第5話 さよなら、おじさん
ある日キッチンで片付けをしていると、トラックの音が聞こえた。ん? と思って時計を見る。午後一時。おじさん今日は帰ってくるのが早いなぁと外を見ると、いつもと違うトラックが二台止まっていた。
なんだろう。
斜め上の部屋はずっと空き部屋なので、だれか引っ越してきたんだろうか。気になって見つめていると、トラックの助手席からおじさんが出てきた。おじさんだけではない。紺色の作業服を着た、若い男性三人も一緒だった。
おじさんは前見た時よりも痩せていて、元気がないように思えた。
私は何となく嫌な予感がして、玄関まで走り、扉を開けた。
ちょうど玄関の前を歩いていたおじさんと目が合った。おじさんは頬がコケていて、目の下にクマができていた。
「おじさん」
声を掛けると、おじさんは分かりやすく作り笑顔でニカッと笑った。
「おっちゃんね、引っ越すことになったとよ。ちょっとね、荷物がおおかけん、うるさかと思うばってん、我慢してね」
「引っ越すんですか」
「うん、ちょっとばっかりね、今まで逃げ回っとった罰たい。今までありがとうね」
私たちの会話を遮るように、茶髪でピアスをした強面の男性が、急かすようにおじさんの背中を押した。
隣の玄関に消えていったおじさんを見て、私は部屋に戻って少し泣いた。
おじさんと初めて会って二年ほどの月日が流れていた。その間、顔を合わせたのは数えるほど。お魚をくれて、私はおかずを渡した。おじさんの為に植えた庭のお花は、綺麗に咲いている。
その相手がいなくなることに、ここまで悲しくなるとは自分でも思わなかった。
しばらくして物音がしだし、私は涙目で庭側の窓から顔を出して隣を見た。
隣の庭に出された布団のような茶色のものから、ザラザラとゴキブリの卵のようなものが落ちてくるのを見た。キッチンの小窓に向かい外を見ると、透明の袋に大量のゴミが詰め込まれ、次々と運び出されていた。
数時間後に物音が止んで車のエンジン音がして、私は慌てて外に出た。
「おじさん!!」
トラックに向かって精一杯声を上げると、おじさんが助手席の窓から顔を出して、ニカッと笑って手を振った。言葉はなかった。
私も涙の滲んだ目を拭き、ちょっとだけ笑顔を作っておじさんに笑って手を振った。ゴミを山程積んだトラックが発車し角を曲がって見えなくなるまで、私はそこに立ち尽くした。
あれから隣の奥さんの情報によると、おじさんは色んなものを滞納していて、引っ越しは強制退去であったのではという話だった。借金も多くあったようだった。その後のおじさんはヤミ金に捕まっただとか、婦女暴行で警察に捕まっただとか、隣の奥さんから聞く根も葉もない噂話はしばらくつきなかった。
あの後私の家も含め、近隣の家でゴキブリが一時的に大量発生し、隣の奥さんは口悪く怒っていた。
おじさんがどんな人生を送ってきたのか知らないし、何があったのかも分からない。そしてどこに行ったのかも知る由はない。
私が見たおじさんは、おじさんのごく一面だったのだろう。
だけど汚部屋に住んでいたおじさんは、私にとっては優しいおじさんだった。人間が怖い時期に、心を許した人だった。辛い時に、大切なことを教えてくれた人だった。いつも石鹸とタバコの匂いがして、私が植えた花を見て二人で笑い合った。
あれから20年も経ったのに、私はおじさんの笑顔と言葉を鮮明に思い出す。
おじさんが笑顔と一緒にくれたような、優しい気持ちを思い出している。いつかまた会いたいと思っていたけれど、会えていないままだ。
おじさん。
どこかで元気に、笑っていますか。
私の記憶の中で、おじさんがニカッと笑った。
引っ越したら隣のお宅が汚部屋だった話 たね胚芽 @tanehaiga
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