科挙の夜に見た夢

四谷軒

郷試の夜に


 夢を見ていた。

 夢の中で――二人の巨人が立っていた。

 西と、東に。

 巨人はそれぞれ、緋色や緑色の衣を身にまとっていた。


「なあ」


 どちらの巨人かはわからないが、話しかけて来た。

 というのも、巨人は声も大きいので、わんわんと鳴り響くそれに、思わず耳をふさいでしまったからだ。


「すまぬ、すまぬ」


 巨人は詫びた。

 何が言いたいんだと聞くと、もう一人の巨人が、それだとうなずく。


「大いにやろうではないか」


「大いに? 何を?」


「それは……」



 そこで夢が終わった。

 気づくと、郷試(科挙の地方試験)を受けたその建物の、狭い房(部屋)の中で寝ていた。

 外を見ると、まだ夜。

 八月の夜は、空の星々よりも、地の虫たちの方が忙しいらしく、声が鳴りやまない。

 そのうるささに、今さらながら閉口する。


「何だったんだ」


 王というその若者は、科挙をめぐる怪談を思い出した。

 いわく、突然、精神に異常をきたして倒れたり、急病であの世に行ってしまった受験生がいて、それが亡霊になってこの建物に憑りついている、という奴だ。


「まさかな……」


 亡霊にしては、あの巨人たちは堂々とし過ぎている。

 それに、呪いを与える、ではなく、どちらかというと親しみを求める、そんな感じだった。


「ともあれだ……」


 外に出るかと、王は房を出た。

 もともと、戸はない。

 雨風が来たらふせぐものはなく、みずから答案を守らねばならないところだ。


「ありゃ」


 王が外に出ると、ちょうど、他の房からも出て来る人影があった。

 人影はふたつあり、どうやら王と同じように、夢から覚めたばかりのようだ。


「おや。見張りの兵士がいないぞ」


「お、そうだな」


 二人はそんなことを話していた。

 科挙は、不正を防止するために見張りの兵士が監視しているのが常だ。

 ところがたまたまこのとき、その兵士がいなかった。

 交代か、用足しか知れないが、少しの時のことだろう。


「変な夢を見た」


 王も含め、三人とも不正をするつもりはなかったが、ずっとひとりで試験と向き合ってきて、誰かと話したかった。

 しかし、へたに試験の話はできない。

 であれば、ということでさっき見たばかりの夢の話をした。

 他愛もない話、それも巨人の夢の話だ、これなら不正にはなるまい。

 そう思ったら。


「おれも見た」


「僕もだ」


 ふたりとも(それぞれ、胡、孫と名乗った)、そう答えた。

 奇妙なこともあるもんだなと語っていると。

 いつしか「大いにやる」とは何なんだということになった。


「将来、何をするか……ではないか」


 孫が言った。

 胡もうなずく。


「じゃあ、将来、何をやりたいんだ、君らは」


 王は自然にそう聞いた。

 胡は諸葛亮のように国を守る人になりたいと言い、孫は褚遂良ちょすいりょうのように上を諫める人になりたいと言った。

 諸葛亮は三国時代の人で、劣勢の蜀漢を支えて戦った丞相である。

 褚遂良は初唐の書家であるが、諫臣として、帝や皇后相手にも直言した硬骨漢である。

 ……そのどちらも非業の最期を遂げたが、彼らの高い志が後世に伝わったことが共通している。


「……君はどうなんだ、王」


「私か」


 王はあごに手をやって、後漢の伏波将軍・馬援だと答えた。

 馬援。

 矍鑠かくしゃくという言葉の由来がこの人であり、その言葉のとおり、苦境にもめげずに老いたその時まで元気に馬に乗って、国のために戦った男である。


「それはいい」


 胡は感心したようにうなずいた。

 孫はその時、わかったと手をたたいた。


「大いにやるというのは、われわれが、それぞれ憧れる人――巨人になるという、意味だと思う」


「お」


「そうか」


 三人とも、奇妙な夢が、もしかしたら瑞兆かもしれないと笑った。

 それでこの「集まり」はお開きとなった。

 さすがに、もう兵士がやって来るだろうし、これ以上話していると、どうしたって試験のことになりそうだったから。

 だが、最後にこんな胡が、こんなことを言い出した。


「おい」


「何だ」


「もしおれが巨人になれなかったとしたら、残りの奴が巨人になれよな」


「不吉なこと言うな」


「何となくだよ、何となく。せっかく、そういう夢を見た仲間がいるんだ。そういうことにしておけば、ひとりきりで受けなければならない試験も、頑張れるだろ?」


「……まあ、そうか。そういうことにしておくよ」


 孫は悪くないという表情をして、自分の房へ帰った。

 胡にお前はと問われ、王は「むろんだ」と答えた。


 ……こうして郷試を終え、三人は合格したものの、王は次の会試に落ちてしまう。


「やれやれ。これじゃ巨人になる夢は、胡と孫に託すしかないのか」


 ぼやいた王だが、やっぱり納得いかないと奮起し、三年後の会試に受かり、最終試験である殿試にも受かり、見事、進士となった。


「……あの夢、正夢かどうかはともかく、こうしてあきらめないことにつながった。そういう意味ではありがたかった」


 王は任地である濬県しゅんけんへおもむきながら、そんなことをひとりごちた。




 王は目を覚ました。

 あれから三十年近く経ち、王は江西僉都御史こうせいせんとぎょしという役職に就き、地方の治安を保つ仕事をしていた。

 そして今、ある皇族が叛乱を企図しているとの情報に接し、それへの対策を練っている最中に、眠ってしまったらしい。


「それにしても、何で今さらあんな夢を」


 王は腰をとんとんとたたきながら立ち上がり、広げたままの地図を見た。

 南昌を本拠とするその皇族は、挙兵して南京へ攻め入るつもりだという未確認情報が飛び込んできていた。

 王はこれへの対策を考えていたところ、卓上、寝入ってしまったようだ。


「いかんいかん、どうも歳だな」


 ちょっと横になったりすると、すぐに眠ってしまう。

 こんなことではいかんと、外の空気を吸おうと、部屋を出た。

 そこへ。


「都御史どの、都御史どの!」


「何だ」


 廊下の向こうを見ると、部下が息せき切って、走って来た。

 走りながら、叫んだ。


「南昌の寧王、江西巡撫の孫どのを殺害しました!」


「何だって」


 江西巡撫・孫燧そんすいは、あの郷試の時の、孫である。

 話を聞くと、孫は、叛乱しようとする寧王に毅然とした態度で臨み、その非を諫めたらしい。

 結果、怒り狂った寧王に処刑されてしまった。


「孫……」


 そこへもう一人、北京からの使いが来て、錦衣衛(明の秘密警察)に捕まっていた江西按察副使・胡世寧が死んだという情報を伝えた。

 胡世寧もまた、あの郷試の時の胡だ。

 胡世寧は寧王の叛乱を察し、北京に伝えようとしたところ、寧王が手を回していた錦衣衛に捕縛され、獄中に放り込まれた。

 王が釈放を求めたところ、寧王が一手早く、胡世寧を始末してしまったようだ。


「胡……」


 あの時、郷試の夜、共に夢を見た。

 その二人が逝ってしまった。


 ――もしおれが巨人になれなかったとしたら、残りの奴が巨人になれよな。


 ――そういうことにしておくよ。


 王は涙したが、今ここで立ち止まっているわけにはいかない。

 なぜなら。


「今こそ……あの夜に言ったことを守ろう。巨人になれるかどうかは、わからない。されどふたりが最期にやろうとしたことは、この王が成し遂げてみせる」


 王は歩き出す。

 亡き友、孫燧と胡世寧のために。


「……出陣! 寧王を討つ!」


 ……こうして、王こと、王守仁――つまり王陽明は出陣した。

 彼は南京に向かった寧王の、その留守の隙をいて南昌を制圧し、返す刀で黄家渡にて寧王と激突、舟と舟を繋げた寧王艦隊を火攻めにて撃破し、見事「寧王の乱」を鎮圧した。

 要した日数、実に三十五日。

 その凄まじい戦いぶりの陰に――かつての郷試の夜に、共に夢を語った友への想いがあったのかもしれない。


【了】



 

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