Side-R③ 青い騎士は乙女の敵ならぬ乙女の悪魔でした。

 透き通るように青かった空は、いつの間にか、不思議な輝きを放つターコイズブルーへと色を変えていた。

 まるで、魔女の住む森に彷徨い込んだかのようだった。

 飴細工の蝶々が、粉砂糖の鱗粉をまき散らしながら、目の前を通り過ぎていく。

 森の中に、ほのかに漂う甘い匂い。

 左前方の木の枝から、ドーナツがいくつもぶら下がっていた。プレーン、チョコ、砂糖衣のかかったもの、星形やハート型の飾りがのったもの。

 少し進むと、りんご飴の実が生る木も見えてきた。

 足元からは、シュワシュワと何かが弾ける音。

 音につられて視線を下げると、小道の脇に咲いている花から聞こえてくるようだった。ガラスでできたラッパ水仙みたいな花。葉も茎も、本物の植物に見えるのに、花だけがガラスでできている。ラッパ水仙のグラスのような花の中では、イチゴソーダがパチパチと泡を弾けさせていた。

 異世界というよりは、絵本の中に入り込んでしまったようだった。

 歩くペースが遅くなり過ぎないように気を付けながら、流風るかは物珍し気に視線を彷徨わせる。



 今でこそ、森の様子を気に掛ける余裕が出てきたけれど、ドームを出たばかりの頃は、とてもそれどころではなかった。



 始まりの場所であるドームの中で無事に契約が終わると、キリーは流風を置いて、一人でさっさとドームの外へ出ていってしまったのだ。正真正銘、流風は“天の乙女”だったのだ、と感慨に浸る間もなかった。

 慌てて青い背中の後を追って、ドームの外に出る。出入り口の向こうには、左右に分かれた小道が伸びていた。右の方へ折れていったキリーの後に流風も続く。

 キリーは、一度も流風を振り返らなかった。少しも流風を気にかけることなく、小道の先をどんどん進んで行く。流風なんて存在していないかのような無関心ぶりに、さすがに慌てた。小走りで、遠ざかっていく背中を追いかける。

 こんな、見知らぬ異世界の森の中で、一人きりで置き去りにされたら、迷子になることが確定だ。元の世界に戻るどころではなくなってしまう。王女様を助けるためには、天の乙女の力必要なのだから、本当に置いて行かれるはずはないと信じたいのだが、女の子連れを一切考慮していないハイペースぶりに、それすら怪しく思えてきた。

 王女様が心配で居ても立っても居られないのかもしれない。けれど、流風のことなんてすっかり忘れ去ったかのように、流風がちゃんとついて来ているかどうか確認すらしないのだ。

 足の長さが違うからだろうか。速足で歩いているキリーを小走りで追いかけているというのに、一向に差は縮まらなかった。このままでは、本当に置いて行かれてしまいそうで、流風は焦って、本気で走り出した。運動は得意な方ではないので、本気といってもたかが知れているが、それでも走った。

 小道は、流行りのハイキングコースみたいによく整備されていて、木の根っこや小さな岩に躓く心配はなかった。それなのに、焦っていたせいか、単に運動音痴のおっちょこちょいだからか、途中で足が縺れて、足元がまっ平らなところで転んでしまう。流風は悲鳴を上げながら、地面に向かって盛大にスライディングした。

 痛みよりも恥ずかしさよりも、置いて行かれるかもしれない不安の方が勝った。もう姿が見えなくなってしまったかもしれない、と思って半泣きで顔をあげると、流風の悲鳴が聞こえたのだろうか。

 意外にもキリーは、流風を振り返り、立ち止まってくれていた。とはいえ、心配して駆け寄るでも、声をかけてくれるでもない。

 その場に立ち止まったまま、腕組みをして、流風が起き上がるのを待っている。


 ――――早く起き上がらないと、本当に置いて行かれちゃう!


 置き去りにされたくない一心で、流風は怪我の確認もしないままに立ち上がると、キリーに向かって、もう一度走り出した。特に痛みもなく、問題なく走れているところからすると、実際大した怪我はないのだろう。

 流風が問題なく動けることが分かれば、また一人で先に行ってしまうのではないかと思ったけれど、キリーはまだ、後ろを振り向いたままで待ってくれていた。転んだ流風を気遣うような素振りは見せないが、かといって足手まといの流風に苛立っている様子もない。

 悪魔的に冷たい眼差しで、ただ静かに流風を待っている。

 王女様を助けるためには、天の乙女である流風の力が必要なのだから、それくらい当然と言えば当然かもしれない。

 でも、それでも。たったそれだけで、流風は嬉しくなってしまった。途端に足が軽くなった。今度は、転ばずにキリーの元まで辿り着けそうだった。自然と笑顔が浮かんでくる。呼吸は苦しいけれど、流風は笑顔を浮かべながら、キリーに駆け寄っていく。

 なのに、その笑顔が気持ち悪かったのだろうか?

 キリーは流風の到着をまたずに、あと少しというところで、前に向き直り歩き出してしまった。


 ――――え、ええ!?


 抗議の声を上げそうになったけれど、寸でのところで思いとどまった。

 キリーがさっきよりも、歩く速度をゆっくりめにしてくれていることに気づいてしまったからだ。


 ――――あ、でも……うん。きっと、このくらいの距離間の方が、いい。


 そう思って流風は、追いつく前に走るのをやめた。

 キリーの背中まで、三メートルほどの距離を保ちながら、心持ち速足で青い騎士の後をついていく。旅の連れというよりは、たまたま行き先が同じもの同士、くらいの距離感。

 これ以上近づいたら、ドキドキして、また足元が疎かになってしまう。だから、このくらいが丁度いいのだと流風は自分に言い聞かせた。

 氷塩対応ではあるけれど、流風を置いていくつもりはないのだと分かっただけでも収穫だ。少し安心して、それでようやく、周りを気にする余裕が出てきたのだ。


 まずは、先を行く青い背中を、改めて観察してみる。決して筋肉質というわけではないけれど、騎士というだけあって、しなやかな逞しさを感じる。女の子である綺璃亜きりあにはない、力強さ。顔立ちはそっくりでも、後ろ姿は完全に別人だった。だって、キリーは、男の人なのだ。そうと意識すると、なぜかやたらと胸が騒いだ。落ち着かない気持ちになった。普段から、そんなに落ち着きがあるタイプではないのだけれど、いつも以上に落ち着かない気持ちになった。

 それを誤魔化すように、上空へと視線を逸らす。

 そうしたら、枝と葉の隙間からのぞく空は、不思議に輝くターコイズブルーだった。どこからか漂ってくる、甘い匂いに鼻をヒクつかせる。匂いに誘われて、青い背中を視界におさめつつ、右へ左へと視線を動かしてみれば、森の中にはお菓子が咲き乱れ、実っていた。

 不思議なゼリービーンズの木がある神秘の森は、魔女に魔法をかけられたお菓子の森へと様変わりしていた。


 ――――どんな味がするんだろう? ちょっと、興味はあるけど。でも、食べたら、魔女の呪いにかかっちゃいそうな気もするんだよね……。


 味はきっと、すごく美味しいのではないかと思う。でも、一口でも食べたら、何かマズイことが起こってしまう気がした。甘い匂いに酔いながら、流風は魔女の呪いがどんなものかを想像してみる。

 定番といえば、一口食べただけで、動物や虫に変身させられてしまう類の呪いだろうか。お菓子にされてしまうというのも、あるかもしれない。でも、そうすると、森の中にあるお菓子の花や実は、魔女の呪いにかけられた元人間ということになるわけで、そう考えると怖くなってくる。

 お菓子にされた流風に気が付かないまま、一人で先に進んでしまうキリーの姿が思い浮かんで、流風はふるりと身を震わせた。小枝を持っていない方の手で腕をさすりながら、もう少しライトな呪いがないものかと考えてみることにした。


 ――――んー。実はものすごくハイカロリーで、一口食べただけで体重がすごいことになっちゃうとか……? いや、これはこれで怖いな。なんか、こう、現実的な怖さがある。魔女の呪いは、乙女の敵だった。ん? 乙女の敵……?


 魔女の呪いは乙女の敵であるという結論に辿り着いて、流風は頬を赤らめた。チラリ、と前を歩く青い背中を見る。

 わざと見ないようにしていた、青い背中を。

 せっかく、そこから気を逸らそうと頑張っていたのに、結局そこに辿り着いてしまった。

 青い背中の主こそ、流風にとっては、正真正銘乙女の敵……いや、乙女の悪魔だった。

 冷たく甘い一粒が口の中に滑り込んできた時のことを思い出して、流風は頭も顔も茹で上がらせる。小枝を握りしめる右手は、汗ばんでしっとり……を通り越してじっとりしていた。

 あんな事さえなければ、事あるごとに手の中の小枝に実った水色のゼリービーンズを眺めて、ニヤニヤしていたことだろう。

 契約が成立した直後は、自分の身に起こったファンタジックな出来事と、本当に自分が選ばれたんだという感動で、その直前に騎士から受けた乙女に対する悪魔的に非道な行いのことは忘れていた。

 でも、今はもうだめだ。

 水色のゼリービーンズを見たら、きっと思い出してしまう。

 思い出してはいけないことを。

 そう、あれは思い出してはならない。だって、ある意味あれは、事故だったのだから。乙女心を刺激しまくるキュンキュンに甘いワンシーンだったのに、キリーの態度には甘酸っぱさのカケラもなかった。

 あれは絶対に、流風のことなんて何とも思っていない。口で説明するよりも、こっちの方が早いな、とかその程度の意味しかなかったはずだ。早く王女様を助け出すための、最も効率的な方法をとっただけだ。

 それが、流風にどういう効果を及ぼすかなんて、考えてもいなかったに違いない。考えていなかったというよりも、流風個人の気持ちなんて、キリーにはどうでもよかったのかもしれない。天の乙女としての役割さえ果たせば、それ以外はどうでもいいのかもしれない。


 でも、やられた流風は、そうはいかない。


 女同士である綺璃亜にしてもらった時だって、クラッカーと鐘の音が鳴り響くお空の国から帰って来られなくなって大変だったというのに。

 キリーときたら、年頃の男子で、さらに綺璃亜そっくりの恐ろしいまでの美貌なのだ。

 直前まで、キリーのことなんて、これっぽっちも何とも思っていなかったとしても、あんなことをされたら。たとえ、甘酸っぱさ皆無だったとしても、あんなことをされたら。

 乙女的に忘れられない。

 忘れられないけれど、でも。

 でも、忘れなくてはならない。

 元の世界に戻るまでには、何としても忘れなくてはならない。

 だって、そうしなければ、水色のゼリービーンズは、その効力を失ってしまう。それは、流風と綺璃亜の、二人だけの約束の証だったのに。そうではなくなってしまう。

 二人だけの約束の証だった水色のゼリービーンズに、異物が混入されてしまう。純粋さが、失われてしまう。

 元の世界に戻って、自分の部屋でこっそりうっとりとケミカルな一粒を眺める時に、キリーの冷たい悪魔顔が一瞬でもよぎったら、それはもう、二人だけの秘密のアイテムではなくなってしまうのだ。


 ――――せめて、さ。騎士と乙女の二人は、思いが通じ合ったけれど、最後には乙女は天に帰りました、とかだったらさ。せつない思い出がプラスされた感じで、それはそれで、ありなような気がするんだけど。異世界の綺璃亜先輩であるキリーへのせつない想いを胸に秘めたまま、本物の綺璃亜先輩との仲を深めていく、とかいうのはさ。それはそれで、乙女の純愛っぽくて、ちょっといいなって思うんだけど。ほら、綺璃亜先輩は女の人なんだから、浮気とかじゃないし。でも。でもでも、最初から最後まで、騎士は王女様のことが好きで、早く次のイベントに進めるために事務的にやりました、とかさ。そんなのに、綺璃亜先輩との思い出を邪魔されちゃうのは、そんなのは。やっぱり、なんか、やるせない!


 そのやるせないことになってしまいそうな予感に、流風は胸の内で吠えるしかない。

 せめて、違う色のゼリービーンズだったなら、思い出の住みわけが出来たかもしれないのに、なんで水色だったのだろうと、いじいじする。

 せっかく、流風だけの、綺璃亜との絆を感じさせてくれるものを手に入れたと思ったのに、台無しにされた気分だ。

 せめて、これだけでも大事にしようと、流風は小枝を握りしめたまま、器用にポニーテールを結ぶ白いリボンを結び直した。ゴムで結わえた上にリボンを結んでいるので、リボンが解けても髪形が崩れることはないし、似たような白いリボンは、いくつも持っている。

 それでも、風に飛ばされてなくしたりはしたくない。

 いや、なくすくらいなら、まだマシかもしれない。

 それよりも、風に飛ばれたリボンが木の枝に引っかかって、またしても思い出を上書き修正される羽目になってしまうことの方が、今は恐ろしい。

 そう思ったとたん、まるで流風の心を読んだかのように、冷たい風が背後から吹いてきて、ポニーテールの毛先を揺らした。リボンはさっき、結び直したばかりだし、そこまで強い風ではなかったのに、見えない手がいたずらをしたかのように、リボンはスルリとほどけて流風の目の前を飛んで行った。

 慌てて伸ばした流風の手をすり抜けて、飛んで行ったリボンは、流風とキリーのちょうど中間にある、木の枝に絡まっていった。リボンが自ら望んで絡まりにいったみたいに、絡まっていった。流風にはジャンプしても届かなそうだけど、キリーならば届きそうな絶妙な高さでリボンはひらひらしていた。森に住んでいる魔女に、嫌がらせをされているのではと疑ってしまうくらいに、狙ったようなシチュエーションだ。

 キリーに気づかれる前に回収せねばと、流風は問題の木の枝に向かって、ダッシュしてジャンプした。

 ――――が、案の定。届かなかった。

 幸いなことに、キリーは後ろでバタバタしている流風のことは完全スルーで、ペースを落とすことなく進んでいる。

 ほっとする反面、それを残念に思う自分もいて、流風はポニーテールをブンブンと振り回して、そんな自分を追い払う。

 乙女の心をかき乱す、新たな悪魔的イベントは起こらずにすみそうだけれど、あまりモタモタしていると、今度は置いて行かれてしまう。早く回収しなくてはと、流風は小枝を左手に持ち替えて、空いた右手をリボンに向かって伸ばし、渾身の力でジャンプを繰り返すのだが、掠りもしなかった。流風はあまり背が高い方ではないし、運動が得意な方でもない。つまり、現状、流風にはどうにもならない。小枝を使えば取れるかもしれないが、間違って小枝が折れたり、契約の証である実が落ちてしまったらと思うと、怖くてそれも出来ない。リボンを取ろうとジャンプをしているのだって、正直、恐る恐るなのだ。

 このままでは、置いて行かれてしまう。

 でも、だからといって、キリーを呼んでリボンを取ってもらうというのは、流風的にはあり得ない。呼んだからといって、来てくれる保証もないのだけれど、それでも。流風の方からキリーを呼ぶなんてことは、あり得ない。

 だって、そんなことをしたら。そんなことをしたら、またしても――――。


 ――諦めるしかないか…………。


 白リボンの救出を諦めて、項垂れる流風の頭上を伸びていく腕があった。

 いつの間に、引き返してきたのだろうか。青い騎士の衣装に包まれた逞しい男の人の腕は、流風がどうやっても救出できなかった白いリボンを、いとも簡単に救い出す。

 スルリと枝から解けて騎士の手の中に納まっていくリボンに、かつて見た、黒いリボンの救出劇がオーバーラップする。



 あれは流風がまだ、一年生だった頃。

 綺璃亜のことを、怖い人だと思っていた頃。性格まで悪魔的な人だと思っていた頃。苦手だと思っていた頃。

 隣のクラスのツインテールの子。ツインテールを黒いリボンで結わえた子が、校門の桜の木の前で途方に暮れていた。今の流風みたいに、風で飛ばされたリボンが枝に絡まって、自分では取れなくて困っていた。そこに偶々、綺璃亜が通りすがった。綺璃亜は、通りすがりざまに綺麗なジャンプを披露して、黒いリボンを救い出すと、ツインテールの手にポンと手渡して、何事もなかったかのように去っていった。

 流風はそれを、二階の廊下の窓から見ていた。窓の外に、目から落ちたウロコがポロポロコロコロと落ちていった。

 たったそれだけのことで、綺璃亜を見る目がいっぺんで変わった。

 だって。だって、綺璃亜が。見た目通りに性格まで悪魔的だったなら、ツインテールを助けたりしないはずだ。あっさり見捨てるか、そもそもツインテールが困っていることに気が付きもしないで、そのまま素通りしたはずだ。

 でも、違った。

 綺璃亜は、あの子を助けてあげたのだ。

 不良が子猫を助けるところを見て好感度がアップする、古の昔から伝わる黄金パターンであるということは、流風にも分かっている。自分でも、そう思った。

 でも。それでも。やっぱり。

 颯爽と黒リボンとツインテールを助けて去っていった綺璃亜は、格好良かった。

 いっぺんで好きになった。大好きになった。

 綺璃亜にリボンを取ってもらえたツインテールの子が、羨ましいと思った。

 手渡されたリボンを握りしめたまま、いつまでもそこに佇んでいたツインテールの子は、きっとこれから黒いリボンがトレードマークになるのだろうな、と考えて流風は。

 その日の帰りに、リボンを買った。

 黒ではなくて、白いリボンを。

 黒いリボンだと、ツインテールの子とお揃いになってしまうからだ。きっと、これから、あの子のトレードマークは黒いリボンになるはずだ。黒リボンは、あの子と綺璃亜を繋いだ、あの子にとって大切なアイテムとなるはずだ。そうと知りながら、傍から見ていただけの流風が、そこに割って入るような真似はしたくなかった。

 それに、黒は悪魔を連想させる。流風が苦手に思っていた綺璃亜の外見的なイメージを連想させる。萌流水もなみが崇拝する、悪魔的な綺璃亜を連想させる色だ。

 だから、白にした。

 流風が好きになったのは、その悪魔的な見た目の下に隠された、綺璃亜の優しさだ。悪魔的な仮面の下に潜む、本当は優しい綺璃亜の素顔に惹かれたのだ。

 だから、白いリボンにした。天使を連想させる白いリボンを、流風のトレードマークにすることにした。

 直接、流風と綺璃亜の間に何かがあったわけではない。けれど、本当の綺璃亜を知る切っ掛けとなった、綺璃亜の素顔を象徴する、流風にとっては大事なアイテム。

 それは、親友の萌流水にすら話していない、流風だけの秘密だった。

 もちろん、綺璃亜を好きになったことは、話した。綺璃亜を好きになったのは、萌流水の方が先なのだし、それを知っていて内緒にするのはフェアじゃない。好きになった理由も、話した。ただし、困っている一年生を助けているところを目撃して、本当は優しいことが分かったから、というところまでだ。具体的に何があったのかとか、白いリボンを選んだ理由なんかは、話していない。なぜなら、萌流水だって秘密にしているからだ。綺璃亜の悪魔的な魅力については熱く語ってくれたけれど、なぜ自分が綺璃亜に心酔するようになったのか、その理由までは、詳しく教えてくれなかった。

 だから、流風も秘密にした。

 もしかしたら、流風が打ち明ければ、萌流水も教えてくれたかもしれない。そうも考えたけれど、正直、悪魔的な魅力に心酔する切っ掛けとなったことに興味が持てなかった。綺璃亜の悪魔的な側面を切り抜いたようなことなんて、そもそも知りたくなかった。

 萌流水に知られるのが恥ずかしかったから、というのもある。窓から見ていただけで、直接関係したわけでもないのに、ツインテールの子に便乗してリボンを買いに行ったことを知られるのは、親友といえども気恥ずかしいものがある。おまけに、リボンの色を白にした理由が、綺璃亜の隠された優しさ転じて天使をイメージさせるからとか、黒歴史までとはいかないまでも灰歴史くらいにはなりそうだ。

 お互い様、ということもあって、流風は白リボンに纏わる秘密を、自分だけの胸に仕舞っておくことにした。

 胸の奥に。宝物として。大事に。大事に仕舞っておくことにした。

 そうすることで、秘密にすることで、白いリボンは流風の中で、宝物としてよりいっそう輝いた。

 でも、出来ることなら、いつか。第三者の絡まない、流風と綺璃亜だけの特別なアイテムが欲しいな、とずっと思っていた。願っていた。そして、その願いは叶ったのだ。

 北校舎の裏で、水色のゼリービーンズの約束を交わして、ようやく叶った流風の願い。でも、水色のゼリービーンズは、もう綺璃亜と二人だけの秘密のアイテムではなくなってしまった。キリーの手によって。乙女の悪魔の手によって。純粋さが失われてしまった。


 そして、今、また――――。


 キリーの魔の手が……乙女の悪魔の手が、流風の大事なものを奪い去ろうとしている。

 悪魔の凶行を止めようにも、白いリボンはすでにキリーの手の中で、もう手遅れだ。こうなったらもう、受け取るしかない。せめて、これだけは守りたかったけれど、もう、駄目だ。

 流風は観念して、リボンを受け取ろうとキリーに向かって手を伸ばした。けれど、伸ばした手に、リボンが置かれることはなかった。


 キリーは、本当に、正真正銘本物の、乙女の悪魔だった。


 キリーの視線が、自分の頭のてっぺん辺りに注がれているのを、流風は手を差し出したまま見上げていた。

 キリーの両手が、流風の頭の上で何やら動いている。リボンが擦れる音がする。キリーの手が、たまに流風の頭に軽くあたる。

 足元からは、イチゴソーダで満たされたラッパ水仙グラスが、パチパチシュワシュワと小気味よい音を弾けさせている。音とともに、イチゴソーダの甘い匂いも弾け飛ぶ。まるで、イチゴソーダ水仙に祝福されているようで、ものすごく居たたまれない。

 しばらくして、キリーの両手は引っ込んでいった。


「よし、結べた。行くぞ」


 冷たくクールにそう言って、キリーはまた、小道の先へと歩き始める。

 乙女の事情はさておき、リボンを取ってもらえたのは間違いないのだから、お礼を言わなくてはならない。

 それは、分かっている。

 分かっているけれど、言葉が何にも出てこない。

 そのまま、膝から崩れ落ちそうだった。

 頬は、木に生っていたりんご飴の実よりも、甘く赤く実っている。

 一体、どういうつもりなのか。あんなことをしておきながら、極悪非道な乙女の悪魔は、 お菓子の森に同化してしまいそうな流風を置いて、一人でどんどん先へと進んで行く。流風がついて来ていると信じているというよりは、流風のことなんか忘れたみたいな冷たい背中が、どんどん遠ざかっていく。

 甘いフラグを立てては、折るのではなく、そのまま引っこ抜いて回収していくキリー。

 まさしく、乙女の悪魔の所業だった。


「ま、また……、綺璃亜先輩との思い出を、上書き修正された……」


 狙ったかのように、乙女の大事な思い出を上書きしていくキリーが恨めしい。

 思わず零れる、乙女の嘆き。

 それは、誰の耳にも届くことなく、小道の脇に咲くラッパス水仙のグラスに転げ落ち、弾けるイチゴソーダの泡に溶けていった。

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