ゼリービーンズをおひとつどうぞ? Side-M④

「それで、話って何?」


 放課後の図書室。一番奥の本棚。その影に隠れるようにして、萌流水もなみは図書委員長の最上と向き合っていた。対峙するなり、最上は気だるそうに言った。指先で、緩くウェーブのかかった毛先を弄んでいる。

 悪魔と本気で契約をすることを決意した、萌流水の最初のターゲット。それは、図書委員長の最上だった。

 本命は、クラスの女王である梨々花りりかだ。だが、その前に本当に思惑通りうまくいくのか試しておきたかった。つまりは、本番前のリハーサルだ。

 悪魔が存在していることについては、もう疑っていない。

 流風への怒りからの思い込みだけだったなら、時間の経過とともに沈下していっただろう。そうはならず、リハーサルの決行に踏み切ったのには、ちゃんと理由がある。悪魔は存在しているのだと、信じるに足る裏付けがあった。

 最初の供物となった、葉山。

 萌流水たち外来星の天敵である、教師の葉山。その豹変ぶりが、萌流水に悪魔の存在を確信させた。


 あれから、一週間が経つ。

 萌流水が、校内にお菓子を持ち込んだ校則違反を咎められることはなかった。それだけではない。水色事件の翌日からの葉山は、まるで別人に生まれ変わったかのようだった。

 常に純血星じゅんけっせいを立て、外来星がいらいせいを貶めることに余念がなかったあの葉山が、純血星を叱りつけ、外来星のことを褒めたというのだ。ただそれだけのことだが、星蘭せいらん女子の生徒にとっては、大事件だった。純血星にとっても、外来星にとっても。噂は瞬く間に校内を駆け巡った。

 それでもまだ、この時点では半信半疑だったし、たとえ悪魔が存在していたとしても、本当に契約するかどうかは別の問題だと考えていた。

 萌流水が、悪魔と手を組むことを決心したのは、その変貌ぶりを実際に目の当たりにしたからだ。

 休み時間にトイレに行った帰りに、廊下で偶然、葉山とすれ違った。葉山は萌流水に気づくと、声をかけてきたのだ。あの時のことを、問い質されるのではないかと、萌流水は身が舞えたが、杞憂だった。

 葉山は萌流水が初めて目にする、ごく自然な笑みを浮かべていた。純血星や他の先生たちがいるところで浮かべる、媚び諂うような笑みでもなく、外来星しかいない時のヒステリックにも思える高圧的で見下すような表情でもない、ごく自然な笑顔。

 葉山は、にこやかにこう言った。


「霧島さん。前から思っていたのだけれど、少し髪形が地味すぎるのではないかしら? 真面目なのもいいけれど、節度をわきまえたお洒落は淑女の嗜みですよ? せっかく元がいいのだから、星蘭女子としての節度を守りつつ、もう少し自分を美しく見せるための努力も怠らないようにね?」

「か、考えて、みます……」


 動揺しながらも、なんとかそう答えると、葉山は満足したように笑ってその場を去っていった。

 ゼリービーンズのことには、一切触れられなかった。見逃してくれたというよりも、萌流水の校則違反そのものを忘れてしまっているようだった。

 その時は、衝撃の方が大きすぎて、まだ実感が湧いてこなかった。立ち止まって呆然と、穏やかに去っていく背中を見つめる。

 噂には聞いていたとはいえ、本当に、有り得ないくらいの変貌ぶりだった。

 自分の目で確認してなお、目を疑ってしまうほどの変貌ぶり。

 髪形も服装も、前と同じなのに、雰囲気や表情が穏やかになっただけで、完全に別人のようだった。中身だけが、他の誰かと入れ替わったと言われても、信じてしまいそうなほどに。


「葉山先生、最近、雰囲気変わったよね。彼氏でも出来たのかな? あ、でも、先生のアドバイスは、あたしもそう思うな。せっかく、先生もああ言ってくれたんだし、髪形、変えてみたら? 今の三つ編みは、ちょっとカチッとしすぎてて、近寄りがたい雰囲気があるし。雰囲気を変えれば、みんなももう少し、話しかけやすくなるんじゃないかなぁ」


 頓珍漢な流風るかの言葉で、ようやく。

 じわじわと足元から、実感が這い上がってきた。


 ――――悪魔様は、本当にいるんだ。葉山は、悪魔様に魂を食べられて、人形にはならなかたけれど、別人のように生まれ変わった。悪しき魂を食べられて、空っぽになった体に、善良な魂が入り込んだみたいに、完全なる別人に。


 七不思議とは、少し異なる結果だけれど、そこはあまり気にしなかった。他の話と混じり合ったか、言い伝えられている内に、少しずつ内容が変わっていっただけなのだろうと判断した。

 悪魔は存在しているのだという実感は、頭のてっぺんまで到達すると、不思議な高揚感に代わった。未来を変えていくためのエネルギーが、全身に満ちているのを感じる。

 本当なら、萌流水の心に苛立ちの波紋を生じさせたはずの、無神経でのん気な流風のアドバイスも、まるで気にならなかった。

 葉山と流風、二人のアドバイスに従った結果のように受け取られかねないのは不満だが、梨々花を葉山のようにしてしまえば、そうすることも可能なのだ。


 考えることは、みな一緒なのだろう。

 葉山の変化に戸惑っていた校内も、流風と同じように「恋人が出来て丸くなったんだろう」という結論に落ち着いたようだった。

 誰も、その変貌が誰かの仕業だと、何かの仕業なのだとは気づいていない。

 そうではないのだということを、萌流水だけが知っている。いや、もしかしたら、綺璃亜だけは、それが悪魔の仕業だと気づいているかもしれない。萌流水よりも先に、悪魔の存在に気づき、契約を為し、悪魔的な力を手に入れたものとして。


 萌流水と綺璃亜きりあだけが知る、星蘭女子の秘密。


 ゼリービーンズの秘密を知った時以上に、心が躍った。

 悪魔が存在していることは、萌流水の中ではすでに確定事項となった。

 悪魔と手を組むことに、もはや躊躇いはない。綺璃亜もそうしているから、という思い込みだけでなく、魂を食べられた後の最上の様子が萌流水の躊躇いを払拭した。


 魂を食べられたはずなのに、葉山はごく自然体だった。人として、不自然なところはどこにも感じられない。

 噂が結論付けたように、「恋人が出来て、性格が丸くなった」と言われれば、それで納得してしまえるような変化。

 今までの自分を反省して、心を入れ替えたかのような、よい意味での変化。

 そのことが、萌流水の背中を押した。

 もしも葉山が、廃人のようになっていたり、出来の悪いロボットのようだったり、操り人形のように虚ろだったりしたら、さすがに萌流水も後味の悪い思いをしただろう。そうなると分かっていて、平気で次の魂を差し出せるほどには、冷酷ではない。

 それが、人として踏み越えてはいけない一線であることは、萌流水にも分かっている。

 だが、葉山は悪魔に魂を食べられたことで、むしろ前よりもよくなった。萌流水にとっても、他の外来星にとっても、そして葉山自身にとっても、それは良い結果をもたらした。噂とは反対に、性格が穏やかになったことで、今後恋人が出来る可能性だってある。


 ――――きっと、悪魔様は外来星の味方なんだ。


 萌流水は、そう結論付けた。

 悪魔様と契約できるのは、外来星だけ。

 理由なく外来星を毛嫌いするものたちの悪い心を食べてくれる、星蘭の悪魔。七不思議の、悪魔。純血星の敵で、純血星の味方をする者の敵で、外来星の味方の悪魔。

 きっと、純血星たちの悪い魂を悪魔様に食べてもらうことで、学校はもっと居心地が良い場所になる。

 歪んだ悪しき魂を“悪魔様”に捧げることは、みんなのためにもなっている。

 決して、私利私欲のためにやっているわけじゃない。


 ――――だから、これは正しい。わたしは、正しいことをしている。


 自分は正しいことをしているという考えに背中を押されて、萌流水は一線を越えることを選んだ。

 不思議な高揚感に突き動かされてはいたけれど、それでも萌流水は冷静さを失ってはいなかった。

 少しでも成功率を上げるために、決行に当たっては、なるべく葉山の時と同じ条件を満たすようにしようと考えた。


 一つ、放課後の図書室であること。

 二つ、対象となる純血星と二人きりであること。

 三つ、上記二つの条件を満たしたうえで、対象の純血星を怒らせて、ゼリービーンズを食べさせること。


 二つ目については、本棚の影に隠れて、他の生徒や教師から見えなければ、よしとすることにした。放課後の図書室で誰かと二人きりというのは、図書委員であっても難易度が高い。

 最初の練習台として最上を選んだのは、この三つの条件を一番満たしやすい相手だったからだ。

 最上自体は、仕事を押し付けられたり手柄だけを自分のものにしたりと、たまにイラっとさせられることはあっても、本気でどうこうしたいほどの相手ではない。悪魔に魂を食べられる=廃人同様になる……だったなら、さすがにやりやすい相手という理由だけで選んだりはしなかった。けれど、悪魔に魂を食べられることで、心根を入れ替えてまじめに仕事をするようになるのなら、練習台にしてもかまわないだろうと、萌流水は都合よく考えた。

 普通に呼び出しても応じないであろうことは分かっていたので、最上が放課後の図書当番である日を狙った。同じ図書委員であるのをいいことに、利用開始前の準備時間中に図書室を訪れ、二人きりで話したいことがあるからと、図書室の奥まで誘い出したのだ。話はすぐ終わるし、その後で準備を手伝うと言えば、最上はあっさりと承諾した。図書委員の仕事に関することのように匂わせたせいか、萌流水の普段の行いからか、当番の相方も司書の北見先生も特に嫌な顔をすることなく快く応じてくれた。

 最上が応じたのは、単に大手を振るって仕事をさぼれるからだろう。これが、仕事終わりだったとしたら、用事があるからとあっさり断られたはずだ。

 その証拠に、最上は気がのらなさそうに指先で髪の毛を弄んでいるが、決して不機嫌そうには見えない。口では、萌流水の話を促しながら、せかす素振りは見せない。

 心の中で悪魔様に呼びかけながら、萌流水は息を吸った。

 念のために、悪魔様が呼びかけに応じてくれなかった時の『話』についても考えてあった。適当に仕事ぶりを褒めて、日頃の感謝を伝えるなり、教えを請うなりすれば、”大手を振るって”仕事をさぼれたことも相まって、上機嫌にさせたままうまく切り上げられるだろうと予想をつけていた。本心では見下している相手であっても、それが必要であれば、さも心から尊敬しているかのように振舞うくらいは、萌流水にとっては造作もないことだった。

 心配は、無用のようだった。

 背中にざわざわとした気配を感じる。覚えのある気配。黒くて、透き通っていて、冷たい気配。悪魔様の気配。

 悪魔様が、興味深そうに、事の成り行きを見守っているのが分かる。

 

 ――――やっぱり。悪魔様は、本当にいる。だから、きっと、うまくいく。


 不思議な高揚を感じながら、萌流水は最上の目を見つめて静かな声で言った。


「最上先輩。先輩に、伝えておきたいことがあるんです」

「だから、何?」

「サボってばかりいないで、ちゃんとご自分の仕事をなさってくださいね? 先輩は、図書委員長なんですから。みんなのお手本になってもらわないと」

「なっ…………!」

「どうぞ、召し上がれ?」


 明後日の方ばかり見ていた最上が、萌流水を睨みつけてきたが、萌流水は余裕の笑みを浮かべて最上と視線を絡ませ、手の中に隠し持っていたゼリービーンズを無理やり最上の口の中へと押し込める。

 最上を見返す瞳に、知らず力がこもる。見つめる先で、最上の瞳から、ゆっくりと光が消えていく。ご主人様の命令を待つしか能のない木偶人形のように、薄ぼんやりと萌流水を見ている。

 全身の毛が逆立つような興奮を抑えながら、萌流水は最後の仕上げとばかりに、最上に命じた。


「先輩。これからは心を入れ替えて、外来星にばかり仕事を押し付けたりせず、自分のするべき仕事は、ちゃんと自分でしてくださいね?」

「……………………はい」

「では、これで話は終わりです。それでは、そろそろ仕事に戻りましょうか」

「……………………はい」


 人形のように頷くと、ずっと目を見開いたままだった最上は数度瞬きをしてから、どこか不思議そうに萌流水の顔を見つめていたが、やがて大きく笑みを浮かべながら言った。


「ええ、そうね。仕事に戻りましょう」

「は、はい。手伝います」

「ああ、別にいいわよ。そんなに時間もかからなかったし。このまま帰るなり、図書室を利用するなり、好きにしていて構わないわよ」

「いえ、そんなわけには。約束ですし」

「そう? じゃあ、悪いけれど、お願いするわね」


 萌流水に対してにこやかに話しかけてくる最上というのが慣れなくて戸惑ったけれど、首尾よくいったようだ。

 確かな手ごたえを感じて、自然と心が浮き立ってくる。

 ほんの少しだけ、綺璃亜に近づけた気がした。


 ――――でも、まだだ。まだ、足りない。綺璃亜先輩と並び立つためには、もっともっと、力をつけなくては。だって、綺璃亜先輩は、悪魔の力を完全に使いこなしている……。


 カウンターに戻り、最上たちと会話をしながらも、萌流水は、綺璃亜に心酔するきっかけとなった、あの日の出来事を思い出していた。




 最初はただ、“知っている”だけの存在だった。

 司空しくう綺璃亜は、とにかく目立つ少女だったからだ。

 だから、綺璃亜のことは知っていた。特に意図してこちらから探さなくても、その存在は勝手に視界に飛び込んでくるし、耳を澄ませなくても噂の方が勝手にやって来るからだ。

 圧倒的なまでの美貌。孤立しているにも関わらず、そのことを歯牙にもかけない態度。 どうしたって目に入るし、どうしたって気にはなる。それは、他のみんなも同じことなのだろう。それとなく耳をすましていれば、勝手に情報は入って来た。

 萌流水と同じ外来星で、成績はトップクラス。母子家庭らしきこと。校内で孤立しているのは、外来星でありながら、容姿、成績ともに群を抜いているところが生意気だと思われたせいだと考えていたのだが、噂によれば、綺璃亜の入学と入れ違いで卒業していった先輩の差し金ということらしかった。その先輩は星蘭女子中学の元生徒会長で、在学当時、校内で絶大な支持力を誇っていたようなのだが、どうやら綺璃亜とは腹違いの姉妹で、父親の愛人の娘である綺璃亜が、中学からとはいえ星蘭に入学したのが気にくわなかったから、というのがその理由らしい。ただの噂に過ぎないので、真偽のほどは定かではない。けれど、純血星たちは、あまりこの噂話を好まないことや、綺璃亜に直接絡んでくるような生徒は上級生に多かったことを考えると、あながち間違いではないのだろう。

 綺璃亜が最上級生となってからは、あまり見かけなくなったけれど、去年は廊下や階段の踊り場などで上級生に絡まれている綺璃亜の姿をよく見かけた。

 そんな時、綺璃亜は何を言われても冷たく見返すだけで、相手にしていないようだった。ただそれだけで、絡んできた方は、きまり悪そうに、もしくは苛立ちも露わに退場していった。相手にされないと分かっていてもちょっかいをかけてしまう純血星たちの気持ちも、分からないではない。綺璃亜には、見る者の心をかき乱すような魔性めいたところがある。

 視線も、意識も、勝手に吸い寄せられてしまうのだ。

 同じ外来星でありながら、萌流水とは真逆の道を行く綺璃亜。純血星たちの圧力にも屈せず自分を貫く綺璃亜の姿は、清々しかった。純血星たちが尻尾を巻いてすごすごと退散するさまを見るのは小気味よかった。見かければ、つい目で追ってしまう。けれど、その時は、まだそれだけだった。鬱屈とした学校生活の中の、ほんの一服の清涼飲料水のような存在で、心酔するまでには至らなかった。

 萌流水にとっての運命の日は、一学期も半ばを過ぎた頃に訪れた。

 放課後の、下駄箱での出来事だった。

 半端な時間だったのか、人影はまばらだったように思う。上履きを脱ごうとしたところで、入り口の真ん中あたりに立つ、綺璃亜の姿が見えた。遅れて、相対するように立つ、三年生らしき生徒に気づいた。三年生が、一方的に綺璃亜に詰め寄っているようだった。

 いつものことと言えば、いつものことだ。

 けれど、こんなに間近で見るのは、初めてだった。つい手を止めて、見入ってしまう。遠巻きに見ていた時には気が付かなかったけれど、こうして近くで見ると、綺璃亜は本当に純血星の言いがかりを相手にしていないようだった。そうは言っても、仕方なく相手をしているのだと思っていた。無視をしたり、言い返したいのを我慢して、こうしたほうが結果的には早く終わるからと、仕方なしに相手をしているのだと思っていた。

 けれど、どうやらそうではなかったらしい。

 綺璃亜は、ごく自然体でそこに立ち、ただ相手を観察していた。スクリーンの向こうで騒いでいる役者を観ているだけのような、柵の向こうでキーキーと騒いでいる猿山の猿を眺めているだけのような、そんな温度で。

 それは、萌流水にとって、衝撃的だった。

 自分を貫くことと引き換えに、孤立させられているのだと思っていた。自分を抑えることと引き換えに、形ばかりではあってもクラスの一員として認められている萌流水とは反対に。

 でも、そうではないのかもしれない。綺璃亜は、何も代償を払うことなく、ただありのままでいるだけなのかもしれない。猿山の猿たちは、綺璃亜のことを自分たちの仲間だと思って騒ぎ立てているけれど、本当はそうではないのだ。猿たちには見えていない柵が、綺璃亜には見えている。綺璃亜にとっては、綺璃亜だけが人間で、他の生徒はみんな、猿山の猿にすぎないのだ。猿たちがどんなに騒いでも、綺璃亜には関係ない。何の影響も受けない。孤立させられているわけでもない。そもそも、仲間ではないのだから。

 卑屈になる必要も、肩ひじを張る必要もないのだ。

 綺璃亜一人だけが、別の次元を生きているのだから。

 そのことに衝撃を受け、同時に感動を覚えてもいた。

 視線に気がついたのか、綺璃亜がチラリと萌流水を見た。それから、笑った。萌流水にではない。綺璃亜の目の前で捲し立てているお猿さんに、だ。綺璃亜が艶然とした笑みを浮かべると、お猿さんは息を呑んで口撃を止めた。お猿さんが黙り込むと、綺璃亜は流し目を一つ残して、一人悠々と校舎の外へと歩み去ってしまう。

 萌流水も、お猿さんも。立ち去る綺璃亜の背中から、目が離せないでいた。ハッとするような、背筋を何かが駆け上っていくような、魔性の微笑み。『綺璃亜先輩は悪魔的に美しい』と、この時萌流水は初めて思った。

 それまでの、感情を交えることなく観察者に徹していたガラス玉のような瞳に浮かんだ、見る者の魂を絡めとるような怪しい光。毒の混じった朝露を浴びて綻ぶ深紅の薔薇のように笑んだ唇。

 あんなものを見せられては、とても平静ではいられない。文字通り、魂を抜かれてしまいそうだった。何も言えずに立ち尽くすお猿さんの耳は、赤く染まっていた。たぶん、あのお猿さんはもう、綺璃亜に噛みつくことはないのだろう。目を合わせることすら、出来ないのではないだろか。綺璃亜の姿を見るだけで、あの陶然とさせる笑みを思い出し、それだけで何も言えなくなってしまうはずだ。

 萌流水もまた、あの笑みにすっかり心を射抜かれていた。ただ、あのお猿さんとは少し意味合いが違う。もちろん、あの笑みを思い出すだけで、頬が熱くなったりはする。するけれど、萌流水の心を掴んだのは、笑みそのものよりも、その笑みのもたらした効果の方だった。

 微笑み一つで、綺璃亜はキーキーうるさいお猿さんを黙らせてしまった。あの手を使ってうるさい猿どもを黙らせて信者にしていけば、外来星でありながら星蘭女子の女王として君臨することだって出来るはずだ。なのに、それをしないのは、星蘭のお猿さんたちなど、本当にどうでもいいと思っているからなのだろう。

 それと、もう一つ。綺璃亜はたぶん、萌流水のために普段ならしないような微笑みのプレゼントをお見舞いしたのではないかと思うのだ。綺璃亜とお猿さんは、出入り口のちょうど真ん中あたりに立っていた。綺璃亜たちが邪魔で、下級生である萌流水が外に出られなくて困っているのだと思って、萌流水のためにお猿さんを黙らせようとああしてくれたのではないかと思うのだ。それとも、もしかして、萌流水が下級生であるだけでなく綺璃亜と同じ外来星であることを知っていて助けてくれたのではないだろうか。

 純血星たちのことなど歯牙にもかけず、一人悠々と星蘭女子を泳ぎながらも、同じ外来星のことは気にかけてくれるのだとしたら。


 ――――それだったら、素敵なのに。


 本当のところは、どうだか分からない。萌流水のためでも何でもなく、ただの気まぐれだったのかもしれない。でも、萌流水は自分の信じたいものを信じることにした。

 色褪せていた学校生活が、途端に華やかに色づき始めた。一部限定ではあったけれど。

 直接助けてくれなくても、綺璃亜がただ綺璃亜らしくいてくれるだけで、萌流水にとっては救いとなった。つまらなかった学校が楽しくなった。悠然と歩く綺璃亜の姿を見かけるだけで、幸せな気分に浸れた。

 けれど、親しくなりたい、名前を覚えてもらいたい、とは思はなかった。自分が、綺璃亜に釣り合うとは思えない。綺璃亜の隣に並べる人間なんて、存在しないのではないかとすら思えた。綺璃亜にはいつまでも、一人で悠々と自分だけが存在する世界を泳いでいてほしかった。

 誰の手も届かない、誰にとっても永遠に高根の花でいてほしかった。




 その想いが、今。さらに加速していた。

 だって、綺璃亜は悪魔と契約して、その力を手にしたのだから。普通の人間なんて、そもそも釣り合うはずがないのだ。

 今や萌流水は、そのことをまるで疑っていなかった。

 綺璃亜が一人でいても平気なのは、悪魔がパートナーとして常に傍にいるからなのだ。

 あの日見た、ゾクリとするような悪魔的なまでに美しい微笑みは、綺璃亜が悪魔の力を手に入れているからこそ、なのだ。

 きっと、綺璃亜は完全に悪魔の力を自分のものにしているのだろうと萌流水は思った。

 だから、ゼリービーンズに頼らなくても、時間や場所を選ばず、校内ならどこでも、その力を振るうことが出来る。やろうと思えば、綺璃亜はいつでもどこでも、微笑み一つで純血星たちを大人しくさせることが出来るのだ。


 そう思うと、心が震えた。

 早く、自分もその高みまで到達しなければと思った。

 綺璃亜と同じだけの力を手に入れれば、きっと綺璃亜に認めてもらえる。

 綺璃亜と同じ悪魔の力を手に入れた自分だけが、綺璃亜に相応しい存在となれる。

 そう、萌流水は信じた。


 萌流水にとっての運命のあの日。

 萌流水は綺璃亜に魂を墜とされた。

 でも、もしかしたらあの時すでに、綺璃亜だけでなく悪魔にも墜とされていたのかもしれなかった。

 そう考えて、萌流水は唇に笑みを刻んだ。


 心の奥底から聞こえてくる警鐘の響きは、萌流水の耳には届かなかった。

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