第2話 そう言えば、うちの前で拾ったんだっけ

 昨日波瑠は、会社の飲み会に参加していた。

 そして、座席の隅の方で、ひっそりと飲んでいた。


「黒岩課長! おめでとうございます!」

「生まれたのは、女の子ですよね?」

「三人目なんて、すごいなあ」

「奥さんと仲良しですよね。インスタ見ています!」

「奥さんも美人で、娘ちゃんたちもかわいいですよね」

「羨ましいなあ」

 場の中心となっているところで、課長の黒岩が、皆に三人目の子どもが出来たことを祝福されていた。

 波瑠は、顔を真っ赤にしてまなじりを下げている黒岩を横目で見ながら、次々に酒を飲んだ。飲み放題なので遠慮なく飲み続ける。「おめでとうございます!」と皆が拍手したときは、一応皆と一緒に拍手をした。少し笑顔も見せてみた。

 だけど、あの祝福の輪の中に入って、「赤ちゃんの写真見せてください! きゃー! かわいいですねえ」などとやることは出来なかった。


 なぜならば、波瑠は、黒岩とつきあっているから。

 ――いや、もう「つきあっていた」、かな。

 もうこんなの、嫌。耐えられない。別れる。今すぐ。いいや、もう、別れた!

 波瑠は暗い思いを晴らすように飲み続けた。この次は日本酒にしよう。悪酔いしても構わない。いや、悪酔いしてしまいたい。

 不倫であることは、最初から分かっていた。だけど、愛されているのは自分だと信じていた。奥さんには気持ちはないと。娘はかわいいけれど、奥さんはもう「娘の母親」でしかなく、性的関係もないと。――そう、確かに言っていた。それが何? 三人目が生まれた? どういうことなの、いったい。


 結婚がしたかったわけではない。

 そもそも波瑠には結婚願望はなかった。しかし、恋人がいる幸福感は好きだった。好きという感情で包まれるあの感じは波瑠の渇きを癒した。だから、ずっと恋人が切れ目なくいた。

 黒岩とは、新卒で入社して一年くらいしてからつきあい始め、気づいたら三年経っていた。つき合い始めたころのような情熱がないのは分かっていた。でもその代わりに親密な情みたいなものがあると、波瑠は思っていた。身体を求められるのも嬉しかった。愛情があると信じていたから。

 ――だけど、身体だけだったのかもしれない。

 皆に祝福され、赤ちゃんや娘たち、そして奥さんの写真を見せながら幸せそうな顔をしている黒岩を見て、波瑠は、しみじみ、自分だけが愛のある恋人同士だと思っていたのだ、ということに気がついた。「嫁とはうまくいっていないんだよ」などという戯言を本気にした、自分が馬鹿だったんだ。波瑠はそう思い、またグラスを空けた。


 黒岩は波瑠の上司で、波瑠より一回り近く年上で、しかし若々しい見た目で仕事が出来て――結婚していても密かに憧れている子も多かった。

 ……もしかしたら、憧れている皆に対して、優越感みたいなものがあったのかもしれない。

 波瑠は黒岩を取り巻いている女性たちを見た。

「黒岩課長、かっこいい! つきあってくれないかしら」と言っていた、後輩の女の子もいた。「つきあってくれないかしら」と言ったその口で、「娘ちゃんたち、ほんとうにかわいいですねえ」と言う、その気持ちが波瑠には分からなかった。波瑠はその輪には決して加わらず、ひたすら一人で飲み続けた。



「二次会、行かないの?」

 行けるわけがないと思いながら波瑠は「うん、今日は帰る」と、皆に手を振って駅へと向かった。

 瞬間、黒岩と目が合った。

 職場の飲み会のときは、いつも二次会に行き、二次会の途中でこっそりと抜け出して落ち合い、ホテルに行って抱き合うのが常だった。職場の飲み会とは、波瑠と黒岩にとってそのような意味合いを持つものだった。

 黒岩の目は不思議艘な色を呈して、波瑠を捉えた。

 ……今日はしないのか? どうして帰るんだ?

 波瑠はそれを無視して、足早に立ち去った。

 背中に視線が突き刺さっているような気がした――だけど、気のせいかもしれない。


 最寄り駅からはタクシーを使う。

 バスはとうに終わっていて、駅から歩くとなると距離もあるので夜遅くなるときはいつもタクシーを使った。

 波瑠はタクシーに乗り込むと家の場所を説明し、目を閉じた。

 寺社があり緑があり、袋小路もある狭い風情ある町を、波瑠を乗せた車は走って行った。


 ……黒岩は本当に、今日も私と会うつもりだったのだろうか? あんなふうに出産のお祝いをされた後で?

 ――信じられないわ。

 私は今まで、彼の何を見ていたのだろう?

 人気のある上司に誘われて嬉しくて食事に行った。それが始まりだった。当時ちょうど恋人と別れたところだったので、なんとなくつきあい始めた。

 ……ちゃんと好きだと思っていたし、好きでいてくれると思っていたんだけど。

 終わりね。

 恋の終わりは急速に訪れるときがある。今回もそうだ。一旦冷えた気持ちは戻らない。

 波瑠はスマホに残る黒岩とのやりとりを全て消去し、それから彼をブロックした。

 これでいい。

 ブロックすると、相手がストーカーになるとかいう話も聞くけれど、黒岩はきっと不倫相手に困ってはいない。冷静に考えれば、相手は私だけじゃなかったかもしれない。

 波瑠はそんなふうに考えた。

 ……なんか疲れちゃったな。


 目を閉じると、急速に酔いがぐるぐると襲ってきた。今更だが、飲み過ぎたことに波瑠は気がついた。そもそもそんなに強くないのに、あまりに腹立たしくて、うっかり飲み過ぎたのだ。

 ヤバい、気持ち悪くなってきちゃった。くらくらする。

 ああでもよかった。もうすぐうちだ。

 家のすぐ前までは道が狭すぎて行けないので、少し手前でタクシーを降りる。


 藍色の不透明な夜がすっぽりと辺りを包み込んでいた。

 狭くて車が入れない私道を、波瑠は歩く。歩いているうちに酔いが足元まできているのが分かる。ぐらぐらする、歩けない。

 十一月の夜は肌寒く、木々を風が抜けてかさかさと落ち葉が舞っていく。

 やっとの思いで家に辿り着いた。

 山茶花の生け垣を見て、波瑠はほっとした。早く家に入ろう。寒いから、まずは暖房をつけよう。


 ――あれ?

 よく見ると、玄関のすぐ脇に何かがあった。――人? 人がうずくまっている?


「あのう」

 波瑠はそのうずくまっている人に近寄って、声をかけた。うずくまっているし、暗いので顔もよく分からないけど、若い子であるような気がする。

「あのう、ここ、普通の民家なんです。お寺とかじゃないんですよ?」

 寺社が点在するこの町は、観光客が散策をし、そしてときに個人宅の敷地に入り込んで来ることがあった。

 声をかけても、その人物は、呻き声は出したものの動いて移動するということはなかった。すると、何か小さいものが動いた。

「にゃー」

 声がした方を見ると、猫がその人物の傍らにいた。

「猫! 猫までいるの。かわいい! ふふふ」


 かわいいのはいいけれど、猫はともかくとしてこの人、この寒さでこのままここで寝ていたら風邪ひいちゃう。

 ……いいわ! 今夜一晩泊めてあげましょう!


 波瑠はふわふわした頭でそう考えた。

 飲み過ぎて変なテンションになっていた。普段なら絶対にしないことだった。

 恋人と別れて(一方的でも)、さみしかったのもある。

 黒岩のことは忘れる!

 私は猫を拾うんだもん。

 波瑠は、半分動けなくなっているその人物を引き摺るようにして家に入れ、そして火事場の馬鹿力で玄関わきすぐに部屋に運び入れた。そうしたら、そこで力尽きてしまった。何しろ酔っ払いである。寒かったので、暖房を入れるのは忘れなかったが、あとのことは全部忘れて、そのまま寝てしまったのだ――


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2024年12月17日 07:00
2024年12月18日 07:00

サボテンの恋~年下のきれいな男の子に毎日ごはんを作ってもらうお話 西しまこ @nishi-shima

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