唇の海
紫鳥コウ
唇の海
この離島の春は鮮烈な色彩を桜に与えている。島を攻囲する海は、朝陽に
――――――
水平線を区切るように生えた木造の家の二階で、窓を開け放ち眠っていた
「わたしにかまっとらんと、はよ行けま。
「せやけど、もう会えへんやろうから……みんな、生きて帰れば恥やて言うとるで。死んでまえ言うとるやんか。それが、いまの俺らの当たり前なんや。やけんど、楓子と別れるんわ辛うて仕方ないんや」
死ぬことが最上級の道徳であると、この孤島でも教えられている。この二年で
「ほんま、あほ言うわ。生きとるんが一番やろ」
「そんなん言うてもなあ……生きとることは、俺たちにとって罪なんやから。そう教えられとるんやから」
しばらくの沈黙の後、ふたりの身体は接近していった。斜めに走る正午の陽光は、抱きしめ合った男女の影を畳の上へ映し出した。
――――――
楓子は恵一ではない、亡き父よりも年上の男に身体を許した。それは、恵一と決別してから一カ月ほど経った頃のことだった。その男の唇は陽の照りつける砂漠を想像させた。彼との肉体の繋がりは、楓子の心の
また彼の友人も、熱心に楓子の元へ通うようになった。楓子はそれを拒まなかった。拒むことがいかなる陰惨な帰結を生むかを考慮しているわけではない。こり固まった生を
不道徳の責苦を受け辱めに殉ずるとしても、恵一はここへ帰ってくるべきである。そうでなければ、彼女の苦難はますます昂進し、取り返しのつかない破滅を迎えるかもしれない。楓子は荒波が押し寄せる日にさえ、二階の窓を開け放ち、目を
――――――
この孤島は神により護られていた。少なくとも、神により護られているという島民たちの認識の一致により護られていた。しかしそれが集団的な認識の所産だからといって、神がいないことの証明にはならない。実は、島民たちの認識の外側に神はいた。その神には名前がなかった。その神を信奉している者はいなかった。退ける者もいなかった。夢の中で、楓子はその神に山の中腹で接吻をされた。押しつけられる唇は、唇というよりも、凝固した潮の香りのように思えた。楓子は涙を流しながら、その接吻に救われる想いをした。
海はいかようにして作られたかといえば、宗教的にも、科学的にも答えを得られることであろうが、楓子にとって海は、尊き精神の口づけの上に生じる、清浄な愛から削ぎ落とされた余剰物を液化したものであった。よって、海というのは、全くの観念の世界のものであって、
それからしばらく経ち、恵一をはじめ若い男子は観念の上を渡り、遥か向こうの大陸へと消えていった。それは、信仰していた神が偶像であることを突きつけられるに等しい経験を、楓子に与えたのはもちろんだった。恵一が去った後、海は瞬く間に、自分の唾液と変わらない世俗の液体として、楓子の眼に映った。それからというもの、この孤島に似たような島がどこかにあるに違いないと考えるようになった。そこには、自分と同じく悲劇の
その想像は、楓子に慰めを与えることもあったが、大抵は彼女を支配する道徳や倫理の息苦しさを痛感させた。或いは、楓子はこのような夢を見た。それは、遠い大陸のどこかにいる女王に乗り移った夢だった。彼女は高台から双眼鏡を
色の
視点を変えれば、骨の散らかった刑場が見える。
ただ、女王ひとりの意志……というよりも慾求により、こうした絵図が、燃えたぎる太陽の
――――――
当時彼らを支配した道徳は失墜し、復権したのは「個人」という抽象的な概念だった。恵一は内地で覚えた煙草の吸い殻を、
――――――
楓子の部屋は冬の
恵一はその気味の悪さと
そのとき恵一の見た光景は、
「恵一……帰ってきたんだねえ」
見渡す限りの悪夢のような光景と、その中にいることを
「あんたは、わたしの
恵一は、一目散に逃げだした。
〈了〉
唇の海 紫鳥コウ @Smilitary
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