第3話 心乃花さんは呼びたい。
杏心と初めて会ったのはマッチングアプリをはじめて三ヶ月が経った頃だった。
アプリの出会いに少しずつ慣れてきたけれど、恋人はできない。そんな時期だった。無理して恋人がほしいわけじゃない。ただ、前の彼女と別れて半年が過ぎていて、寂しさは募っていた。
杏心とのやりとりはよくあるものだった。好きなものを言い合って、休日の過ごし方を聞いて、仕事や生活リズムをお互いに推し量って、会える日にアポを取った。
日曜日のお昼。待ち合わせ場所は三宮のJRの西口の改札前だった。阪急電鉄の神戸三宮駅とも近かった。大阪に住んでいた僕は少し迷いながら西口へ行き、すでに到着していた杏心と合流した。
「今だから白状するけど。杏心と君の初デートの時、私も一緒にいたの」
「そうなんですか? 気づかなかったなぁ」
心乃花さんが申し訳なさそうに眉尻を下げる。「ごめんね。杏心とのデートだったのに。けど、私がついて行ったのは最初の一回だけだから」
なんの弁明だろうか。杏心が了承していたなら僕から言うことは何もない。
「もし、その一回で僕が心乃花さんに気づいていたら、何か変わっていたんですかね」
僕の素朴な疑問に心乃花さんは、地面の石を蹴って「そりゃあ、そうよ! 杏心には悪いけど、猛アタックしてたよ! だって、私が先に君のことを知っていたし、私の方が先に好きになったんだから」といじけたような口調で答える。
真っ直ぐ好きと言われて気持ちが浮き立つのが分かった。
そういえば、僕は杏心から「好き」と言われたことがなかった。それはもしかすると、心乃花さんに対する遠慮があったのかも知れない。
「けどね」と心乃花さんが続ける。「君と杏心ちゃんと一緒に実家に来て、私の挨拶に答えてくれた時は驚いたなぁ。もしかしたら、って思ってドキドキしちゃったもん。諦めたはずなのにね」
「どうして突然、見えるようになったんですかね」
「なんでだろうね。杏心の体質なのかな」
「それが一番、ありそうですね」
僅かな沈黙があってから「ねぇ、杏心ちゃんと君が付き合っているのは理解してるんだけど、今だけ手を繋いでくれない」
と言って、心乃花さんが手を差し出した。
この場を作ったのは杏心だ。彼女がどこまで想定して、僕らを買い物へ行かせたかは分からない。ただ、僕はこの手を拒めない。
心乃花さんの手は柔らかくて、そして、ひどく冷たかった。
「あったかい」と心乃花さんがはしゃぐように言った。
「ちなみに、心乃花さんって心臓あるんですか?」
「ないよ。だって、幽霊だよ?」
そりゃあ、そうだ。
「じゃあ、今こうして僕と手を繋いで歩いてもドキドキはしないんですね」
僕の言葉に心乃花さんの足は止まった。
「心乃花さん?」
真っ直ぐ目を見て心乃花さんは言う。
「ドキドキしてるよ! 心臓がなくても、幽霊でも好きな男の子と手を繋いで歩いたら、ドキドキするんだよ!」
夏も終わって夜は肌寒くなってきているはずなのに、身体の奥から熱いものが込み上げてくるのが分かった。
「そう、ですよ、ね。すみません。ちょっと失礼なことを言ってしまいました」と頭を下げて、小さく「なんか、……ちょっと照れます」と言った。
僕の言葉に心乃花さんが顔を真っ赤にする。
「やめてよ! 勢いで言っちゃった私の方が恥ずかしくなっちゃうでしょ!」
ホント、すみません。
と僕は内心で謝った。心乃花さんは僕から見ても気の毒なほど戸惑っていて、今まで恋人ができなかったというのは本当なんだろうなと思った。
五分か十分すると、心乃花さんから何でもない話題を振って来るようになった。それもひと段落したところで僕が先に口火を切った。
「ねぇ、心乃花さん。幽霊でいるってどんな感じですか?」
僕の質問に心乃花さんは「うーん」と小さく唸った。
「身体がないからかな? 昔のことをどんどん忘れていってるんだ。最近はもう学生時代の記憶はほとんどなくて、鮮明に思い出せるのは交通事故に遭って幽霊になってからばっかりになっちゃった」
それは、と言いかけて僕は言葉が続かなかった。
心乃花さんは変わらぬトーンで続ける。
「多分、私は今ゆっくり消滅していってるんだよね。成仏とかじゃなくて、世界と私の境目が薄くなっているって言えば良いのかな」
「だから今日、僕の小さい頃の記憶について尋ねたんですか?」
「そうそう。もう私は覚えていないから。せっかくなら君の小さい頃の情景を思い浮かべながら、消えていきたいなって思ってね」
「寂しいことを言わないでくださいよ」
「私は君と出会った時から死んでたからね。仕方ないよ」
「まだ、心乃花さんに勧められた韓国ドラマ見れてないのいっぱいあるんですよ」
「ちゃんと見てね、全部面白いから」
「杏心も寂しがりますよ」
「そうかもね。けど、これからは君がいるでしょ」
「僕も寂しいですよ」
「ありがと。ねぇ、最後に一つお願いしていい?」
「最後って言わないでくださいよ。一つと言わず、三つ聞きますよ」
「いいよ、一つで」
「なんですか?」
「君の名前呼んで良い?」
「もちろんです」
「遊里」
その響きは恋人に呼びかけるように甘く、愛おしさに満ちていた。「アプリで見た時から、いい名前だなって思ってたんだよ」
僕も心乃花さんの名を呼ぼうとして、手の感触がないことに気づく。
「心乃花さん?」
周囲を見渡す。誰もいない。ぽっかり世界に穴が空いたようだった。
視界の隅に外灯の光がぼやけて浮かんでいた。
心乃花さんのマッチングアプリ 郷倉四季 @satokura05
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