最終話 香りだけはほのかに甘くて

 翌日の東京は大雪だと、天気予報が告げていた。


 その日は休日で、祥子は大雪にそなえて買い出しに出かけることにした。せっかくなので、ふだん行かない遠くのスーパーまで足を伸ばしてみる予定を組んだ。安売りで有名なスーパーがあるのだ。せっかく電車に乗って出かけるのだ、ついでに映画を観てもいいし、カフェでくつろいでもいい。書店にも寄りたい。

 このところ夜はあまり眠れていなかった。いい気分転換になりそうだと祥子は明るく考えた。電車の車窓から海が見えるのも楽しみだった。


 駅に着き、映画を観て、カフェで珈琲を飲んだあと、祥子はお目当てのスーパーで特売品を買い込んだ。驚きの安さだ。

 気分良く店を出たところで声を掛けられた。脂っ気のない女性の声。祥子は全身の血が沸き立つような興奮に襲われた。


「瑠璃香さん! どうしてここに」

「どうしてといわれましても、ここは私の自宅の最寄りのスーパーなものですから」


「あ、ああ、そうだったんですね」

「ええ」


「ここ、安くていいですね」

「ええ」


「お、お魚も安いし! きょうは白菜も安かったし!」

 瑠璃香は興味なさそうに視線をそらした。


「……あ、えっと、この近くにお住まいなんですね」

「ええ。寄っていきますか」

「えっ」

 衝撃的な言葉にかたまる。


「私がお、おおお邪魔してもいいんですか、本当に?」

「はい」

 瑠璃香は歩き出した。祥子は慌ててついていく。嘘みたいだった。家に誘ってもらえるなんて。とても嬉しい。ということは瑠璃香は祥子のことを嫌いではないのだろうか。いや、それは早計というもの。もしかしたら職場の人だから気を遣ってくれているだけなのかもしれない。そういえば表情もかたかった気がする。気が進まないのかも。ああ、断ったほうが良かった?

 いや、そもそも瑠璃香のことを気に掛けるのはやめると自分で決めたはずではなかったか。それなのに、どうしてこんなに大喜びでついていっているのか。意志が弱いのではないか。


 ぐるぐる考えながら、祥子は瑠璃香とともに近くのマンションに入った。



 共用通路を歩き、瑠璃香がドアの前に立ち止まり、鍵をあけた。つくりつけのシューズボックスの側面が見えた。部屋を覗き込むのは行儀が悪いぞと自制して、なるべく見ないよう視線を落とす。


 きい、と音を立てて、瑠璃香は金属製のドアを大きくあけ、先に室内に入った。祥子もそれに続く。

「お邪魔します」

 グレーのタイルの玄関、そこに脱いだばかりの瑠璃香のスニーカーが一足、いやに存在感を放っている。その少し離れた位置に立った。ドキドキする。本当にお邪魔してもいいのだろうか。


 そこでやっと視線を上げる。白い壁紙、ダークウッドの床、天井には暖色系の丸い照明が一つだけ。リビングへ続くドアは開かれており、奥に小さなテーブルとソファらしきものが見えた。瑠璃香はさっさとそちらに行ってしまった。

 これから祥子もあそこへ行くのだ。わああ、と心の中で叫ぶ。あそこで瑠璃香とどんな話をしたらいいだろう。笑ってくれるだろうか、それとも嫌な顔をされてしまうだろうか。自分はうまくやれるだろうか。


 祥子は、靴を脱いで、靴下を履いたそのつまさきを、幅広なあがりかまちに下ろそうとして……おろせなかった。つま先を床におろせない。


「あ、あれ?」


 どうしてもつま先が宙に浮いたままだった。目に見えない力で足の裏を押し返されているかのよう。部屋にあがりたいのに、あがれない。


 祥子がひとりジタバタしていると、瑠璃香が玄関に戻ってきた。

「どうしました」

「え? あの、あがれないっていうか、つま先が床から反発を受けているというか」

 瑠璃香は黙っている。

「あれえ、どうしてかな」

 じっとつま先を見つめる瑠璃香。その視線の冷たさに、急速に心がしぼんでいくようなみじめさに襲われ、祥子は靴を履き直した。

「……きょうは体調が悪いみたいだから帰ります」




「そりゃ、家に上がらなくて正解だったよ」

 ベッドにうつぶせになり、ふくらはぎを揉まれている祥子は、かたい枕にぎゅっとしがみついた。

「なんで?」

「いや、だって、精神的にすっごく消耗してるよ。体に触っただけでわかるもん」

 足首を掴まれ、そのまま持ち上げられて、軽く揺さぶられる。

「え」

「その瑠璃香さんって人のことを考えて、振り回されて、考え過ぎて、精神がまいっちゃったんだろうなあ」

「そうなの? 自覚ないんだけどな」

「自覚がない分、かえって体に症状が出てるっぽいな。家にあがれなかったのだって体がドクターストップをかけたんだろうし。もう瑠璃香さんとは距離を置いたほうがいいよ。はい、起き上がって、ベッドに腰掛けて」

 指示通りに座ると、今度は両肩から背中にかけてのマッサージが始まった。男性の手の力強さで、一瞬息がつまる。


「姉ちゃんってあれこれ他人の言動を深読みするタイプじゃん。もともと消耗しやすいからさ」


 祥子の弟は最近マッサージ店を開業したばかりだ。インスタで集客しているおかげか遠方から訪れる若い女性客も少なくない。まずまずの繁盛ぶりである。


 子どものころからよく弟に揉んでもらっていた祥子は、今でも姉の特権と称して、予約の入っていないときに体を揉んでもらっては、話をして、悩みを言い当ててもらっていた。悩みを相談するのではなく、言い当てられるのだ。長年姉を近くで見てきた弟にしかできない技である。それにより自分でも気づいていなかった悩みの正体がわかる。正体がわかれば、対処もできるというわけだ。


 首の後ろを揉まれて、ふうと息を吐いた。

「二人の相性最悪。仲良くなるなら、もっとわかりやすく接近してきて、さくっと自己開示してくれるような心がオープンな人が姉ちゃんには向いてる。そういう人と仲良くなるのがいいって」


「わかってますよ、わかってますけど、そういう友だちばっかりで固めるってのもつまらないじゃない。たまには違うタイプの人と仲良くなりたい……」


「さて、じゃあ、きょうは足ツボも押してやるか。大サービスだ」


「え、待って、え、いや、痛、いたた。……ねえ、瑠璃香さんってやっぱり私のことが嫌いなのかな、それともちょっとぐらいは……痛あ!」


「忘れろ! いいからもう、その女のことは忘れろ!」


「忘れようと思えば思うほど逆に忘れられないということもある……痛い!」


 つま先を木の棒で押されて、祥子は本気の悲鳴を上げる。その声に重なるように、祥子のスマホが鳴った。それはLINEのメッセージが届いたことを知らせる通知音だった。


<了>

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Do me a lemon ゴオルド @hasupalen

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