Side-R⑦ 乙女が夢見たハッピーエンド
アメジストに白絵の具を垂らしたような、不思議な空の色だった。
白絵の具が完全に混ざり切っていない、ソワソワするようなマーブル模様。
絶妙なバランスで、幻想的な美しさを放つ空。
でも、少しでもバランスが崩れたら、きっと恐ろしくて不気味で不吉なだけの、魔女の森に様変わりしてしまうのだ。
空は無言で、どこか危うい幻惑的な光を静かに放っている。
最後のドームを出てみれば、森の王の住処は目と鼻の距離だった。
まっすぐ伸びた小道の先に、不思議な色をした空の光を浴びて、ひっそりと佇む巨大な生け垣が見える。体育館か講堂くらいはありそうな、大きな大きな生垣。
生け垣は、お城の形をしていた。
日本のお城じゃない。夢の国にありそうなお城だ。
お城としては小さいのかもしれないが、生垣アートとしては巨大な部類だろう。
空が青く輝いていれば、そういうテーマパークに迷い込んだだけのような、そんな気分になったかもしれない。
けれど、アメジストと白絵の具のマーブル模様に輝く空の下のお城は、見た目の可愛らしさとは裏腹に、起こしてはいけない恐ろしい何かを祀っているような、胸の奥がざわざわするような、そんな気配を纏っている。そんな気配が、滲んでいる。
説明されなくても、あれが森の王の住処なのだと分かった。
「行こう、ルカ」
「う、うん」
すっかり雰囲気に飲まれてしまっていると、生け垣のお城へ続く小道の少し先で、立ち止まって振り向くキリーに名を呼ばれた。
だから、流風も。これまでは、キリーの後ろを数歩離れてついていくだけだったけれど、思い切って、隣に並んでみた。
だって、これが最後かもしれないのだ。
おまけに、最終決着の舞台は、すぐそこだ。
せっかく、キリーへの思いを自覚したというのに、残された時間は、あまりにも少なすぎる。だから、せめて。物理的な距離だけでも、縮めてしまいたかった。
キリーは、何も言わなかった。
小さく頷いただけで、前に向き直ると、また歩き出す。
それだけのことが、ものすごくうれしい。
天の乙女でも小枝の乙女でもなく、ちゃんと名前を呼んでくれたことが、うれしい。流風が追い付くまで、待っていてくれたことが、うれしい。隣を歩くことを許してくれたことが、うれしい。女の子として意識してくれているわけではないとしても、冒険のパートナーとしてようやく認められたようで、それがうれしい。
物理的な距離だけじゃなくて、心の距離も確かに縮まっているのを感じた。
ものすごくうれしいのに、だからこそ、どうしようもない寂しさを感じてもいた。
胸の奥から、冷たくて透明な水が溢れ出て来て、サーっと広がっていくような、そんな寂しさ。
あと少しで、この冒険のラストステージへ辿り着いてしまう。
不謹慎なのは承知の上で、そのことを残念に思ってしまう自分がいた。
王女様は不安な思いをしているはずだし、キリーは早くそんな王女様を早く助けてあげたいはずだ。それは、分かっている。終わりが見えているのは、本来、喜ぶべきことなのだと分かってはいる。
でも、それでも。
ほんのついさっき、キリーへの想いを自覚したばかりなのだ。この気持ちを噛みしめながら、もう少し二人で冒険がしたかった。
そんな浅ましい思いが湧き上がってくるのを、抑えることなんて、出来ない。
だって、流風は。ついさっき恋心を自覚したばかりの、一人の乙女なのだ。
――――いや、もちろん、だからって。森の王を倒して王女様を救うっていうのを、おろそかにするつもりはないけど!
疎かにするつもりはないが、それについては、決意と覚悟さえあれば何とかなると、単純な流風らしく、単純に考えていた。小枝の合図を見逃さず、全身全霊を込めて魔法を放てば、きっと何とかなると特に根拠はなく信じていた。
これまで、何とかなってきたように。
物語のヒロインが、どんな困難に遭遇しても、最後には結局、何とかしてしまうように。
今度もきっとそうなるはずだと無邪気に信じていた。
『君の勇気に感謝する』
必ず王女を助け出すという流風の決意を告げた時の、キリーのセリフを思い出す。
森の王を倒して王女を助ける未来は、流風の中ではすでに確定した未来だった。だから、流風の勇気の出しどころは、そこではないのだ。
――――王女様を助けたら、キリーに、告白する。
駆け足のリズムを刻む心臓の音を聞きながら、流風は決意を固める。
最後の契約をした後の流れを考えると、まったく目がないわけではない……ような気がするのだ。期待と不安の間で揺れ動く乙女心の、期待の方が最高に高まった瞬間に、ふっと都合の良すぎる未来が脳裏を過る。
王女を助けて過去の呪縛から解き放たれたキリーが、流風の告白を聞いたことで、実は自分も流風に惹かれていたことに気が付く。晴れて両想いになった二人に、天の女神様が祝福を与えて、流風は“天=元の世界”には戻らずに、この世界でキリーと二人で幸せになる、という乙女的夢と希望が詰まり切ったご都合展開すぎる未来。そうなった場合、元の世界にいる家族や友達や、そして誰より
そうなったらいいのに、という淡い期待をしてしまう。失うものも多いけれど、恋心を自覚したばかりの流風にとって、それが最上の未来だと思えた。
それは、すべての決着がつく前、今だからこそ見ることが出来る夢だった。だから、不謹慎とは知りつつも、この冒険がもっと長く続けばいいのにと、願ってしまう。
そして、期待が最高潮に達した後には、揺り戻すように不安の波が襲ってきた。
――――でも、もしも。キリーが王女を好きだったとしたら……?
そういう素振りは、なかったように思う。最初は、もしかしたらそういうことなのかもと想像したりもした。けれど、助けられなかったという妹の話を聞いて、その考えは消えた。亡くなった妹と年が同じだという王女。救えなかった妹の代わりに、今度こそは、王女を助け出そうと必死なのだと分かった。そこに、恋愛めいた要素が絡んでいる気配は感じ取れなかったように思う。
でも。
今はそうだとしても。妹の過去に囚われている今は、それどころじゃないのだとしても。妹と重ね合わせている内に、実はキリー本人も気が付かない内に王女に想いを寄せるようになって、ただそれを自覚できていないだけなのだとしたら?
いや、それよりも、王女様がものすごい美少女で、助けてくれたキリーに涙交じりのきゅるきゅる笑顔で感謝を伝えたりしたら、キリーがその場で恋に落ちちゃったりすることもあるのではなかろうか……?
なんだか、ありそうな気がしてきた。
結局、平々凡々な流風には、そんな結末が相応しいとすら思えてきた。
失恋確定諦めサイドへ、天秤が大きく傾く。
だって、囚われの王女と助けに来た騎士が結ばれるなんて、お伽噺の王道だ。
どう見てもお互い一目惚れ状態な二人が見つめ合う姿を想像して、流風は一人で勝手に落ち込んだ。
胸の真ん中に氷の杭を打たれたように、胸の奥が痛くて辛い。
痛くて辛くて、とにかく悲しい。
けれど、だからと言って。
失恋確定だからと言って、何も伝えられないままで日常に戻ってしまうのも、いやだった。そうなったら、きっと流風は。綺璃亜の顔を見ることすら、出来なくなってしまうかもしれない。だって、綺璃亜はキリーにそっくりなのだ。キリーそっくりの綺璃亜の顔を見たら、きっと思い出して泣きたくなってしまう。大好きだったはずの綺璃亜の顔を見ることすら出来ず、うじうじとした毎日をジメジメ送ることになるのが、目に見えた。
そんなのは、嫌だった。
それが、一番嫌だった。
だから、そうならないためにも。
森の王を倒した、その後。
騎士と王女が、ただの騎士と王女のままだったとしても。
騎士と王女を越えた何かが、二人の間に芽生えたとしても。
どっちだったとしても。
――――勇気、出そう。あたしの気持ちを、ちゃんと伝えよう。
それで、たとえフラれてしまったとしても。告白する前から、フラれることが分かっていたのだとしても。笑って、キリーのことが好きだって伝えて、それで二人のことをちゃんと祝福して、かっこよく“天”へ帰ろうと思った。
そうしたら、きっと。この恋が叶わなかったとしても、キリーはずっと流風のことを覚えてくれると思うのだ。叶わないなら、だからこそせめて、素敵な女の子だったと思ってほしかった。
告白してもしなくても、失恋は失恋だ。
けれど、だけど、せめて。
初めてのこの恋を、この気持ちを、伝えるだけでもさせて欲しい。
だって、どうせ流風は、その後この世界からはいなくなってしまうのだ。
だったら、せめて、かっこいい自分をキリーの中に残したかった。
だから、せめて、流風の気持ちをキリーに知って欲しいと願った。
――――それに、ここで勇気を出せれば、日本に戻ってからも、勇気を持って行動できる気がする。もし、キリーとの恋が叶わなくて日本に戻ることになったとしたら。その時は、あたしの方から綺璃亜先輩に声をかけてみよう。
新たな決意を固めながら、失恋未来から逃避するように綺璃亜のことを思い出す。
音楽室に行く途中、幸運にも綺璃亜とすれ違うことが出来たのは、今日の午前中のことのはずなのに、放課後には異世界の森に召喚されるなんていうとんでもない体験をしたせいか、ものすごく昔のことのように思えた。
階段を昇って、音楽室へと続く廊下へと折れる直前に姿を現し、流風の隣を歩いていた萌流水の横をすり抜けていった綺璃亜。すれ違う瞬間、本当にほんの一瞬だけ、綺璃亜は内緒のポーズをした。流風だけが分かる、流風にだけ送られた合図。
流風が大事にしている思い出を、綺璃亜もちゃんと覚えていてくれたことが嬉しかった。加えて、あの時の、水色の思い出が蘇って、天にも昇るような気持ちになった。あの時の自分は、かなり舞い上がっていたと思う。しばらくは、思い出すだけで、夢の花園に旅立っていたはずだ。
けれど、今はもう、そうではなかった。少しの懐かしさとともに、落ち着いた気持ちで、あの時を思い返していた。
あの時、内緒のポーズをした時、綺璃亜はまっすぐ前を見ていた。流風の方には、チラリとも視線を寄越さなかった。流風が見ているかどうかも分からないのに、それでも送ってくれた合図。
落ち着いて回想できるようになった今だからこそ、分かる。あれは、きっと綺璃亜の優しさだったのだ。覚えているよ、と流風に合図は送りたいけれど。みんなから遠巻きにされている自分の立場を理解していて、それに流風を巻き込まないように、ああしてくれたのではないかと思うのだ。
でも、そんなのは悲しい。
だから、だから、もし。
元の世界へ帰ることになったならば、その時は……。
勇気を出して、綺璃亜とみんなとの間にある壁を、自分が壊してやろうと思った。
たとえ、この恋が叶わなかったとしても、キリーから貰った勇気で綺璃亜を孤独の檻から救い出せるのならば、キリーとの出会いに意味があったのだと、そう思うことが出来る。
――――その時は、なるべく、人が大勢いるところで、あたしの方から綺璃亜先輩に声をかけよう。
三年生の先輩たちは、そうした流風の行為をよく思わないかもしれない。でも、二年生や一年生たちの中には、隠れた流風の同志がきっといるはずなのだ。
流風の白リボンポニーテールのきっかけとなった、黒リボンツインテールのあの子とか。あの子が、あれ以来ずっと、黒のリボンとツインテールを貫き通していることには気づいていた。つまりそれはきっと、そういうことなのだと思う。きっと、あの子も流風と同じなのだ。そして、他にも、隠れたところで綺璃亜の優しさに触れ、ひっそりと繋がりを持った子が、きっといるはずなのだ。
――――あの、常にギスギスしていた葉山先生が、別人みたいにいい先生になってから、学校全体の雰囲気も変わったし、今ならいけると思うんだよね。ちょっとだけ、毒蛇みたいに怖かった梨々花さんも、何かいいことがあったのか、クラスの守護神・白蛇様に様変わりしちゃったみたいな感じだし。最近、
葉山先生や梨々花に負けず劣らずの変貌ぶりをみせた親友の顔を思い浮かべて、少しだけ口元を綻ばせる。
それが、今は、まるで別人になったかのようだった。
ガチガチの三つ編みを解いて、ハーフアップにした萌流水は、誰もがうらやむような清楚なお嬢様に変身した。しかも、学年一の美少女と言われていた、梨々花に匹敵するほどの美少女ぶりだ。アイドル風の顔立ちの梨々花とはタイプが違うので、どちらが一番かは好みによると思うが、
見た目だけではなくて、内面的な頑なさもとれて、表情が柔らかくなったように思う。授業中も積極的に発言をするようになったし、グループに分かれて課題に取り組むときなども、取りまとめ役を買って出ているようだった。
殻を破って魅力的になった萌流水に、それまでどこか余所余所しかった梨々花も積極的に絡んでくるようになった。きっと、梨々花も萌流水が独りよがりに作っていた壁に距離を感じて、今までは話しかけづらかったのだろう。もっと早くに、そうしていれば良かったのにとは思ったけれど、口には出さないでおいてあげた。
生まれ変わった萌流水は、先生たちからの評判もいいようで、親友が認められていることが誇らしくもあり、置いて行かれたようで寂しくもあった。
それもこれも、すべては葉山先生のおかげだと流風は思っている。
――――二年生の二大美少女って言われるようになった二人と一緒に声をかけたら、あたしなんてすぐに埋没しちゃいそうだなぁ。
そう考えて、今度は苦笑いを浮かべる。
平凡な自分よりも、二人のどちらかに興味をひかれるのではと考えると、寂しい気もするけれど、それはそれでまあいいか、とも思えた。
だからと言って、流風のことを完全に仲間外れにしたりはしないはずだし、流風の行動がきっかけで綺璃亜の世界が広がったことには間違いないのだから、それはそれで胸を張ろうと思えた。
キリーに会う前だったら、そんな風には思えなかっただろう。
自分よりも、萌流水や梨々花が綺璃亜と仲良くなってしまうことが嫌で、そうしたほうが綺璃亜のためになるのだとしても、その選択枝をそっと心の奥底にしまい込んでしまったかもしれない。平凡な自分に偶然舞い降りた幸運を、自分のものだけにしておきたくて、誰の目にも触れさせないように、大事に仕舞い込んで鍵をかけてしまったはずだ。
でも、今はもう。
綺璃亜に対して、流風が、あの恋にも似たような気持ちを抱くことはない。
本当の恋、を知ってしまったから。
そのことが、寂しくて嬉しい。
ツキリとした痛みが胸に残ってはいるけれど、嫌なモヤモヤはなかった。心は、澄み渡っていた。
どういう結果になっても、勇気を出して一歩を踏み出すことが出来れば。
ちゃんと、自分の気持ちをキリーに伝えることが出来れば。
万に一つが起こってキリーと一緒にこの世界で生きていくことになっても、キリーのいない元の日常に戻ることになったとしても。
胸を張って、前を向いて歩いていける気がした。
いつの間にか流風の中では、恋が成就すればこの世界に残ることが出来て、失恋すれば元いた世界に戻るのだと確定されていた。
キリーと結ばれてこの世界で生きるのか。
キリーにはフラれたけれど、元の世界で綺璃亜を孤独から救い出すのか。
これから自分に訪れる未来は、そのどちらか、二つに一つなのだと、いつの間にか信じ込んでいた。
どちらにしても、流風に求められているのは、勇気だった。
『君の勇気に感謝する』
キリーの言葉を、お守りのようにお呪いのように、胸の奥で何度も繰り返す。その言葉こそが、流風に勇気をくれる。
――――あたしの勇気、みせてかないと!
乙女の最終決戦に思いを馳せ、流風は自分を鼓舞した。
もうすぐ、森の王の住処に辿り着く。
お城の入り口を守るように、丸太人形の兵士が立っているのが見えた。
いや、立っているというよりも、置かれている、と言うべきだろうか?
丸太兵士は、近づいて来る流風たちに、何の反応も見せなかった。
とはいえ、いつ何が起こるか分からない。小枝を前に構え、用心しながら、流風たちはゆっくりとお城の門番へと近づいていく。
けれど、目の前に立っても、丸太兵士は無反応を貫いていた。
丸太を組み合わせて作られた、身の丈二メートルはありそうな人形兵士。木製の槍と盾を威勢よく構えているわりに、あまり強そうには見えなかった。サイズが大きいだけで、その作りにはどことなく夏休みの課題工作感が漂っているのだ。
入り口を塞いでいるので、邪魔なことは邪魔なのだが、脅威というほどのものではない。
ただ立っているだけの木偶人形兵士というか、そもそもただの置物にしか見えないというか。
スイッチが入っていないか、充電が切れているかのような無反応ぶりだ。
襲い掛かって来ないのはありがたいけれど、緑のお城の中へ入るためには、ここをどいてもらわなければならなかった。丸太人形なのだし、魔法で燃やしてしまうのが手っ取り早いような気がしたけれど、背後のお城に燃え移ったらと考えると少し躊躇われる。炎に呑み込まれた緑のお城の中で、王女様が蒸し焼きにでもなったら取り返しがつかない。
それとも、お城の方は、氷の魔法で凍らせてしまえばいいのだろうか?
――――どうしよう?
チラリと隣に立つキリーを見上げると、キリーは任せるというように頷きを返してくれた。パートナーとして認められているようで、信頼されているようで、頼られているようで、すごく嬉しい。嬉しいのだが。
要するに、それは全て流風に丸投げされてしまったというわけで、嬉しいけれど、困る。
――――ど、どうしよっか?
困った流風は、今度は手の中の小枝に助けを求めた。
胸の前まで持ち上げた小枝に視線を落とすと、小枝は流風に答えてくれた。
三色のゼリービーンズが、豆電球のように光を放つ。
深く考えずに、流風は丸太人形に向かって小枝を軽く一振りした。すると、三色の光が、丸太人形の胸の真ん中に吸い込まれていく。
のっぺらぼうだった丸太の顔に、赤く光る眼が現れた。赤い光が、流風と、それからキリーに向けられる。
「テンノオトメ、ト、アオノキシ……」
「は、はい! 天の乙女の流風です!」
「青の王国の騎士、キリーだ。天の乙女を伴い、青の王女を迎えに来た」
丸太人形の顔に現れたのは目だけで、口も、スピーカーも見当たらなかったけれど、機械の合成音のような声が聞こえてきた。
どこまでも無機質で、攻撃の意思は感じられない。
なんだか分からないままに、流風は小枝を持った手で敬礼をしながら、自己紹介をした。流風に続いて、キリーも名乗っているので、一人で混乱してとんちんかんなことをしてしまったわけではないのだろうと、流風はこっそりと胸を撫でおろす。
お城の番人には違いなさそうだけれど、森の王のではなくて、天の女神に命じられて入り口を護っているように思えた。うまく言えないけれど、契約のドームに漂っていた気配に似たものを、丸太人形から感じるのだ。
丸太人形はキリーに向かってぎこちない動きで頷いた後、赤い光を流風に向けた。
「ノゾミ、ヲ、カナエルタメ、スベテヲササゲル、ユウキハ、アルカ?」
「…………………!」
思いがけない丸太人形の問いに、流風は息を呑んだ。赤い光は流風を捉えたまま、静かに返事を待っている。
『君の勇気に感謝する』
最後のドームの中で聞いたキリーの言葉が、脳裏に蘇る。
それから。
そっと唇の奥に滑り込まされた水色の一粒。木の枝に絡まってしまった白いリボンは、キリーの手によって救出され、キリーの手によって流風の頭に結ばれた。黄色い一粒を空振りした時の、ほんの少し拗ねたようなキリーの顔。赤い一粒の時に、流風の肩に置かれたキリーの手の熱さ。赤いゼリービーンズを押し込んだ後、そっと唇に触れたキリーの指先の、感触。初めて、名前で呼んでもらえた時の、喜び。亡くなった妹の話。
流風の決意。それに対するキリーの言葉。
甘くて爽やかなソーダ水のように、流風の胸の奥で、パチパチシュワシュワと何かが弾け出す。
流風の望み。
流風が本当に心から、望むもの。
キリーと結ばれたい。
ルカとして、キリーと一緒に生きていきたい。
そのためなら、流風のすべてを捧げてもいい。
丸太人形は、本当に天の女神の使者なのかもしれない、と流風は思った。
きっと、丸太人形は、流風の本当の望みを知っているのだ。
もしかしたら、キリーの胸の内だって知っているのかもしれない。
知っているからこそ、その望みを叶えるために”すべて”を捧げる覚悟があるかと問うているのだ。
ということは、つまり。
流風が勇気を出しさえすれば、流風はルカとして、キリーと……。
『そう、だったらいい……。でも、そんなわけ……ある、のかな?』
諦めサイドに大きく傾いていた流風の乙女天秤が、丸太人形の問いかけで、揺れ動く。揺れ動き、そしてついに。大きく期待サイドへと傾いた。丸太人形からの『勇気』という一言は、流風の心にエネルギーを注ぎ込んだ。
そのエネルギーが、萎れていた期待に力を与えたのだ。
――――あたし、あたしは。キリーがあたしを望んでくれるなら、キリーと一緒に生きていきたい。キリーに本当の笑顔を取り戻して、その笑顔をずっと守ってあげたい。それが出来るなら、そのためなら、あたしは……!
その選択をしたら、失ってしまうはずの、流風のこれまでのすべてが、脳裏を過る。
内緒の仕草をした綺璃亜。家族の顔。最近、ぐっと綺麗になった萌流水。クラスのみんな。
会えなくなってしまうのは、もちろん、悲しいし寂しい。傾いたはずの天秤が、また揺れた。揺れたけれど、でも。揺り戻すほどの勢いはなかった。
流風の気持ちを揺るがせる、そのすべてを犠牲にしてでも、それでもやっぱり流風は欲しかった。
キリーと一緒の未来。キリーとルカ、二人のハッピーエンド。
叶わぬのならばと、綺璃亜との未来を夢想して心を慰めたりもしたけれど、でも。
叶うのならば、手に入れたかった。
これまでのすべてと引き換えにしてでも。
綺璃亜との未来を捧げてでも。
キリーとのハッピーエンドが欲しかった。
――――お父さん、お母さん、ごめんなさい! 流風は、異世界にお嫁に行きます! この世界で、キリーと二人で絶対に幸せになります! だから、ごめんなさい!
ぎゅっと目を閉じて、遠い日本にいるはずの両親に、お詫びと誓いの言葉を贈る。
それから、心を落ち着かせるために大きく息をつくと、目を開いて、丸太人形の赤く光る目を見つめ返す。親戚のお姉さんの結婚式に出席させてもらった時のことを、思い出していた。神父様に問われ、永遠の愛を誓い合った二人に自分を重ね合わせる。
「勇気、あります! 望みを叶えるために、すべてを捧げます!」
「デハ、チカイノアカシヲ、ササゲヨ」
背筋を伸ばし、真っすぐに天からの使者を見つめ返しながら、流風は凛と宣言する。
隣に立つ、キリーの存在を確かに感じながら。
誓いを聞き届けた丸太人形から、無機質な声が響いてきた。
誓いの証とは何だろうと思う間もなく、また契約の枝に三色の光が灯った。三つのゼリービーンズが、枝を離れてふわりと宙に浮く。
丸太人形の、二つの赤い目の下。ちょうど口にあたる位置に、四角い穴が出来上がった。口の中は真っ暗闇で何も見えない。どこが終わりなのかも分からないその闇の中へ、三つのゼリービーンズたちは自ら飛び込んでいった。一体、その闇はどこまで続いているのか、光はすぐに闇に呑まれて見えなくなった。一拍置いて、丸太人形の顔から目と口が消えて、元通りの、のっぺらぼうになる。
呆然と見つめる流風の目の前で、丸太人形の体が崩れていった。
コロコロと頭が転げ落ち、両腕が肩から外れて地面に落ちた。支えてくれていた両足から胴体が滑り落ち、先に落ちていた左腕が下敷きになる。支えていた足も両側に倒れていった。
パキパキ、ピシリと乾いた音がして、丸太はさらに崩れていく。小さな木片が次々と剥がれ落ちていき、ついには、乾いた木片の山となった。
――――あ、あれ?
今までの契約とは、何かが違うような気がした。手の中の小枝には、実が一つも生っていない。三色のゼリービーンズは、ひとつ残らずなくなってしまった。最初のドームで、契約をする前の小枝。契約の小枝ではなくて、ただの小枝になってしまった。
――――もしかして、あたし。もう、魔法が使えない……? だとしたら、どうやって森の王と戦えばいいんだろ?
ふ、と胸に不安が過ったが、背中に感じたぬくもりがそれを拭い去ってくれた。
「行こう。ルカ」
「あ、うん!」
キリーが、ルカの背中を軽く押して、中に入るように促してきたのだ。流風を見つめる瞳が、なんだか優しい気がする。それに、「ルカ」と名前を呼んだ時の声が、仄かな甘さを含んでいたように感じた。
それだけで、自然と心は浮き立ってくる。
――――大丈夫。信じよう。キリーと、それから、あたし自身を。
きっと、キリーは流風の思いに答えてくれる。流風の勇気に答えてくれる。
今は、そう信じられた。だって、流風の背中には、キリーのくれた熱がまだ残っている。
小さな不安は、薔薇色の未来予想図に塗り替えられた。
それを手にするために……。
流風は、丸太人形へ誓いの言葉を告げた時のように表情を引き締め、キリーに背中を押されながらお城の中へと足を踏み入れた。
望みは叶うのだと、そう信じて。
すべてを捧げる勇気と覚悟を胸に、新しい未来への……。
一歩を踏み出した。
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