紙巻き一本
倉沢トモエ
紙巻き一本
「さあ、そこでだ」
執務室で閣下は楽しくもなさそうに髭をひねっている。
「続け給え」
わたしは従った。
「銀細工の白粉入れひとつ。
棒紅が二本。
つけまつ毛の長いもの短いものそれぞれ一組。
黒レースの靴下。
衣装の一部の桃色の花飾りひとつ。
香水瓶一本。
ガラスの灰皿に吸いさしの細く巻かれた紙巻きが一本きり。両切」
◆
黒い帳簿一冊。
英和辞典。
電話機一台。
葉巻二本。
◯◯殿下の名刺。
万年筆。
封を開けた封書三通。
ペーパーナイフ一本。
目玉クリップ三個。
試験での品々はまだ申し上げられる。
あの日、わたしはひとり閣下に呼ばれ、執務机を挟んでの当たり障りのない談話をした。
途中で出し抜けに閣下が黒い布で机を覆い、
「今、机上にあったものは」
それが先の品々である。
「及第だ」
試験であることは告げられていなかった。
わたしはその日から下っ端の調査員となった。
◆
「銀細工の白粉入れひとつ。
棒紅が二本。
つけまつ毛の長いもの短いものそれぞれ一組。
黒レースの靴下。
衣装の一部の桃色の花飾りひとつ。
香水瓶一本。
ガラスの灰皿に吸いさしの細く巻かれた紙巻きが一本きり。両切」
下っ端調査員として、わたしは掃除夫として劇場に潜り込んだ。
高名な踊り子、ルル・ベルの身辺に妙な男の影があるという情報の裏とりだった。接触の証拠を持ち帰るのだ。
情人なのか金をせびる身内なのか、それとも情報通りの某国間諜であるのか。
「それがすべてかね」
簡単に尻尾を掴める相手ではないようだった。
情人の線も、身内の線も早々に退けられたというのに、決め手がなかなか出てこないのだ。
「あ、いえ、」
だがこの日、わたしはひとつだけ気がかりがあった。
「いつもの両切の紙巻きですが、」
ルル・ベルは舞台直前の景気づけに一服ふかし、時折そのまま火も消さずに出ていくので、皆に閉口されていた。
「本日、口紅がついておりませんでした」
◆
舞台前の踊り子がくわえた紙巻きに口紅のついていない道理はない。
閣下はただちに受話器を取り、指示を送った。
「及第だ」
なんと、くだんの妙な男として目をつけられていた二人のうちのひとりがわたしだったというではないか。
「みなさん、お人が悪い」
「まあ、怒るな。これで嫌疑は晴れたんだ」
下っ端調査員のわたしにはあずかりしれない上の方々が素早く立ち回り、もう一人の妙な男の身柄を取り押さえるために動いたのだが。
「困りますよ」
あっさり取り押さえられた妙な男は楽屋口近くにいた酔っ払いで、間諜どころかルル・ベルの情人でも身内でも何でもなかった。
「もしや、その『妙な男』の噂自体が」
敵の撹乱作戦でなかったと言えるのか。
そこまで我々がたどり着いた翌日未明、無人のはずの劇場から火の手が上がり、全焼してしまった。
火元は踊り子の楽屋ということだったので、劇場の者たちは口々にルル・ベルの悪癖について語った。
ところが当のルル・ベルの消息はそれきりわからなくなり、我々はこの通り煙に巻かれた心地にあるのだ。紙巻き一本なだけに。
「不可だな」
閣下は肩をすくめた。
紙巻き一本 倉沢トモエ @kisaragi_01
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