ハッピーサーズデイ

杏樹まじゅ

ハッピーサーズデイ

 太陽がある日冷たくなった。

 東京の平均気温は、年々下がり、今年はマイナス四十度を記録。

 太陽は隠れ毎日吹雪が吹き荒れ、未来を憂う人々の年間自殺者数も毎年過去最高を記録。


 けれど、十五歳の高山陽毬ひまりには関係ない。今週も木曜日が来た。あの人に会いに行くのだ。

 羽田空港まで、京急線に乗って。



 世界が寒冷化し始めた頃。川崎市川崎区。

 公立の中学校の体育の時間。運動神経抜群な生徒だった。百メートルは十四秒。百五十センチの小柄ながらトレードマークの赤いリボンのポニーテールは、先生にも、母親の美咲にも将来を期待されていた。八月なのに降り続く雪などには、負けはしないと言うかのように。

 けれど、その日は違った。急な目眩に襲われ、真っすぐ走れなくなって、倒れた。仲間が何人か駆けつけると、右目が斜視になっている。泡を食った先生に、病院に連れて行かれた。すぐに総合病院に紹介状が書かれて、即日精密検査となった。数日後、美咲と行った診察室で、信じられない事実を告げられる。


 脳腫瘍があります、と。


 先生は陽毬がよくわからない言葉──例えば悪性である、とか、浸潤がある、とか──を並べて母・美咲に伝える。


「お母さん。あたし、どうなるの?」


 母子家庭で、美咲と二人っきりの、それでも陽毬の大好きな団地に帰った後、聞いてみた。母親は、思い切り大きな声を上げて泣き出して、ぎゅっと、絞め殺されるかと思うくらい強く抱きしめた。


 大好きだった体育は、この日を最後に出来なくなった。学校も、休みになった。



 明日死ぬかもしれない。そう言われたものの、十五歳の元気盛りの少女には、全く現実感が湧かないに違いない。元気を持て余して、受験勉強もせずに、暗い団地の一室で寝ている方が、それだけで死んでしまいそうになるくらい退屈だと思ったはずだ。

 だから陽毬が、自分のタブレットでSNSを通じて、同じ脳腫瘍患者のコミュニティを見つけるまで、そう長くはかからなかった。

 その中で、陽毬が大好きな猫のキャラクターと同じアイコンの人物を見つけた。『とーた』と名乗るそのアカウントの人物は、高校二年生の男子だという。同じように脳腫瘍で、同じように悪性だという。


「うそ、近いじゃん」


 住んでいる場所を聞いて驚く。多摩川を挟んで隣町、東京の大田区に住んでいるという。会いませんか。どちらともなくそう言い出したのは、自然の流れだった。


「だめだよ、絶対に駄目。外で倒れたらどうするの」


 美咲は娘の願いを許さなかった。けれど団地にこもって週に一度病院と行き来するだけの日々はもう半年続いていた。何が何でも外に出てやる。遅めの反抗期が来ていたのかもしれない。


『俺、アメリカで手術することになった』

『アメリカで? すごいじゃん。治ると良いね!』


 いつものやりとりのはずだった。だからこの日も、寝る前の会話は、いつも通りおやすみ、で終わるはずだった。


『陽毬ちゃんに、会いたい』


 その一言を聞くまでは。



 二月の、寒い寒い日だった。

 気温はマイナス二十度らしい。

 外は吹雪で、お日様も見えない。


 彼の情報によると、出発するのは木曜日のこの日。十四時十五分発ニューヨーク行きの便。出発前に、どうしても会いたいのだという。緑の帽子が目印らしい。陽毬も緑のヘアピンでおでこをぱっちんした。

 もちろん、美咲には内緒だ。お小遣いも往復の交通費くらいならある。川崎駅まで市営バスで出て、京急線に乗って、羽田空港行きの電車に乗った。赤地に白い帯が誇らしげな爆走特急も、雪まみれで真っ白で。でも、気になる男の人に会いに行くと思うと、胸が弾んだに違いない。だめだと言われているけれど、息を切らして走った。頭ががんがんしたけれど、関係なかった。


 国際線のターミナルに着いた。午前十時前。約束まであと十五分あったけれど。


「陽毬ちゃん?」

「とーたさん?」


 お互い緑の目印をした二人の出会いを祝福するように、アナウンスが流れた。


「十四時十五分、羽田発ニューヨーク行、◯◯便は、降雪の為、欠航となります。なお、航空券の払い戻しは──」


 そりゃそうだ。自分より痩せたその少年──結城藤太とうたは、アナウンスを聞くなり笑い出した。

 そうだよね。高山陽毬も笑った。

 藤太の母親も父親も、怪訝な顔をしていたが、それは陽毬には関係なかった。

 LINEの連絡先を交換して、その日はお互いの家に帰った。



 藤太のニューヨーク行きは、次の週の木曜日に延期となった。

 けれど翌日には気温はマイナス四十一度を記録した。

 結局、この日を最後に、羽田から飛行機が飛び立つことは、なくなってしまった。


 幸い、京急線は動いていた。さすが、どんな時にでも動く京急線だ。

 陽毬たちは、毎週木曜日に、羽田空港のロビーで、会う約束を交わした。

 二人は会う前から既に惹かれ合っていた。


「生存確認みたいでいいだろ?」


 そう言って、藤太は笑った。



『今日も北海道から沖縄まで、全国的に雪でしょう』

『政府はこの異常気象に対して緊急事態宣言を発令しました』

『本日の自殺者数は全国で千二百人を超えました。今年の年間自殺者数は、百五十万人を超えることが確実となりました』

『この全国的なパニックは、全て政権与党の責任であります。よって、ここに内閣不信任案を提出し──』

『本日の東京都心の最高気温はマイナス五十二度。統計を取り始めて最低を記録しました』

『命をだいじにー 命を守ろうー ストップ、自殺・ノーモア自殺 公共広告機構』

『今日も北海道から沖縄まで、全国的に雪でしょう』


「なあ、陽毬ちゃん」

「なに、藤太くん」

「賭けをしてみない」

「賭け?」

「この世界と、俺たち。どっちが長生き出来るかな」


『今日も北海道から沖縄まで、全国的に雪でしょう』



 頭ががんがんと痛む。

 気圧が低いせいなのだ。

 最近は、斜視になった右目が霞んで、よく見えない。

 電気は、昨日から止まったままだ。

 お母さんも、帰ってこない。


 でも、今日は木曜日のはずなのだ。


 陽毬は、頭を押さえながら、扉を開けた。



 市営バスは、来なかった。もう運転する人が、居ないのだ。

 だから、歩いた。


 あの爆走特急も、来なかった。もう運転する人が、居ないのだ。

 だから、歩いた。


 どこを見回しても真っ白で、まっすぐ歩いているかもわからない。

 けれど今日は木曜日なのだ。

 藤太くんに会って、生きてるよって、伝えなきゃ。


 歩いて、歩いて。


 羽田空港の、あのガラス張りの建物が、見えた。



 中は、真っ暗だった。

 でも、藤太くんがどこにいるかは分かる。

 一年間も通ったんだ。

 待ち合わせ場所は頭の中に入っている。

 腫瘍と一緒に。


 後少し、後少し。


 そう、腫瘍と一緒に、生きてきた。

 藤太くんと、生きてきた。

 腫瘍のおかげで、会えたんだ。

 自殺、しなかったから、会えたんだ。


 藤太くん、藤太くん。

 あたし、生きてるよ。まだ生きてるよ。



「やあ、待ってたよ」


 藤太は、柔らかな顔で微笑む。


「えへへ、遅くなっちゃった」

「賭けは俺の勝ちだね」

「え、あたしたち、に賭けたのはあたしじゃなかったっけ」

「あれ、そうだっけ」


 ともあれ、陽毬も藤太も、勝ったのだ。

 死にいちばん近い二人は、全人類のだれより長く生きた。

 だから、笑った。二人して、大笑いした。


「十四時十五分、羽田発ニューヨーク行、◯◯便は、まもなく受付を開始します──」


「さあ、飛行機が来てるよ。乗ろう」

「うん、ニューヨーク行って、治してもらおう」


 幸せな幸せな木曜日。

 雪が降る木曜日。


 誰よりも長く生きた二人は、手をつないで搭乗ゲートを。


 くぐった。

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