ある夜にその声は止み。

西奈 りゆ

取引

 湿気に覆われた倉庫内は、月明かりもない夜の、そのもともとの暗さも相まって、横たわるような鈍重な闇に覆われている。


 放置された段ボールはカビに覆われ、過去には構内を縦横無尽に活躍していたであろうクレーンは力なく赤茶色に垂れ下がり、大小数ある機器はどれも錆びついた音さえ、この先たてることはない。何かの加工場だったのか。階段を登った先には、とうに文字の剥がれたプレートの下に口を開ける、保管庫らしき空間が、暗闇に潜むように口を開けている。

 

 どこかでサギが、けたたましく鳴いた。今、二つの足音が金属音を響かせながら、その階段を登っている。気温に加え、冷えた金属から放たれる冷気が、二人の男の体温を奪わんとしている。二人のうち、より大柄の男は寒気とともに、足先から身体の芯が震えそうになるのを感じて、舌打ちをする。紺のジャンパーを着こみ、ニット帽に短髪を包んで眉間に深い皺を寄せたこの男は、名前を西島という。もちろん、本名ではない。なぜなら今夜、そんなものを明かす必要は、誰にもないからだ。


 黒のロングコートに身を包み、音もなく革靴を進ませる男は、西島に比べ三、もしかすると、五センチほど小さい。西島が、大柄なのだ。スニーカーで大股で歩く西島に対し、伊藤と名乗った(無論、本名ではない)この男の所作には大げさなところがない。動作は常に最低限で、携帯しているものといえば、どこにでもあるビジネスバックくらいだ。

 明かりのない空間の中、黒のマスクから覗く目元は切れ長で、やや肌は白い。小声で自制しているつもりらしいが、ここにきても口数の多い西島に対し、伊藤はこの夜何度目かの注意をした。再び、西島の舌打ちが響く。伊藤はそれを意に介した様子もなく、二人は目的地、件の「加工場」の前に立った。


 部屋の奥行は、五メートルほどであろうか。奥にある樽の後ろに瓶ケースを置き、それに腰掛けていた男は、けだるそうに立ち上がった。身長は、伊藤よりもさらに小さい。百六十五センチほどだろうか。こちらは黒のトレンチコートを身にまとい、目出し帽に見紛うようなマスクとニット帽で顔を覆っている。西島に対し、伊藤はこの男を「渡し屋」と告げているが、無論それも便宜上のことだ。

 「渡し屋」と称される理由は知らされていないが、恐らくは西島が欲するようなものを専門に扱って相手に渡す生業なのだろうと、彼は見当をつけている。


 光のない空間で、ようやく暗闇に目が慣れた西島が、足早に紹介屋に歩み寄る。

「例のものは、どこだ?」と。

 伊藤は部屋の隅で、その様子を静観している。


 これに対し、渡し屋は無言で、小さなケースを取り出し、開けろと言うように、西島に対し、指さしてみせた。気のせいだろうか。西島に一瞬、その首元に白い傷跡がはしっているように見えたのは。


 だがそんな些末なことは、中身を検めた瞬間の高揚にとって代わられ、雲散霧消した。そこには、刃先がややこぼれたダガーナイフが、綿の中に収まっていた。

 こらえきれず、西島の歯の隙間から小さく、下卑た笑い声がこぼれる。


「お気に召したようで」


「おい、こいつは本物なんだろうな。偽物だったら、承知しねえぞ」


「本物かどうかは、あなた様なら、一目瞭然でしょう」


 渡し屋からのその返答を聞いて、男はペンライトを取り出し、ゆっくりとその刃に指を這わせた。愉悦のような歓喜に、その顔は醜く染まった。

 伊藤は軽蔑も呆れもない無表情で、その様子を静観している。


 西島は、いわば殺人に魅せられた男だった。理由は分からない。気がつけば、幼い頃から人の死に焦がれていた。新聞記事を集め、むごたらしい惨劇に心を弾ませ、葬儀が開かれている場を見つければ忍び込み、故人を囲み悲しみに暮れる遺族を眺めては悦に入る。また、ある男が西島の自宅の付近で対向車と追突し、その衝撃で後部座席の年若い友人が車外に投げ出され、双方の運転手は焼死するという事故があった。そのとき西島は不在だったが、そのことを彼は二年経った今でも名残り惜しく思っている。


 西島の犯行に、規則性はない。彼は距離を問わずあちこちを放浪する。特に好むのは人気のない路地裏か田舎道ではある。悪意に満ちた動物のように鼻を利かせ、気が向けば殺し、気が向かなければ適当な店で飲みたいだけ酒を飲み、その日獲物がいれば一人笑いを浮かべ、いなければ見えもしない敵に悪態をつきながら帰るだけだ。


 現金にはさほど興味はないが、行きがけの駄賃、というより酒代程度に、動くことのない被害者からかすめ取ることはある。だが、それすらも完全にその場の気分によっての行動だ。さらには被害者の特徴にも、凶器にもほぼ一貫性はないため、警察も一連の事件が同一犯によるものか、同一犯であれば、このような全国津々浦々に渡って犯行を繰り返す人間が存在するのか、手がかりを得ることができず、対応に苦慮していた。

 いずれは西島の手に手錠がかかるときが来るであろうが、そのときはまだ先のことであろう。


 西島には、さらにあるへきがあった。三人目以降、彼はどうしても、曰く付きの得物えもので行為を行わないと、満足できない自分に気づいたのだ。

 この場合、曰くと称されるものであれば、西島にとっては何でもいいが、特に欲したのは、使用歴がある代物だった。最低でも、一度は人の命を奪った代物。西島は、そのことにこそ、こだわった。


 伊藤のことを知ったのは、ほとんど勘だった。一般人に擬態しているが、温度のないその気配を、西島の動物的勘が捉えた。裏路地で声をかけると、伊藤はあっさりと自分が裏社会の人間だと認め、西島の要望を知ると、この渡し屋を紹介してきた。

 今夜はその、初の取引というわけだ。


「で、いくらだ?」


 舌なめずりをせんばかりの表情でナイフをためつがめつしていた西島はようやく満足したのか、渡し屋に声をかけた。


「言い値で構いません。ですが、失礼ながら、西島様の手を拝見できればと」


「はぁ? 手?」


「はい。西島様がそうした得物がお好きなように」


 私も、血に染まった手を拝見するのが、何よりの楽しみなのですよ。


「あんたもか?」と西島が口にすると、渡し屋は首を横に振った。

 

「私は、臆病者でしてね。自分では、どうにも」


 そう、渡し屋は続けた。西島は数秒警戒した顔をしていたが、自らの癖に照らせばそのような人間がいても不思議ではないと、思い直した。


 「いいぞ。ほら、じっくり見てくれ」


 樽の上に置かれたささくれだった手指、肉付きよく膨れた手のひら。だが、何ということはない。どこにでもある、成人男性の手だ。にもかかわらず、渡し屋は感極まったようにその手を見つめている。


「おお、おお。これはまた・・・・・・」


「へへ、気に入ったかい?」


「ええ。それは、もう。そうですか、これが」


 西島の手の平を、焼ける痛みが貫いた。


「息子を奪った手か」


 西島に先ほど手渡したのと同じ種類の、ダガーナイフが西島の手を貫いていた。

その刀身は、真っ赤に焼けて鈍い輝きを放っている。 

 まるで、名もなき怨嗟の炎を代弁するように。


 顔を上げた渡し屋の顔を正面から見て、西島は痛み以上の、声にならない悲鳴を上げた。先ほどは首元に目が向いて気がつかなかったが、衣類から覗く目元はただれ、夥しい火傷の跡が残っていた。かろうじて残された片方の瞳に一切の光はない。その瞬間まで渡し屋と呼ばれていた男、岩波のその目が、ひたと西島を捉えていた。


「がぁあ・・・・・・がっ!!」


 西島が、再び呻く。岩波がナイフごと手首を軽くひねったのと、背後から近寄っていた伊藤が、その首元、声帯を一突きで損傷させたからだ。西島の呼吸が一気に早く、浅くなる。さらに、西島の足首の裏に、激痛がはしる。伊藤が背後から、右足のアキレス腱を切断したのだ。西島の目からは多量の涙が、口からは唾液がびたびたとこぼれ落ちるが、穢れたそれを拭う者は誰もいない。

 体勢を大きく崩したまま、樽の上の手首を押さえて悶絶する西島に、岩波は冷徹に声をかける。


「さて、あなたに質問しましょう。一つめ。平和とは、何ですか?」


 西島にも、答えはあったのかもしれない。だが、それを発する術を今の西島は持たない。荒くかすれた音だけが、口元からしゅうしゅうと漏れる。

 岩波は、やれやれというように首を振った。


「それはね。こんなものに、触れられてはいけないものなんですよ」


 再度、西島の声にならない悲鳴が響き渡る。岩波が手にしたペンチには、剥がしたての西島の爪が挟まっている。


「今夜は、息子を悼む夜にしましょう。安心してください。夜は、長い。あなたはずっと、逃げおおせてきた。私にだって、少しくらい時間をくれてもいいでしょう?」


 もはや、謝罪も許されない。涙で顔をめちゃくちゃにした西島が、子どものように激しく首を振って、拒否の意思を示す。その傍らに立っていた伊藤は、樽の横に置かれていた、別のケースの中身を検めてから口を開いた。


「確かに。取引終了だ。じゃあな」


 西島にとっては死神であり、同時に最後の希望でもある伊藤が、淡々と背を向けて去っていく。唯一、今のところ自由である左手を向け、これ以上になく見開いた目で追いかけ、裂けんばかりに口を開くが、その背中を呼び止める声は無論出てこない。


「そう焦らなくてもいいでしょう。伊藤さんがね、いろいろ教えてくれたんですよ。さあ、続けましょう。ずっと。ずうっと」


 そうは言うが、岩波に一切の笑みはない。二度と這い上がれない、底なしの憎悪に沈んでいく感覚を、初めて西島はその身で理解し、失禁した。狭い空間に、強烈なアンモニア臭が立ち上る。ここにあるのは、この先二度と軽減しない痛みと、恐怖。いまだ身もだえするそのさまは、哀れか。それとも、滑稽か。

 

 肉片の付いた爪を床に放り捨て、出口のほうを見ながら岩波が言った。


「ああ、こんな夜だった。ありがとう。渡し屋さん」


 


 



 




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ある夜にその声は止み。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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