雪あかり

つるよしの

ゆき あかり

 寒風が唸る。

 地表を攫った渦が、空に白い粉を巻き上げる。


 ――さむい。とても、さむい。


 十二月の白い地表を踏み締める革のブーツは、とうに破れてしまっていた。刺すような痛みが、真っ赤になった指先へときりきり走る。

 痩せ細った肩を覆うローブとて同じだ。ぼろぼろに擦り切れた布が、降りしきる雪から肌を妨げる役目を放棄してしまってから、もうずいぶん経つ。


 それでも、ラタンはそのことをしあわせと思っていた。


 なぜなら、じぶんの身分を表すような服装こそがいちばん、我が身を危険に落とし入れるとわかっていたから。

 

 身体を芯から凍えさせる寒さ以上に、ラタンは、敵兵にじぶんの素性が露わになるのが、なによりも怖かった。


 ――この山は、すでに敵に囲まれてしまっているらしい。だとしても、できるだけとおくへ、いかねば。できるだけ、とおくへ――。


 だから彼女は吹雪のなかであれど、荒い息をくうに散らしながら、白く覆われた山肌の果てに歩を進めるべく、かじかんだ足を動かすことをやめられない。


 だが、その足が、ぴたり、止まった。


 ラタンの瞳が、雪の上に鮮やかな色彩を認めたからだ。突然視界に飛び込んできたその「いろ」は――。


 ――くれない


 そう、周囲の白に対し、あまりにも鮮やかな、紅。


 そして、そのいろは、ひとつではなかった。

 てんてん、と、幾つもの紅が、雪のうえにまるく飛沫を落としている。

 ひとつの足跡とともに、てんてん、てんてん、と前方に向かって。


 ラタンは息をのんだ。彼女には、その紅がなんであるか、すぐにわかったから。


 ――これは、血。


 それが、雪の上に続いている。

 てんてん、てん、てん、てん。てん。数多の血飛沫が点々と、雪の上を走っている。


 ――と、いうことは。

 ――このさきに、だれかが、いる。


 ラタンはごくり、と唾を飲んだ。

 そして微かな希望のあかりが、ぽつり、胸にともったのを感じとる。なぜなら、彼女はそのつぎには、こう胸を逸らせたのだから。


 ――手負いであるなら、味方のはず。


 それがじぶんのもとから逃げだしてしまった騎士の誰かだったとしても、もしくは見知らぬ兵のひとりだったとしても、かまわない。味方であれば、ひとりであるより、ましなはずだ。


 ラタンはそう思い、この紅の先にいるはずの「だれか」を追うことを心に決める。


 そうして、なおも吹き荒む白い嵐のなか、ラタンは紅を辿って歩き出した。


 不機嫌な雪空は夕刻を迎えようとしていた。白はますますつめたく重く暴れ、ラタンの背にのしかかる。



「娘っ子か。めずらしいな、里のものか?」


 血痕を辿ったさきの洞窟には、ひとりの男がいた。


 騎士服らしきものをまくった右腕が赤く抉れているところを見ると、血はそこから流れ出ていたのであろう。いまは、出血は止まっているようだ。


 男は洞窟の入り口近くの岩肌に寄りかかり、虚ろな視線を空に投げていた。そして、人の気配を感じとったのだろう、男は吹雪のなかに立ち尽くすラタンに目を移すと、まずはそう尋ねてきたのだった。


 ラタンが何も言えずにいると、男は彼女に向かって手招きをした。洞窟のなかに入れということらしい。

 ラタンは一瞬の躊躇いのあと、おずおずと凍え切った足をなんとか前に進める。


 途端に、頬を殴る冷たい粉が、止んだ。耳元を唸る風音も。

 その静寂を縫って、男の野太い声が、洞窟内に響く。


「名前は?」

「……オルガ」


 ラタンは懐かしい「ほんとうの名」を口にした。

 神などではない、真の母と父から与えられた、懐かしい名前だった。


 それから、男の全身をこわごわ見渡す。すると、男の兄元に投げ出された剣の柄に、見覚えのある紋章があるのが目に入った。

 ラタンを守る護衛騎士たちの剣には、必ず付されていた紋章だった。


 ――狼の紋章だ。


 そして紋章の上には、金の蛇のかざりが絡みついている。

 洞窟のそとから差し込む雪あかりに、蛇がぬらりとひかった。


 ――ということは、その長。ならば。


 ラタンの喉が再び鳴る。


 ――このひと、とても、えらいひとだ。


 そして、こんどはラタンの胸中を、くろい蛇が這った。

 ぬるり、と音を立てて。


 ――と、いうことは。もしかしたら。

 ――このひとを差し出せば、わたしのいのちは、助かる見込みがあるかも、しれない、ってこと?


 ラタンの瞳は男の剣の柄になおも落ちている。

 その姿勢のまま、ラタンはくろい考えに脳内を巡らす。


 そうして、もうひとつの事実に、思い至る。


 ――いや、ということは。

 ――それはこのひとも同じだ。このひとも、わたしを差し出せば、助かるかもしれない、ってことなんだ。


 ラタンは思わず、ぶるり、と身を震わせた。寒さのせいだけでは、なかった。


 そんなラタンの様子を男はしばらく何も言わずに見守っていたが、次の瞬間、懐に左腕を差し伸べる。

 しかし、男が手にしていたものを見て、ラタンの緊張は一気にゆるんだ。


「食べるか?」


 男が動く左腕でラタンに差し出したものは、干し肉だった。


 ラタンは男の前に座り込むや、赤い塊を受け取り、一昼夜ぶりの食物を急いで口に運ぶ。そしてラタンは味を感じる暇もなく、ひたすらに肉を咀嚼した。


 そんなラタンを、またも男は黙って見守っている。

 その目は、その身分と地位にしては柔和だった。


 別のいのちが、凍え切ったじぶんのいのちに、染み渡っていく。

 その意識の向こう側で、声がした。


 ――このひと、やさしい。


 でも、重なるように、こんな声も聞こえる。


 ――だけど、油断しちゃ、いけない。



 男は夜が本格的に来る前に、と、洞窟内に吹き込んでいた枯れ草に火打石で火を焚べた。


 微かな暖ではあったが、あたたかい。それまでの凍りついた身体のこわばりが溶けていく。

 ついで、やもすれば、こころのこわばりも。


 ――いけない。


 そう思ううちに、夜が更けていく。

 洞窟のそとは白い暗がりにいろを変え、なおも風は荒れ狂っている。


 ほんとうは、疲れ切った身体を洞窟の地べたに預けて、寝そべってしまいたかった。だがそうしてしまえば、必ずや睡魔に意識を奪われることだろう。


 いや、意識だけではない。いのちさえも、奪われる危険がある。


 ――そう、このひとに。


 その可能性を思うごとに、ラタンの心の臓は激しく、うごめく。

 臓腑を蛇が、這う。ぬるり。


 ――寝たら、終わりだ。いや、そのまえに。


 ぬるり。ぬらり。ぬるり。


 ――こちらから剣を奪って斬りつけてしまえば、よいのかも。右腕は、動かないようだし。


 そこまで考えたところで、男の声がラタンの鼓膜を叩いた。 


「寝ないのか」

「……そんな気に、なれなくて……」

「それはそうだろうな」


 男の声は、先ほどと同じく野太かったが、ちいさい。

 耳を傾けていなければ、風音に攫われてしまいそうな囁き声だった。


 だけれども、次の男の言葉は、やけにはっきりと、聞き取れた。


「寝たら、俺がお前の胸を刺すかもしれないからな」


 ずん、と息が詰った。

 視界の隅で、地べたにいまも転がっている剣の柄を、金の蛇が這っているのがみえる。

 そうしてゆっくりと蛇が宙に浮く。


 気がつけば、持ち上げられた剣先はラタンの喉元に突きつけられていた。

 ぞくり、とするほどよそよそしい色に染まった男の目が彼女の瞳を射る。


 そして声が、また耳を打つ。遠くでは、風が唸っている。


「残念ながら俺の利き手は、左だ」


 瞳のすぐ先で、刃の切っ先が雪あかりに煌めいた。


「お前は聖女だな」

「……それを……知って……、私をここに招きいれたのですか……」


 唇から震える声を漏らしながらも、ラタンはふと、頬になにものかの視線を感じた。


 目の前の男ではないだれかが、じぶんを見ている。


 ――蛇だ。


 剣の柄の蛇が、じぶんを睨んでいる。


 ――だけど、あの蛇は、さっきわたしのなかにいたのと、おなじ蛇。


 そのことに気付いた途端、ふっ、とラタンの肩から力が抜けた。

 そして、こう思う。思いながら目を瞑る。


 ――だとしたら、わたしがこのひとにころされるのは、なにもおかしくないことだ。


 そうして、じっ、と、そのときを待つ。

 火が爆ぜる音と、風雪の唸り声。


 ラタンにはもう、そのふたつしか感じ取れない。

 


「やめよう」


 急にそんな男の声がして、ラタンは目を見開いた。気がつけば剣は再び、地に降ろされている。

 それから、驚くラタンの前で、男は、またもちいさく囁いた。


他人ひとの命を奪い、それを差し出すことで生き延びるのは……もうやめようや」


 それはどこか、独り言のようであったが、ラタンには告白のようにも聞こえた。

 男の顔を見てみれば、初めて会ったときのような虚ろな目だ。


 それはまるで、白い雪のなかに、ぽっかりと開いた深淵のようなくらさと虚ろさだ。


 その目のまま、男は呟く。


「ここにももうすぐ、敵の捜索の手が及ぶだろう。夜のうちか、明日の朝か、それともそのあとか。いずれにしろ、そのうちに、必ず」


 どうしてだろう。

 言葉の内容は絶望そのものだ。だけれど、ラタンにはその声が、あかるく、たのしげに聞こえた。


「だが、抵抗せず投降すれば、ひとりは助命するだろう。それが奴らの掟だ。あいつらは、死体はひとつで十分と心得ている」


 いや、それは、おわりを悟ったからこその陽気さなのだ。

 生きる責任をなげうったうえでの、気安さなのだ。


 そのラタンの思いは、次の男の言葉で確信に変わる。


「そのときが来たら、俺はお前の命乞いをしよう」

「いけません」


 ラタンは即座に口を突いて出た、じぶんの言葉に驚く。

 さっきのさっきまで、この男を屠ってもいのちを繋ごうとしていたじぶんであるのに。そんな身勝手なじぶんが、そんなことをいう資格はあるのか。


 しかし、心は混乱しながらも、ラタンはそのとき、そのことを口にするのを、止められなかったのだ。


「でしたら、わたしもそうします。そのときが来たらわたしは、あなたの命乞いをします。そうしたら、たしかに、彼らの掟には反しますが、わずかな、ほんのわずかな可能性かもしれませんが……」

「ふたりとも生き抜ける、かも、しれない……か」

「そうです、わたしたちは、おたがい、生きるべきです」


 そこまで一気に言葉を吐いて、やっとラタンはじぶんのきもちに気がついた。


 ――ああ、そうだ。わたし、生き抜きたいんだ。それも、もう、だれかの屍のうえに生を繋ぐのではなく。


 つまりは。


 ――わたしとこのひとは、きっと、同じ思いをして、いま、ここにいる。


 

 火は岩肌に、ひかりとかげを落す。そして雪は止まない。外はもう漆黒の闇だ。

 ちいさな焚き火ではまかないきれないほどの夜と冷気が押し寄せてくる。


 その狭間に、男の声がまた響く。


「だが、その望みは薄い。きっと俺たちのどちらかは、死なねばならない」

「それでもです」


 ラタンはちいさな、でもはっきりとした声音で抗弁した。


 そうしてから、喉から声を繰り出す。そのことばに万感の思いをこめて。数多の思い出を浸らせて。


「それでも、そうせざるを得ない。きっと、よのなかには、たくさん……そういうことがあります……いえ、ありました」

「そうか」


 ラタンの言葉に、男が微かな笑みを唇に浮かべて応じる。


「なるほど、お前はたしかに、聖女だな」


 やがて男が、ぽつりと零した。


「もうすぐ夜も、そして年も明けるな。この雪嵐が収まるころには」 

「そう、なにもかも変わるときが、いずれ、来るのです」


 ラタンもそう呟く。じぶんでも、もはやそれが真実かどうか疑わしいせりふを。だけども、いつかそうあってほしい、どこまでも降りしきる雪のように、切に願ってやまぬせりふを。


「ならば、それまでは、生きようか」

「ええ」

「ともに」


 言葉を交わすふたりの視線の向こうには、雪あかりが浮かんで見える。


 あわく、おぼろげで、でもいまたしかにそこにある、仄かなひかりが、見えている。

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雪あかり つるよしの @tsuru_yoshino

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