隠せぬ心臓

新訳シャーロックホームズ

第1話

ああそうだ。確かに俺はずっとおそろしく神経がとがった状態でいて、それは今もそうだ。けど俺のことを狂っているなんていう人間がいるのはどういうことだ? この症状は俺の五感を鋭くしこそすれ、ダメにしたり鈍くしたりなんてしていない。なかでも鋭くなっているのが聴覚だ。俺は天上のものも地上のものもすべて聞けてきたし、地獄の音だっていろいろと聞いた。これでどこが狂っているというんだ? 今からの話を聞いて確かめればいい。俺がどれだけまともで冷静な語り口でそれを伝えられるかをな。

いちばん初めにどうしてあんな思いが生じてきたのかはわからない。ただ一旦そう思うようになると、昼も夜もそれが頭を離れなかった。目的があったわけでも激情に駆られたわけでもない。あのおやじのことは好きだったしな。ひどい扱いをされたこともなければ侮辱を受けたこともない。あのおやじの持っている金が欲しかったわけでもない。言うなら、あの目だな。そう、それだ。あのおやじの目の片方はハゲワシのものにそっくりだった。膜がかかって青い瞳が濁ったようになっていて、あの目で見られた日には血の気が引いたもんだ。その感覚が少しずつだが徐々にひどくなっていって、あるときにあいつをこの世から消し去ることで、自分の中からあの目を永遠に消し去ってしまおうと決めた。

それでここが問題なんだが、俺のことを狂人と思っているのかも知れないが、狂人というのは何にもわけがわかっていない人間のことだ。けどあのときの俺を見せたかったよ。どれだけうまくそれをやってのけたかをな。どれだけの用心をして、先を読んで、己の企みを全く表に出さないようにしたか。あのおやじを殺す前の一週間はそれまででいちばん親切な態度であいつに接していたくらいだ。それで毎晩、真夜中ごろにおやじの寝ている部屋のドアの掛け金を上げて、ゆっくりゆっくりドアを開けていった。それで自分の頭が入るくらいまでの隙間ができてからまず遮光ランタンをそこに差し込むんだが、そのときに部屋に光が入らないようランタンの蓋は閉じた状態で入れて、それから自分の首を突っ込んだ。そのときの首の入れ様がどれだけ滑らかなものだったか、見た人間がいたらそいつは思わず笑ってただろうな。おやじを起こさないように本当にそうっと、そうっと、ベッドで寝ているあいつの姿がしっかり見えるくらいまで首を突っ込むのに1時間もかけながらな。ハッ、狂人にこんな真似ができると思うか? それで首を完全に突っ込んでからランタンの蓋を注意して少しずつ少しずつ(何せヒンジがキーキー軋みやがるからな)開けていき、一筋の光があのおやじのハゲワシみたいな目の方に当たるようにした。これを実に7日も繰り返した。毎晩毎晩、真夜中にだ。けどあいつの目はいつも閉じていた。それでは事を起こすことはできない。俺を悩ませていたのはあのおやじ自体じゃなく、あの邪悪な目だったからな。それで夜が明けて朝になったら、俺はおやじの部屋に普通に入っていって親しげに名を呼んだり、夜はよく眠れたかなんて臆することなく話した。だからあいつもまさか毎晩真夜中に自分が眠っているところを俺に見られているなんて夢にも思ってなかっただろうな。

そして8日目の夜、俺はいつもにも増して注意を払いながらドアを開けていった。時計の分針よりも俺の手の動きの方が遅かったんじゃないかというくらいだ。己の能力や利口さをあれほど意識できたのはあの夜が初めてだったな。得意な気持ちを抑えることができなかった。俺が少しずつドアを開けていっているのに、この秘密の行為や目的に相手は全く気づいていないんだ。それを思うと笑いがこみあげてきて実際に笑い声を洩らしてしまった。その声はおそらくおやじにも聞こえたんだろう。びくっとしたかのようにふいにベッドの上で体を動かしていたからな。そこで俺が身を引いたかというと、そうじゃない。あの部屋の中は泥棒を警戒して雨戸がぴったり閉じられていたこともあって真っ暗闇だったから、ドアが開いていること自体もわからないはずだった。俺はわずかずつドアを押し開けていった。

そして部屋の中に首を突っ込んでからランタンの蓋を開けようとしたときに、親指がそれのブリキの留め金に当たってしまった。そのときにおやじはベッドの上でバッと体を起こして、

「誰だ?」

と声を上げた。

俺は何も発さずにじっとしていた。そこから丸1時間もピクリとも動かずにいて、おやじの方がベッドに横になり直したような音も聞こえなかった。あいつは体を起こしたままでずっと聞き耳を立ててたんだ。ちょうど俺が毎晩壁の中の死番虫の音に聞き耳を立てていたようにな。

そんなときにかすかなうめき声が聞こえてきた。それは死の恐怖から来る声だった。痛みや嘆きからのものではない。そんなもんじゃない。心が畏怖で覆われたときに底の方から沸き上がってくる押し殺したような低い声だ。その声には馴染みがあった。俺も何度も、世界が眠りに包まれた真夜中ごろに自分の胸の奥から沸き上がってくるのを聞いていたからだ。それはおそろしくこだまして深さを帯びながら俺を恐怖で掻き乱したものだ。だからよくよく馴染んでいたと言っていい。あのおやじがどんな心持ちでいるかがわかって、哀れに思えた。腹の中では笑っていたけどな。あいつは最初に俺のかすかな笑い声を聞いてベッドの上で身を動かしたあのときから、ずっと眠れずにいたはずだ。そこから恐怖が増していっていることも俺にはわかっていた。何でもないものだと思おうとして、そうできなかったことも。ただの煙突の中の風の音だとか、ネズミが床を通っただけだとか、虫が鳴いただけだとか。そんな風に自分に言い聞かせながら自分を安心させようとして、それが無駄だと知ったはずだ。全くの無駄だと。というのも死神が迫っていたからだ。前に黒い影を降ろしながら近づいてきて、その影の中に獲物をすっぽり収めてしまった。あのおやじが感じていたのはそんな認識不能の影の恐ろしい影響だ。あいつはそれを見たわけでも聞いたわけでもなく、“感じて”いたのだ。部屋の中に突っ込まれた俺の首の存在を感じていたのだ。

おやじが再び横になる音も聞こえないまま辛抱強く待っていた俺だが、少しだけ、ほんのわずかだけランタンの蓋を開けてみることにした。そして誰も想像できないほどにそうっとそうっと開けていった。それで生まれたほんのわずかな隙間からとび出てきた蜘蛛の糸みたいに細い光があのハゲワシの目のところを照らした。

その目は開いていた。ぱっくりと。それを見ているうちに怒りが込み上げてくるのを感じた。今やその目をはっきりと捉えることができていた。醜い膜に覆われたぼやけた青い瞳に全身の血が凍る思いだった。ただおやじの顔や体の他のところは何も見えなかった。その光の筋はまるで俺が本能からそうしたかのように、その忌まわしい部分にぴったりと当たっていた。

俺が狂っていると人に誤解させているものはこの鋭すぎる感覚だという話をしたが、そのときに低く鈍い、綿に包まれた時計の音のようなものが俺の耳にすばやく入ってきた。その音についてもよく知っていた。あのおやじの心臓の鼓動音だ。それがまた兵士を奮い立たせる太鼓の音のように俺の怒りをさらに掻き立てた。

だが俺はまだ自分を抑えたままじっとしていた。息を殺してランタンを持つ手をまるで動かさず、そこからの光線をその目にぴたりと当て続けた。そうするうちにそのゾッとするような鼓動音が勢いを増していった。だんだんと大きく、せわしくなっていったのだ。あのおやじが味わっていた恐怖がそれだけ強烈なものだったということだろう。本当にみるみるうちに大きくなっていった。みるみるうちにだ。よく覚えておいてくれ。俺が神経過敏であることは伝えてあるはずで実際にそうなんだが、それがそのときは古い家の中で深夜におそろしい静けさの中でそんなおかしな音を聞いたものだから、俺は激しい恐怖に襲われていた。それでも俺は立ちつくしたまま何分か堪えていた。だが音はどんどんと大きくなってきた。このままではその心臓が破裂してしまうと思ったほどだ。そこで俺は新たな不安に襲われることになった。その音を近所の人間に聞かれてしまうのではないかという不安だ。あのおやじの最期のときがやって来たということだ。俺は叫び声を上げてランタンの蓋を一気に開けてから部屋の中へと突っ込んでいった。おやじが悲鳴を上げたのは一度、一度きりだった。すぐに俺はあいつの体を床に引きずりおろして、上から重たいマットレスを押し付けた。自分がやり遂げたことに俺はひとりほくそ笑んでいた。ただそれからも何分かはくぐもった鼓動音は聞こえ続けていた。だが俺はそれには悩まされなかった。部屋の壁を越えていくほどの音ではなかったし、しまいにはその音も止んでしまった。あいつが死んだということだ。俺はマットレスをどかせて死体を調べてみた。おやじは完全に事切れていた。その胸に自分の手を当てたまま何分か待ってみた。脈は全く打たれていない。おやじは死に絶えた。もうあの目に悩まされることもない。

まだ俺のことを狂人と思っているとしても、死体が発見されないように俺がどんな巧妙な策を用いたかを知れば、もうそうは思わないだろう。夜が終わりに近づく中で俺は急いで、しかし静かに仕事にかかっていった。まず死体の切断をした。頭と手足を胴体から切り離したのだ。

それからその部屋の床の板を3枚剥がし、バラバラの死体をまとめて床下の角材の間に詰めていった。それからその3枚の木板をはめ戻した。誰の目も、あのおやじの目でさえ何の異常も見つけられないほどきれいに、自然にだ。洗い流さなければならないような染みや血痕などどこにもない。そんな用心の足りない人間ではない。血などはすべてたらいに収まるようにしながらやったからな。ハッ!

これらの作業をやり終えたとき、外はまだ真夜中と変わらないほど暗かったものの午前4時となる時間だった。その時刻を告げる鐘の音が響いているときに、玄関の方でドアをノックする音がした。俺は深く気にすることもなく玄関へ向かっていった。というのも、今や俺には怖れることは何もないわけだろう? ドアを開けると3人の男が戸口に足を踏み入れてきて、丁寧な口ぶりで自分たちは警察官であると告げた。真夜中に悲鳴が上がったのを聞いた近所の人間が犯罪行為の疑いを持って警察に通報し、それでその警官らがこの家を調べに来たということだった。

俺は笑顔で応対した。怖れることは何もないわけだろう? 警官たちを迎え入れてから、その悲鳴というのは自分が夢を見て発してしまった声だと思うと伝えた。そしてこの家に住んでいる御仁については、今は田舎に行っているのでいないと話した。そして警官たちを家の中へ案内しながら、それぞれのところを調べてもらって、“よく”調べてもらって構わないと伝えた。そしてしまいにはあのおやじの部屋へも連れていった。そこでおやじの貴重品や何やらがそのまま置かれてあることを相手に確認させた。自信に溢れ、悦に入った状態だった俺はその部屋にイスを持ってきて、警官らにそれに腰を下ろして足を休めてはどうかとまで言った。そして自分は完全なる勝利を確信している男の不敵さで、あのおやじの死体を詰めたところの真上の床板にイスを置いて、そこに腰をかけた。

警官らは納得した様子でいた。俺の振る舞いがそいつらを説得したのだ。俺は安心しきっていた。警官らがイスに座り、俺が愛想よく質問に答えていく。だがそうこうするうちに俺は自分の顔から血の気が引いていくのを感じ、そいつらが早く帰らないかと思うようになっていた。頭が痛みだし、耳の奥で何かが鳴っているように感じた。だが警官らはまだ座ったまま話を続けている。鳴っているその音が次第にしっかり聞こえるようになってきた。音が続くうちにだんだんはっきりとしてきたのだ。そんな感覚を振り払おうと俺は警官らにさらに気前よくしゃべってみたが、音はどんどんと明瞭さを増していった。そして俺は、その音が自分の耳の奥で鳴っているわけではないことに気がついた。

それに気づいてからは自分の顔から血の気がすっかり引いていくのも当然だった。俺はより声を張って早口でしゃべった。だがその音は大きくなるばかりだった。どうすればいいんだ? それは低くて鈍くてすばやい、綿に包まれた時計の音のようなものだった。俺はもうしゃべりながら息切れを起こすほどだった。だが警官たちにはその音は聞こえていないかのようだった。俺はより早口に、より熱を込めてしゃべった。だが音はますます大きくなっていった。俺はイスから立ち上がり、激しい身ぶりを加えながらどうでもいいようなことをペラペラとまくしたてた。だが音はますます大きくなっていった。こいつらはどうして帰らないんだ? 俺はドシドシと歩きながら床の上で行ったり来たりした。まるでその男たちに見られることに憤慨しているかのように。だが音はますます大きくなっていった。なんてこった! どうすればいいんだ? 俺は口から泡をとばしながらうわ言をしゃべるようにぺちゃくちゃとやり、毒づきさえした。そして自分が座っていたイスを揺らしてイスの脚を床板にガリガリとこすりつけた。だが音はますます大きくなっていった。大きく、大きく、大きく! それでも警官たちは笑みを浮かべながら愉しそうにしゃべっていた。この音がこいつらに聞こえてないなんてことがあるのか? いや、なんてこった! こいつらには聞こえてるんだ! 俺のことを疑って、もうわかっている。恐怖におののいている俺を見て笑ってやがるんだ! そのときに俺はそう感じ、今もそう感じている。何にせよどんなことでもあの苦しみよりはマシに思えた。あんな嘲り以外ならどんなものでも我慢できた。あの見え透いた偽の笑い顔だけは耐えられなかった。叫ぶか死ぬかのどちらかだと思った。そしてまた.. 聞こえる。大きく、大きく、大きく!

「畜生が!」

俺は叫んだ。

「見え透いた真似はやめろ! やったと認めてやる。この床板を剥がしてみろ。ここだ、この板だ。これはあいつのおぞましい心臓の音なんだよ!」














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