最も近くて、遠い君へ

音乃色助

第1話(完結)


 夢心地のさ中、ピピピピッ、と無機質な電子音が僕の意識を呼び起こす。瞼を開け上体を起こすと、師走の冷気にぶるっと身が震えた。

 昨日はちゃんと、目覚ましをかけ忘れなかったんだな――

 ぼんやりした頭でスマホのアラームを止めた僕は、身を縮ませながらリビングに向かう。

 キッチンでケトルの湯が沸くのを待っていると、シンク台に張ってあるピンク色の付箋が目に止まった。


『おはよう。冷蔵庫の卵、賞味期限切れてたから捨てといたよ』


 インスタントコーヒーをすすりながら冷蔵庫を開ける。眉をひそめた僕は、手近にあった青色の付箋を一枚剥がし、ペンを走らせた。


『おはよう。いつも言ってるけど、切れる前に使いなよ』


 ピンクの付箋を剥がした僕は、それを指でつまんだままリビングに移動する。リビングの壁面にはびっしりと、青とピンクの付箋が交互に張り巡らされている。その一番後ろに、指でつまんでいたピンクの付箋を貼り足した僕は、一歩後ろへと下がり、その壁を改めて眺めた。

「こりゃあ、もう少し広い家に引っ越すことも考えなきゃな」

 かつては真っ白だったその壁の景色を想起し、そんな独り言を漏らして。



 ※※※



 柏木さんが僕の目の前で、わかりやすく顔をしかめた。

「ちょっと、これどういうこと?」

 不機嫌を隠そうともしない表情のまま、一枚の紙を僕の鼻先に突き付けた。英語テストの答案用紙。氏名欄には柏木真琴の名前。点数は五十二点。

「どういうことって言われても」

 たじろいだ僕は彼女から目を逸らし、つづける。

「前回のテストは僕、三十点だったんだから、むしろ努力の姿勢を認めて欲しいんだけど」

「私は前回、八十二点だったんですけど。こんな点数、恥ずかしくてお母さんに見せられないんですけど」

「柏木さんのお母さん優しいから、きっと怒られないよ」

「そういう問題じゃないっての。何開き直ってんの」

 呆れた顔つきの柏木さんが、大仰に天を仰ぐ。

「あーあ。よりによって、英語の試験日が入れ替わりの日とぶつかっちゃうなんて。ツイてないなぁ」

「……それ言ったら、同じ日に柏木さんが僕の代わりに受けた数学のテスト、僕より点数低――」

「何? 何か言った? 月代くん」

 ニッコリと、底の知れない笑顔を向けられた僕は、素直に黙った。この人のこういうところは、相変わらずずるい。

「それで、今日は他には何かあった?」、声を改めた柏木さんがそう言い、僕は首を横に振る。

「じゃあ、今日はもう解散しよっか。また明日ね」

「あ、うん」

 立ち上がった彼女が、僕に向かってひらひらと手を振ったので、僕は遠慮がちに返す。彼女は、近くに止めてあった自転車にまたがり、颯爽と僕の元から離れていった。夕影に身を沈める彼女のシルエットが、すぐに小さくなり、街の景色に同化していく。


 同じクラスの柏木さんとの放課後の密会は、ここ三か月、土日を除いてほぼ毎日行われている。密会といっても、僕たちは決して、周囲の目を盗んで愛を育んでいるわけではない。他人に言ったとて、とても信じられないような事情を抱えてしまった僕らは、学園生活をつつがなく送るために、互いに一日のできごとを共有していた。


 ことの始まりは二学期が始まってすぐ。よそ見をしながら廊下を歩いていた僕と柏木さんは、曲がり角で見事に頭をぶつけ合い、その衝撃で人格が入れ替わってしまった。

 そんな、漫画じゃあるまいし――と思うかもしれないが、実際にそうなったんだからそうとしか説明できない。混乱しながらも互いの状況を把握した僕らは、とりあえず入れ替わった先の家に各々帰ることに。

 不安(と女子のベッドで寝るという体験に興奮)を覚えながらも眠りに就くと、翌朝、僕が目覚めた場所は自室のベッドだった。慌てて鏡を見ると、元の体に戻っていたので、僕はますます困惑する。

 昨日のできごとは夢か何かだったのだろうか――狐につままれたような心地で学校へ向かうと、すでに教室にいた柏木さんと目が合い、早々に廊下へと連れ出される。どうやら彼女も、僕と同じく目覚めたら体が戻っていたという。つまり、昨日の入れ替わりは僕の妄想ではなく、現実だったのだ。

 柏木さんと二人で、何だったんだろうねと首を捻り合い、でも戻ったならいいかと、僕らはことの追及を放棄し教室に戻った。いつものように授業を受け、いつものように家に帰り、いつものようにベッドに入る。翌朝、目が覚めたら僕の意識は柏木さんの部屋にあった。上半身をまさぐると、ふくよかな二つの膨らみを発見する。僕は(女子の胸をさわるという体験に興奮を覚えながらも)頭を抱えた。

 その後、僕らの人格は日をまたぐごとに体が入れ替わるようになった。僕が月代蒼汰の体で過ごした次の日は必ず、目が覚めると柏木さんの体になっている。当然、違う体で過ごした日の記憶はお互いに持たないため、辻褄を合わせるために僕らは毎日放課後に落ち合い、その日の出来事を教え合うことにした。その甲斐あってか、今のところ僕たちの入れ替わりが周囲にバレている気配はない。

 誰かに打ち明けるという選択肢を、僕たちは取らなかった。性質の悪い冗談だと捉えられ相手にされないのがオチだろうという互いの見解が一致し、入れ替わり現象が自然と収まるのを待つことにした。


 ※


 僕が柏木さんの身体で過ごしていたある時、教室移動中に同じクラスの三枝さんが僕に耳打ちしてきた。

「ねぇ真琴、最近放課後、月代くんと学校外れの公園で毎日会ってるって噂を聞いたんだけど、ホント?」

 いつか起こるであろう目撃談に僕の肩が強張る。まさか、本人に向かって喋っているなんて露ほども思ってないであろう三枝さんが、つづけて言う。

「真琴って、あーゆうのがタイプだったんだ。なんか意外」

「い、いや。月代くんと会ってなんかいないよ。誰かの勘違いじゃないかなぁ」

 僕は、あまりにも不自然な苦笑いを浮かべるので精いっぱいだ。その胸中を見透かしてか、三枝さんが僕の顔を覗き込むようにしながらニヤニヤと。

「ふーん? 怪しいなぁ。……ま、もし本当にただの噂だったとしたら、ちゃんと竹内くんにフォローしときなよ?」

「うん? う、うん」

 意図のよくわからない忠告に、僕はとりあえずうなづいた。


 竹内くんは同じクラスの男子で、快活なスポーツマン然とした彼は男女分け隔てなく誰とでも喋り、特に柏木さんと仲が良いイメージがある。実際、僕の人格が入れ替わっているとも知らずに気軽に話しかけてくる。会話中に彼の目線がちらちらと胸元に注がれているのに気づくたび、僕は自戒の念を覚えるのだ。

 彼と付き合っているなんて情報、柏木さんからは特に聞いてないけど――


「おい、柏木」

 ふいに声をかけられたので振り返ると、その竹内くんが、複雑な表情で僕の顔をじっと見つめていた。それに気づいた三枝さんが、すっと僕から距離を取る。

「なぁお前今日、放課後ちょっと時間あるか?」

「えっ、あっ、いや放課後は」

 柏木さんとの約束があるから――と言いかけ、慌てて吞みこむ。

「ダメか? 五分でいい。話したいことがあるんだ」

 いやに真剣な彼の表情に僕は気圧され、思わず「わ、わかった」と言ってしまう。竹内くんはホッと息を吐いたあと、すぐ照れ隠すように鼻をすすった。

「サンキュ、じゃ、じゃあ、授業が終わったら中庭に来てくれ」と言い置き、早足で僕を追い抜いていった。


 ……これ、もしかして、そういうことなんじゃないか。

 いくら勘が鈍い僕でも、さすがにわかる。

 わらにすがる思いで視線をさ迷わせると、遠巻きに僕らの様子を眺めていた柏木さん(の人格が入っている僕)と目が合った。彼女は複雑そうな顔をしていた。


「さっき、竹内くんに告白された」

 学校外れの公園。放課後の密会にて、僕は柏木さんに開口一番にそう告げた。

 僕の報告を受けた彼女は、特に驚いた風でもなく、嬉しそうでもなく、無表情で虚空を見つめていた。その後彼女は、はぁっと大仰な嘆息を吐く。

「……あいつ、なーんで私じゃない時に告白なんてしちゃうかな。ホント、間が悪いっていうか」

「それは、竹内くんは僕らの入れ替わりのことなんて知らないんだから、しょうがないんじゃない?」

「そりゃ、そうなんだけど」

 僕の顔を持つ柏木さんが、擦れたように目を細め、ぽりぽりと頬をかく。

「竹内くん、一年のときからずっと好きだったから付き合って欲しいって。他の女子に告白されたりもしたけど、柏木さんが好きだから全部断ったって言ってたよ」

 告白の前、月代と付き合ってるのかと問われたくだりがあったが、そこは省いた。もしかしたらその噂による焦りが、竹内くんを告白に駆り立てたのかもしれない。

「ふーん、そ、そう」

 台詞とは裏腹、柏木さんの口元は少し緩んでいた。なんだ、やっぱり嬉しいんじゃないか。

「返事は保留にしたよ。柏木さん、どうする?」

「へっ?」

 柏木さんの顔が僕に向き直り、彼女はきょとんと目を丸くした。僕も彼女に釣られ、「えっ?」と疑問符を返す。

「付き合うのか付き合わないのか、どっちにするのかって話。……あっ、でも明日は柏木さんが自分の身体に戻る日だから、直接言ってもらえればいいか」

「いや、っていうか」さも当然と言う風に、「付き合うわけないじゃん。断るよ」

 あまりにもあっさり、柏木さんがそんなことを言うもので、僕はすぐ「どうして?」と訊き返した。

「月代くんとの入れ替わりが治ってない状態で、彼氏なんて作れるわけないでしょ。月代くん、竹内とキスできるの?」

「う、それは」、うっかり想像して、僕はすぐに頭を振る。「ごめん、無理だ」

「でしょ?」

 柏木さんが正面に向き直り、頬杖をつく。

 彼女の様そうがどこか、憂いを帯びていた。僕は、元の僕が持たない表情をはじめて目の当たりにして、戸惑っていた。

 思わず、思ったことをそのまま口に出す。

「柏木さんは、どうなの?」

 何が? という顔で、柏木さんが僕を再び見る。僕は、言葉の一つ一つを区切りながら、彼女の目をしっかり見て言った。

「柏木さんの気持ちはどうなのかなって。竹内くんのこと、好きじゃないの? 付き合いたいと、思わないの?」

 沈黙が間を縫う。

 柏木さんの瞳に、迷いの色が混ざった気がした。そのまま彼女は困ったように笑い、明後日の方向に向かって言う。

「どうだろうね」

 まるで、自分にも問いかけているよう。

「まぁ、入れ替わりのことがなかったら、オーケーしてたかも。竹内、いい奴だし」

「だったら」

 僕はぐいっと彼女に顔を近づける。鼻先十センチメートルの距離。唐突な接近からか、目を丸くした柏木さんの顔が僕の眼前いっぱいに広がる。

「入れ替わりのことなんて気にしなくていいから、柏木さんは、自分の気持ちに正直になるべきだ」

 気づいたら、呼吸するのを忘れていた。僕は近づけた顔を少し離し、なるべく柔らかい表情を作って、つづける。

「僕も協力するから。キスは……できないけど」

 急な弱気がおかしかったのか、柏木さんが頬を緩め、クスッとこぼす。脱力したように後ろ手を突いた彼女が、空を見ながら言った。

「ちなみに、月代くんは、いいの?」

「えっ?」

 シンプルに、その質問の意味がわからなかった。

 目の端で僕を捉えた柏木さんが、いたずらっぽい表情を作る。目を逸らし、「ううん、なんでもない」とかぶりを振った。

 ベンチから立ち上がった彼女が、ぐっと全身を伸ばす。羽でも生やすかのように軽やかに、陽光を身体いっぱいに浴びるように。

 くるっと振り返った彼女が、僕に向かって言う。

「わかったよ。私、自分の気持ちに正直になる」

 躊躇を感じさせない、透明感のある顔をしていた。僕の顔を持つ柏木さんに、彼女本人の表情が重なる。

 彼女の様そうを見ながら僕は力強くうなづき、でもどうしてだろう、彼女の立つ場所が、少し遠くに感じた。


 ※


 翌日、昼休みの教室で、柏木さんが竹内くんに声掛けしていた。落ち着きない様子の竹内くんが立ち上がり、二人は教室を出て行く。同じくその様子を目撃していたらしい三枝さんら女子グループが、色めき立った様子で忍び声を漏らしていた。

 僕は頬杖を突いたまま、窓の向こうへと目をやった。呆れるくらいの快晴が、僕が存在する世界と同じ空だとは到底思えない。

 なんだかもやもやした。


 放課後になる。僕は密会場所である公園にまっすぐ向かわず、わざと迂回して自動販売機に寄った。喉が渇いてもないのにペットボトルの水を買う。開閉口に手を伸ばすことをせず、連続する小銭の音を、ボーッと聞き流していた。


 いつもより十分ほど遅れて公園に着くと、やはりというか柏木さんはすでに到着していた。ベンチに座り、退屈そうに手遊びをしていた彼女が僕に気づき、顔をしかめながら言う。

「遅いんですけど、っていうか月代くんの方が先に学校出たのに、なんで遅れて来るわけ?」

「……ごめん」

 下手な言い訳すら思いつかず、僕はそうこぼし、そのまま彼女の隣に座った。素直に謝られるとは思ってなかったのか、彼女の方がばつの悪そうに、「いや、まぁいいけど」と声を萎ませる。


 妙な気まずさが僕たちの間に流れた。耐え切れなくなったのは僕で、柏木さんの方を見ぬまま、乾いた唇を剥がして言う。

「よかったの?」

 一呼吸遅れて、彼女が返す。

「何が?」

「いや、その」

 逡巡しながらも、僕は声をうわづらせて、さらに訊く。

「竹内くんと、一緒に帰らなくてよかったの? その、付き合った初日なわけだし」

 自分の意志とは裏腹に、心臓がどくどくと鳴っていた。僕の胸中など知る由もない柏木さんが、「いや私、断ったよ?」、さも当然という風に答えた。

 思わずがばりと、僕は彼女の方を向く。

「えっ? どうして?」

「うーん」

 八の字眉を作った彼女は、でも困っているようには見えない。

「なんていうかね」

 ぽつぽつりとこぼす。

「なんていうか、入れ替わりのことを隠したまま付き合うの、やっぱ違うと思ったんだよ。竹内はいい奴だけど、私がアイツを好きなのかも、よくわからないし。中途半端な感じになるの、イヤでさ」

 振りだした雨のようにこぼれたその声々は、彼女が嘘を吐いているようには聞こえない。

 だからこそ僕はわからなかった。柏木さんを追及した。

「昨日は、入れ替わりがなかったら付き合ってたかもって、そう言ってたじゃない」

「そうだね」

 さいさい、困ったような顔。

「でも、実際入れ替わりはあったわけだし。だったらまぁ、入れ替わりが発生している、今の私が考えていることが、そのまま本心になるんじゃないかなって、そう思ったんだよ」

 水平線に向かってまっすぐ飛ばすように、彼女は言葉を放っていた。その音が、僕の心の外側を、うっすらとなだめすかしていく。

 プラスとマイナス。二つの感情が僕の五体をさらい、僕は着地点を見失っていた。


「そっか」と、辛うじてそうこぼす。僕は地面に目を向けた。

「その理屈でいうと、入れ替わりが治るまで僕たち、恋人を作ることができないね」

 なるべく冗談っぽく言った。でも柏木さんは、当たり前のトーンでこんなことを言う。

「もうさ、私たちが付き合っちゃおうか」

 今度こそ、僕は何も言うことができなかった。

 ただじっと彼女の目を見て、柏木さんも僕の目を見つめている。まるで、目を逸らした瞬間、彼女の姿が忽然と消えてしまうんじゃないかって、そんな気配さえあった。

「――って言ったら、どうする?」

 柏木さんがふにゃりと、だらしない顔になった。

 止まっていた時が動き出し、全身の毛穴から毒気が抜け落ちる。すっかり脱力した僕が、投げやりに言う。

「びっくりする」

 柏木さんが呆れた声で、

「そういう答えが欲しいわけじゃないんだよなぁ」

 アハハッと、少し大げさに声を上げて笑っていた。


 どちらからというわけでもなく、無言のまま僕らは立ち上がり、公園を後にした。初冬のから風が、衣類の隙間を縫って体を冷やしていく。柏木さんは腕をさすっていた。

「寒いね、帰る前にたい焼きでも食べてこうか」

 あまりにも自然と柏木さんがそんな提案したので、僕も思わず「いいね、そうしよう」と軽口を返していた。まるで、日々を共にする恋人同士のような会話だなと思った。


 帰り際、口元のあんこをぺろりと舐めながら、柏木さんが言う。

「次は、ちゃんと月代くんから言ってね」

 僕の返答を待たずに、彼女はくるりと僕に背を向けた。えっ、と僕が漏らした時には、彼女はすでに自転車のサドルに跨っていた。逃げるように走り去る。

「……次って、たい焼きのことじゃあないよな」

 柏木さんはやっぱりずるい。


 ※


 その日は雨が降っていた。ただでさえ憂鬱なる月曜の朝に、道行く生徒たちの足取りが、いつにも増して重そうだった。そういえば自転車通学である柏木さんは、雨のときはどうしているのだろうか。そんな疑問を覚えたが、まぁ今日訊いてみればいいかと端に置く。

 教室に着くと同時にチャイムが鳴り、僕は慌てて自席に向かう。なんとはなしに柏木さんの席に目を向けると、彼女はまだ着ていないようだった。遅刻なんて珍しいな――ぼうっと頬杖をついてホームルームの開始を待っていたが、担任の先生は中々やってこない。教室も少しざわつきはじめていた。

 十分ほど遅れてやってきたのは、担任ではなく学年主任の先生だった。いつにない神妙な顔つきに、僕は嫌な予感を覚える。

「みなさん、落ち着いて聞いてください」

 開口一番そう言い、先生はつづけた。

「先ほど連絡があって、柏木真琴さんが交通事故に遭い、病院に緊急搬送されました。皆さん、とても心配だと思いますが、今日の授業については――」

 後半の言葉が、まるで頭に入ってこなかった。


 視界不良による出会いがしらの事故。柏木さんは即死だったらしい。通夜は翌日の夜に行われるとか。

 家に帰り、ベッドの上に寝転がった僕はただ天井を見つめていた。ぼんやりと思い出す。三枝さんは教室で、声をあげて泣いていた。竹内くんは、嗚咽をかみ殺し身を震わせていた。

 僕は泣かなかった。泣けなかった、というのが適切かもしれない。

 いつもの通り、頬杖をついて窓の外に目をやりながらその日を過ごした。クラスのみんなは僕と柏木さんの関係を知らない。一日置きに人格が入れ替わっていたことも、毎日学校外れの公園で密会を行っていたことも、二人でたい焼きを食べたことも、みんな知らないのだ。

 僕の中にいた、僕だけが知っている柏木さんは、死んでしまった。


 ※


 気づいたら眠りに落ちていたようだ。目が覚めると、身体が鉛のように重かった。かけ布団をはぎ、ベッドの端にとりあえず腰をかける。学校へ行く気にはとてもなれなかった。

 ふと、椅子にかかっていた黒色のネクタイが目に入る。通夜のために母親が用意してくれたのだろうか。几帳面な母親にしては雑な置き方だなと、少し違和感があった。そういえば、昨日は制服のまま横になったはずなのに、今の自分は部屋着姿だ。無意識の内に着替えたのかな――


 漫然とした頭でリビングに向かうと、味噌の匂いが鼻孔をくずぐる。キッチンで母親が朝食の支度をしていた。

「おはよう。母さん。今日は学校休みたいんだけど」

 そう言うと、手を止めた母親が振り向き、特に理由も訊かず、そう、とそれだけ言った。

「クラスメートが亡くなった直後だもの。ショックよね。無理しない方がいいわ」

「うん。通夜には出ようと思うから。あ、ネクタイって母さんが用意してくれたんだよね?」

 僕が当たり前の顔でそう訊くと、瞬時に、母親の顔が強張った。

「……何言ってるの。柏木さんのお通夜なら、昨日済んだじゃない」

 その台詞は、とても聞き過ごすことができない。

「いや、そんなわけ……あれ?」

 混乱した頭で、僕は部屋にかかってあるカレンダーに目をやる。そのまま母親に向かって、恐る恐る訊いた。

「今日って、火曜日だよね。火曜日の、十二月十日」

 母親がいよいよ、心の底から心配そうな顔をして、僕に近づいてきた。

「アンタ、本当にどうしちゃったの? 昨日も似たような訊いてきて」

「……昨日?」

 困惑した僕をしっかりと見据えながら、母親が淡々と言う。

「今日は水曜日よ。水曜日の、十二月十一日」

 それまで感じていたいくつかの違和感が、僕の頭でぐるぐると駆け回った。一つの可能性に向かって、一直線上に伸びていく。

 まさか――


 「ごめん、やっぱり調子が悪いみたいだからもう少し寝るよ」

 そう言うや否や、僕は踵を返した。自室に戻ると、机の上に張ってある付箋を発見する。こんなところに付箋を貼った記憶など、僕は持っていない。

 手に取り、見慣れない筆跡で書かれた一文を読んだ。


『月代くんおはよう。柏木です。私、どうやら死んじゃったみたいだね』


 一つの可能性が、確信に変わった。

 柏木さんは生きている。

 正確に言うと、意識だけが、僕の身体の中に取り残されている。

 入れ替わりは終わっていない。昨日、僕の身体で過ごしていたのは、僕の代わりに自分の通夜に参列していたのは、彼女だ。


 どんな気持ちだったろう、自分の遺影に対して焼香をあげた時。自分の死を憂い、すすり泣く友人や家族を、彼女は、どんな思いで眺めていたんだろう。

 自然と涙が溢れ、こぼれ落ちた。僕はしゃくりを上げ、止めることができなくなった。さっきまで、泣こうと思ってもできなかったのに、感情が死んでしまったみたいに、何も考えられなかったのに、今はただ、ひたすら泣きつづけた。泣くなんていつ以来だろうと、そんなどうでもいいことが頭によぎって、とにかく泣いた。

 泣き疲れた僕は、壁の隅に背を預け、両足を地面に放っていた。どれくらい時間が経ったのかもわからない。体が冷えてきたので、のそりと腰をあげた。机の前の椅子に座り直そうと移動したとき、床に落ちていた柏木さんの付箋が目につく。腰を屈めて拾い、手にしたそれを眺めながら、ふと違和感を覚えた。

 さっきは気づかなかったが、付箋には、裏側にも文章がつづられていた。僕は、彼女が残したもう一つのメッセージを目で追う。


『私、生きてていいのかな』


 全身がカッと熱くなり、血流が僕の身体を駆け巡った。

 どんな言葉でも形容できないでろう、あまりにも重く大きい彼女の葛藤を、僕には想像することしかできない。それが無性にはがゆく、悔しかった。

 もし彼女が目の前にいたら、ぎゅっと強く抱きしめたい。なんでもいいから言葉をかけたい。そんな衝動に駆られ、でもそれが敵わないことも僕は知っていた。

 何故ならもう、二人の意識が同時に存在することは、起きえないのだから。


 椅子に座り直した僕は新たな付箋とペンを手に取り、自分の身体に、心に刻みつけるよう、力任せに書きなぐった。僕の意志を、彼女にもっとも伝えたい言葉を、刻印する。


『僕の身体でよければ、二人でずっと一緒に生きていこう』



 ※※※



 就職先の近くで探したその物件は、2LDKの間取りで、独身の男が一人で住むには充分過ぎる広さがあった。最寄り駅から離れているものの家賃は張り、初任給の手取りで暮らしていくのは正直なところギリギリだ。だけど、柏木さんと僕、各々の部屋を持ちたいという希望を叶えるためにはいたしかたない出費だった。

 彼女と二人暮らし、とはいえ五体は一つ。給料が倍になるわけでもないので、中々に難儀な身体だ。

「まぁ、なんとかするしかないか」

 そう呟くだけど幾分か気が楽になるから不思議だ。黙々とダンボールを開けては荷物を部屋の中に置き、荷ほどきを終えたころには窓の外が暗くなっていた。カーテンをとりつける気力はとても沸かず、明日の柏木さんに任せようと僕はあくびを漏らす。

 布団に潜りこむ前に、さきほど購入した二色の付箋のうち、片方の一枚はがし、文字をつづる。青色は僕用で、ピンクが柏木さん用だ。


『柏木さんおはよう。新しい家での目覚めはいかがかな? 寝る前には忘れずに、ちゃんと目覚ましをかけてね』


 どこに張ろうかなと迷ったあげく、真っ白な壁の隅にペタリとやる。もしこの壁が、二色の付箋でいっぱいになる日が訪れたとしたら、それは僕と柏木さんが、僕たちの決めた生き方で、二人の人生を歩んできたという証明になるのだ。次に目覚めた時、彼女はどんなメッセージをくれるのかな。僕は少しワクワクしながら床に就いた。

 二日後の目覚めを待って。

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