【中世転生短編小説】歴史の証人 ―リューベックの見習い商人として―(約8,100字)

藍埜佑(あいのたすく)

【中世転生短編小説】歴史の証人 ―リューベックの見習い商人として―(約8,100字)

 最初に気がついたのは、空気の匂いだった。


 鉄と皮革と馬糞。そして、かすかな腐敗臭。これは間違いなく、二十一世紀の東京にはない匂いの組み合わせだ。


「ここは……」


 私、工藤宗介の意識が現実に戻る。目の前に広がっているのは、中世ヨーロッパの都市そのものだった。石畳の通り。切妻屋根の建物が立ち並ぶ狭い路地。遠くに見える教会の尖塔。


 そして、私の体は十五歳くらいの少年のものになっていた。


 記憶は完全に残っている。東京大学西洋史学科助教授。専門は十四世紀のハンザ同盟における商業ネットワークの研究。気がつけば、研究対象の時代にタイムスリップしていた。


 体に纏っている服装から判断すると、これは商人の見習いの少年のものだろう。灰色のウールの上着に亜麻布のシャツ。ズボンは膝下までの長さで、その下には靴下。革靴は新しくはないが、しっかりとした作りだ。


「おい、ヨハン!  何をぼんやりしている!」


 太い声が響く。振り向くと、がっしりとした体格の中年男性が立っていた。赤みがかった顔色、整えられた髭。服装は上質な生地で、商人の親方クラスだろう。


 ヨハン。どうやら、これが今の私の名前らしい。


「すみません、親方」


 私の口から、自然とドイツ語が出てきた。リューベック方言だ。場所も特定できる。バルト海に面した港湾都市リューベック。ハンザ同盟の中心都市の一つ。私の研究テーマそのものだ。


「荷物の確認は終わったのか?」


「はい、先ほど」


 とっさの返事だったが、この体が持つ記憶が、自然と状況を把握させてくれる。私は毛皮商ハインリヒ・シュミットの店で働く見習い。今日は新しい商品の入荷日だ。


「では、帳簿の整理を頼む。夕方までには終わらせておけ」


「承知しました」


 私は急いで店の中に戻る。木造二階建ての建物。一階が店舗で、二階が住居になっている。典型的な中世都市の商家だ。


 店内には様々な毛皮が並んでいる。キツネ、テン、アザラシ……。これらの多くは、ノヴゴロドからもたらされたものだろう。リューベックは、ロシアの毛皮とヨーロッパの織物を結ぶ中継地点だった。


 机の上には羊皮紙の帳簿が開かれている。ここで使われているのは、複式簿記の初期の形態だ。借方と貸方を別々のページに記録し、最後に突き合わせて確認する。


 私の研究テーマの一つが、まさにこの会計システムの発展だった。理論で知っていた知識が、実践的な技術として体に染み込んでいる。


 帳簿の作業をしながら、私は状況を整理していた。


 時代はおそらく1380年代。リューベックが最も繁栄していた時期だ。しかし、この繁栄の中に、すでに衰退の芽が潜んでいる。


 黒死病の流行で人口が激減。

 イングランドの毛織物産業の台頭。

 そして、デンマークとの緊張関係。


 歴史家としての知識が、未来の光景を予見させる。


 しかし、なぜ私はここにいるのか?  そして、何をすべきなのか?


 帳簿の数字を確認しながら、私は考えを巡らせる。タイムパラドックスは起こるのか?  この時代に存在した「ヨハン」という少年は、本当は別の人生を送るはずだったのではないか?


 そんな思考に耽っていると、店の扉が開く音がした。


「イルゼ、また来てくれたのか」


 親方の声が優しい。入ってきたのは、私と同年代くらいの少女だった。亜麻色の髪に青い目。質素ではあるが、清潔な服装。


「ええ、父が注文していた毛皮の件で」


 彼女——イルゼの声には、どこか気負いがある。


「ああ、確かに預かっている。ヨハン!  奥の棚から、テンの毛皮を持ってきてくれ」


 私は言われた通りに毛皮を取りに行く。しかし、イルゼの表情が気になった。彼女の父は……そうだ、服地屋を営んでいるはずだ。この体の記憶が教えてくれる。


 毛皮を持って戻ると、イルゼと親方が値段の交渉をしていた。


「すみませんが、これが精一杯です」


 イルゼが差し出したのは、予定の半額ほどの銀貨。


「むむ……」


 親方が眉をひそめる。私は瞬時に状況を理解した。服地屋の商売が上手くいっていないのだろう。この時期、多くの小規模商人が経営難に陥っていた。イングランドからの安価な織物の流入が、地元の業者を圧迫していたのだ。


「親方」


 私は声を上げていた。


「この毛皮、先日の入荷時に少し傷があったものです。その分を考慮すれば……」


 実際には、その毛皮に傷などなかった。しかし、私の嘘は自然に聞こえただろう。親方の商人としての誇りを傷つけることなく、値引きの理由を作る。これは、中世の商習慣でよく使われた手法だった。


「ふむ……確かにそうだったな。それなら、その金額で」


 親方は理解を示してくれた。イルゼの目が輝く。


「ありがとうございます!」


 彼女は深々と頭を下げ、毛皮を大切そうに抱えて店を出ていった。


「ヨハン、お前……」


 親方がじっと私を見つめる。


「申し訳ありません。勝手な判断で」


「いや、よく気がついた。商売は利益だけではない。人との繋がりも大切だ。これはよい判断だった」


 親方の言葉に、私は安堵の息を吐く。同時に、ある考えが頭をよぎった。


 歴史的に見れば、リューベックの商人たちの最大の強みは、この人的ネットワークにあった。単なる利益追求ではない、互いの信頼関係に基づいた取引。それが、ハンザ同盟の基礎となっていたのだ。


 その日の夕方、仕事を終えて二階の自室に戻った私は、羊皮紙に文字を書き留めていた。


 これは日記というより、歴史の記録だ。この時代を生きた人間の視点から見た、商人の日常。大学の研究では決して分からなかった細部。人々の表情、空気の匂い、取引の機微。


 もし私がこの時代に送られた理由があるとすれば、それは単なる観察者としてではなく、参加者として歴史を理解するため——そう考えるようになっていた。


 窓の外では、夕暮れの鐘が鳴り響いていた。マリエン教会の鐘の音は、今も変わらずリューベックの街に響いている。七百年の時を超えて。



 それから一週間が経過した。


 私はすっかりヨハンとしての生活に馴染んでいた。毛皮の品質を見分ける目も、徐々に養われてきた。理論として知っていた商人の技術が、実践的な知識として身についていく。


 しかし、この朝は何かが違っていた。


 店の前に、見慣れない馬車が止まっている。紋章入りの立派な造り。荷台には、大きな木箱が積まれていた。


「ハンブルクからの使者だ」


 親方が静かな声で告げる。ハンブルク。リューベックと並ぶハンザ同盟の有力都市。両市は普段から密接な協力関係にあった。


 馬車から降りてきたのは、四十代と思しき男性。上質な毛織物の服に身を包み、警戒するような目つきをしている。


「シュミット親方にお会いできて光栄です」


 男性は丁寧にお辞儀をする。


「私はハンブルク市参事会の使者、クラウス・メーラー。機密の用件でお話があります」


 親方は男性を奥の応接間に案内した。私は外で待機するように言われたが、壁越しに会話の断片が聞こえてきた。


「デンマーク艦隊が......」

「封鎖の可能性が......」

「食料の備蓄を......」


 私の歴史家としての記憶が、即座に状況を理解させる。


 1389年。デンマーク女王マルグレーテ1世の時代。彼女は北方三国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)の統一を目指し、バルト海の支配権を巡ってハンザ同盟と対立していた。


 まもなく、デンマークはリューベックの港を封鎖するだろう。貿易の大動脈が絶たれれば、街は大きな打撃を受ける。


 しかし、歴史の記録によれば、リューベックはこの危機を乗り越えた。なぜか?  それは……。


 私の思考は、応接間から出てきた親方の声で中断された。


「ヨハン、ちょっと来てくれ」


 応接間に入ると、テーブルの上に地図が広げられていた。バルト海沿岸の詳細な海図だ。


「お前は字が読めるな?」


「はい」


 この時代、読み書きができる者は限られていた。しかし、商人の見習いとして、基本的な読み書きは必須だった。


「では、これを写し取ってくれないか。特に、この印のついた場所を正確に」


 地図には、小さな印が複数付けられている。どれも、バルト海の小さな入り江や河口。通常の貿易航路からは外れた場所だ。


 私は黙って頷き、作業に取り掛かった。羊皮紙に慎重に線を引いていく。しかし、その作業の中で、ある事実に気がついた。


 これらの印が示す場所——デンマークの監視の目が届かない、代替的な輸送ルートだ。


 歴史の記録では、リューベックは「何らかの方法」で物資の供給を維持し、デンマークの封鎖を凌いだとされる。その具体的な方法は、文書には残されていない。これが、その答えなのか。


 地図を写し終えると、クラウス・メーラーは丁重に礼を述べて去っていった。その馬車には、帰りも同じ木箱が積まれている。恐らく、同様の地図が他の都市にも運ばれるのだろう。


「ヨハン、今日のことは、誰にも話してはならない」


 親方の声は厳かだった。


「はい、分かっています」


 その夜、私は再び日記を書いていた。しかし、このデリケートな情報については、意図的に曖昧な表現を使う。後世の歴史家に、すべてを明かすわけにはいかない。それが、この時代を生きる者としての責任だと感じていた。


 翌日、イルゼが再び店を訪れた。


「この前の毛皮、父が喜んでいました」


 彼女の表情は、前回よりも明るい。


「それは良かった」


「ねえ、ヨハン。あなた、最近変わったわね」


「変わった?」


「ええ。前はもっと……無愛想だったのに。今は、まるで別人みたい」


 その言葉に、私は一瞬戸惑った。そうか。本来のヨハンは、そういう性格だったのか。


「気のせいじゃないかな」


「いいえ。父も言っていたわ。最近のヨハンは大人びた、って」


 イルゼの眼差しには、純粋な好奇心が宿っている。私は話題を逸らすように、棚の毛皮の整理を始めた。


「そうだ、イルゼ。君のお父さんの店は、ノヴゴロドと取引があるかい?」


「ええ、少しだけど。どうして?」


「いや、最近バルト海航路が不安定になるかもしれないと聞いて。その時は、内陸路を使うことになるだろうから」


 私の言葉に、イルゼは首を傾げた。


「内陸路?」


「ポーランドを経由する陸路だよ。時間はかかるけれど、確実だ。お父さんにも、一度検討してみるように伝えておいてくれないか」


 これは、歴史家としての私が知っている情報だ。デンマークによる海上封鎖の際、一部の商人たちは内陸ルートを開拓した。その先見性が、後のハンザ同盟の生存を支えることになる。


「分かったわ。父に伝えておくわ」


 イルゼは微笑んで店を後にした。彼女の後ろ姿を見送りながら、私は考えていた。これは過度な干渉だろうか?  しかし、すでに起きた歴史的事実に基づくアドバイスなら、大きな歪みは生じないはずだ。


 その夜、私は再び日記を書き続けた。羊皮紙のページが、徐々に厚みを増している。これは未来に向けた記録であると同時に、この時代を生きる自分自身のための記録でもあった。


 窓の外では、港から荷物を運ぶ車輪の音が響いていた。それは、まるで時を刻む音のように聞こえた。



 デンマークの脅威が現実のものとなるまで、それほど時間はかからなかった。


 街には、北方からの船が途絶えつつあるという噂が広がっていた。市場では、徐々に品物の価格が上昇。特に、穀物や塩の価格高騰が目立つ。


 しかし、リューベックの商人たちは冷静さを失わなかった。彼らは、すでに代替的な供給ルートを確保していた。ハンブルクとの密な連絡。小規模な港を使った物資の移動。そして、内陸路の活用。


 事態が深刻化する中、予想外の来訪者があった。


「市参事会から、お前を推薦する声があったぞ」


 親方が、ある朝突然告げた。


「私をですか?」


「ああ。若いが、読み書きができ、計算に長けている。それに、最近のジャッジもなかなかのものだ」


 ジャッジ——商人としての判断力。これは、中世の商人にとって最も重要な資質とされた。


「まだ修行半ばですが」


「いや、お前なら務まる。それに、若い世代の声も必要なときだ」


 市参事会——これは、中世都市における実質的な統治機関だった。商人や手工業者のギルドの代表者たちで構成され、都市の政策を決定する。その補佐役として、若手商人が起用されることもあった。


 しかし、この状況で、見習い商人のヨハンが抜擢されるのは異例だ。おそらく、あの地図の件で、私の識字能力と慎重さが評価されたのだろう。


「お引き受けします」


 私の返事に、親方は満足げに頷いた。


「では、明日から市庁舎に出向いてもらう。書記の仕事が中心になるだろう」


 その夜、久しぶりに悪夢を見た。


 現代の私が、研究室で論文を書いている。しかし、その文字が突然、血のように滲み始める。「歴史を変えるな」という警告のように。


 冷や汗で目が覚めた。外はまだ暗い。遠くで、早朝のミサを告げる鐘が鳴っていた。


 机に向かい、ろうそくの灯りで日記を開く。そこには、この一ヶ月の出来事が克明に記されている。歴史家としての私は、これが後世に残る貴重な記録になることを知っている。


 しかし同時に、一人の中世の商人として、私はこの状況に対処していかなければならない。そのバランスを取ることが、おそらく私に与えられた使命なのだろう。


 翌朝、市庁舎に向かう道すがら、市場を通り抜けた。露店には、まだそれなりの商品が並んでいる。代替ルートが、確実に機能し始めているのだ。


 市場の片隅で、イルゼを見かけた。彼女は父親と一緒に、新しい商品の仕入れをしているようだった。表情は明るい。内陸ルートの活用が、功を奏したのかもしれない。


「今日から、私も歴史の一部になるんだ」


 そうつぶやきながら、私は市庁舎の重厚な扉をくぐった。


 *


 市参事会での最初の仕事は、予想通り書記的なものだった。


 各商人からの報告を記録し、整理する。特に、新しい輸送ルートの状況について、詳細な記録を取ることが求められた。


 私の完全記憶は、この仕事で大いに役立った。一度見た文書の内容は、すべて頭に入っている。必要な情報を即座に引き出すことができる。


「ヨハン、この記録は見事だ」


 市参事会の古参書記官が感心したように言った。


「ありがとうございます」


「特に、各ルートの比較分析が素晴らしい。まるで、鳥の目で全体を見渡しているかのようだ」


 それは、歴史家としての視点があるからだ——とは言えない。私は黙って頭を下げた。


 しかし、その「鳥の目」が、思わぬ発見をもたらすことになった。


 各商人の報告を整理していく中で、ある一貫したパターンに気がついた。デンマークの艦隊は、特定の日時に特定の場所に集中する傾向がある。それは、まるで……。


「スパイがいるのではないでしょうか」


 私は、おそらくこの時代の若者には似つかわしくない冷静さで、市参事会で発言していた。


「スパイとは、重大な告発だが」


 年長の参事会員が眉をひそめる。


「はい。しかし、これらのデータを見てください」


 私は、整理した記録を示した。


「デンマークの艦隊は、私たちの代替ルートについて、徐々に情報を得ているように見えます。そして、その情報漏洩には、一定のパターンがある」


 参事会の面々は、静かに記録に目を通した。


「確かに……」

「しかし、誰が?」


 その時、新たな報告が入った。


「港区での火事の報告です。倉庫が全焼」


 私の心臓が高鳴った。火事——これは、この時代の都市にとって最大の脅威の一つ。木造建築が密集した街は、まさに火事の巣だった。


 しかし、同時に、これは絶好の機会かもしれない。


「その倉庫は、誰のものですか?」


「メルツェル商会です」


 その名前に、参事会の面々が顔を見合わせた。メルツェル商会——新興の貿易商だが、最近急速に力をつけていた。そして、デンマークとの取引も……。


「調査が必要ですね」


 私の提案に、参事会は同意した。


 火災調査。これは、中世都市の重要な行政手続きの一つだった。そして、その過程で、しばしば思わぬ事実が明らかになる。


 調査は三日間続いた。


 焼け跡から発見された文書の断片。

 商会の帳簿の不自然な記載。

 そして、デンマークの商人との秘密の連絡……。


 すべての証拠が、一つの事実を指し示していた。


 メルツェル商会は、デンマークのスパイだった。彼らは、リューベックの商業機密を流すことで、利益を得ていたのだ。


 しかし、ここで難しい判断が求められた。


 もし、これを公にすれば、街は大きな混乱に陥るだろう。商人たちの間の信頼関係が揺らぐ。それは、ハンザ同盟の基礎を揺るがしかねない。


 かといって、見過ごすわけにもいかない。


 私は、一つの提案をした。


「メルツェル商会には、密かに出港を勧告してはどうでしょう」


「追放というわけか」


「はい。ただし、表向きは、商会の自主的な撤退ということで」


 この提案には、いくつかの利点があった。


 まず、公の混乱を避けられる。

 次に、スパイ行為を断ち切ることができる。

 そして何より、他の潜在的なスパイたちへの警告となる。


 参事会は、この提案を受け入れた。


 数日後、メルツェル商会の船は、静かにリューベックの港を去っていった。行き先は、おそらくデンマークだろう。


 その後、デンマークの干渉は目に見えて減少した。彼らの情報源が断たれたことは明らかだった。


 しかし、この出来事は、私に一つの教訓を残した。


 歴史は、表の出来事だけでは語れない。水面下の駆け引き、人々の機微、そして、記録に残らない判断の数々。


 それらすべてが、歴史を動かしているのだ。



 季節は冬を迎えようとしていた。


 街には、最初の雪が降り始めている。通りには、クリスマスの準備を始める人々の姿が見られた。


 この一年で、私の立場は大きく変わっていた。


 市参事会の信頼を得た私は、より重要な役割を任されるようになっていた。特に、他都市との外交交渉において、私の冷静な判断力が重宝されたようだ。


 そして、イルゼとの関係も深まっていた。


「父が、あなたに感謝していたわ」


 彼女は、クリスマスマーケットの屋台の前で、そう告げた。


「内陸ルートのアドバイスのおかげで、店を守ることができたって」


 私は微笑んで頷いた。実際、彼女の父の店は、この危機をうまく乗り切った数少ない小規模商人の一つとなっていた。


「イルゼ、君のお父さんは賢明な方だ。私のアドバイスを信じて、すぐに行動を起こしてくれた」


「ねえ、ヨハン。あなたは本当に……」


 彼女は言葉を途中で止めた。その目には、何か言いたげな思いが浮かんでいる。


 もしかしたら、彼女は気付いているのかもしれない。私が「別の誰か」だということに。


 しかし、彼女はそれを口にすることはなかった。代わりに、こう言った。


「来年の春の祭りで、一緒に踊ってくれる?」


 その言葉に、私の心が揺れた。


 来年の春——私は、その時もここにいるのだろうか?  それとも、いつかは現代に戻されるのだろうか?


 しかし、この躊躇いは、彼女に見せるわけにはいかない。


「もちろん」


 私はそう答えた。その約束が果たせるかどうかは分からないまま。


 その夜、いつものように日記を書きながら、私は考えていた。


 この一年で、私は本当に多くのことを学んだ。


 歴史家として机上で研究していた時代が、生きた現実として目の前に広がっている。商人たちの生き様、都市の息遣い、人々の喜びや苦しみ。それらは、古文書からは決して読み取れないものだった。


 そして何より、この時代を「生きる」という経験は、私の歴史観を大きく変えた。


 歴史は、単なる出来事の連鎖ではない。それは、無数の人々の選択と決断の積み重ねなのだ。時には正しく、時には間違っているかもしれない。しかし、その一つ一つが、歴史を紡いでいく。


 羽ペンを置き、窓の外を見やる。

 雪は、相変わらず静かに降り続いていた。


 遠くマリエン教会の鐘が、深夜を告げている。その音は、七百年の時を超えて、今も変わらずに響いているのだろうか。


 ふと、机の上の日記が目に入った。これは、未来に残される歴史の証言となるのか。それとも、この体と共に、この時代に置き去りにされるのか。


 答えは分からない。

 しかし、それは重要なことではないのかもしれない。


 重要なのは、この瞬間を、この時代を、精一杯生きることだ。

 それが、歴史を「知る」者から、歴史を「作る」者への、私の変容なのかもしれない。


 そう思いながら、私は蝋燭の火を消した。

 明日も、新しい歴史が始まる。


(了)

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