夢と現の狭間で彼女が選んだ未来 Side-M③
「おはようございます」
よく通るけれど控えめな挨拶と共に
誰とも目を合わせることなく、かといってオドオドと目を伏せるわけでもなく、萌流水は真っすぐに自席へと向かった。窓際の前から三つめが萌流水の席だ。
席に向かって歩き始めると、すぐに探るようなねっとりとした視線が後方から絡みついてきた。萌流水は、それには全く構わずに机まで辿り着くと、通学カバンの中身を引き出しへ移していく。
それは、毎朝のお決まりの行事だった。視線の主は、分かっている。このクラスの女王様的存在である、安西
少し派手目のアイドルのように整った顔立ちと、学年で常に十位以内をキープしている成績が自慢で、運動神経も悪くない。仕切りたがり屋で、目立ちたがり屋。一年生の頃から連続で、学級委員に立候補している。容姿と成績に優れ、二年連続で学級委員長を務める梨々花は、名実ともにこのクラスの女王様だった。
梨々花は、小学校からの持ち上がり組である
『外来星の分際で、純血星である自分より上に行くなんて、許さない』
つまりは、そういうことなのだろう。
学級委員長としての体裁に拘る梨々花は、不要にクラスの和が乱れることを良しとしなかった。自分の治めるクラスに問題など起こるはずがないと、自分の有能ぶりを教師たちにアピールするために。その甲斐があって、萌流水の在籍する二年二組は、学年で一番まとまりのいいクラスだと教師たちの間では評判がいい。当然、学級委員長である梨々花の評価も高い。
表面的には、二年二組は何の問題もない、学年で一番平和なクラスだった。
実際には、その足元に、大きな地雷が埋まっているのだが。
足元、という表現は、適切ではないかもしれない。他ならぬ萌流水自身が、二年二組の地雷だった。
入学当初、萌流水は髪をハーフアップにして、細めの白いリボンで結んでいた。それが一番、星蘭女子のイメージを損なわず、自分の清楚な魅力を引き立てる髪形だと自覚していた。タイプは違うけれど、梨々花にも引けを取らないと内心では思っていた。
だが、それが梨々花のお気に召さなかったようだ。
誰かが萌流水の顔立ちを褒める度に、梨々花とその取り巻きから、射るような視線が飛んできた。そのことに、敏感に気が付いたクラスメートたちは、次第に萌流水と距離を置くようになった。空気が読めない鈍感な誰かが、不用意に萌流水を褒める度に、ピリッと不穏な空気が走った。
それは、授業中にも起こった。萌流水の模範解答を教師が褒めた時の梨々花からの圧は、普段の比ではなかった。たぶん、それが決定打となった。
容姿でも勉強でも、自分を脅かしかねない萌流水のことを、梨々花はこの時、明確に敵と認定したのだ。敵というよりも、叩くべき杭というべきだろうか。
この時から、萌流水にはっきりと分かるくらいに圧がかけられるようになった。
梨々花からも、女王に靡くその他大勢たちからも。
両者とも、直接、萌流水に何かを仕掛けてくることはないし、何か言うわけでもなかった。ただ、無言で萌流水に圧をかけてくるのだ。
梨々花からは、『歯向かうなら、容赦しない』という視線が。
その他大勢からは、『女王に逆らわないで。大人しくしていて』という視線が。
戦うのか、屈するのか。
女王が何かを仕掛けてくる前に、決めなくてはならなかった。
真っ向から女王に勝負を挑み、完膚なきまでに叩きのめしてやれれば、最高にいい気分になれるのにとは思ったけれど、その選択肢は早々に消し去った。
地の利は、女王にある。クラスメートの大半は女王と同じ純血星で、既に女王に靡いている。それに、その頃には、井原の噂が耳に入っていた。外来星の天敵ともいえる、教師の井原。同じく外来星である二年生の先輩が、こっそり教えてくれたのだ。目を付けられないように、気を付けて、と。
こうなると、純血星と事を構えるのは、得策とはいえなかった。外来星の天敵である教師の井原と、純血星で学級委員長でもある梨々花。二人に手を組まれたら、さすがに勝ち目はない。
それに、内なる声が聞こえてきたのだ。
『やめておけ』
と。岐路に立たされた時、心の奥底の方から聞こえてくる声。その声が何なのかは分からないけれど、逆らったら碌な目にあわないことは、経験上分かっていた。
だから、萌流水は選んだ。
戦わない道を。
圧に屈したわけではない、内なる声に耳を傾けただけだと、自分に言い聞かせて。
まず は、見た目をどうにかすることにした。なるべく地味に見えるように、今のかっちりとした三つ編みに髪形を変えた。元々の生真面目な性質が強調されるのか、髪形一つで随分と印象が変わった。清楚な美少女は、真面目で融通が利かない地味少女へと変貌を遂げた。
萌流水からしてみれば微妙なラインの成績も、当人にとっては自慢の種らしいので、勉強でも手を抜くようにした。本気を出せば、学年トップも狙えるはずだが、わざと加減をして三十位から五十位の間に留まるようにしている。出来れば、もう少し上を狙いたかったが、間違って梨々花を追い抜くことがないように気を付けていた。
自分の評価を下げ過ぎず、かつ、梨々花の機嫌を損なわないようにうまく立ち回るのは、要領のいい萌流水にとって、そんなに難しいことではなかった。不満と鬱憤はもちろんあるが、うまく立ち回ることに、若干のゲーム的な楽しさも感じてはいた。悦にいった女王の態度は気にくわないし、苛立つことの方が多いのだが。
それでも、一年待てば状況も変わると、見せかけの平穏のために、萌流水一人が犠牲になる道を選んだ。誤算だったのは、二年生に進級する際に、クラス替えが行われなかったことだ。
そうと知った時には、ひどく落胆した。それでも、腐らずに、この日常を続けていられるのは、綺璃亜という一筋の光を見つけていたからだ。その光だけが、救いだった。
加えて、皮肉ではあるが、女王の采配が絶妙だったおかげもある。
確かに、萌流水は翼をもがれた。
けれど、それさえ我慢すれば、鳥籠の中での平穏は、約束されているのだ。
なぜなら、女王自身が仮初の平穏が続くことを望んでいるからだ。クラスに問題が生じれば、梨々花の学級委員長としての評価に傷がつく。
だから、梨々花は完全に萌流水を縛り付けることはしなかった。完全に孤立させられることもなかった。流風は別として、休み時間に積極的に萌流水が話しかけられることはない。休日に遊びに誘われることも。だが、授業や行事で、グループで何かを行うときには、礼節を守った適切な距離感で接してくれる。流風の存在が許されているのも、その一環なのだろう。外来星な上に、すべてにおいて平均以下の流風だから、というのもあるのだろうが。歯牙にもかけない存在である流風だからこそ、萌流水の友人には相応しい相手だと、内心では嘲笑っているのだろう。
優秀な学級委員長の面子を保つためには、締め付けをきつくし過ぎて反乱を起こされたり、不登校になられたりするよりは、現状を維持する方が、女王にとって都合がいいのだ。
萌流水が反旗を翻したりしなければ、狭い鳥籠の中での自由は保障されている。
不満はあるが、我慢できないほどではない。
悔しいけれど、その手腕については、萌流水は梨々花を評価していた。
毎朝の女王様のサーチアイ。
それは、女王が萌流水に反逆の意思がないことを確認するための儀式だった。
注意深く萌流水の様子を窺い、いつも通りだと判断すれば、女王はそれで満足して萌流水への興味をあっさりとなくす。
今朝も、ざっと萌流水をひとなめして、特に変わった様子がないことを確認すると、女王の視線はあっさりと引っ込んでいった。
――――そうやって、大人しくしていなさい? そうすれば、見逃してあげる。隅っこでひっそりと息をすることを許してあげる。
視線に込められた言外の圧。
萌流水にとっては、自分の現状を突きつけられる、最悪の時間だ。
萌流水の様子を窺っているのは、女王だけではない。その他大勢たちも、息をひそめて、女王と萌流水の動向を窺っている。
さざ波のような雑談の声がピタリと止まり、静けさの中、ピリリとした緊張が走る。
女王が異変のないことを確認し終えて、萌流水への興味を失くすと、ふつっと糸が切れたように安堵の混じったさざ波が、また教室の中に広がっていく。
それが、昨日と同じ平穏な一日が始まる合図なのだ。
クラスの誰よりも高く羽ばたけるはずの萌流水の翼を代償とした、仮初の平和が始まる合図。
水面下の抗争に、未だに気づいていないのは、恐らく、鈍感な流風だけだろう。
流風は萌流水にとって、ひどく複雑な存在だった。その存在に慰められたり、助けられたりしたことも、もちろんある。けれど、同時に、萌流水の心をささくれ立たせ、苛立たせる存在でもあった。
流風が授業中にとんちんかんな回答をして失笑を買った時の、これが自分の友人なのかという、うんざりした気持ち。萌流水と梨々花の水面下での確執に気づいていなからこその無邪気な発言に、ヒヤヒヤさせられたこともある。
完全なる孤立から萌流水を救ってくれたのも事実だが、このどうしようもなくつまらない現実を、萌流水に突き付けてくる存在でもあった。
羽をもがれたような。生殺しにされているような。
うんざりするような、つまらない現実。
そんなすべてをぶち壊してやりたいと思ったことなんて、もちろんある。
そのための力を、萌流水は手に入れたはずだった。
女王を、虚ろなだけの人形にしてしまえる力。
だというのに、萌流水は浮かない顔で窓の外の雲を眺めている。
昨日の夜は、確かにそのつもりでいた。
梨々花を井原のように出来れば、と。梨々花を、魂のない操り人形にしてしまえば、と。
もっと自由に、学校での生活を楽しめるようになる。地味に見えると分かっていて、わざわざこんなつまらない髪形をする必要はない。校則に違反しない程度に、自由にお洒落を楽しめる。テストで手を抜く必要もない。梨々花を抜かさない程度に、でもなるべく高い点数になるようになんて、余計なところに頭を使わなくていい。全力で、自分の実力を試せる。
そこまでするつもりはないけれど、萌流水こそがクラスの新しい女王として君臨することも出来る。
そう考えると胸が躍った。
何でも思う通りに出来るという高揚感に包まれながら、どうやって梨々花を誘いだそうかを考えながら眠りについた。
けれど、一晩経ってみれば、高揚感は消え去り、すっかり冷静さを取り戻していた。そうして理性を取り戻してみれば、昨日のことは夢だったのだとしか思えない。
だって、そうだ。
魂を食べる悪魔なんて、とても現実とは思えない。
とはいえ、悪魔なんて現実にいるわけがないと一刀両断するには、昨日のアレはあまりにも生々しかった。冷たくて黒い手に心臓を鷲掴みにされかけた時の、総毛だった感覚。あれが夢だとは思えない。確かにあれは、リアルだった。
理性と感覚と願望がせめぎ合い、どこまでが夢でどこからが現実なのか、見失いそうになる。
――――どうせなら、最初からすべて、夢ならいいのに。
朝起きて、夢から覚めた萌流水は、制服に着替えながら虚しく願った。スカートのポケットには、ゼリービーンズが詰まった巾着袋が入ったままだ。その重みを感じても、湧き上がってくるのは虚しさばかりだ。
その重みに、何の喜びも感じていない自分を自覚して、あらためて気づかされる。確かに、不満の多い学校生活ではあったけれど、それでも、そこにだって一筋の光は差し込んでいたのだと。
悪魔的に麗しいその人の姿。その存在のすべて。その人を思わせる、お守りがわりの巾着袋。萌流水が見つけた、その人が好んで食べている、ゼリービーンズが詰まった巾着袋。
すべてが夢なら、あの水色の一幕からすべてが夢なら、大事なものは大事なもののまま、一点の曇りもなく萌流水の心を照らしてくれるはずなのに。
それこそ都合のいい夢にすぎないと、萌流水には分かっていた。
あのどうしようもない喪失感と絶望は、夢なんかではありえない。たとえ夢だったとしても、もう元には戻れない。光には翳りが生じてしまった。それは、それだけは間違いなくリアルだ。
――――そうじゃないなら。すべてが夢でないのなら。目が覚めて全部がなかったことになってしまわないのなら。いっそ、すべてが現実ならいいのに。
ならばいっそ、と萌流水は願った。
夢と同じくらいに、現実を願った。
すべてが現実であることを願った。
すべてが現実なら、悪魔が実在するなら、それはそれで。
萌流水にとって都合の悪い、すべてがなかったことになる。
昨日の井原の虚ろな人形ぶりをからして、萌流水の校則違反は、有耶無耶になっている可能性が高い。なっていなかったとしても、萌流水の停学や外来星だけの持ち物検査を職員会議で押し通すほどの気概はもうないはずだ。
それよりなにより、流風だ。すべてが現実なら、あの水色の一幕も現実だったということにはなる。だが、それも、萌流水が井原にしたことと同じことなのだと思えば、焦燥もない。流風は萌流水を差し置いて綺璃亜との絆を深めるイベントを起こしたのではない。綺璃亜の世界を邪魔したから、そのつまらない魂を悪魔のエサとして捧げることになっただけなのだ。
そう考えれば、むしろ胸がすく。
萌流水的にありえない願いに縋りそうになりながらも、それでも萌流水は現実的だった。都合のいい願望を振り払い、萌流水にとっても最悪のケースに備えるべく行動する。
最悪のケース。
水色も校則違反の発覚もすべてが現実で。悪魔の件は、ショックのあまり一部記憶があいまいになった萌流水が見た都合の良い妄想に過ぎなかった場合だ。
普通に考えれば、それこそが現実のはずだ。
今のところ、学校から両親に連絡がきている気配はない。地獄のような憂鬱が始まるとすれば登校してからになるだろう。朝っぱらから、一人浮かれ切った流風に打ちのめされたあげく、担任から職員室へと呼び出される。そんな一日が始まるはずなのだ。なんとか、被害を最小限にするための言い訳を考えなければならなかった。
ポケットの中の巾着袋は、机の引き出しの奥へとしまい込んだ。昨日の今日だというのに、またしても同じ校則違反をしているとなったら、さすがに言い逃れが出来ない。
いつも以上に感情を押し殺して、薄っすらとした笑みを浮かべ、何事もないふりで登校した。
いつものように挨拶して、いつものように梨々花をやり過ごし、自席について予鈴を待つ。
静かに予鈴を待つふりをして、これから登校してくるはずの流風を待つ。
萌流水より少し遅れて登校してくる流風を、静かに待つ。
流風じゃあるまいし、悪魔なんて信じたりしないと嘯きながら、それでも心のどこかで期待していた。
いつもと同じ、素敵なことなんて何一つ起こっていない、平凡でつまらない、いつも通りの流風が現れることを期待して、そして。
裏切られた。
「おはよう! 萌流水!」
「…………おはよう。流風」
弾むような足取りで姿を現した流風は、春の訪れのような満開の笑顔で萌流水に朝の挨拶を告げる。片思いがようやく実ったかのような、淡い色の春の花たちが咲き乱れているかのような笑顔。
吹きすさぶ吹雪の世界に突き落とされながらも、萌流水は笑顔を浮かべて挨拶を返した。
これから職員室で起こるはずのことよりも、今が一番の地獄だと思った。
――――もういいから、早く目の前からいなくなって。
零れ落ちそうな言葉を押しとどめ、ひたすら笑顔を浮かべる。そのことだけに、全神経を集中する。
体中の毛穴という毛穴から、漏れてはいけない感情が滲み出てきそうだった。ドロリとしたものが、腹の奥から湧き上がってくる。鬱々とした気持ちは、沸々とした怒りに塗りつぶされていく。
今にも溢れそうな禍々しく渦巻くオーラに、この世の春を満喫している流風は気づいていないようだった。
「萌流水にだけ、いいこと教えてあげる!」
弾んだ声でそういうと、流風は腰をかがめて萌流水の耳元に口を近づけた。口元に左手をあてた、内緒話のポーズ。
振り払いそうになる衝動を、萌流水は無理やり抑え込んだ。
「あのね。
こそっと萌流水の耳元で囁くと、流風はポニーテールの毛先と白いリボンを揺らしながら、教室の後ろ側にある自分の席へと去っていく。
――――そんなこと、とっくに知っている!
それは、萌流水だけの秘密だった。秘密のはずだった。それなのに。
萌流水の方が先に知っていたのに、教えてあげるだなんて、偉そうに。
弾むように揺れるリボンが忌々しかった。
その白いリボンを、初めて見せられた時もそうだった。
綺璃亜を好きになったのは、萌流水の方が先だったのに。流風は最初、怖くて苦手なんて言っていたくせに。
ある日突然、手のひらを返したように、「綺璃亜先輩は、本当は優しい」なんて言い始めて、綺璃亜の姿を目で追いかけるようになった。言い出したその日から、流風は白いリボンを毎日つけるようになり、今では流風のトレードマークだ。
白いリボンについて、流風は何も語らなかった。
萌流水も聞かなかった。聞きたくなかったからだ。
聞かなくても分かる。
その理由が綺璃亜にあることなんて、聞かなくても分かった。
リボンを結び直しては、嬉しそうに頬をにやけさせる流風を見る度に、苛立ちが湧き上がった。決して、それを表には出さなかったけれど。
認めたくはないが、羨ましかった。でも、羨ましがっていることを流風に知られるのは、プライドが許さなかった。
萌流水も欲しかった。自分だけが知る綺璃亜の秘密。それを象徴する、特別なアイテム。
ずっと欲しかったそれを、やっと手に入れたと思ったのに。
また。またしても。
萌流水が大事にしていたものを、流風は土足で踏み荒らしていった。
萌流水が流風には秘密にしていたことを、あっさりと打ち明けたことすら、腹立たしい。
それは、そうだろう。なぜなら、流風は。綺璃亜の好物、それ以上の秘密を、綺璃亜本人と共有しているのだから。
だから、それくらいは……綺璃亜がゼリービーンズを好んでいるということくらいは教えてあげてもいいと、そういうことなのだろう。
萌流水が大事にしていた秘密は、もう秘密ではなくなった。しかも、その秘密は流風にとっては、萌流水に教えてもいい程度の、おこぼれ程度の意味しかもたないのだ。
――――許せない。
涼し顔を装いつつ、窓の外の目線を向ける。空は爽やかに澄み渡っているけれど、見つめる萌流水の中には、赤黒い炎が荒れ狂っていた。世界を滅ぼしてしまいそうな、世界が終わってしまいそうな、禍々しい炎が。
ホームルームが終わっても、きっと自分が担任に呼ばれることはないだろうと、今、萌流水は確信していた。
そうでなければ、おかしいからだ。
“それ”が現実なら、“あれ”も現実でなければおかしい。
流風だけが、よりにもよって流風だけが特別な何かに選ばれて、萌流水が選ばれないなんて、そんなことは絶対にあり得ない。あってはならない。
だから。
だったら。
あの、ケミカルな水色に纏わる事件は、すべてが現実のはずなのだ。
――――そう、だって。流風なんて、全然特別じゃない。あんな平凡を絵に描いたような子、綺璃亜先輩には相応しくないもの。あれが、本当だったなら、悪魔様だって存在するはず。私に、綺璃亜先輩に相応しい力を与えてくれる悪魔様だって、存在するはず。だって、そうでしょう? そうでなければ、おかしいもの。
切り裂いて血が溢れる寸前まで、唇を噛みしめる。
手の施しようがないほどに、猛り踊り狂う炎。
その炎に惹かれて来たのだろうか。
覚えのある気配を感じて、萌流水は口角を吊り上げた。
放課後の図書室で感じた気配。
背筋がざわざわするようなその気配に、萌流水はもう恐れを抱いてはいなかった。
――――やっぱり! 悪魔は、いいえ。悪魔様は、この学校に存在している。わたしと契約するために。わたしに力を与えるために。
黒くて冷たくて澄んだ気配を全身に感じて、萌流水は喜びに打ち震えていた。
現実的ではないと切り捨てたはずの存在を、今は微塵も疑っていなかった。
萌流水が、“悪魔様”に心を開こうとしたその時。
『ソレトハ カカワルナ』
そんな萌流水を諫めるような警鐘の声が、心の奥底から聞こえてきた。
初めて聞こえる声ではない。
入学して間もない頃。梨々花に対して爆発しそうになった萌流水を、止めてくれた声。今までに何度か、萌流水を窮地から救ってくれた声。
声は確かに、萌流水の耳に届いた。
けれど。
踊り狂う炎に酔いしれる萌流水の心には、少しも響かなかった。
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