ベランダの境界線

まさつき

ベランダの境界線

 仕事に忙殺される隙間を縫い、ようやく受けた健康診断で、告知された。

「肺の影なんですが。癌です」

 あっさりな言われ様に驚いたが、私もはっきりとモノを言う質だ。

 詳しいことは今後の検査でと話す医者は、私と同類なのだろうと納得したが、さすがに気が重かった。


 帰宅し、ベランダで一本んだ。

 今更止めたところで病が消えるわけでもない。

 だが、身重の妻と、経営する会社の行く末は気にかかる。

 幸い資産は潤沢、会社の業績も右肩上がりで順調だ。

 しかし、やはりタバコはよくなかろう。

 これを最後に、止めることにする。


 夏になり、妻は無事に男の子を産んでくれた。玉のようなとはこのことだ。

 私は身を焼く日差しを受けるベランダから、母子の様子を眺めている。

 我が子に乳をやる妻の姿は、まるでルネサンス彫刻の輝く聖母像のようであり、同時に艶めかしくもある。

 授乳する妻と目が遭った気がした。

 仕方のない人ねと、語っているような目に見えた。

 私はと言えば、息子よその乳房は私のものだぞ――などと、あらぬことが頭を掠めてしまう。邪な考えを煙に撒こうと、また一本点けてしまった。

 相変わらずタバコを止められない自分を、情けなくも思う。


 月日は流れ、二人目の子供が生まれた。女の子だ。

 目に入れても痛くないというのは本当なんだなと私は知った。

 すくすくと成長する姿を、いつも目を細めて見つめている。

 今日は七五三。

 晴着で着飾る娘を抱き上げたかったが、着物にヤニの匂いを移すわけにはいかない。妻に渋い顔をされる前に、私は進んでベランダに居座った。

 愛らしい娘を眺めながら楽しむ一本は、実に美味い。

 いよいよ肩身の狭い思いをしているが、どうにもこの一服が止められずにいる。

 しかしあの藪医者め、何が癌だ。

 私はこうして、まだタバコを吸い続けているぞ。


 とうとう長男が就職の内定を得た。

 私の会社に入るかと期待したが、まずは同じ業種のよそ様で修行をするらしい。

 跡を継いでくれれば嬉しいが、それは本人次第だ。

 少し早いと思っていたが、娘の結婚も決まった。

 この部屋も妻と二人だけになるのかと思うと、寂しさが胸に訪れた。

 

 口も寂しくなり、一本手に取ろうとした。

 もう、タバコを切らしていたことに、気がついた。

 仕方がない、一階にあるコンビニまで出かけるか……おや? 開かない。

 おかしい。

 ベランダに、鍵がかかっている。

 締め出された?

 いや、違う……。

 そうだった、思い出した。

 私はもう、そうだったのだ――。

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ベランダの境界線 まさつき @masatsuki

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