第三話 間違っている

 ドア付近にいた同僚が声を掛けた。

「あら、瑠璃香さん、傘を買い換えたの?」

「はい。先日、友人と金沢旅行にいったときに傘を紛失しまして、仕方なく金沢駅で買いました。これしかなくて、柄は選べませんでした」

 瑠璃香は淡々と答えた。

 あ。

 と、祥子は腑に落ちる。

 旅行に行くような友人がいるんだ。じゃあ、人と仲良くするのが苦手な人だなんて、自分の勘違いもいいところだ。

 つまり瑠璃香がそっけない態度なのは、自分が好かれてないだけなのだろう。時々妙に親切にしてくれるのも、仕事仲間として気遣いをしてくれているだけなのに違いない。同僚にはLINEを送っているが自分には来ないのも、同僚とは仲良くなりたくて、祥子には興味がないというだけのことなのだ。

 なーんだ。

 やっともやもやが消えたような、だけど心に冷たい風がぴゅうっと吹くような、そんな気持ちで祥子は自分を納得させた。

「やっぱり好かれてなかったんだなあ」

 自分に言い聞かせるように小さくつぶやく。そっか。やっぱりか。でも、しょうがない。

「うん、しょうがない」

 そもそもここは職場だ。仕事をしにきているのだ。友だち探しをする場じゃない。余計なことを考えるのはやめよう。そう決めたら、気持ちがすっきりした。



 ところが、祥子が瑠璃香の言動を気にしないよう心がけるようになると、瑠璃香はかえって祥子に話しかけるようになった。

 仕事の話だけではなく、どうでもいいような雑談まで振ってくる。それで、つい祥子も話をしてしまう。すると、興味がなさそうな生返事が返ってくる。それがまた祥子を悩ませる。親しくなれそうで、なれない。どういうつもりなのかわからない。

 LINEも相変わらずで、祥子には来ないが、祥子の同僚には送りまくっているらしい。

 また、親切にしてもらって、お礼をすると迷惑そうな顔をされることも増えた。それなのに親切な気遣いをやめる気配もない。


 何を考えているのか全然わからない。好かれているのか嫌われているのか、いまだにはっきりしない。だから祥子も態度を決めかねている。



「やば、ブルースクリーン出た」

 ある日の午後、パソコンに向かっていた同僚が悲鳴に似た声を上げた。ちょうど書類仕事をしていた祥子は顔を上げた。頭を抱える同僚の背中越しに、青い画面の表示されたPCモニターが見えた。エラーが出て、パソコンが操作できなくなっているようだ。

「うわ、大丈夫ですか」

「大丈夫じゃないよ。パソコン詳しくて手が空いている人、助けて!」

 祥子は自然と瑠璃香に視線を送る。彼女はコピー機の前で書類をまとめていた。こちらの会話は聞こえているようで、一瞬同僚のほうを振り返った。だが、すぐもとの姿勢に戻った。

 祥子は訝しむ。

 彼女は以前、祥子のパソコンが一切の操作を受け付けなくなってしまったとき、助けを求めずともすぐに近寄ってきて、「私で良ければ手伝います」と言うなり、ぱぱっとタスクマネージャーを立ち上げ、再起動してくれたのだ。「パソコンが好きなので」と言っていた。パソコンが得意でない祥子にとってありがたい出来事だった。

 だが。

 今、同僚が大騒ぎしているその側で、瑠璃香は黙々と自分の作業をしている。

「BIOSの設定いじっちゃったのが裏目に出たかな。もうどうしよう」

 同僚が嘆いている。

 瑠璃香に声を掛けてみるべきだろうか。いや、余計なおせっかいかもしれない。しかし同僚の仕事が滞るのも困る。祥子がうだうだ悩んでいたら、同僚のほうが瑠璃香に声を掛けた。

「ねえ、瑠璃香さん、あなたってパソコンは得意?」

「いいえ。パソコンのことはよくわかりません。パソコンって嫌いなんです」

 即答だった。

 そんな馬鹿な。祥子は驚きのあまり瑠璃香の冷たい横顔を見つめる。

 だって祥子のことは助けてくれたじゃないか。パソコンが好きだって言っていたじゃないか。それなのにどうしてあの同僚は手助けしてやらないのだ。

 ふいに、以前同僚が言っていた言葉が蘇る。「瑠璃香さんって、祥子さんにばっかり優しいんですよね」

 その瞬間、自分でも受け入れがたいほどに醜い優越感と幸福感に襲われた。それは熱い塊となって祥子の胸の奥で膨らみ、内側から祥子を圧迫し、乱暴に弾けた。弾けて泡粒となった興奮は血流にのって全身へと行き渡り、唇と指先を震えさせた。ゆっくりと唇が笑みを形作る。

 祥子は俯いて、表情を隠した。

 他の人に冷たくしているのを見たら、普通は嫌な気持ちになるはずだ。幻滅する。少なくとも祥子はそういう人間であったはずだ。

 それなのに、いま、喜んでいる。

 こんなふうに感じるのは間違っている。

 どうして瑠璃香の厚意を独り占めできたことに喜びを感じているのか。もしかしてこれは恋なのだろうか。女同士で? あり得ない。祥子は同性愛者ではなかった。百歩譲って恋だとしても、やはり他人に冷たかったら幻滅するはずだった。少なくとも過去の祥子はそうだったのだ。こんなふうに喜んだりする女じゃなかった。

 体のすみずみまで行き渡った興奮が鎮まると、寒気に似た、肌が麻痺しているせいでかえって敏感になったような奇妙な錯覚が残った。恋よりも、もっとドロドロと粘っこい何かがある気がした。心の奥底にある日の当たらない部分を刺激してやまない何かが。

 祥子は口元を手で覆う。自分のことが気持ち悪かった。いますぐここから離れて新鮮な空気が吸いたい。

 ふらふらとオフィスを出て、休憩ルームに向う。人気のない通路を、白いLED照明が生み出した足下の影を見つめながら歩く。歩くたび、影が左右に揺れて見えた。軸がぶれているからだ。自分の軸がくるわされているのだ。

「ああ……」

 立ち止まり、壁に手をつく。

 瑠璃香によって毎日少しずつぐらぐらして、自分の軸がぶれていっているのだということが、このとき祥子はようやくわかった。軸のぶれは今ではとても大きなものとなっており、まるで止まる寸前の独楽こまのよう。


 間違っている。祥子は何度もそう考え、やがて歩き出した。休憩ルームではなくオフィスのほうへ。

 あの後、瑠璃香はどうしただろう。もしかしたら同僚のパソコンを見てあげているかもしれない。それはなんだか気にくわない。早く戻って確認しなければ。


 戻ってみると、瑠璃香は書類をファイリングしていた。同僚はパソコンを前に頭を抱えたままだ。祥子は安堵すると同時に、勝利感に酔った。おのれへの嫌悪感にまみれた高揚だった。



 翌日、祥子は全パート女性にLINEを送ってみた。

「いつもお疲れさまです。来月のシフトですが、繁忙期ですから無理をお願いすることもあるかもしれません。どうしても出られない日がありましたら、なるべく早目にご連絡くださいね」

 瑠璃香以外のパート女性からはすぐに返事が届いた。スタンプだけ送ってくる人もいたが、とにかく何かしらのリアクションがあった。

 瑠璃香は既読すらつかなかった。ようするに無視された。どうしてなのだろうと祥子は悶々としてしまう。メッセージに気づかなかったのだろうか。それとも何かほかの理由があるのだろうか。たとえば祥子のことを内心では嫌っているとか? 困ったときは助けてくれるのに? でも顔は嫌そうだし、祥子の話には興味がなさそうだし。でも話しかけてくるし。


 わけがわからない。その日は何度もスマホを確認せずにはいられなかった。


 東京に雪が降り始めるころ、祥子は気がつけば瑠璃香のことを考えるようになっていた。




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