妻の先

西しまこ

「結婚して主婦になると楽だ」と母は言った

 驚くべきことがある。


 わたしが20代後半のとき、「アンタが結婚しないからわたしは不幸だ」「どうして結婚しないのだ」「結婚して主婦になると楽なのに」「結婚すれば仕事を辞められるのに」「離婚してもいいから、とりあえず結婚して欲しい」云々と、顔を見るたびに母は言った。

 でも、母はそう言ったことを覚えていなかった。

「そんなこと、言ったかしらねえ」

 わたしの心に抜けない棘を突き刺した本人は、おっとりとそう言った。

 なるほど。

 わたしにとっては、かなり深く悩む出来事であったけれど、本人は覚えていないと……!!


 一応、「わたしは結婚しない方がよかったし、ずっと仕事をしている人生の方がずっとよかった」と伝えてみた。残酷かな? とは思ったけれど、わたしの考えなど、彼女の中でどうでもいいことに属しているので、まあいいだろう。きっとすぐに忘れてしまうし、わたしがどんなに苦しかったか、なんていうことも、永久に理解されない。


 高校生の頃から自分のお弁当は自分で作っていたし(母のお弁当は人前で開けられる類のものではなかった)、洗濯も大学生になってからは自分でやっていた。洗濯に出しても、わたしのだけよけて洗ってもらえなかったので、自分で洗っていたのである。

 社会人になってそのことを職場の人(ずっと年上で、おばあちゃんみたいに思っていた人)に伝えたら、「それ、ほんとうのお母さん?」と言われた。


 わたしの物語には度々、「母親に愛されない子ども」が出てくる。

 でもわたしは分かっている。

 母は、きょうだいの中で、わたしが一番好きなのだ。

「わたしとアンタは同じだと思っている」と堂々と言われたときは開いた口がふさがらなかった。なんでも、「同じことを考えているはずだから、何をしてもいいし、何を言ってもいい」とのことだ。


 やめて。

 違う人間だから。


 でも母にとって、わたしは「自分と同じ人間」であるため、わたし個人の考えを知ろうともしない。知らなくてもいい。いや、「同じ」だから、「娘の考え」とか「娘の意見」とかそんなものは、存在しないのだ。存在しないものを感知することは不可能であろう。


 家を出たくても反対されてなかなか出られなかった。

 ゆえに、20代後半なのに、ほとんど家出のようにして家を出た。

 妹はそういうふうに反対されたことはない。

 母の執着は主にわたしに向かっていたのだ。


 結婚して主婦になった方が楽だ、と母は言った。

 残念ながら、全然楽じゃないぜ?

 母が主婦生活楽だったのは、たぶん、わたしたちきょうだいがいいこだったから。変な話、みんな勉強も出来たし問題も起こさなかった。

 それから、自分の親と同居していた母に、ワンオペの大変さは想像出来まい。

 ついでに言えば、仕事しながら家事をやり子育てをやる大変さも想像出来まい。


 想像力の欠如は人を苦しめる。


 わたしはまあ運命のいたずらで結婚した。

 妻になった。

 妻の先にあるものは、なかなかに苛酷だった。

 妻になり母になり、親のありがたさが分かるような気がした瞬間もあった。

 だけど、妻になり母になり、わたしが分かったのは、母が大事だったのは、母自身であるということ。そして、母は自分の母がすごく好きだったと言ったことがあったけれど、わたしはそんなふうには母を好きになれないということ。

 こじれてしまったものは、もうどうしようもない。

 母のことを、かわいそうだと思う。

 それは、母が自分の母に、つまり祖母に向けていたような愛情を、わたしからもらえないから。

 だけど、どうしようもない。


 わたしはわたしの人生を歩んでいるのだから。


 妻の先に進んで、わたしはわたしの家族といる。

 ときどき、全部投げ出してしまいたくなる。

 だって、「結婚したら楽になる」とか「結婚したら幸せ」とかは、御伽噺の中の出来事だから。

 わたしはわたしの人生という現実を歩んでいる。

 それは、死ぬまで続く。

 

 死ぬまで、悩むのだろう。考えるのだろう。そして、後悔をしたりするのだろう。

 それでも、きっと生きていく。

 妻の先にあるものは、決して甘くてふわふわした世界ではなかった。

 でも、その中でわたしはわたしらしく生きていくのだ。


 ときどき、ちょっとつま先立ちして遠くを見ながら。




     了

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