ダリヤの虚言
魚崎 依知子
ダリヤの虚言
珊瑚色の着物に空いた虫食い穴に共布を当て、共布の繊維を慎重に着物の生地へと差し込み馴染ませていく。素材や生地の状態により難しさはあるが、縫い目や段差もつけず補修する技術が「かけつぎ」だ。貴重な技術ではあるものの、職人は昔に比べると随分減った。市内では、もうここしかない。
「
背後から聞こえた叔母の声に、あ、と気づいて手を止める。ルーペを外して確かめた時計は、六時八分だった。今日は、ここまでか。
「どれくらいできた? あとしとくわよ」
「半分くらいかな。正月に間に合えばいいらしいから、急がなくても大丈夫だよ」
少し隣へずれ、膝で歩いてきた叔母を迎える。出来具合を確かめる師匠の視線には、まだ緊張してしまう。
叔母のかけつぎに魅せられて始めたのは、小学生の頃だ。高校入学と同時にバイトとして勤め、高卒で就職したあとは住み込みで働いている。あれから七年、今は一人の職人として仕事を任されているが、まだまだ未熟だ。
「うん、よくできてる」
「良かったー」
安堵の息を吐いて背中を丸めた私に、叔母は苦笑した。
「ほら、あとは任せて準備しなさい。あの奥さんはせっかちだから、早い方がいいの。どうせ月曜には『できました?』って来るから」
「そっか。じゃあ、お願いします」
叔母にあとを託して指ぬきを外し、腰を上げる。改めて確かめた時計は、六時十五分になろうとしていた。
――七時に予約してあるから、入っといてくれ。
堅苦しい店は苦手だと言ったら、回らない寿司になった。クリスマスに寿司は少しちぐはぐかもしれないが、窮屈な食事は実家だけで十分だ。ようやく離れられたのに、思い出すような場所には行きたくない。
店舗と仕事場のくっついた一階から二階へ移動し、タンスを開けて早速準備を始める。古びた家は決して広くはないが、叔母と慎ましく二人暮らしをするには十分だ。二人での暮らしは穏やかで、平和で満ち足りていた。ただ、それももうすぐ終わる、かもしれない。
――俺と、付き合ってくれないか。なんなら、すっ飛ばして結婚でもいい。
真志は昨春、ここに泥棒が入った事件を捜査した刑事の一人だ。盗まれた金額が少なかったに関わらず、熱心に捜査して犯人を捕まえてくれた。私達の不安を疎まず、最後まで寄り添ってくれた人だった。
私はその熱心さに絆されて、真志の背にべったりと張りついていた「障り」を消した。
なぜかは知らないが、私は幼い頃から人に憑いた黒いモヤ、障りが見える。霊とは違う、おそらく心身に不調を来す理由となっている「念」のようなものだ。
それを消せると知ったのは小学生の頃、障りに呑まれ死に瀕していた幼馴染みを助けた時だった。以来、私の力について知っているのはその幼馴染みだけだったが、昨年からは真志が加わった。真志は仕事柄か障りを背負いやすいらしく、捜査の時は毎回調子が悪そうだった。気味悪がられるかもと怯えつつ声を掛け、背に触れて障りを消したのは、誠実な対応をしてくれたことへの感謝だったのだが。
一息ついて、今日のために買った新しいワンピースを手に取る。淡いグレーのニットワンピースは、ハイゲージの滑らかな手触りが心地よい。私にしては高い買い物だったが、クリスマスだし、奮発してしまった。激務な真志とは月に一度会えるかどうかで、今日も一月半ぶりに会う。不安要素は多いものの、きれいな自分を見てほしいと思うくらいには惹かれているのだろう。二日前には、美容室にも行った。
鏡に映る物憂げな表情に苦笑して、服を脱ぐ。寒さに粟立つ肌を撫で、ワンピースに袖を通した。
『悪い 十分くらい遅れる 先に食べててくれ』
寿司屋の前で待つ私の元に真志からのメッセージが届いたのは、六時五十八分だった。遅刻はいつものことだが、事件は都合に合わせて起きてくれるわけではないから仕方ない。特に今日は金曜の夜で、クリスマスだ。こんな田舎の繁華街まで人で溢れ、賑わっている。さっきは、遠くでパトカーのサイレンがした。きっと、時間どおりに会える可能性の方が低かったのだ。
ここは真志の行きつけらしく、迎えた女将に事情を話すと「まあ、しょうがないわねえ」と苦笑しながら奥の個室へと通してくれた。いつものことなのかもしれない。
細長い店はカウンター十席と奥にあるこの個室で構成されているようだが、私が来た時には既に満席だった。それから何度か、襖越しに来客を断る声が聞こえる。人気の店なのだろう。何度となく確かめた携帯の画面が、この居心地の悪さを助長する。
19:45。私は、四十五分も烏龍茶一瓶で個室を占領していた。
最後の烏龍茶をコップへ移し、乾いてもいない喉を潤す。襖の向こうに賑々しい声を聞きながら、飲み干したコップをテーブルへ置いた。
真志の仕事は、人を救い社会を守るためにある。真志が誇りを持って働いているのは分かっているし、何より私もそれに救われた一人だ。今もどこかで、誰かが真志に救われているのだろう。助けを求める人が、恋人より優先されるのは当たり前のことだ。でも。
やっぱり、合わないのだろう。私には、無理だ。
何度となく感じてきた不安に答えを出して、電源を切った携帯をバッグに突っ込みコートを羽織る。
私は、お世辞にも強い人間とは言えない。幼い頃から怖がりで引っ込み思案で、両親は活発な妹ばかりに目を掛けた。強くなりたいと願ってもどうすればいいのか分からないし、多少人並みに生きられるようになった今も、胸の底に染みついた寂しさを持て余している。
真志にこれを消してほしいと期待しているわけではないが、増えてもいいとも思っていない。これ以上、寂しくなりたくない。
「すみません、帰ります」
「ええ、帰るの? もうすぐ来られると思いますけど」
個室から出て声を掛けると、忙しなく動いていた女将が驚いた表情で返す。
「いいんです。お客様がたくさんお見えになるのに、長居するのは申し訳ないですから。それで、烏龍茶のお代を」
「いいですよ、そんなの。あとで折辺さんにもらいますよ」
一度断れば、女将はそれ以上引き留めようとしなかった。
「ありがとうございます。ごちそうさまでした」
安堵して頭を下げ、探るような客の視線を浴びつつ寿司屋を出る。途端に吹きつける寒風にコートの前を深く重ねて腕を組み、溜め息をついた。
この繁華街から店までは、徒歩で十分も掛からない。行きがけより酔客の増えた街は少し柄が悪くなっているが、まあ、大丈夫だろう。冷えた鼻を軽く啜り、一番安全で明るい大通りを目指した。
早く帰って、熱いお風呂に入って寝てしまおう。真志には明日、連絡をすればいい。私には刑事と付き合える忍耐力がないと言えば、納得するのではないだろうか。
じくじくと痛む胸に溜め息をつきつつ、ネオンに照らされた恋人達とすれ違う。ふと視線をやった道路脇に煌々と光を放つ花束の自販機を見つけて、足を止めた。
そういえば、あったな。
たぶん、繁華街で働く女性達へ渡すための花束を供給しているのだろう。存在は以前から知っていたが、これまでちゃんと確かめたことはなかった。
その灯りに引き寄せられるように近づいて、六つあるボックスの中身を確かめる。既に一つ空いていたから、今頃誰かが受け取っているのかもしれない。
残っている花束はファンシーで「いかにも」なものではなく、シックで少し尖った、センスのいいものだった。変わった花材も多くて、どれも素敵で心惹かれる。今は特に、慰めが欲しいからかもしれない。眺めているだけで、ささくれ立っていた気持ちが落ち着いていくのが分かった。
一つ、買って帰ろう。自分への花束に三千円は少し高いが、これは必要な散財だ。
「花束、買ってあげよっか?」
背後から聞こえた声に驚いて、開いたばかりのバッグを慌てて閉める。振り向くと、サラリーマンらしき二人組が、にやついた笑みを浮かべてこちらを窺っていた。二人とも三十代くらいだが、自販機の灯りが明らかな酔いを晒している。関わりたくない人達だった。
「わ、おねえさんきれいだねえ。一人なら一緒に飲みに行こうよ」
「いえ、結構です。帰るところですので」
できるだけ冷ややかに断りを入れて離れようとした肩を、男の手が掴む。酔って力加減を忘れているのか、痛みが走った。
最悪だ。クリスマスに、どうしてこんな目に遭うのだろう。
「ならいいじゃん、行こうよぉ」
粘りつく声で近づく体を突き放そうと振り向いた瞬間、男が勢いよく蹴り飛ばされる。男は鈍い声を上げて、もう一人とともに倒れ込んだ。
「
背後から現れた真志は男達の傍でしゃがみ込むと、ためらうことなく男の胸倉を掴んで引き寄せる。ひい、と男が掠れた悲鳴を上げた。
スーツにトレンチコートの出で立ちは、そっちのサラリーマン達と全く同じだ。むしろ七三分けで銀縁眼鏡の分、彼らより真面目に見えてもいいだろう。でもその詰め方といい雰囲気といい目つきといい、醸し出すものが普通ではない。捜査のために初めてうちの店に訪れた時には、ヤクザがみかじめを求めに来たのかと震えた。
「大丈夫だから、放してあげて」
溜め息交じりに頼むと、真志はようやく振り向いて私を見上げる。眼鏡越しの視線は、相変わらず冴え冴えとしてよく刺さった。
「暴行罪で社会的に抹殺できるぞ」
真志の言葉に、すっかり酔いの醒めたらしい男性が私に縋る視線を向ける。不快だったのは確かだが、制裁ならさっきの蹴りで十分ではないだろうか。顔を引き攣らせた男性達は、今にも泣き出しそうに見えた。
「しなくていいよ。ちょっと怖かっただけだから」
緩く頭を横に振って拒否すると、真志は胸倉から手を離す。男性達は詫びながら素早く体を起こし、命からがらといった様子でネオンの中へと駆け出して行った。これで、少しくらい懲りればいいが。
「ああいう奴らは変わらねえ。十分後には、どこかの店で面白おかしく語ってるだろうよ」
隣へ戻ってきた真志が、コートの前を軽く払いながら言う。何も言っていないのに、思考を読まれたようだった。黙って見上げると、真志も黙って応える。品良く整った造作だから余計、少し吊ったその目がきつく冷ややかに見える。
「嫁じゃないでしょ」
「どうせなるんだから一緒だろ」
どさくさに紛れた言葉選びを指摘すると、真志は悪びれもせず答える。そうなればいいと思ったことが一度もないわけではないが、今は違う。
「やっぱり、私には」
「花がいるのか」
私の言葉を遮って自販機へ向かった真志は、コートのポケットから財布を取り出す。
「どれがいいんだ」
「……四番」
少し戸惑って、一番安い花束の番号を伝える。本当は赤紫色のダリヤが印象的な二番を買うつもりだったが、別れ話の前に余分な金を使わせたくなかった。
真志は私を一瞥したあと、自販機に金を吸わせる。迷わず二番を押した指に、驚いて真志を見つめた。
「お前の趣味はこっちだろ」
真志は二番のボックスから花束を取り出し、ぶっきらぼうに私へ差し出す。確かに、こういうのが得意そうなタイプではない。
「ありがとう。よく、分かったね」
苦笑で受け取り、そっと胸に抱く。深くこっくりとした色のダリヤは、陰の多い我が家に似合いそうだった。
「見てれば分かる。好きなもんも、機嫌も、何を考えてるかも」
「じゃあ、今考えてることも分かる?」
苦笑で尋ねると、真志は視線を外して歩き出す。大通りとは違う向きだったが、ひとまず従った。
ネオンの端を越えて歩くことしばらく、古びた街灯が落とす光に雪が交じり始める。ホワイトクリスマスか。情景だけはロマンチックだ。
真志は不意に足を止めて、閉まってんな、と呟くように言う。目当ての店がやっていなかったのだろう。肩で息をして、シャッターの下りた店の軒先に私を連れて入った。
「結婚すれば、もっと一緒にいられるようになる」
ぼそりと聞こえたのは、私の質問への答えだろう。でも結婚したって、真志は働き方を変えないはずだ。子供が生まれても、定時で帰って来る姿は想像できない。そうなれば、私は余計孤独になるのではないだろうか。私には、きっと耐えられない。
「あなたには、私よりもっと合う人がいるよ」
「いねえよ」
真志は鼻で笑い、本格的に降り始めた牡丹雪の点描を仰ぐように眺める。
「俺はお前がいいんだ。お前しかいねえんだよ。お前にはいくらでもいるだろうけどな」
「いるわけないでしょ。付き合ったのだって、これが初めてなのに」
少し眉を顰めて返すと、そうだったな、と薄く笑った。
「俺が最初で最後でいいじゃねえか。ギャンブルも借金も煙草もねえ、よく働く旦那だぞ」
「『よく働いて、私を一人にする旦那』ね」
言い直すと、真志は黙った。雪は既に、薄く積もり始めている。この降りなら、明日の朝には雪景色になっているかもしれない。
「俺がいやか」
ぽそりと落ちた当たりの弱い問いに、頭を横に振る。理由は真志ではないし、刑事であることを嫌っているわけでもない。むしろ助けを求める人に寄り添う姿を尊敬している。だから今日だって、遅刻したことすら責められないのだ。
「あなた自身のことは、いやじゃないよ。でも」
「なら、いやになるまででいい」
真志は大人しい声で遮ったあと、コートのポケットに手を突っ込む。
「傍にいてくれ」
差し出された小さなケースは、祖母や母の箪笥に詰まっていたものとよく似ていた。驚いて見上げる私の前で、真志は布張りの蓋をぎこちなく開ける。こんな薄暗い中でも光を集めて輝く石を、じっと見つめた。
花もそうだが、たぶんこういう買い物も苦手な方だろう。忙しい中、時間を縫って足を運び、選んでくれたのか。ふと胸に熱いものが滲んで、視界が緩む。
「着けてもいいか」
尋ねる声に、少し迷う。これを受け取ってしまったら、もう突き放せなくなるだろう。でも指輪を買うために時間を割いてくれるのなら、きっと私が傍にいてほしいときには、私を選んでくれるはずだ。
「……ありがとう」
小さく鼻を啜って頷くと、真志は箱から抜き取った指輪を私の薬指にはめる。第二関節に引っ掛かってひやりとしたが、初めての重みは無事に収まって、翳すと鋭く煌めいた。スクエアカットのダイヤの周りに、小さなダイヤがぐるりと埋められている。華やかだが、好きなデザインだった。
「すごく綺麗。自力で選んだの?」
「いや、店員に聞きまくった。店長まで出てきたわ」
私が受け取ってほっとしたのか、真志の口調が少し緩む。軒下でのプロポーズは想定外だろうが、畏まった席よりはこの方がいい。
「サイズ、よく分かったね」
「寝てる時に糸巻いて測った」
全く気づかなかったし、真志が私を起こさないよう慎重にそれをする姿を想像すると、普段と違いすぎていて少しおかしい。緩んだ口元へやった手に贅沢な光を確かめたあと、真志を見る。
私は、この人の妻になるのだ。
手を伸ばして触れた真志の頬が予想より熱くて、これまで知らなかったものに触れたような気がした。これから二人で生きていくうちに、あと何度、この感覚を味わうのだろう。
真志は私を引き寄せ、花束を潰さないように抱き締める。澪子、と呼ぶ声が少し苦しげに聞こえて、苦笑する。
「大丈夫だよ。どこにもいかないから」
宥めるように言うと、真志は肩越しに頷いた。
*
なんで今更、あんな夢を見たのか。
深々と溜め息をついたあと、まだ熱いコーヒーを慎重に口へ運ぶ。夢見の悪さにやる気が起きず、朝食はクロワッサンで済ますことにした。当然のように一人分、私の分だけだ。真志とは、しばらく会ってもいない。
――警部補より出世するつもりはねえから、昇進したら必ず埋め合わせする。
二年前、寂しさに耐えかねて離婚を切り出した私に、真志はそう言った。でも今春、変わったのは肩書きだけだった。真志には、変わるつもりなど毛頭ない。
また溜め息をついて、バターの香りが心地よいクロワッサンをかじる。
あれは、結婚する前だから十一年前のクリスマスだ。あの時意地でも突き放しておけば、こんな風に悩むこともなかったのに。
クロワッサンを手に、ダイニングテーブルへ広げた新聞を行儀悪くめくる。地方欄は最近、同じ話題で賑わっていた。数日前、市内で女性が熱湯の風呂で死亡した一件だ。給湯器の事故か或いは事件か、両方の可能性を踏まえて捜査しているらしい。
まあ私には、もう、どうでも。
クロワッサンを食べ終えた指先を皿の上で払いながら、コーヒーを飲み干す。新聞を荒く畳んで、腰を上げた。
あの日受け取った婚約指輪は、箪笥の奥底に眠ったままだ。その隣には、今年の結婚記念日に外したばかりの結婚指輪が並んでいる。もう二度と、つけることはないだろう。
――大丈夫だよ。どこにもいかないから。
思い出した自分の浅はかな言葉に苦笑しながら、皿を洗う。あの時は、本当にそう思っていたのだ。本当に。
カウンターに飾っていた赤紫のダリヤが、不意にはらりと花弁を落とす。
失った覚悟の行き場が分からなくて、視線を落とした。
(終)
ダリヤの虚言 魚崎 依知子 @uosakiichiko
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