死の淵で踊る

いいの すけこ

命令

「付き合って下さい」

 黒川に告白されたのは、秋のはじまりの頃だった。

 真っ黒な長い髪は重たく、眼鏡に覆われた黒目がちな瞳の色もまた深かった。

「は? なんで俺なん」

 同じクラスとはいえ、黒川とはほとんど話したことがなかった。授業の連絡とか事務的なやりとりが一、二度ほど。黒川は教室でも一人でいることが多くて、俺の中ではいてもいなくても変わらない人間だった。

「『命令』されたから」

「……あー」

 いわゆる罰ゲームか、もしくは嫌がらせか。そのわりに黒川には悲壮感がなかったが、はっきり打ち明けることで適当に切り上げるつもりなのかもしれない。

「いいよ、付き合っても」

 俺に遠慮もなく、命令だからとバラしたことも不愉快だったし。遊びだかいじめだかのネタにされたこともムカつく。だからこそ受け入れて困らせてやろうと思った。こういう悪ノリにのっかるのも、楽しいし。

「ありがとう」

 それなのに黒川は、動揺した様子もなく笑う。黒目がちな瞳は、何を考えているか分からなかった。




「お前さ、眼鏡ダサいからコンタクトにでもしろよ」

「わかった」

 俺が言うと、黒川は次の日ソッコーで眼鏡を外してきた。

「コンタクトするの、初めて」

 コンタクトを作るのが面倒臭いのは俺も知っている。放課後デートのようなことをして、夕方に別れたその後に。黒川はわざわざ眼科に行って検査をして、それなりに高いコンタクトレンズを買って、慣れないものを着けてきたというわけだ。

「髪長いの、趣味じゃないんだよな。鬱陶しいから短いほうがいい」

「わかった」

 そう言えば次の日には、黒川は髪を短くして登校してきた。うなじのあたりでばっさりと。腰まであった長い髪がなくなったものだから、目立たない黒川でもクラスで注目を浴びた。友達と昼飯を食ってた時も話題になったから、黒川と付き合っていることと、俺の言葉がきっかけだろうと話したら、

「モラハラ男じゃね?」

 と言われた。これは責められるやつかと思ったら面倒臭くなって、俺はスマホを眺めながら適当に返す。

「黒川が勝手にやってんだから、知らね」

 確かに俺の好みの話はしたが。最後に決めるのは本人なんだから。

「俺に責任ねーよ」




 それからも黒川は、俺の言うことを全て受け入れた。なんでも聞くと言っても、女子をパシるような真似はダサいからやらないけれど。

 制服のスカート丈、私服の趣味。スマホの機種とか。

 我ながら理不尽だと思う命令じみたそれを、わかった、わかったと素直に聞き入れるものだから。

「お前マゾかよ」

 そういうヘキなのかと若干引きながら言ってやったら、やっぱり黒川はなんでもないような顔をして。

「『命令』、気持ちいいでしょ?」

 なんていうから、間違いなくこいつマゾだわと流石にキモくなった。

 だからいつ別れてやってもいいな、とは思っていた。




「あ、電車止まってんじゃん。うっざ」

 学校帰り、駅は異常に混雑していた。殺気立った人混みにあてられ、俺は舌打ちをする。

「事故?」

「飛び込みだとよ。死ぬなら誰にも迷惑かけずに死ねやクソが」

 駅員の、音が割れたアナウンスが耳障りだ。なんで身知らぬバカのせいで、こっちが迷惑被らなきゃならない。

「あーあ、どうやって時間潰すかな」

 真冬の改札口は寒風が吹き込んで、それでいて人の熱気が不愉快だった。ここで運転再開を待つなんて冗談じゃない。

「カラオケでも行く?」

「おととい行ったばっか。歌う気分じゃねーわ」

 なにか食べに行っても良いけど、黒川と話していても、あんまり楽しくない。

 俺の言うこと、何でも聞くから。

 黒川も黒川で、俺がスマホ片手に話していても気にもしないから、余計にどうでも良くなる。

 黒川よりもスマホのアプリやSNSの方が、よっぽど刺激的だ。

「歌わなくても、別のことしてもいいと思うけど」

 そう言って見上げてくる黒川の目は、相変わらず冷静で。

「……最近の部屋、監視カメラついてっからなあ。追い出されなきゃいいけど」

 だけどこの瞳に熱がなくても感情が見えなくても、黒川がなんでも言うことを聞くのを俺は知っている。キスでもそれ以上のことでも、なにひとつ抵抗も意思も見せず、されるがままになることを。




「あ、電車動き始めた」

 カラオケ個室、監視カメラの死角、なんてものはほとんどないので。俺たちはギリ出禁をくらわないくらいには乱れつつ、それなりにお上品に時間潰しに興じた。スカートの裾が捲りあがったままなのを気にもせず、黒川はちらりとスマホの画面を見つめる。

「線路に飛び込んだの、××高校の子だって。近いね」

「へー」

 見知らぬ人間の生き死により、電車がいつもどおり動くことのほうが遥かに大事だ。

 スマホで鉄道運行情報を確認して、ついでに普段入り浸っているSNSもチェックする。

「邪魔」

 飲みかけのコーラに手を伸ばそうとして、胸にしなだれかかる黒川を押しのける。それでも文句のひとつも言わず、黒川はようやく乱れたスカートを直した。ローファーの脱げたつま先で、つんと俺の足をつつく。それは黒川の、初めての小さな抗議のように思えた。




「屋上に行こう」

 翌日の帰り、校舎端の階段を降りようとしていた時、黒川は言った。教室を出る時までは静かについてきた黒川は、屋上に続く階段を登っていく。

 いつも俺の言うことばかりを聞く黒川が、俺の返事も待たないで。

 珍しい黒川からの要求に、不快さよりも興味を惹かれる。

「屋上に何しに行くんだよ」

 校内でヤろうとか考えてるんなら、やっぱりこいつおかしいな。もし屋外でとか言ったら、季節関係なくそれもなかなかヤバい。

 いつも俺から要求するばかりだけど、万が一向こうから際どいシチュで迫ってきたら。

 さすがにキモイから、別れてやろ。

 黒川の背中を見つめていても、何を考えているかはわからない。

 屋上扉には鍵がかかっているはずだが、黒川は焦ることもなくコートのポケットから鍵を取り出した。

「なんだ、借りれたのか」

 屋上と言っても外に出ることはなく、せいぜい手前の踊り場に誘われたのかもと思っていた。先生の許可がとってあるのかと、肩透かしをくらう。


「ううん。盗ってきたの」

「は……?」

 黒川はドアノブに鍵を差し込んで、俺を振り返りもせず扉を解錠した。がちゃんと錠の落ちる音が響く。

 真冬の乾燥した空気のせいか、喉が渇いた。

「おい、俺は責任取らねえぞ。お前が勝手にやったんだからな」

「セキュリティシステムはついてないから大丈夫。アラームが鳴ったり、先生が駆けつけたりはしないから」

 そういうことじゃねえよと言おうとして、やめた。ビビってるとか思われたくないから。

 やっぱりこいつ、ヤベェんじゃねえの。

 マゾっ気があろうが特殊性癖があろうが勝手だけど、盗みなんて流石にまともじゃない。いや、窃盗ほどではない、無断拝借程度だ。そう弁護してみるけど、なんで、俺が、こいつなんかの。

 ぎい、と錆び付いた音と共に、扉が開く。

 ぶわ、と風が吹き付けた。

 初めて踏み込んだ屋上は殺風景で、灰色をした冬空が近かった。

 胸の高さほどある落下防止の手すりを掴みながら、黒川が振り返る。


「ねえ、命令して」

 吹きすさぶ風のせいで、聞き間違えたかと思った。

 だけど黒川は確かに言った。

 風が強いせいか、それとも笑っているのか。

 黒川は目を細める。

「ねえだって、あなた『命令』するの好きでしょう」

 髪とか服とか、イケないこととか。

 黒川は顔色をほとんど変えず、受け入れた要求を並べた。

「命令したつもりなんかねーよ。お前が勝手に聞いただけだろ」

 言い逃れじゃない、事実だ。乾いた喉に、俺は唾を流し込む。

「お前、が?」

「そうだよ」

「お前、?」

「……は?」


 黒川は鞄とコートを投げ捨てた。

 両手を大きく広げ、言う。

「命令すれば良いじゃない。手すりを乗り越えろでも、ここから飛び降りろでも」

 黒川のそれはヘキを満たす危険なおねだりというより、もはや挑発のようだった。

 ああ、くそ。

「……手すりに登って、その上に立て」

 命令する声は震えた。

『命令』、なら。のは、初めてだった。

 黒川は迷いなく手すりに登った。細い足場に立って、俺を見下ろす。

「これだけ?」

 これ以上の、命令を。何をさせるか考えて、口には出せない。

「もっと命令すればいいでしょう」

 黒川は踏み出した。一歩でも踏み外せば死に至る場所で。足裏で手すりを捉えながら、平均台の上を歩くように。いつもみたいに涼しい顔で二歩、三歩と進む。

「……やめろ」

 俺の声に、黒川はちらりと視線を寄越した。底知れない色をした黒目が急に怖くなって、俺は下を向く。


「どうして? あなた、もっと過激な『命令』だってしてるのに」

 頭上から、黒川の声が降ってくる。

「『電車に飛び込め』とか」

 断罪のような言葉に、俺は勢いよく顔を上げた。

「あなた、『命令』の管理者よね?」

 なんで、と発した言葉は声にならず。ただ唇がわなないた。

「管理者がメンバーに『命令』をするSNSコミュニティ。最初は『駅で大声で歌え』とか『教師の頭を叩け』とか、簡単なもの。……『誰かに交際を申し込め』とかね」

 寒気が走る。髪が長かった頃の黒川の姿を思い出した。

「要求はだんだんエスカレートしていくの。『体に刃物で傷をつけろ』『万引きをしろ』『高いところから飛び降りろ』『電車に飛び込め』。全部、あなたが」


「違う!」

 遮るように叫んだ。自分の声が、まるで吠えかかる獣のようだと思った。

「なにが違うの」

「確かに、『命令』のコミュニティを作ったのは俺だ。だけどあんなの暇つぶしで、ゲームのつもりで。ヤバい『命令』だって、俺じゃない頭のおかしいメンバーがどんどん追加していって。脅迫じみたことを言うやつまで現れて」

「でも、管理者でしょう。それなのに止めなかったんでしょうコミュニティを閉鎖しなかったんでしょう楽しんでいたんでしょう?」

 ちがう、ちがう。だって面と向かって命令したわけじゃない。直接、なにか手を下したわけじゃない。

「命令、気持ちいいでしょ?」

 黒川は笑って言った。

「卑怯者」

 黒川の、赤いつま先をした上履き。手すりをしっかり踏みしめていた足裏を浮かせて、黒川はつま先立ちをした。


「怖くなったのね。女の子一人にちまちま命令するのは平気でも、顔の見えない誰かが死んでクソだと思っても。生身のここにいる人間が、目の前で死ぬかもしれないことには怖気付くのね」

 つま先だけで立って、ピンと足を伸ばして。黒川は踊るように手すりの上を歩く。風が強く吹いて、黒川のスカートが翻った。俺の命令で膝上になったそれ。風になぶられた髪も、俺の命令で短くなった。それでも一瞬、黒川の顔を覆い隠してしまった。

「卑怯者の、意気地無し」

 死の淵で、つま先で踊りながら、黒川は俺を罵倒した。

「ねえ、私の命令を聞いて」

 いまだ黒川は、死の境目にいる。そのことに微塵も恐怖を感じていないような顔をしながら。

 ああこのままじゃ、俺が唆したことになりかねない。

「聞いたら、やめるのか」

「さあ?」

 弄ぶような言葉に、一瞬頭に血が昇りかけるが。

「みんな『命令』に従ったからって、解放されるかどうかなんてわからないけど、やったんだと思うわ」

 冷たい風とともに、黒川の言葉が俺の身も心も冷やしていく。


「三つ命令するから、好きなものを選んで」

 それでも黒川が、俺を解放するかはわからない。

『命令』を聞かずに逃げたやつはいたっけ。

『命令』を聞いたやつは、どうなったっけ。

 やっぱり俺は、どうだって良かったんだ。

「ひとつは、『命令』をSNSから消し去る」

 命令というには、あまりに真っ当な要求。これが黒川の正義なのか、俺へのある種の優しさなのかはわからない。

「ひとつは、屋上の手すりの上を歩いて一周する」

 二つ目。手すりの上でつま先立ちする黒川にとっては、どうということない命令なのか。それとも意気地無しの俺への挑戦状か。

 最後のひとつ、黒川はいったい何を命じるというのか。

「もうひとつは、私のつま先にキスをする」

 は、と声が漏れた。

 明らかに命令の天秤が狂っている。

 いや、試されているのだろうか。金と銀の斧みたいな。

 そもそも命令を聞いたところで、黒川がその先に俺をどうするつもりなのかはわからない。

「どれでもいいわ。好きなものをひとつ選びなさい」

 手すりの上に乗った黒川の足は、ほぼ俺の目の高さのところにある。

「命令してあげるから」

 黒川の赤いつま先が、蹴り上げるように俺の顎を突いた。








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