シミを数える

びょうとり

シミを数える

 中学生の時、隣町のとあるマンションで飛び降り自殺があった。それも四回。同じ建物で。

 二年の間に同じマンションで四回飛び降りがあったら、そこはいわゆる自殺の名所になる。僕の周りの生徒たちは、自転車をとばせば一時間とかからない場所に、“いわく付きスポット”ができた事実に興奮してしかたない様子だった。

 しかし、もちろん学校からは「面白がって近づかないように」と申し渡されていたし、実際多くの生徒は怖がってもいたから、十キロ以上も離れた何もない住宅地へ、人が死んだ場所を見るだけのために行くような物好きはそういない。


 友人の引津ひきつトモキは、まさにそういう物好きだった。

「自殺の名所、見物しに行こうぜ」


 放課後、僕たちは引津の家の前で一旦待ち合わせて、自転車で例のマンションを目指す。引津のぼろぼろのママチャリが僕のマウンテンバイクを先導した。

 中学二年の秋。半袖では少し肌寒かったが、自転車を漕ぐうちに汗ばんでくる。一時間ちょっとの道中、引津は一度も地図を開かなかったと思う。

 目的のマンションに到着した。七階建ての、古くも新しくもない細長い建物だった。

 自殺の報道には厳しいガイドラインがあるため、ニュースや新聞でこの場所を見ることはなかったが、なぜかここが例のマンションだということはすぐにわかった。

 引津は一切躊躇うことなく敷地内に自転車を乗り入れ、マンションの正面に堂々と駐輪してみせた。少し離れたところに僕も自転車を停めて、後輪にワイヤーチェーンを巻き付けていると、引津はさも当然というようにエントランスホールのオートロックに四桁の暗証番号を入力しはじめた。

 僕が「えっ、わかるの?」と、とぼけた声をあげたときにはもう、自動でシリンダーの回る音がしていた。引津はエントランスのやたら重そうな扉を肩で押しながらニヤケ顔をこちらに向ける。

「こういうのはさ、〈1231〉までの四桁を適当に入れてけば大体開くんだよ。誕生日なんて三六六パターンしかない。入居者が百人いれば、三回に一回は当たりだ」

 多分そんなことないんじゃないかな、と思ったが、引津に続いて僕も不法侵入した。


 建物の中は人の気配がまるでなく、汚くはないけど埃っぽい臭いがする。蛍光灯もフルで照ってるはずなのに、妙に薄暗く感じた。

 一階に停まっていたエレベーターに乗り込み七階まで上がる。屋上階へは階段でないと行けないようだった。

 七階から屋上へ続く階段には、またいでもくぐってもいいような黄色と黒のトラロープがゆるく張ってあるばかりで、僕たちはそれをくぐってから階段を上がった。

 屋上の扉には、かんぬき式の錠前がついていた。錆びの浮いた閂にごつい南京錠が下がっているのを見て、今度こそ「ここまでかな」と思ったが、よく見ると南京錠は掛け金が下りておらず、扉に引っかけてあるだけなのだった。

 引津は南京錠を脇に除けて、錆びた閂をギシギシいわせながら引き抜いた。

「忍び込んでおいてアレだけど、ここの管理会社、ヤバいな」

 引津はうれしくてしょうがないという顔で、声も抑えず話しかけてくる。

「本当だよ。これじゃ、僕たちみたいなのが入ってきちゃう」

 そうしてたどり着いた「自殺の名所」は、若干頼りない鉄柵があるばかりの殺風景なところだった。ビル風というやつだと思うけど、けっこう風は強い。

 僕たちは柵に体重を預けすぎないように、首を伸ばして地上の駐車場を見下ろしてみた。地上七階程度では高さに目が眩むなんてことはない。でも、十分に死ねる高さだと知識でわかっているせいか、少し緊張した。


 眼下に見える駐車場のアスファルトに、黒っぽいシミが残っているのを見つけた。

「わ、あれって……」

 ここから、あそこに飛んだのだ。そのことを想像すると、急に内臓がぺしゃんこになったみたいに心許なくなる。

「一、二、三……四つ」

 引津はシミの数を数えていた。

 それがなぜかとても忌まわしい行為に感じられて、僕は顔をそむけた。

「木本?」

「うん、なんでもない」僕は手の甲で額の汗を拭って言う。

「先月ので、四件目だったんだっけ。じゃあ、シミの数とも合うね」

「だな。三件目までは、このマンションの住人で、先月のだけは、県外からわざわざ飛び降りに来た男子高校生だったって話」

「自殺するために、わざわざ自殺の名所にやってくる人のメンタルは、想像ができなくて恐ろしいね」

 と僕がいうと、「ミーハーなんだろ」と引津は笑う。


 写真を数枚撮ったら、特にやることもなくなった。

 僕はまた駐車場をのぞき込んで、

「こんなふうに、シミが残るもんなんだね」

 というと、引津は駐車場から視線を外さずに、ニヤケ顔を少しこちらに傾けて、

「たぶんだけど、血と脂が混じってるから、水で流したくらいじゃ消えないんだよ」

「……人間の脂か」

「てかさあ、行儀よくシミが四つ並んでるの、むっちゃ面白くない?」

「はぁ……? 面白いって?」

 今日一のドン引き。引津は喜色満面で、

「この狭い駐車場めがけて飛び降りて、ほら、シミ同士が重なってないってことはさ、つまり、他人のシミの上を避けて飛び降りたんだろ」

「な、なるほど……」

 僕は一気に引津の言いたいことがわかってしまう。

「そっか。この血と脂のシミは、先に飛び降りた誰かの人生最期の痕跡で、それを別の痕跡——自分の血と脂で上書きしてしまうっていうのは、なにやら冒涜的と思えるかもしれないね。だから避けるんだ。

 自分自身の最期の痕跡だって、知らない誰かのと混ざっちゃうのは心理的に抵抗があるんじゃないかと想像することはできる。

 って、いや、実際これから死のうって人間はそんなこと考えないか。でもどうなんだろう。風の影響だってありそうだし、狙った場所に落ちれるかというと、それはちょっと微妙っぽくない?」


 と、引津のほうに顔を向けると、彼は深く腰を落とした変な姿勢で細い鉄柵を力いっぱい握りしめ、ぎりぎりと音が聞こえてきそうなほど強く噛みしめた歯の隙間からは「ううー」と、低い唸り声を漏らしていた。

 あまりの奇行に、「お、おい!!」と彼の肩を叩くと、引津は柵から手を放し、糸が切れたように尻もちをつく。しばし呆然としたあと、大きく息を吐きだして、

「……降りよう」

 と引津。僕が肩を貸すと、引津は案外しっかりと立ち上がり、一人でそそくさと屋上を去り階段を降りていった。

 僕は引津を追って屋上をあとにする。一応、扉のかんぬきをはめ直して、少し迷ってから、ごつい南京錠の掛け金をカチリというまで押し込み、しっかり施錠した。

 下るエレベーターの中でも落ち着かない様子の引津に、話しかけていいものかと様子を窺っていると、引津はかろうじて口の端を持ち上げて、

「説明する。ごめん、一旦ここから離れさせてくれ」


 マンションを出てしばらく無言で自転車を押していた引津は、急に振り返って、「五人目になるところだった」とニヤリと笑った。まだ小さく肩が震えている。

「えっ、それはやっぱり霊的な……みたいな話だよね?」

「まあ、そうなるだろうな。

 駐車場のシミを見ていたら唐突に、強烈な“飛び降り衝動”に心を支配されたんだけど、木本のペラペラしゃべる声が延々聞こえてきたおかげで、なんとかそれを抑えられた」

「それはよかったけど……」

 考えてみると、あのときは僕もちょっと変だった。“当事者たち”への強い共感が押し寄せてきて、頭がいっぱいになった。引津の異変にたまたま気づけたから、彼より少し早く我に返れただけで、きっと僕も危なかったんだろう。続けて引津は言う。

「よく怪談だと、ナニかに“呼ばれる”みたいなセリフがあるけど、それに近い。直接声が聞こえたり手招きされたわけじゃないけど、あのときは飛び降りるのが一番良いってなぜか思わされていた。

 あとまあ、間違いなく——先月飛び降りた男子高校生、“呼ばれた”クチだと思うね。いわく付きの場所を一人で訪れて、“呼ばれて”、あの柵を越えてしまった」


---


 後日談。

 いまでも引津は高いところに上がると“呼ばれる”ことがあるため、屋上やベランダには出ることができないのだそうだ。

「なんで? って聞かれても、高所恐怖症になった、といえば全部の説明が足りるし、別にベランダに用もないし、特に困ってない」とのこと。

 それからもう一つ。

 引津はあのあとまた例のマンションに行ったらしい。今度は不法侵入はせずに、地上から駐車場のシミを確認したかったのだという。信じられないことをする。

 あんなにくっきり見えたはずの四つの血と脂のシミは、どこにも見当たらなかったそうだ。


〈おわり〉

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