旅行に出たスーツケース

ジャック(JTW)🐱🐾

赤いスーツケースが転がってきた

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 休みの日の夕方、少し近所を散策してきた帰り道、電車に乗っていた。私が乗る電車は古い型で、レトロな雰囲気で、全国的に見れば珍しい形式のものだった。


 しかしほぼ毎日乗っていればありがたみもあんまりない。私はつり革に掴まった。そのまま、ぼんやりと景色を眺めて、電車が目的地へ向けて動き出すのを待っていた。


 そのとき、私の耳にゴロゴロゴロ! と何かが転がるような音が響いてきた。私は咄嗟に音のした左側を振り返る。それは、真っ赤なスーツケースが、持ち主の手を離れて見事に電車のど真ん中を突っ切ってきた時の音だった。

 なんか……マ◯オカートのレースみたいになってる!


 実際はそこまで勢いはなかったものの、スーツケースの持ち主であろうおばあちゃんが明らかにおろおろとしていて、咄嗟に追いかけようとしていたのが視界の端に見えた。おばあちゃんは見るからに足が弱っていそうで、そんなおばあちゃんを段差がありつまずきやすい電車内で走らせるわけにはいかないと思った。


 私は咄嗟につま先と手を使ってスーツケースを掴んで、無事に動きを止めることに成功した。そんなに勢いはついていなかったので、履いていた靴のつま先にちょっと傷がついたくらいで止められた。安くて頑丈で履き心地の良いしま◯ら靴、サンキュー。おかげで怪我もなく痛くもなかった。


 赤いスーツケースの持ち主のおばあちゃんには、お孫さんと思しき若い男性の同行者がいた。男性に手を引かれたおばあちゃんが、ゆっくりとこちらにやってきた。私もスーツケースの取っ手を持っておばあちゃんのところに向かう。おばあちゃんは、慌ててぺこりと頭を下げた。隣で若い男性も頭を下げる。


「捕まえてくださってありがとうございます。ありがとうございます!」


 私も頭を下げ返して、スーツケースをおばあちゃんに返した。おばあちゃんがしっかりスーツケースの持ち手を握ったことを確認して手を離す。私が足で止めたせいで、スーツケースの車輪や側面に傷がついていなかっただろうかと思って見たが、なんとか大丈夫そうだった。


「いえいえ、スーツケースに傷もなかったみたいでよかったです!」


 そしておばあちゃんと同行者の男性は笑顔で会釈して、元の場所に戻っていった。

 ちょっといいことできてよかったな〜と思って、私はいい気分だった。


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 しかし、一件落着かと思われた数分後、またスーツケースがゴロゴロゴロ! と音を立ててこちらにやってきた。マ◯オカートの再放送かと思った。


 むろん、これはおばあちゃんがスーツケースを転がして遊んでいるのではない。

 電車が古いせいか、床には若干傾斜がついていて、うっかり手を離してしまうとローラースケートのように滑っていってしまうようだ。


 私はまたつま先と手を使って、他の人にぶつかる前になんとかスーツケースを捕獲した。ナイスキャッチ! 二度目ともなれば手慣れたものだった。私はちょっと苦笑しながら、おばあちゃんのもとにスーツケースを届ける。

 またゆっくりと歩いてきたおばあちゃんは、心底申し訳なさそうに頭を下げた。


「ごめんなさいね、また止めてくださってありがとう。わたし、手の力が弱くて、新幹線でも同じように、ガラガラガラ〜って、滑らせてしまったの。そのときは、車両の端っこまで行っちゃったのよ……」


 としょんぼり言った。おばあちゃんがわざとやっているわけではないことは表情からもわかった。しゅんとしているおばあちゃんを、私は励ましたくなった。

 そして大して動かない頭を回転させて、咄嗟にこういった。


「あの、もしかしたら……」

「はい……?」


 おばあちゃんは私の言葉に耳を澄ませる。私はちょっと緊張しながらも、おちゃらけた言葉を言った。


「もしかしたら、スーツケースも、旅に出たかったのかもしれません。外の景色が見たくて、旅先でちょっとはしゃいじゃったのかも……」


 私は、この発言をした瞬間、少し後悔した。スーツケースがはしゃいじゃった、旅にでたかったってなんだよ。一気に恥ずかしくなって顔に血がのぼった。


 私がこのような発言に至ったのには理由がある。我が家での習慣、慣例のようなものである。例えば箸でおかずを掴み損なったとき、我が家ではこういう。


「あら、生きのいい漬物だね」

「生き返って逃げ出したんやね」


 と。もちろん漬物が動くわけがない。実際に漬物が弾んで逃げ出したわけではない。

 物を擬人化しておちゃめに茶化すことで、『あなたのせいじゃなく、漬物が動いたから失敗したんだよね』と冗談をかますことで、雰囲気を和らげようとする試みだった。


 つまり、身内にはウケるけど外には通じないであろうネタであった。


 普段からそんな調子づいたことばかり言ってるから、初対面のおばあちゃんの前でも文脈を無視してうっかりそのような発言が出てしまったわけである。

 私は羞恥で顔に血が集まるのを感じながら、おばあちゃんが返事をしてくれる数秒間の間にものすごく頭を回転させた。


 しまった……。おばあちゃんを元気づけようとしたけれど、なんか全然見当違いのことを言ってるだけにならないかな? どうしよう? ふざけなきゃよかったかな?

 あっでも一度口にした言葉は取り消せねえよ〜!!!


 一瞬でそこまで思考を巡らせていると、目の前のおばあちゃんが手で口を押さえて、噴き出して笑ってくれた。

 心の底からほっとした。

 やった! よかった! よかった! ウケたよー!


「ふふふっ、旅行! 旅行なら仕方ないわね!」

「そうですね!」


 おばあちゃんは赤いスーツケースを見下ろして、楽しそうに笑ってくれた。

 それからおばあちゃんと私は、電車が動き出しても、他愛のない話で盛り上がった。

 おばあちゃんの旅行先の話、どこに行ってきて、何が美味しかったのか、どれだけ楽しかったのかなど、にこにこしながら色々聞かせてくれた。おばあちゃんが楽しそうで、私もにこにこした。

 おばあちゃんは、私の実の祖母とは性格が違っていたけれど、なんとなく背格好が似ていて、穏やかで優しくてかわいくて、心和ませてくれる人だった。


 しかし、私はおばあちゃんの目的地より先に降りなければならなかった。名残惜しかったが、電車を降りる前におばあちゃんに声を掛けた。


「すみません、ここで降りなきゃ……でも、またどこかで!」

「ええ、またね! ありがとう!」


 おばあちゃんは本当に嬉しそうに手を振ってくれて、おばあちゃんの孫と思しき男性もぺこりと頭を下げてくれた。私は電車を降りてもしばらくおばあちゃんに向かって手を振り返していた。


 電車が通り過ぎたあとの、いつもの夕焼けに照らされた帰り道が、なんだか眩しくて、温かく感じた。


 おばあちゃんのスーツケースを止めたときに、私の靴のつま先にはちょっと傷がついていたが、安い靴についたその傷跡がなんだか今日の誇らしい思い出になってくれたような気がした。


 それ以来、おばあちゃんに会うことはなかったが、またどこかで会えたら、おばあちゃんの旅行の話をまた聞きたいなと思っている。


 もしかしたら、きっと今ごろ、おばあちゃんのあの赤いスーツケースはまたどこかで旅に出ているのかもしれない。

 また転がってきたら今度もしっかり捕まえようと思って、つま先に少しだけ力を入れて歩いた。


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