人頭蘭の鉢

尾八原ジュージ

人頭蘭の鉢

 オクノくんが僕の勤める倉庫にオークションの商品としてやってきたとき、彼の頭から生えた人頭蘭はもう開花まで三日かそこらというところで、白っぽいつぼみをつけた茎が何本も何本も稲穂のように垂れてゆらゆらと揺れていた。つまり頭の中身はほとんど蘭に喰われた状態だったはずなのだけど、彼は中学卒業以来一度も会っていないはずの僕をすぐに見分けて「よう、アキヒロ」と声をかけてきた。その瞬間僕の頭の中で七年間の記憶が巻き戻り、僕は夕暮れの教室で、白いワイシャツと黒いスラックスを着て学年カラーのスリッパを履いたオクノくんが、窓を背景に笑う姿を幻視した。しかし白昼夢が去ってみれば、そこはやはりオークショニアの統べる冷たい倉庫の中で、僕は倉庫の管理人で、オクノくんは商品なのだった。

「これまで三回咲かせたよ」

 指を折りながらオクノくんが教えてくれた。つまり頭の中に人頭蘭を植え、開花したのを抜いたら新しい苗を植える、を繰り返した後なので、脳どころかもう体中がボロボロだということだった。オクノくんの長くて形のいい指はいつ見ても震えていて、ろくにものも持てなかった。

 僕は頭から花を生やしたオクノくんをじっと見つめた。垂れさがった蘭の向こうに隠れがちな横顔は、大理石の彫刻みたいに白くて整然とした印象を保っていて、そういや昔からオクノくんはかっこよかったよなぁと思わず口に出して呟いたら、オクノくんは「急に褒めるじゃん」と笑った。それはやっぱり植物が花咲くような笑みで、もう何もかも手遅れなのだと僕は悟った。もっともオクノくん自身は、もっと前から同じことを悟っていたのだった。


 中学生のころ、僕はクラスの最底辺の勉強だけはちょっとできるが他にはなんのとりえもないチビで痩せたオタクだった。一方オクノくんは何でもできて友だちも彼女もいて、遊んでるみたいなのにガリ勉してる僕よりもテストの点数がよくって、太陽みたいに教室の中心で輝いて見えた。僕は彼のことを最初(住んでる世界が違うんだなぁ同じ教室にいるってのにさ)と感じて苦手だったのだが、オクノくんは根っから陽キャだったため、僕にもわけへだてなくグイグイ話しかけてきた。

 実は三回ほど、オクノくんを自宅に呼んだことがある。漫画を貸したのだ。オクノくんはきっちり返してくれ、同時に彼の持っている漫画を、交換でもするように貸してくれた。

 恥ずかしい話だが、僕はその漫画を返さなかった。オクノくんの所有物を手元に置いておきたくなったのだ。だから本屋でこっそり同じ漫画を買って、そっちを返した。たぶんオクノくんは気づかなかったはずだし、僕はその漫画本をまだ持っている。何度目かの引っ越しを経て小さなアパートの一室に落ち着いた今も、その漫画は本棚に入っている。

 あの頃、僕はオクノくんに憧れていたというか、なんというか、もはやあれは恋だったのかもしれない。


「アキヒロは知ってるだろうけどうちの親父の会社だめになってさ。そしたら親父ってば、いの一番におれを売ったの、やばくない?」

 オクノくんがこんな倉庫にやってきたのはそういうわけだった。どうしてそんなことになったかといえば、オクノくんは実はお母さんが不倫して作った、つまり不倫相手の子どもだったのだ。金欠にかこつけて父親(戸籍上)から母親への復讐を遂げるための道具にされたのだ……と言えないこともないけれど、オクノくん自身そのことに対して、もはや特になんの感慨もないという。「まぁ開花も四回目になれば色々どーでもよくなるわな」と言うその声すら、なんだかもうフワフワしているのだった。

 人頭蘭はこういう後ろ暗い、盗品とか遺品とか曰く付きのあれこれが集まるオークションでしかお目にかかれないような珍しい花だ。何しろ人間の頭の中でしか育たないのだから、当たり前の販路に乗るわけがない。確か一人につき三回も花が咲けば多い方で、それがこれで四回目だというのだから、オクノくんはもうほとんど植物みたいなものだ。三日間ぼくたちは一緒にいたが、その間彼は一度も食事をせず、たまに水を飲むだけだった。

 僕はオークショニアに指示されて、オクノくんを一日に三回、倉庫から出した。倉庫はオークションが開かれる屋敷の地下にあったので、日光を当てるために、わざわざ外に連れだす必要があったわけなのだ。窓辺に椅子を置くと、オクノくんは背もたれに身をすっかり預けるような座り方をする。僕は彼が椅子からずり落ちないか、時々心配になった。

 日光浴を除けば、オクノくんはずっと倉庫にいた。仕事場に寝泊まりする際の僕の寝床は倉庫の隣の小部屋にあり、無数の監視カメラさえなければその部屋でオクノくんを横にならせてやれるのだが……と残念に思った。でも、オクノくん自身は寝床に拘泥する気持ちすらどこかへやってしまったようで、割り当てられたスペースに置かれた小さなスツールに、文句も言わずじっと座っていた。


「なぁ、アキヒロはどうしてオークションで働いてんの?」

「家出したから」

 高校二年の秋のことだった。

 僕とオクノくんは別々の高校に進学した。初めて女の子に告白されたのも高校二年生の秋だった。あれも夕暮れの教室が舞台だった。緊張で喉が一瞬のうちにカラカラになりながらも、僕は喜んでその告白を受け入れた。

 結論から言えば女の子は僕のことなんかまったく好きではなく、告白は友だち間での罰ゲームだった。そのとき、僕はオクノくんがいた中学時代と特に変わらず、痩せてこれといった特技のないオタクだった。で、至って無害と思われていたけれど、実はそれほどお人よしというのでもなく、むしろ学校にも家にも居場所がない分、問題を起こした際に失うものもないと思っていた。いえーい罰ゲームでした~! とネタバラシをしながら笑う女の子の胸倉を掴んだ僕は、思い切ってこちらに引き寄せると、きょとんとしている彼女の顔の中心を殴った。何度も何度も殴ってからふと我に返ると、目の前に女の子が倒れていた。彼女は顔を両手で押さえていたが、その両手の下からおびただしい血液が流れ出していた。

 僕は逃げ出した。その足で家に駆け戻るとバックパックに金やら当面の着替えやらを突っ込み、家を出た。それから一度も帰っていないし、家族と連絡もとっていない。

 そういうどうしようもない事情を包み隠さず打ちあけたというのに、オクノくんは僕のことを心配してくれた。

「アキヒロんち今どうなってんのかなぁ。おれ別の高校行っちゃったし、家遠いから知らんのよな」

 そう残念そうに言われ、それだけでぼくは大きく報われたような気がした。


 倉庫に来て二日目の夕方、オクノくんを日光浴に連れだしたときのことだった。西向きの廊下を歩きながら、オクノくんは「おれ夕焼けが好きだな」と呟いた。

「僕も好きだよ」

「なんかエモを感じるよな」

「わかる」

 僕はオクノくんが飽きるまで、一緒に窓越しの夕日を眺めた。途中、何度かオクノくんの方を振り返って彼の横顔を見た。蘭の蕾はますます膨らんでいた。シャツの胸元に紙製の名札が安全ピンで留められ、そこには「人頭蘭(鉢つき)」とある。オークションは明日の深夜に始まり、オクノくんはそこに出品される。鉢つき、つまりオクノくんごと売るということで、おそらく誰かが買うだろう。僕はその前日の夜、オークショニアが司会者に、人頭蘭は一千万からと伝えているのを聞いた。一千万、ここに来る一部の金持ちにとっては、大した金額ではない。まず間違いなく誰かが落札するだろう。人頭蘭は人気だし、鉢だってまだ若くてきれいなのだから。

 僕が落札できたらいいのに。そう思った。でも一千万なんて大金は、僕の部屋のどこを探したって見つかるものではないし、銀行や金貸しの事務所をハシゴしたところで、一日で揃えられるような金額とも思えなかった。

 僕は考えた。僕を雇っているオークショニアの襟首をつかんで、顔の中心を何度も何度も殴って、それからオクノくんを倉庫から、そしてこの屋敷から連れ出して僕の車の助手席に乗せ、どこかに走り去ることを。その場合、オークショニアはすぐに人を集めて僕たちを追いかけ、苦もなくとっつかまえて、オクノくんを回収し、僕を殺すだろう。

 だけど、でも、もしもそんなことが本当にできたとしたら、それはどんなに素敵だろう。


「何か見たいものとかある?」

 オークション当日の朝、僕はオクノくんにそう尋ねた。オクノくんは一度首を横にふり、それから思い出したかのように「もう一度夕日が見たいかも」と答えた。

 ところがその日は雨降りで、空には重たい灰色の雲が立ち込めており、オクノくんの願いは叶いそうになかった。オクノくんもそれはちゃんと理解していて、「これじゃ無理だな」と呟いた。「いいんだよアキヒロ。別にいいんだ」

 やがて夕方になったが、なんと空は奇跡的に晴れ――たりしなかった。どんよりと暗いままだったが、僕はオクノくんを日光浴を連れ出し、倉庫に戻った後は見回りもそこそこに、ずっと彼の傍の冷たい床に座っていた。

「僕、中学の頃が人生の中でいちばん楽しかった」

 そう言うと、オクノくんはおれもと言った。彼が笑うのに合わせて、今にも咲きそうな花が揺れ、さらさらと音をたてた。そのうち倉庫の時計を見上げたオクノくんは、もうとっくに日没だったんだなと呟いた。

「それじゃ、おやすみ。アキヒロ」

 オクノくんが言った。僕も言った。「おやすみ、オクノくん」

 オクノくんは窓際のスツールに腰かけながら目を閉じ、それからはもう何も喋らなかった。


 客でごった返すオークション会場に、僕自身は足を踏み入れることを許されていない。だからオクノくんを見たのは、倉庫から搬出されていく姿が最後だ。

 オークションの翌日、人頭蘭は三千万で落札されたよ、と会場係が教えてくれた。

「今頃はもう咲いている頃合いだろうから、鉢の方は死んだかもな」

 会場係はただ何気なくそう言ったのだろうが、僕は彼を、もう少しでぶん殴るところだった。

 僕は三日ぶりに社員寮の部屋に戻った。手を洗い、部屋着に着替えると、本棚からオクノくんから借りたままの漫画を取り出して、ページをめくった。何度も何度も読んで台詞からアングルからコマ割りからすべて覚えてしまった漫画を、僕はゆっくりと、時間が許す限り何度も、何度でも読んだ。

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