唇の海

紫鳥コウ

唇の海

 この離島の春は鮮烈な色彩を桜に与えている。島を攻囲する海は、朝陽に鍍金めっきをかけられており、それにより陰翳いんえいを失ったものの、茫洋ぼうようたる大海の持つ厳粛げんしゅくかおを見せて、夜を追い払ったばかりで疲労を隠せない蒼穹そうきゅうを沈黙させていた。島は天空から見下ろそうが地上からうかがおうが、特別な形相を見せるわけではなかった。この島が秘めている猥雑なものも聖なるものも、島民たちの心奥しんおうに内面化されている。この孤島のことを知りたければ、島民のひとりと密通するより他はあるまい。


   ――――――


 水平線を区切るように生えた木造の家の二階で、窓を開け放ち眠っていた楓子ふうこは、恵一けいいちにより揺り起こされて、自分の身なりを振り返り恥辱を覚えた。楓子はきちんと服を着てから恵一と向かい合った。春らしい長閑のどかな日差しが、ふたりの間に截然さいぜんと割って入ってきた。それはふたりの運命の象徴だった。恵一が島を出てしまえば、取り残される自分の恋心をどこへほうり捨てればいいというのか。楓子には分からない。保持しようとすれば、制禦せいぎょできないほどに暴走する、堅牢けんろうおりさえ打ち破る恋心を……。


「わたしにかまっとらんと、はよ行けま。一時いちじやろ。船が出るんわ」

「せやけど、もう会えへんやろうから……みんな、生きて帰れば恥やて言うとるで。死んでまえ言うとるやんか。それが、いまの俺らの当たり前なんや。やけんど、楓子と別れるんわ辛うて仕方ないんや」


 死ぬことが最上級の道徳であると、この孤島でも教えられている。この二年で殉死じゅんしした者は数えて十六人。消息が分からないのは十三人。生きてかえったものの、死んだも同然に扱われたのは二人。そのうち一人は、再度招集されて見事に道徳的な最期を遂げた。


「ほんま、あほ言うわ。生きとるんが一番やろ」

「そんなん言うてもなあ……生きとることは、俺たちにとって罪なんやから。そう教えられとるんやから」


 しばらくの沈黙の後、ふたりの身体は接近していった。斜めに走る正午の陽光は、抱きしめ合った男女の影を畳の上へ映し出した。


   ――――――


 楓子は恵一ではない、亡き父よりも年上の男に身体を許した。それは、恵一と決別してから一カ月ほど経った頃のことだった。その男の唇は陽の照りつける砂漠を想像させた。彼との肉体の繋がりは、楓子の心の空隙くうげきを埋めることはなかったが、一直線に進んでいく生の時間が多少の波線形を示すことにはなった。この微々たる満足だけが楓子の生き甲斐と言っても差し支えがなかった。彼女の部屋から恵一の残りは一掃され、その男の放散する獣臭が染みこんでいった。


 また彼の友人も、熱心に楓子の元へ通うようになった。楓子はそれを拒まなかった。拒むことがいかなる陰惨な帰結を生むかを考慮しているわけではない。こり固まった生をほぐす指圧のようなものがなければ、楓子は寂寞せきばくの地で窒息する宿命を突きつけられるのである。よって、楓子はこの孤島において、悲惨な運命のうずへと巻き込まれていった。


 不道徳の責苦を受け辱めに殉ずるとしても、恵一はここへ帰ってくるべきである。そうでなければ、彼女の苦難はますます昂進し、取り返しのつかない破滅を迎えるかもしれない。楓子は荒波が押し寄せる日にさえ、二階の窓を開け放ち、目をらして水平線の方を見つめることがある。こうしているときに思い起こされるのは、いまから十年前、まだ十八歳のときに前ぶれもなく見たある夢のことである。


   ――――――


 この孤島は神により護られていた。少なくとも、神により護られているという島民たちの認識の一致により護られていた。しかしそれが集団的な認識の所産だからといって、神がいないことの証明にはならない。実は、島民たちの認識の外側に神はいた。その神には名前がなかった。その神を信奉している者はいなかった。退ける者もいなかった。夢の中で、楓子はその神に山の中腹で接吻をされた。押しつけられる唇は、唇というよりも、凝固した潮の香りのように思えた。楓子は涙を流しながら、その接吻に救われる想いをした。


 海はいかようにして作られたかといえば、宗教的にも、科学的にも答えを得られることであろうが、楓子にとって海は、尊き精神の口づけの上に生じる、清浄な愛から削ぎ落とされた余剰物を液化したものであった。よって、海というのは、全くの観念の世界のものであって、仮令たとえそこで泳いだとしても、船を走らせたとしても、それは陸地で見る幻想があたかも現実のように感じられただけなのだと、あの夢のあと、楓子は固く信じるようになった。


 それからしばらく経ち、恵一をはじめ若い男子は観念の上を渡り、遥か向こうの大陸へと消えていった。それは、信仰していた神が偶像であることを突きつけられるに等しい経験を、楓子に与えたのはもちろんだった。恵一が去った後、海は瞬く間に、自分の唾液と変わらない世俗の液体として、楓子の眼に映った。それからというもの、この孤島に似たような島がどこかにあるに違いないと考えるようになった。そこには、自分と同じく悲劇のうちに人生を閉じようとする「寂しい女」がいるかもしれない。


 その想像は、楓子に慰めを与えることもあったが、大抵は彼女を支配する道徳や倫理の息苦しさを痛感させた。或いは、楓子はこのような夢を見た。それは、遠い大陸のどこかにいる女王に乗り移った夢だった。彼女は高台から双眼鏡をのぞいている。その人工の眼をもって、城下を眺望ちょうぼうしている。


 色のにぶい砂漠の中に、囂々ごうごうと流れる大河がある。それは明らかに意図的に決壊させられており、氾濫はんらんした濁流に逃げまとう王朝のたみの姿がある。どうやら、鬼の仮面をした男衆が、ハンマーのようなもので堤を決壊させたようだ。しかし民は手足に重しをめられているのか、走れば走るほど、骨を折り肉を裂くような痛苦を、満身に受けているようである。遠くまで逃げられぬことを重々悟りながらも、動物の本能として死を避けようと阿鼻叫喚あびきょうかんを繰り返している。


 視点を変えれば、骨の散らかった刑場が見える。磔刑たっけいに処せられた民がそのまま打ち捨てられ、時間とともに鳥や獣に肉が削がれていった結果らしい。いまも十字架に荒縄でくくられた親子が、子供を中にして川の字に立てかけられて火攻めを受けている。女王の臣下であろう鬼の仮面をかぶった男衆が、やりのようなもので、親子の手や足を突き刺して踊っているかと思うと、数名はこうべれた民を鎖で縛って、次の処刑者を火の中へ放り込もうと、今か今かと待っている。しかし、ありの行列のように並んだ民たちに、何か罪状があろうとは思われない。


 ただ、女王ひとりの意志……というよりも慾求により、こうした絵図が、燃えたぎる太陽のたもとで繰り広げられているのである。どれもこれも、女王ひとりの慾望により実現しているのだ。彼女は、ひとりきりである寂しさを、自分と自分以外の境界を明瞭はっきりさせることによって、誇りと誉れに変えているのだ……。


   ――――――


 当時彼らを支配した道徳は失墜し、復権したのは「個人」という抽象的な概念だった。恵一は内地で覚えた煙草の吸い殻を、蕭然しょうぜんとした海の上へ落とすと、真っ青な船室へと入っていった。最後に見た楓子の姿を想起しながら、独り寂しく夜を迎えた。星々の輝きは海上を粛々しゅくしゅくと黙らせて、茫洋たる大海は宇宙の前には水たまりに過ぎないという事実を突きつけている。その水たまりの上に浮かぶ船の一室で眠っている恵一という「個人」は、いかに卑小で取るに足りないものであろう。いまこの船が沈没してしまえば、なんの名誉も付与されることなく、その存在を圧殺されるのである。


   ――――――


 楓子の部屋は冬の濃霧のうむが漂っているかのように、獣臭が充満していた。神がその威光と慈悲をあまねく隅々にまでき散らしているようにも感じられた。鼻をつまんで眼をしばたたかせている恵一は、窓を開けようと暗がりに支配された部屋の中に勇み入った。しかし幾度となく畳の上に横たわるなにかにつまづいた。それは湿っている粘土のような感触がしたかと思うと、力を込めて踏めば、硬いものが足裏に感じられて、その奇妙な二重の触れ心地は気味が悪くて仕方がなかった。


 恵一はその気味の悪さと満腔まんこうに染み渡る恐怖から逃れるように、無我夢中で電灯の中心から下がったひもを探した。しかしもうすっかり無沙汰ぶさたになった楓子の部屋は、未踏みとうの地に等しいほどに地理が分からなくなってしまっていた。足下に横たわるなにかを何度も蹴飛ばしながらの汗を散らす格闘の末に、ようやく紐を探り当てた恵一は、矢も楯もたまらず思いっきりそれを引っ張った。二度の点滅のあと、人工の色濃い光が、部屋中にゆるやかに満ちていった。


 そのとき恵一の見た光景は、陰惨いんさんたるものだった。先ほどまで恵一が踏んだり蹴飛ばしたりしていたものは、気を失った裸のオトコたちだった。中には、なにも着ずに仰向あおむけになり、虫の息をしているオンナもいた。これらの人々は、あの日々の中で、上官の命令で一箇所いっかしょに集めた死体たちのように恵一の双眸そうぼうには映った。ある者は、酔っ払った牛車のわだちのような蚯蚓腫みみずばれを背中に刻み、またある者は、指がそろって反対の方向へとねじ曲がっていた。だがみな一様に、恍惚こうこつとした笑みをその顔にたたえていた。


「恵一……帰ってきたんだねえ」


 見渡す限りの悪夢のような光景と、その中にいることをたのしんでいる楓子の姿。彼女のその泰然たいぜんとした風采ふうさいに絶句してしまい、恵一はなんの言葉もげずにいた。その妖艶ようえんな口元と清冽せいれつな眼、整った鼻梁びりょうに、美麗な冬の滝のような黒髪。神聖なる娼婦しょうふとでも言い表せそうな楓子を、恵一はただ見つめ続けるだけだった。そして彼女をとらえている自分の眼が、逆に捕えられているかのような気分に襲われはじめた。思わず目線を亡骸なきがらのひとつへと落とした。そこには、溶けた蝋を身体中にべっとりとくっつけている、先に復員した同胞がいた。それはまるで、高尚な衣服をまとっているかのようだった。


「あんたは、わたしのしもべになるんだよ。あんたはもうすぐ、わたしの心身の一片に組みこまれるのさ」


 恵一は、一目散に逃げだした。曙光しょこうも見えぬ闇の中を、行き先など考えず、ただ遠いところへ行こうと懸命に走っていった。しかし、どこで立ち止まっても、楓子に隷属した何人もの隷たちの眼が、恵一が息を整えているところを、じっと見つめ続けている。果たして、いくつくらいの亡骸が散らかっているのだろうか。いま恵一の眼の前には、老いを重ねた父が、神の国を目前にしているかのように、渇望をみなぎらせた干涸ひからびた両手を挙げて、せみ死骸しがいのように倒れていた。もうすっかり、愉楽を味わい尽くして眠ってしまったらしい……。



 〈了〉

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