び、英語表記の公式サイトを機械任せに翻訳したところで、スニーカーに関する情報は見つけられなかった。最後まで迷ったフリマサイトに出品されていた一足も、迷いが捨てきれぬうちに見知らぬ誰かの手に渡ってしまった。

 

 階段をおりる足音が幾重にも連なり、足早に沈んでいく。真新しい頃は誰よりも高らかに聞こえていた靴音も、今ではどれが自分の音なのか酷く不明瞭で、それらも階下のホームに侵入してきた電車の音に掻き消されていく。

 駆け下りた駅のホーム。車内に滑り込むのとほぼ同時に閉まり始めたドアの向こうで、乗り遅れた人々が新たな列を作り始める。引かれた線に沿って整然と、平静を装う人々の先頭で、一人、線をはみ出したつま先は、まだ汚れを知らない真っ新な色をしていた。


 アナウンスが静まり、電車が緩やかに動き出す。ごとん、と吊り革に繋がれた身体が大きく揺らぐ中、瞼を閉じる。降りる駅まであとどれくらいだろうか。左足だけきつく結ばれた靴紐がもどかしくて、微睡むことなく、揺られている。

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