2032.1.1 8:30 Nagano,Japan

「君は例の世界消滅騒動の際に知覚過敏のあまりに意識不明となり、そのままナガノ市内の病院に運ばれてきた。幸運だったのは川神重工業付属病院の病床が空いていたことだ。君は翌日にここに転院してきたが、市内の病院にいたままだと今ほど体力が維持できなかったかもしれない。運が悪いとそのまま永遠に眠っていたかも……」


 医師の言葉は淡々とした機械的なものであった。悠は背筋に凍えるものを感じる。

 どうにか目覚めることができたが、そうならなかった可能性もあったかもしれないと認識したからだ。


「あ、ありがとうございます」


 悠は頭を下げて御礼の言葉を口にしたが、同時に不安になってきた。

 こんな専用カプセルの中に2年もいたのなら、一体入院・治療費はいくらになっているのだろう。

 寝ていた前の時代もインフレが結構進んでいた。とても払えない額の医療費を請求されるのではないだろうか。

 父や母はまだ海外にいるのだろうか。自分がこうなったことを知っているのだろうか?



 その答えがないまま、医師が話を続ける。


「更にもう一つ、結果的に君にとって幸運だったのは、年末に私が三年ぶりにここに立ち寄ったことだ」

「先生が?」


 悠は若干の戸惑いを覚えた。何分若いし、凄腕の医師というような雰囲気はない。この人が三年ぶりに来たから自分が覚醒した、というのはにわかには信じがたい。

 そんな悠をたしなめるように唯が言う。


「悠ちゃん、諸刃もろは先生は、ニホンでも最高と呼ばれるほどの名医なんだよ」

「そ、そうなんですか? す、すみません。失礼なことを考えてしまいました」


 謝ってから、内心のことだから口にしなくても良かったかもしれないと後悔したが、時既に遅しである。


「……ハハハ、最高とも最悪とも言われているからね。気にしなくていいよ」

「最高とも最悪とも?」

「私のところには、様々な病気で絶望と目された患者が運ばれてくる。そうした人を何千人と見てきた中で当然救えたものもいるし、救えなかったものもいる。救えた場合には今の君達のような反応を示すし、救えなかった場合は死神だと罵倒されることになる」

「……」


 そんなことはないと言いたいが、確かに、救えなかった場合はそうなるかもしれない。


「端的に言えば日本でもっとも多くの人を救い、もっとも多くの人を死なせた医師でもある。だから、陰では"暴食の諸刃兇吉もろは きょうきち"とも呼ばれているのだよ」


 諸刃は自嘲気味な笑いを浮かべた。



 10分ほどすると、悠は立ち上がれるようになった。


「姉さん、もう大丈夫みたい」

「本当だ。悠ちゃんがそばにいる……」


 久しぶりに唯と抱擁をかわす。その感覚は変わらないが、若干自分の体重が落ちたようには感じられる。

 そのうえで医師……諸刃から、椅子に座るように勧められる。


「僕はもう大丈夫なのでしょうか?」


 起き上がることができたし、特に体の不調は感じない。

 ただ、自分に何が起きたか分からない以上、不安も残る。もちろん、医療費も不安なのであるが。


「眠っている間に他の色々な検査もしたが、何一つ問題はなかった。しばらくは週に一度ほどは脳波測定をしたいところだけれど、このまますぐに退院しても大丈夫だろう」

「あ、ありがとうございます! あの、それで……」


 一番気になる医療費のことを聞かなければならない。


「2年間もいたということは、相当な医療費なんでしょうか……」

「あぁ……」


 諸刃は悠の意図を理解したようで、小さく頷いた。軽く資料に目を落として。


「入院費用は全く気にしなくて大丈夫だ」

「えっ? どういうことですか?」

「細かいことは言えないが、医療費を心配する必要はない」

「そ、そうですか……」


 支払わなくて良いのは有難いが、それはそれで不気味な話である。父と母が支払っていた風でもないようだ。


「あの、何かローンとか組んでいたりしないですよね?」


 助かることを前提に長期的なローンの医療費を組んでいたりしないか。

 悠は不安になって尋ねるが、諸刃は「そんなことはしていないよ」と即座に否定した。


「医療費の件で君とお姉さんに何か問題が起きることは100パーセントありえないと約束できる。必要なら念書などを書いても構わない」


 そう言ったところで、何かに気づいたように指を鳴らした。


「でも、すっきりしたいというのなら、一つだけ頼みたいことがあるのだが、いいかな?」

「先生の頼みですか?」



 悠は不思議そうに目を見開いた。


「ヨコハマに私の先輩がいるのだが、そこに君を移動させたい。君のケースは何分珍しいので、しっかり検査してもらいたいのだ」

「ヨコハマですか?」

「そうだ。もちろん、断ったから医療費を払えということはない。ただ、協力してくれるのなら、我々としては助かる」

「うーん……」


 悠は迷って、姉の顔を見た。唯も首を傾げている。

 協力することは問題ない、というのが悠の率直な思いだ。

 2年の医療費なら数千万円になりかねない。どういう理由か分からないが、何もなしに払わなくて良いというのは抵抗がある。


「僕としては協力することは構わないのですが、どういう事情で僕を検査したいのかだけは教えてもらえますか?」


 ただし、何を検査するのかは気になる。

 さすがにそんなことはないと思いたいが、人体実験まがいのことをやられたのでは溜まったものではない。


「もちろん構わない。それは先輩からじっくりと説明させよう」


 諸刃はそう言うと、携帯電話を取り出して電話を始めた。

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2025年1月10日 19:15

僕等のラグナロク 川野遥 @kawanohate

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