呪殺

「これから先生にはテストを受けてもらいます。先生が作る試験問題に比べたら、超簡単なテストです」


 あたしは今にも震えて掠れそうになる喉に力を込めて、恐怖を悟られないように言葉を紡いだけれど、うまくできたかは解らない。

 あたしは冷えた掌をお腹の前で交差させた。


「何を言っている、ふざけているのか」


 いつからあたしの身体は、こんなにも冷え切ってしまったんだろう。

 失われたのは身体の熱だけじゃない。

 心の温度ももう感じられない。

 けれど感情だけは、今にも破裂しそうにこのお腹の中で暴れ狂っている。


 声を荒げる先生を無視して、あたしは微笑みながら出題した。


とい、あなたは父親になる気はありますか。よく考えて解答してください」


 一瞬にして世界がフリーズした。


「……ふぇっ?!」


 沈黙を破るように、それまで目を白黒させて突っ立ているだけだった女子生徒の口から、気の抜けたように空気が漏れる。

 それに触発されたかのように先生が吠えた。


「お、おまえは!まだ堕ろしてなかったのか?!」


 女子生徒の喉が引きつった音を奏でると、己の失言に気づいた先生が舌打ちして、素早く周囲を見渡した。

 開いた扉の向こうでは、何事かと室内の様子を窺う生徒がチラホラ増えている。

 先生が苦虫を噛み潰したような表情で低く唸った。


「……ちがう、違う!おまっ、君は、何を訳の分からないことを言っているんだ。一度先生とふたりで話そうじゃないか」


 狼狽の色もあらわに、けれど掴んだスマホを誇示するように先生が言い放つ。


「ほら、君も今日は教室に戻って。廊下でたむろしている諸君もほら、もうすぐ予冷が鳴るぞ」


 自分で呼びつけておいた女子生徒を追い返そうとしたり、集まったギャラリーを散らそうとしたり、先生ってば本当にお忙しいこと。

 その滑稽な姿に思わず笑いが漏れた。


「何が可笑しい」


 銀縁眼鏡のブリッジを押し上げると、先生は黒いスマホを操作し始めた。

 そして周囲からはそれが見えないように自分の身体で隠しながら、恭しくこちらに画面を向ける。


 そう、それは口封じの切り札。

 あたしを世間的に抹殺できる、先生の最強の凶器。


 先生が捧げ持つ黒いスマホの画面いっぱいに、潰れたカエルみたいな恰好をしたあたしの白い裸体が映し出されていた。


 それを瞳に映しながら、あたしは頬に浮かべた笑みを消すことなく、静かに先生に確認する。


「それが先生の解答で間違いないですか?」


 すると先生は言われた意味が解らなかったのか、怒りで青黒く染まった相貌を醜く歪ませた。念入りにお手入れされた眉毛が互い違いに寄せられて、なんて無様なんだろう。

 あたしは笑いが堪えられずに、とうとう吹き出してしまった。


 そうだ、分かっていた、こうなることは。

 だからこそあたしは事前に用意した武器を、本当は使う気なんてこれっぽっちもなかった武器を引っ張り出し、それを行使したのだから。


 数学科教員室には、今や高らかに嘲笑うあたしの嬌声だけが響き渡っていた。

 


 

 生理が遅れている。

 まさか、でも、もしかして――

 大慌てで検査したあたしは、予想通りの結果に希望の光を見出していた。


 あたしの中に宿った小さな命。

 これであたしは本当の意味で先生の特別になれる。

 この事実を知ればきっと先生は変わってくれる。

 歪んだ関係は修正されて、ふたりには正常な未来が待っている。


 その時のあたしは本気でそう信じていた。

 そう思わなきゃ、あたしは自分の置かれた状況に耐えられなくて、もうどうにかなってしまいそうだった。

 だからこの小さな光に縋ったのだ。


「堕ろせ」


 夕闇が支配する教員室で、笑顔の仮面を脱ぎ捨てた先生は、あたしの知らない人だった。

 その口から氷の刃が放たれて、あたしの芯を貫いた。

 ぽっかり空いた穴が端から凍てついていく。

 全身の血が凍る。


「いいか、くれぐれも変な気は起こすなよ。早急に堕ろしてこい。分かったらさっさと出ていけ」


 これ見よがしに両手で黒いスマホを弄ぶ先生に教員室から追い出されたあたしは、暗闇に吞み込まれた廊下にひとり立ち尽くし、声も立てずに泣いた。

 嗚咽を押し殺すのに精いっぱいだったあたしには、次々溢れる涙を止める術はなかった。


 そして、先生の補習授業は終了した。


 先生に放り出されてからやっと、あたしは自分の足元が脆くも崩れ去って、進むことも戻ることもできないんだと理解した。

 こんなこと、誰にも相談できない。

 あたしには味方なんていない。

 だからひとりで考えた。

 考えて考えて。

 気づいた。

 あたしはひとりじゃない。


 先生を殺そうと決意した瞬間だった。




 ゲラゲラと嗤うあたしのことを、得体の知れない怪物だとでも思っているのか。

 先生は疑問符の張りついた相貌で、声も出せずに立ち竦んでいた。

 笑うことにも疲れたあたしは、大きく息をついて改めて先生を見つめる。

 そして先生に死刑を宣告した。


「あたしたちのこと、世間に公表します」


「!!」


 先生が息を呑むのが分かった。

 あたしはそれに構わずに続ける。


「先生とあたしのすべてを書いた告発文を、学校や教育委員会に宛てて登校前にポストに投函してきました」


 あたしの宣告に、あんなに理知的だった先生の顔は、いまや汚れたコンクリート色に塗り潰されている。酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせて、かろうじて息をしてるって感じ。


 廊下ではせっかく先生が散らした野次馬がざわめいている。できれば先生とふたりきりの時に決行したかったんだけど、何事も予定通りにはいかないものだ。

 でも考えようによっては、このギャラリーも校庭の生徒たちも、この事件を盛大に拡散してくれるに違いない。


「……ははっ」


 すると、それまで声もなくパクパクしていた先生が、息を吹き返したみたいに笑いだした。


「何を言い出したかと思えば、子供の浅知恵だな」


 先生は気を取り直すように銀縁眼鏡のブリッジを押し上げて、普段の表情を取り戻し、けれど戻り切らない顔色で言った。


「誰がおまえのような子供の書いた告発文など本気にするものか。頭の可笑しい女子高生の悪趣味な悪戯だと一笑に付されるのがオチだ」


「でしょうね」


 あたしがあっさり認めると、先生は怪訝な表情を浮かべる。


「……何を企んでいる」


「企むだなんて。今言ったじゃないですか、告発ですよ」


 あたしは先生から外した視線を、扉の手前で立ち止まっていた女子生徒に向ける。その子はイヤイヤするみたいに首を振り、ジリジリと後退していく。


 そうよ、逃げて。

 あなたはまだ間に合うから。

 

 先生はもしかしたらあたしよりも前に、あたしみたいな哀れな女の子を作り出していたのかもしれない。

 あたしは先生の幾つかある玩具おもちゃのひとつに過ぎないのかもしれない。

 だったら尚更だ。

 あたしは、第二第三のあたしを作り出さないために。


「先生が言った通り、ただの文書では信用されないかもしれない。もし内容が真実かもしれないって思ってくれた人がいても、権力とかいうものに握り潰されるかもしれない。保守的な大人ほど信用できないものはありません」


「分かってるじゃないか」


 それまで取り乱していたことを取り繕うように、先生が肩で大きく息をする。

 顎をそらして、それでもその目は用心深そうにあたしに据えられており、気を抜けば気圧されそうになる。


 でもあたしは負けない。

 あたしはお腹の前で交差させた掌に力を籠める。


「だから証拠データを同封しました。それでも、それすら握り潰されるかもしれない。だから同じものを、下種なネタが大好きな週刊誌にも送っておきました」


 あたしも先生に負けないくらい強い瞳で、先生の目を見返す。

 先生は眼鏡の奥の目を大きく見開き、ゆっくりと首を左右に振る。その揺れが全身に伝わったみたいに、その足元がガクガクと震えだす。

 その震えは声にも表れていた。


「……ッ!馬鹿な、おまえがそんなデータ、持ってるはずがないッ!」


「あたしも先生を見習って、あたしたちがヤッてる最中の音声を撮ってたんです。気づかなかったでしょ?バカみたいに腰を振ってる先生の上擦った声も、バッチリでしたよ」


「う、そだ、ウソだウソだ!嘘をつくな!!」


 噓なものか。

 何度目かの補習授業の夜、あたしはスマホのカメラアプリを録画状態にしたまま、制服のスカートに忍ばせた。

 当然、衣服なんてすぐに剝ぎ取られてしまうし、映像はただの黒い画面が続くばかりだったけれど、それでも音声は撮れていた。


 あたしは敢えて先生の名前を何度も呼び、やめてくださいとか、撮らないでとか言って泣いてみせた。

 先生はあたしが泣くと余計に興奮するみたいで、言わなくてもいいことまで気分よくしゃべってくれていた。

 言うことを聞かなければ試験の解答を渡さないとか、色々と。


「最初は、先生の特別になれたことが嬉しかったけど、その内にだんだん恐ろしくなってきて、もしもの時のための対抗手段が欲しかった。お守りみたいなものです。だから外に出す気は全然ありませんでした」


 先生は訳の分からない呻き声をあげている。

 最早周りが見えていないようだった。

 それでも黒いスマホだけは離さない。画面がブラックアウトしたそれを高々と掲げて、唾を飛ばしながら喚いた。


「何なんだ、何が告発だ!自分だけが被害者みたいなツラしやがって!これがどうなってもいいのか?!」


「誰も自分だけが被害者だなんて思ってませんよ。最初から言ってるでしょ、あたしたちって。あたしも先生も罪人ですよ。あとそれ、大事に持っていてくださいね。立派な証拠画像ですから」


 あたしがスマホを指差すと、先生は電池が切れたみたいに動きを止めた。

 目の焦点が合っていない。

 バカな先生。

 先生はあたしを殺すのが遅かったんだ。

 

 あたしは冷えた掌でお腹を撫でる。

 もしも被害者がいるとしたら、それはこの子だけ。

 ごめんね。

 最後の勇気をあたしにちょうだい。


「先生、あなたは生きて地獄を味わってください。あたしたちは死んで地獄に堕ちて、そこから先生のことをずっと見ています」


 あたしは自分の部屋の机の抽斗に、元データの残ったスマホと、家族に宛てた遺書を残してきた。

 あれが家族に知れるのは本当に辛いけれど、もう決めたことだ。

 

 これは、哀れな女子高生が世を儚んだ末の自殺なんかじゃない。

 先生を確実に世間的に抹殺するための、命ふたつを賭けた呪殺だ。


 その時、校舎全体に響き渡るようにチャイムが鳴る。それを合図にあたしは窓枠から腰を浮かせた。

 ぐらりと傾いた身体に風の抵抗を感じて、同時に瞳に飛び込んできたのは、鮮やかな水色。


 晴れ渡る穏やかな空に向かってあたしはダイブした。



  

  完

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少女呪殺 成田紘(皐月あやめ) @ayame

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