スイッチ

増えるスイッチ

朝六時、部屋に染み込んだ夜を裂くように鳴り始めたアラームのボタンを、左手で押す。


続けてその隣にある白いプラスチック製のスイッチを、同じく左手で押す。


パチンッとスイッチが切り替わる音が響いて、私は布団の中で伸びをする。


冬の朝は寒い。でも学校に行かなくちゃいけない。


嫌々体を起こして、足元の壁についているスイッチを押す。


パチンッという乾いた音が、また部屋に響いた。




起きたらまずトイレに行くのがルーティンだ。


電気をつけるためのスイッチを押し、電気をつけるためのスイッチの隣にあるスイッチを押す。


トイレの蓋についているスイッチを押してから蓋を開け、用を出し、トイレットペーパーホルダーについているスイッチを押してトイレットペーパーを取り、水洗レバーを引いてその下にあるスイッチを押した後に手を洗う。


タオルで手を拭いて、タオルの中をよく確かめる。指先に硬い感触がして、ホッとする。ここにもスイッチが隠れているのだ。


見逃さなくてよかったと思いながら、そのスイッチも押す。



トイレを出たら次は顔を洗って歯を磨く。


洗面所の電気のスイッチの隣にもまたスイッチがあり、蛇口の隣にも、歯ブラシを入れている容器にも、口を濯ぐコップにも、ヘアアイロンのスイッチの下にもスイッチがあるので全て押していく。


もちろんタオルの中にも隠れているのでそれも押す。


次は着替え。自分の部屋に戻り、掛け時計の下についているスイッチを押して、時間を確かめる。


今日はいつもより少しペースが遅い。スイッチの数が多い気がする。これでは家を出るまでに全てのスイッチを押しきれないかもしれない。


スイッチは待ってくれない。見つけた時に押すのが鉄則なのだ。


急がないと、と思い廊下を早足で歩いていると、左側の壁に白い物影がよぎった。


思わず振り返ると、そこにはスイッチがあった。


私は一瞬どきりとしてまばたきする。


いけない、見逃すところだった。


昨日までこんなところにスイッチはなかった。もしかしたら今まで見逃していたのかもしれない。明日からはきちんと確認しなければ。


起きる時間も、もう少し早くしないと間に合わないかもしれない。


スイッチを押した後、なんとか着替えと食事を済ませて、無事に家を出ることができた。




玄関の鍵を閉めると、どっと疲れが押し寄せた。


毎朝こうだ。何もしていないのに、朝から疲れ切っている。


私の家はなぜかスイッチで溢れていて、私は見つけ次第それを押さなければならない。スイッチの位置は毎朝大体同じだけれど、時々廊下のスイッチのように増えたりするので気が抜けない。


特に今日はいつもよりスイッチの数が多かった気がする。あまり増えると起きる時間を早くしないといけないので、これ以上増えないで欲しいと思うのだが、スイッチは私の意向は聞いてくれない。私は出てきたスイッチを押し続けるしかないのだ。


冬の新鮮な外気に大きなため息を混ぜながら、私は通学路を歩く。


と、数メートル先の電柱に、何やら白い物体が張り付いているのが見える。


ゴクリ、と唾を飲む。


いや……まさか、ね。


今まで家の外にスイッチが現れたことはない。

だからきっと見間違いだ。


どうか見間違いであって欲しい。さすがに家の外にまでスイッチが溢れたら、対応しきれるかわからない。


歩行に力が入って、少しぎこちなくなる。


電柱が近づく。


息が浅くなっていく。


目が破裂してしまうんじゃないかと思うくらい、その白い物体を睨みつけて近づいていく。


と……


「スイッチだ……」


思わず呟いてしまった。


家の中で散々見てきたスイッチが、電柱にもついていた。プラスチック製の、少し光沢のある、白いスイッチ。そんな、まさか。どうしてこんなところに……?

今まで家の外にスイッチが現れたことなんてなかった。いや、家の外には現れないと高を括っていたから、本当はずっと前からここにあったのかもしれない。私の不注意で気付けなかっただけかもしれない。


濃くなっていく不安に戸惑う。変な汗が制服の下を這う。


これ……どうしよう…?


スイッチが現れた以上、押さなければいけないけれど、ここは人通りが多すぎる。

家の中とは状況が違う。周りには私と同じ制服の人や、通勤中の人もいる。


さすがにこんなにたくさんの人がいる中でスイッチを押すのは気が引ける。いくら押さなければならないとは言え、クラスの子や近所の人に見られたら、どう説明したらいいのかわからない。

私以外の人には、スイッチは見えないのだ。


どうしよう……。


押すか、無視するか。選ばなければならない。電柱の前で立ち止まりすぎるとそれもかえって目立つ。

息を小さく縮こめながら、周りをキョロキョロ見渡してみる。


誰も私のことなど気に留めていないようだけれど……でも、でも………。


少しだけうつむいて、再び電柱に目を向けると、スイッチは六つに増えていた。


血の気が引いた。


私は急いで電柱のスイッチを全て押し、すぐにその場を後にした。


早歩きで学校に向かう。


息が上がっている。

冷や汗が噴く。


どうしよう、どうしよう……。


咄嗟に押してしまった。


誰かに見られていないだろうか…?クラスで噂にならないだろうか…?近所の人に見られていたら、何て説明しよう?……電柱にゴミがついていたとか?電柱を触ってみたかった…?いや、そんなことはどうでもよくて、もっと深刻な問題がある。


スイッチは一度押したら、次の日からその場所に毎日現れるようになるのだ。


今までの全てのスイッチが、例外なくそうやって増殖している。


心臓がバクバクしている。

呼吸が荒立つ。


どうしよう、どうしよう……押してしまった……押さなければよかった。どうしよう……多分、明日からあの場所にはスイッチが出てくるようになる。一度押したスイッチは必ず押さないといけない。しかも六つ……あんな人通りの中で、毎日あのスイッチを押さないといけないの……?


考えただけで憂鬱だ。


それに、家の外にもスイッチがあるという事実が余計に憂鬱だ。


電柱にあるとしたら、ブロック塀や植栽や学校の中にもあるかもしれない。スイッチは気付いたら例外なく押さなければならない………どうしよう。そんなの対応しきれない………。


家の中でスイッチを探すことばかり考えて疲れ切っていたのに、家の外でもそんな風になるなんて、耐えられないかもしれない……。


私はさっきよりもっと大きなため息をついて、なるべくうつむいて歩いた。


これ以上、スイッチを見つけたくなかった。



 ◇◇◇



午後六時。


玄関のチャイムの横にあるスイッチを押して、鍵を開ける。


ドアを閉めたら鍵を閉めて、鍵の上にあるスイッチを押す。


靴を揃えて、部屋の電気をつけて、現れたスイッチを押していく。


なんとか電柱以外のスイッチを見つけることなく家まで戻ってこれた。家の外でもスイッチに怯えなければいけなくなったせいで、私はもうクタクタだった。


これから毎日こんな生活を送らなければならないと思うと、もうどこにも行きたくないと思った。しかし、家の中もまたスイッチで溢れかえっている。


朝、スイッチが一つだけだった廊下の壁には、上下に二段ずつ、約三十センチごとにスイッチが並んでいる。


朝よりも夜の方がスイッチの数は多くなる。今すぐにベッドに倒れ込みたいのに、先にこれを全部押さなければいけないと思うと吐き気がしてくる。


もういっそ、全てのスイッチを切って、真っ暗になってしまえばいいと、思うことがある。全てが真っ暗になれば、何も見えない。スイッチがあっても気付かないフリができる。私はそれほど増え続けるスイッチに疲れ切っていた。


仕方なく全てのスイッチを押してリビングへ行く。


と、ソファに父が座っていた。


缶ビール片手に、テレビを見ている。


部屋中が酒臭かった。


「おう、帰ったのか」


口調がよがっている。相当酔っ払っているらしい。


相手をするだけ面倒なので、私はさっさと自室に戻ることにした。


冷蔵庫からお茶を取り出すために、父に背中を向けようとした時だった。


「あ……」


父が座っているソファの奥に、白いスイッチが見えた。


ちょうど父を挟んで向こう側に、一つ、白いスイッチがある。


なんということだ。


あれを押すには、父に退いてもらうか、あるいは父を跨いでいかなければならない。


父の酔い具合から考えて、私が下手に声をかけると機嫌を損ねる可能性がある。


でも父の前を通るのも、近づくのも嫌だ。


どうしよう……でも、スイッチは押さなければならない。


押さなければ……。


「おい、何見てんだよ」


どうしようか考えている間に、父がこちらを睨んでいた。


「なんか文句あんのか?あ゛?」


そう言って酒で汚れた文句を吐き捨てる。


私はすかさず父を睨み返したけれど、スイッチの様子が視界に入ってゾッとする。


ソファのスイッチが八個に増えている。


体を刃物で刺されたような苛立ちが走る。


 ああ……


もう、無理だ。


そう、思ってしまった。思ってしまったから、私は逃げるように自室に向かった。


どうしよう、どうしよう。


押せなかった。


スイッチから逃げてしまった。


見つけたのに、押せなかった。


どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう………。


大きくなる鼓動に混じって、背中の方からパチパチという音が聞こえてくる。


それは次第に大きくなって、私の耳元まで迫ってくる。


足元に硬い感触がして、目線を移して驚愕する。


白いスイッチがフローリングの隙間から湧き上がってくるように増えていた。脈が破裂したみたいに、どんどんどんどん湧いていく。とんでもない速さで、とんでもない音で、両足を飲み込むような勢いで迫ってくる。


まずい、まずい。どうしよう、どうしよう、どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう……!!


急いで自室に駆け込んでドアを閉める。


「はぁ、は…………ッ!!!!!??????」


握りしめていたドアノブから手を離す。


ドアノブにスイッチが現れたかと思うと、パチパチという音とともに扉が次々スイッチに覆われていく。


プラスチックの軽い音が、潮騒みたいに耳元に迫ってくる。パチパチパチパチパチパチパチパチ鳴っている。


私は手当たり次第に増えるスイッチを押していく。けれど、間に合わない。


…どうしよう、どうしよう!!!!


押さなかったせいだ!押さなかったせいだ!押さなかったせいだ!!押さなかったせいだ!!!


自分の声が響いている、どうして押さなかったのだと責め立てる声だ。


そうだ、ずっと聞こえていた。


私を追い詰めているのは私自身だ。


聞こえないフリをしていた。

知らないフリをしていた。


スイッチは押しても押しても押しても増えていく。


押さなければ止まらない。


どんどん増えていく。


早く押さなきゃ!押さなきゃ!押さなきゃ!!!


頭の中が自分の声で錯綜してくる。押し終わったスイッチは足元に落ち、まだ押されていないスイッチが幼虫がわくみたいに次から次へと手元に溢れてくる。


押さなきゃ!押さなきゃ!押さなきゃ…!!!


どうしていいかわからず、とにかく半狂乱になってスイッチを叩く。狙いなんて定めないままとにかく叩きつける。もう、壁を叩いているのかスイッチを叩いているのかわからない。


だけど全然間に合わない。


段々部屋が暗くなってくる。スイッチが天井まで溢れているのだ。


「クソ!クソッ!!!」


怒号を上げながら、泣きながら押す。早く収まってくれ。早く消えてくれ。もう押せない、間に合わない。息が苦しい。どうしたらいいのかわからない。


わからない、なにもかも。


部屋の壁中にびっしりとスイッチがひしめいている。あちこちからパチパチという音が迫って意識を侵蝕してくる。


腕がパンパンに腫れ、手からは血が出ている。どうやってこのスイッチの濁流を止めたらいいのかわからない。



「おい!!何してる!!」


ふと、背中の方から父の声が聞こえた。


部屋の壁を叩く音でさすがに異常事態だと思ったのか、父がやってきて私を後ろから羽交締めにした。


「おい!!落ち着け!!!」


酔っているくせに、力だけは強い。私は壁からどんどん引き離される。しかし、その間にもスイッチは増えていく。足元にも、天井にも、濁流のようになって部屋中を覆い尽くしている。


「離して!!!お父さんのせいだ!!!お父さんがあんなところにいるからいけないんだ!!!押さなきゃ…!!全部押さなきゃダメなのに!!!!!!」


叫んでみるけれど、スイッチまみれの床に押し付けられる。足をバタバタさせてみても全く動けず、私はスイッチに溺れていく。


「またそれか!何言ってんだ!!いい加減落ち着け!!!!」


そう怒鳴ってくるけれど、けれど。


どうして、どうしてわからないの…?


私しか見ることができないスイッチ。私にしか押せないスイッチ。どうしたらいいのかわからない。どう説明したらいいのかわからない。


どうしたらこの苦しみを伝えられるだろう?


どうしたらこのおかしな幻想を止められるだろう?


わかってるんだ、自分でも。


わかっているけど、止められない。


床のスイッチに押し付けられて、身体中が痛かった。このままじゃ、窒息してしまう。



……お父さん、もしかして、私のことを殺そうとしてるの?


私のこと、嫌いだもんね。


……そうだよね。


やっぱり、私なんて、いない方がいいのかも。


そう、思った瞬間、急に手足に力が入らなくなって、首の後ろの辺りがズキズキと痛んだ。


今までに聞いたことがないような、内臓がちぎれるような音が聞こえて、私は動くのをやめる。


父が力を入れるのをやめて、床にどっと倒れ込んだ。

その隙に腕を首に回すと、指先にプラスチック製の、硬い感触があった。



ああ、こんなところにもあったんだね。


全然気付かなかった。


そして唐突に理解した。


これを押し忘れたから、こんなことになっていたのか。


私は何だか、とても穏やかな気持ちになって、暴れるのをやめた。



最初からこうすればよかったんだ。


私は左手で、首の後ろのスイッチを、ゆっくりと押した。

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