美しい赤

朝吹

美しい赤 

 

 雪は赤いものだ。佐嶋慎一郎にとっては吹雪も積雪も赤なのだ。もちろん殺人事件のような物騒な話ではない。ひと昔前は色盲という語で知られた視覚異常ともまた違う。慎一郎の眼には白が牡丹色や薄紅梅うすこうばい色を帯びて、赤に近い色に見えている。

「一夜のうちに、きれいな雪景色になったな」

「うん」

 そんな時にも、一面が赤いなぁと慎一郎は想うだけだ。

 色鉛筆の赤、信号機の赤、消防車の赤。一般的な赤との区別はついている。ただ、他の人が「白」と呼ぶものが慎一郎には白に見えていない。

 赤と白があり、「赤はどちら」ときかれたら赤を選ぶ。選ばなかった片方が「白」だ。しかしあらゆる色彩の折り紙をずらりと並べて「白はどれ」と問われたら、慎一郎にとっての白に見えていたもの、つまり桃色や薄橙色を悩みながら選んでしまう。それで判明した。白が識別できていないと。

 

 

 不自由といえば不自由だが、この程度で不自由であると悲劇ぶるには、本当に不自由な人に対して申し訳が立たないだろう。小学校の運動会で紅組と白組に分かれる時にも、種類の違う赤が二つあるという見分け方で何となくしのげた。

「佐嶋くんが困っている時にはみんなで助けてあげること」

 先生がぴっと笛を吹く。

「はい、白線まで進んで」  

 そんな時にも、慎一郎はちゃんと指定されたラインに立てた。他の連中が白に見えているものが、自分だけには赤寄りに映るのだというハンデ。特別な存在でいたがる主張はげしい思春期の同年代の中にあって、慎一郎は最初から少しばかり特異であった。

「へえ、大変だな。たとえば日の丸はどんなふうに見えてるの」

「赤の濃淡。いい国旗。きれいだよ」

 白は、世の中の彩りのかなりの範囲を占めている。難儀といえば難儀だが、特例の配慮など慎一郎には不要だった。なるべく白を排除し、他の色だけで授業を進行するようにしましょうという学校側からの申し出も、慎一郎の親はありがたく辞退した。この子が生きていく先には、同じような困りごとが沢山あるでしょうから。

「それなら、わたしの顔は今どんな感じ。佐嶋くん」

「見た目のままに見えてるよ。分からない色は白だけだから。パーソナルカラー、君、ウィンターでしょ」

「そうよ。詳しいわね」

 その人を引き立てる色、つまり映える色を春夏秋冬に分けたパーソナルカラーに言及したのは、なにも慎一郎が知ったかぶりをして聞きかじった言葉を出鱈目に並べ立てたわけではない。色相には敏感にならざるを得なかっただけだ。

 大学生の時に付き合った彼女とは相性がよく、慎一郎は彼女との結婚まで考えていたが、「生れる子どもにあなたのその特性が遺伝したら困るから」という理由でお別れとなった。彼女は悪くない。きっとほとんどの人間は自分のことを完璧で完全体だと信じ切って生きている。さして何の問題もなく過ごしている他人に対して、正しい生き方を指導できると勘違いしている程度には。


 

 それはどんな車だったのか、おじさんたちに話をきかせてくれないかな、慎一郎くん。



 子どもの頃は米粒が甘そうに、うどんがミミズに見えていた。わかめうどんともなれば、少々不気味な配色になる。受け取ったうどんと、箸と七味を社食のトレイに乗せると、慎一郎は一年先輩にあたる山田美嘉みかの前に座った。

「そんなに安いの。ゼロが一つ足りなくない?」

「ええ。そんなものです。美嘉さん、本当にコスメに詳しくないんですね」

 先週のことだ。散々迷った末に、顰蹙ひんしゅく覚悟で慎一郎は美嘉に云ってやったのだ。化粧が下手だ。色がまるで似合ってません。その時は美嘉の方がうどんを食べていた。揚げを乗せたきつねうどん。

 山田美嘉は露骨に顔をしかめた。

「佐嶋くんの眼にはそう見えるだけよ。あ、これ、差別じゃないから」

「俺が分からないのは白色だけです。先輩、高校や大学の時に練習しなかったの」

「すっぴん派なのよ、化粧が下手で悪かったわね。他人に文句をつけるなら、けちをつけるだけでなく改善策も併せて出しなさい。社長からそう訓示されているのを忘れたの」

 ぷんぷんしながら、美嘉はきつねうどんを大急ぎで食べ終え、トレイごと慎一郎の前から去って行った。

 好きだよ、美嘉先輩。ふられても恨まないよ。

 立ち上がって反対側に回ると、慎一郎は美嘉が片手で中途半端に斜めにおさめた椅子の向きを正面に直した。

 俺のほうがおかしいのだから。

 


 百貨店の手提げを渡すと、山田美嘉は「まさか本気にするとは」と引き気味に愕いた。

「佐嶋くん、あなたの会社に化粧品で困ってる子いないかしら。顧客開拓に協力して欲しいのよ。最初の一回はお試し価格で送料無料キャンペーン中よ、どうかしら」

「美嘉先輩、営業トークの真似がうまいです。でも俺には、化粧品会社に勤めているそんな彼女はいません」

「女子社員に一番人気の佐嶋くん。代案を出せとは云ったけれど、こういうことをされると困るのよ」

「分かってます。俺が勝手にやったことです」

 慎一郎が選んだのは評判のいい大人向けのプチプラだ。必要なものを全品選んでも数千円程度でおさまった。美嘉の云うとおりもしこれが外資系コスメなら桁が一つ増えるところだ。

「試しに一度つけてみて。きっと似合います」

「ありがとう」

 ちっと美嘉が舌打ちしたのを慎一郎は聞き逃さなかった。女の化粧に口を出すなんて面倒な男には違いない。


 佐嶋くんはパーソナルカラーが分かるらしい。

 慎一郎についてのそんな評判が社内に出回るまで、そう長くはかからなかった。

「なんで。ご家族に美容部員でもいるの」

「独学らしいわよ。ほら、彼、眼に障害があるじゃない。だからかえって色に敏感になったそうよ」

 垢抜けた美嘉がいい見本だった。慎一郎が揃えたコスメで似合う色がぴたりとはまり、そのお陰で三割くらい美人度が増している。

「わたしの両親の実家は北国にあるの」

 卓上のカセットコンロの上では土鍋が湯気を立てている。美嘉の暮らすワンルーム・マンションは大雑把に小綺麗で、居心地がよかった。取り皿に美嘉が具をよそう。その脇で、慎一郎はお揃いで買った二つのグラスにビールを注いだ。化粧品の一件から始まって、じりじりと距離を詰めていき、秋の終わりにストレートに付き合って下さいと慎一郎が願うと、美嘉は承諾してくれたのだ。

「とても貧しくて、口減らしなんていう言葉が、曾祖父母の時代にはまだ当たり前だったような、そんな処よ」

 合掌造りの集落を定点観測している映像が観葉植物の横に立てたタブレットの中で流れっぱなしになっている。小窓のようなそこには絶え間なく雪が降りしきり、世界遺産に指定されている集落は大雪に埋もれて、傾斜のきつい特徴的な屋根もほとんど見えなくなっていた。一階二階が雪で埋もれてしまうので、冬季の出入り口は三階以上の窓からなのだ。それを横目に慎一郎は呟いた。一面の赤い雪。

「雪国は悲惨よ。屋根の雪降ろしなんて地面に穴を掘るに等しい重労働だもの」

「美嘉さん。俺も子どもの頃は雪の積もる地方にいたんだ。小学校の途中で引っ越したけど」

 ざくざくざく。

 赤い雪を踏んで誰かがやってくる音がする。

「その頃は、好きな人とこうして鍋を囲める未来など想像もしてみなかったな」

「子どもがそんなことを考えていたら怖いわよ。大根はどう」

「よく煮えていて美味しいよ」

「慎一郎くんの眼にはこれもさくら大根みたいな色に見えてるのね」

「多分ね。でもさくら大根を横に並べると、色が違うと分かる」

 云い出したらきりがない。豆腐だって薄ピンクだ。

 他のことは人並みに出来るのに、白だけが白だと分からない。自分にだけ分からない。最初からそうなのだから、いくら教えてもらってもそのイメージがいまいち湧かない。それは純潔のしるしであり、祝福であり、経帷子きょうかたびらの色なのだという。とても美しいのだと。

「こっちにも雪が降ってきたわ」

 一晩中、雪は降っていた。街明かりに照らされてカーテンの向こうをひらひらとした雪が無限に流れ落ちていく。その影を見つめながら、この部屋ごと何処かに沈んでいくみたい、とベッドの中で美嘉が笑った。


 

 慎坊は白色が見えないんだってな。したら、教えてやればいいだけさ。なあ慎ちゃん。あれが白だ。これも白だ。ガードレールは白だ。ええか。一つ一つ憶えていけばいい。したら何も困らんし、普通の人にみたいにやっていけるさ。なあ。

 ざくざくざく。誰かが雪の道を急いでいる。

 逃げたのはどんな車だったのか、おじさんたちに話をきかせてくれないかな、慎一郎くん。

 それはどれほど美しい色なのだろう。天空から降りしきる雪は白いのだ。この眼に映るような薄らぼけた赤ではなく、冴え冴えしいほどの白銀に包まれた山河とは。


 

 互いの仕事の折り合いがつかず、出立が土曜日の午後になったこともあり、温泉地に向かう電車の中は空いていた。車内にいるのは慎一郎たちと、観光地をあえて外して地方巡りを愉しむバックパッカーの外国人だけだ。

「気づいてたわ。雪を見る時、慎一郎は暗い顔をしてる」

「そうかな」

「困ったような顔」

「そんな顔してたかな」

「何かあったの」

 わたしに打ち明けて。美嘉の申し出に少し考えて、慎一郎はその話をした。人に話すのは初めてのことだった。

「未解決のままなんだ」

 ドラマや警察小説のように犯人が逮捕されて解決とはいかなかった。ひき逃げ犯を目撃していたのは慎一郎だけだった。幼い慎一郎が憶えていたのは走り去るその車の色だけだ。

「くるまの色は雪みたいな色」

 駈けつけた警官に囲まれた慎一郎はそう答えた。慎一郎の背後から父親と母親が大急ぎで、「この子には視覚に難があり白が赤く見えるのです。だからご近所の方をひき逃げした車の色は赤系でしょう」と被せてきた。

「田舎だったし、今ほどの監視カメラもないからね。結局、近所の老人を轢いたひき逃げ犯は見つからなかった」

 しかし、もしかしたら犯人の車の色は、本当に白ではなかったかと今でも慎一郎は考えることがある。慎一郎の証言をもとに警察は赤い車を探していたが、あれは誤りではなかったのか。

 雪は白だよ、慎ちゃん。雪は白い。

 かたんかたんと音を立てて走る単線のローカル線。車窓風景は、あの轢き逃げ事件が起きたのと同じ雪解けの季節を迎えようとしている。

 これが白だ。これが白色だよ。

 轢き逃げに遭ったのは、何度も根気よく、白という色を慎一郎に教えてくれた近所の老人だった。歩きたての頃の慎一郎が山茶花さざんかの垣根の隙間から顔を出して覗いているうちに、庭に招き入れられ焼き芋をご馳走になり、慎一郎は隣家の老人と仲良くなった。老人は搬送先の病院で亡くなった。事故のせいで大腿骨を骨折し、それがもとで足腰が弱り、ついに家に戻ることが出来ないままだった。

 ローカル線はちまちまと一駅ごとに停車する。大風が吹けば吹き飛びそうな粗末な駅舎から厚着をして頬を真っ赤にした子どもが母親におぶわれて乗ってきた。

「慎一郎のせいじゃないわ」

 美嘉は慎一郎を慰めた。

「犯人が捕まったとしても、結局そのおじいさんは亡くなったわ」

 雪だ。慎ちゃん、雪は白だよ。

「でも俺にはどうしても、赤にしか見えなかった。せっかくあんなに教えてもらったのにな」

 慎一郎の手の上に美嘉は婚約指輪をはめた手を重ねた。傾いた陽が渓谷を蒼くみせ、羽根のような雪が野原を舞っている。

「その老人があなたの心に残してくれたものは、雪の色ではないと想うわ」

 これが白だよ。そうかぁ慎坊には、これは白には見えんか。まあ雲の色も百合の花にも、いろんな色があるしな。光加減によっても白が白に見えん時がある。杓子定規に憶えたらいいというものではない。これは難しいことになったなぁ。ははは。

「わたしは朝焼けや夕陽に照らされた雪の色が好き」

 慎一郎の肩に頭を寄せて、美嘉は車窓の鄙びた雪景色を眺めていた。

 あなたの見ているものと同じ景色はわたしには見えないけれど、あの薔薇色があなたの見ている雪の色なのね。

 

 

 降る雪は赤い透明。セロファンのような色だ。雪山は赤く、冬空から落ちる破片は赤く、相変わらず慎一郎の生きる世界に白はない。

「話題の店と最近しきりに紹介されているけれど、この店の珈琲そんなに美味しいかしら」美嘉が首をかしげた。

「実はさ、世の中の人が珍しがる赤い月も俺には毎晩のことなんだ」

「いいわね」

 美嘉の唇にひいた紅の色が白い器の縁にわずかばかり色うつりしている。それが慎一郎の眼にはひどく美しかった。




[了]


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

美しい赤 朝吹 @asabuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画

同じコレクションの次の小説