図書室には悪魔が棲んでいる Side-M②

 学校内のどこかにある、誰も知らない薄暗い秘密の小部屋。

 その部屋の中でひしめき合う人形たち。

 学校に棲む悪魔に、魂を食べられて人形にされてしまった、星蘭せいらんの女生徒たち。元々は、星蘭女子に通う女の子だった、人形たち。


 七不思議の悪魔。


 それは、私立星蘭女子中学校に伝わる、七不思議のひとつだ。

 七不思議のひとつに過ぎない、はずだった。

 憧れの人を連想させる、『悪魔』というフレーズが気になってはいたものの、『悪魔』が実際に存在するなんて、本気で信じたことはない。

 他の子たちがどうかは知らないけれど、少なくとも、萌流水もなみはそうだった。


 なのに、今。

 現実にいるはずがないと、バッサリと切り捨てたはずの『悪魔』の存在を、萌流水は肌で実感していた。

 女子中学生の夢想に過ぎない、人形たちがひしめく秘密の小部屋に、自分そっくりの一体が加わったところをリアルに想像して、萌流水は身を震わせる。

 さっきまでの、真っ白い寒さとは違うベクトルの冷気。

 底のない暗闇から這い出してきたかのような黒い冷気が、萌流水を捉えて、引きずり込もうとしている。ソレが元いた、闇の奥底へと。

 誰もいない図書室の床にへたり込んでしまった萌流水の目に映るのは、閲覧用の机の脚と、その向こうのカウンターの壁。

 萌流水以外の何者かの姿は、どこにも見えない。

 けれど、感じる。確かに、感じる。

 悪魔かもしれない何かが、萌流水のまだ熱を宿した柔らかい魂に、黒い氷の牙を突き立てようとしている気配を、確かに感じていた。

 今すぐにここから逃げ出せと、心の底から叫び声が聞こえてくる。

 言われなくても、そうするべきなのは、分かっている。

 そうしたいのは、山々だ。片付けも戸締りもどうでもいいから、今すぐここから飛び出して、家に逃げ帰りたい。なのに、そんな萌流水の気持ちとは裏腹に、すっかり足が竦んでいしまって、逃げ帰るどころか立ち上がることすら出来そうになかった。

 せめて、ここに、誰かもう一人いてくれれば、少しはマシだったかもしれない。心強い、というよりは、他人に無様なところを見せたくないというプライドから、ただ震えているだけよりはマシな行動をするはずだと、萌流水はどこか他人事のように自分を分析していた。

 いや、それよりも。そもそも、もう一人ここにいてくれれば、悪魔かもしれないソレに、萌流水が狙われることすらなかったかもしれない。

 そう考えると、恐怖に縮こまるばかりだった心に、チラッと怒りの焔が灯る。

 本来、ここには、萌流水を含めて三人の人間がいるはずなのだ。図書当番が二人と、司書の資格を持つ北見先生。その三人が、ここにいるはずだった。

 北見先生は、仕方がない。小学生の子供が熱を出したと連絡を受けて、午後から早退した北見先生は、仕方がない。正当な理由がある。今日の図書当番は、真面目な優等生で通っている萌流水と、図書委員長である三年生の最上だった。この二人なら、任せても大丈夫だと判断したのだろう。

 許せないのは、放課後になってからそれを萌流水に伝えに来た、最上だ。最上は、自分も体調が悪いからと形ばかり萌流水に手を合わせると、代わりの当番を手配することもなく先に帰っていった。少しも具合が悪いようには見えなかったし、萌流水一人に仕事を押し付けることを悪いと思っている様子もなかった。

 最上は、うまく仕事を人に押し付けて手柄だけを横取りするタイプだった。おまけに、星蘭女子小学校からの持ち上がり組、純血星じゅんけっせいである最上は、外部受験組である外来星がいらいせいの萌流水たちに対しては、何をしてもいいと思っている節がある。正直、こんなことはいつものことだし、先生がいない状況で最上が仕事をするとも思えない。ただいるだけなのも目障りだし、いっそ清々するとすら思っていた。

 けれど、今は、先に帰った最上が恨めしい。たとえ、仕事の役には立たなくても、最上がいれば、今、萌流水がこんな窮地に立たされずに済んだかもしれないのに。


 ――――誰でもいい。誰でもいいから、誰か来て!


 一人きりじゃなくなれば、悪魔かもしれない何かがいなくなってくれるかもしれない。

 得体の知れない気配を警戒しながらも、萌流水から見てカウンターの左にあたる出入り口のドアを、縋るように見つめた。

 その願いが届いたのか、見つめる先でドアがカラリと音を立てて開いた。

 顔を輝かせた萌流水だったが、部屋の中に入って来た人物の顔を見て、瞬時に顔を強張らせる。

 シンプルな紺色のスーツを着た年配の女性。白髪染めをしていると思われる髪を、飾り気のない茶色いバレッタで一つにまとめている。

 国語教師の葉山だった。

 萌流水の一番嫌いな教師。萌流水だけではない。星蘭女子に通う外来星で、葉山が好きだと答える生徒は一人もいないだろう。

 葉山は後ろ手にドアを閉めると、少し中へ進んだ。カウンターへと視線を走らせてから図書室内を見回し、閲覧机の向こうで座り込んでいる萌流水に気づいたようだった。


「お疲れ様です。北見先生から、最後の戸締りの確認だけを頼まれたのだけれど、最上さんはどこにいるのかしら?」


 媚びるような笑みに、猫なで声。

 顔が歪みそうになるのを必死で堪え、萌流水は引きつった笑みで葉山に答えた。


「最上先輩は、その、少し体調が悪いみたいだったので、先に帰ってもらいました」

「あら? そうなの? それは、心配ね……。それで、あなたはそこで何をしているの? 片付けはもう終わっているの?」

「も、もう少しで終わります」


 図書室内に最上がいないと知って、葉山は態度を一変させた。

 媚びるような笑みは掻き消えた。冷たくそっけない視線を萌流水に投げつけ、棘の混じった声をぶつけてくる。転んで立てないでいるのかもしれない萌流水を気遣うような素振りは一切ない。教師としてどころか、人として、最低だ。

 床に座り込んでいるのが萌流水ではなくて最上だったら、オーバーなくらいに騒ぎ立てているはずだった。

 心の奥底で渦巻く黒いモノが漏れ出したりしないように、萌流水は唇の内側をそっと噛みしめた。

 葉山は、上辺だけは優等生の最上だけを特別扱いして、萌流水にだけ特別つらくあたっているわけではない。特定の誰かを、というわけではないのだ。

葉山は、純血星を特別視し、外来星のことを敵視している。外来星にとっての、天敵のような存在だった。

 それも、葉山自身が星蘭女子の卒業生で生粋の純血星であるから、花園を荒らす外来種として外来星を敵視しているわけではない。

 その逆で、葉山自身は、星蘭の卒業生ではなかった。子供の頃から、星蘭女子に強い憧れを抱きつつも、葉山の学生時代は、まだ星蘭女子が完全なるエスカレーター方式で、外部受験生の受け入れを行っていなかった。葉山の育った家庭は、小学校からお金のかかる星蘭に通わせられるほど裕福ではなかったのだろう。星蘭の制服を着てみたいという葉山の夢は叶えられることはなかった。それでも、夢を諦められず、せめてもと星蘭の教師を目指して、その夢は見事叶えられた。授業の合間の雑談で、本人が話していたので、まあ間違いないのだろう。

 星蘭が、外部受験生の受け入れを始めたのは、平成の半ば頃のことらしい。ちょうどその頃、理事長が変わったこともあり、少子化や不況による入学者の減少と、経済上の理由により途中で公立に切り替える生徒の増加に対応するために、受け入れに踏み切ったようだ。外来生には、中学校だけ、高校の三年間だけ星蘭に通い、後は公立の学校という生徒が多い。小学校から通してとなると厳しいが、三年間だけなら何とか費用を工面できるからという、経済上の理由からの家庭もあれば、箱入り娘になり過ぎても将来が心配だと考えての家庭もある。ちなみに、友人の流風は前者で、萌流水自身は後者だった。

 恐らくは、葉山も、当時から外部受験制度があれば、一度くらいは星蘭の制服に袖を通すことが出来たのだろう。だからこそ、自分が叶えられなかった夢を叶えた、外来星のことが気に入らない。早い話が、妬んでいるのだ。

 校内で何か問題が起こって、その場に純血星と外来星がいれば、事情も聴かずに外来星のせいだと決めつける。どころか、問題の現場にいるのが純血星だけで、そこに外来星がいなかったとしても、外来星が悪いと決めつけるような教師だ。それは、萌流水のような優等生と目されている生徒であっても例外ではない。

 純血星を特別視するあまり、外来星が純血星より少しでも上位に立つことが認めらないのだろう。むしろ、普段以上に粗探しに必死なるきらいがある。

 つまり、今の状況は最悪だった。

 萌流水が少しでも隙を見せれば、葉山は食らいついて離さないだろう。壁に掛けられた時計を見ると、いつの間にそんなに時間が過ぎていたのか、利用時間終了から10分ほど経過していた。まったく片付けに手を付けていないのも事実だけれど、文句を言われるほど遅い時間なわけでもない。そもそも、いつもなら三人でやる仕事を、萌流水一人でやらなければならないのだから、いつもより時間がかかって当然なのだ。けれど、そんなことは葉山には関係ないのだろう。萌流水が外来星だという、ただそれだけで。

 早く片づけを終わらせなければ、面倒なことになりそうだった。

 それは、分かっている。分かっているのだが、体の方は、ちっとも萌流水の言うことを聞いてくれなかった。

 せめて、得体の知れない気配だけでも消えてくれれば、何とかなったかもしれないのに。残念なことに、依然として“悪魔”は、萌流水と新たな侵入者の様子を窺っているようだった。体に纏わりつくような冷気が消えていない。


 ――――どうせなら、葉山の魂を食べて、人形にしてくれればいいのに。


 心の中で悪態をつきながら、何とか立ち上がろうと試みる萌流水だったが、まだ震えたままの足は、上手く動いてくれなかった。思うようにならない体に焦っていると、葉山はコツコツとヒールの音を響かせながら、さらに奥まで進み、閲覧机を越えて萌流水とカウンターの中間に立つ。


「いつまで、遊んでいるの。私も暇ではないの。早く、片付けてちょうだい。まったく、最上さんがいないと何も出来ないの? これだから、外来星は……。優等生なんて言われていい気になっているみたいだけれど、一人で仕事を任された途端にこの有様なんて。いつも、最上さんに頼りきりで、本当は、一人では何もできないんじゃないの? ついに、馬脚を現したみたいね。本当に、外来星なんて、純血星に寄生するだけの害虫よ。速やかに駆除してほしいものだわ。ああ、霧島さんが優等生の仮面を被っているだけの、最上さんの手柄を横取りするだけの寄生虫にすぎないということは、北見先生や他の先生方にもちゃんと伝えておきますからね。さあ、立って。早く、終わらせてちょうだい。私も暇じゃないのよ」

「……………………」


 いつも、人に仕事を押し付けて手柄だけを横取りする寄生虫は、最上の方だというのに。

 他の先生や純血星がいるところでは、媚びたような愛想笑いを崩さないくせに、自分と外来星だけになったとたんに豹変する葉山の二面性にも、腹が立つ。

 常に心の奥底で燻っている怒りの熾火が爆ぜあがらないように、萌流水は深く息を吸い込んで呼吸を整えた。どんなに人として最低でも、相手は教師だ。本気で歯向かって、萌流水一人に目をつけられても、かえって面倒なことになる。こういう相手とは、なるべく穏便に済ませて、関わり合いを避けるのが一番だ。

 葉山の言いようには腹が立つが、その怒りがカンフル剤となって、ようやく足が動いてくれそうだった。

 早く終わらせて、この場所からも葉山からも遠ざかりたい。

 ただその一心で、何とか立ち上がろうと足に力を込めて、萌流水はギクリと身を震わせた。

 葉山のヒールの先に、ケミカルな水色が転がっているのが目に入ったのだ。

 あれが、葉山に見つかったらまずい。言い逃れのしようがない。たとえ、萌流水が持ち込んだ犯人ではなかったとしても、萌流水が外来星だというだけで萌流水を犯人と決めつけるような相手なのだ。

 しかも今回は、真実、萌流水が犯人なのだ。

 何とかばれないように回収しなくてはと考え始めたところで、もっとまずいことに気が付いて血の気が引いた。

 反射的にカウンターの上に目をやってしまってから、しまったと思った。萌流水につられたように、葉山もカウンターの上へと視線を移す。

 カウンターの上の、口を広げられたままの巾着袋へと。

 中には、色とりどりのゼリービーンズがひしめき合っている。

 まだ座ったままの萌流水からは、中身までは見えないが、立っている葉山からは丸見えのはずだ。

 巾着の中身に気が付いたとたん、葉山は顔を愉悦に歪ませた。

 校則違反への怒りでも、苛立ちでもなく、愉悦に。

 外来星のくせに成績もよく、優等生と呼ばれている萌流水の校則違反を見つけて、喜んでいるのだ。大手を振るって萌流水を貶めることが出来る。そのことを喜んでいるのだ。

 ここにいたのが、純血星である最上だったなら、外来星の落とし物を拾っただけだと、話を聞く前から決めつけていたことだろう。もしくは、最上が持参した可能性を考慮して、巾着の中身には気づかなかった振りをしたかもしれない。

 だというのに、萌流水が外来星だというだけで、葉山は話も聞かずに、萌流水を犯人と決めつけて断罪するつもりなのだ。

 足元に転がる水色にも、葉山は目ざとく気付いたようだった。嫌らしい笑みが口元に広がるのを、萌流水はただ見上げているしかない。


「霧島さん? これは、一体どういうことかしら? みっともなく床に這いつくばって何をしているのかと思えば。誰もいないのをいいことに、校則違反のお菓子を校内で食べていた上に、はしたなく床に散らかしてしまって、慌てて拾っていたところだったというわけね? 本当に、はしたない。やっぱり、外来星なんて、伝統ある星蘭女子には相応しくないのよ。さっそく、職員会議にかけて、退学…………までは無理かしら? でも、停学くらいにはしてもらわないとね。あとは、そうね。今後は、外来星だけ抜き打ちの持ち物検査も行うようにしてもらわないといけないわね。ふ、ふふ、忙しくなるわ」

「なっ……!」


 予想通りとはいえ、本当に事情聴取すらせず、萌流水を、外来星を貶めて弾圧できるチャンスが訪れたことを歓び、楽しそうに今後の対応に考えを巡らせている葉山に二の句が継げなくなる。

 終わりだ、と思った。

 世界のすべてが、萌流水から遠ざかっていくようだった。

 停学なんて、両親に何と言えばいいのだろう?

 それに、萌流水のせいで外来星にだけ抜き打ちの持ち物検査をするなんて、そんなことになったら、クラスどころか校内での身の置き場がなくなってしまう。

 今までずっと、優等生で通してきたのに。

 純血星には蔑みと嘲笑を向けられ、外来星からはあいつのせいでと恨まれることになるだろう。

 綺璃亜きりあにも、恨まれてしまうかもしれない。綺璃亜も、萌流水と同じ外来星だ。外来星への締め付けが厳しくなったら、今までのように校舎裏で一人ゼリービーンズを楽しむことが出来なくなるはずだ。

 綺璃亜に疎まれることは、耐えがたかった。

 だったらいっそ、退学になったほうがマシな気さえしてきていた。


 葉山の足元に転がる、すべての元凶であるケミカルな水色を、ただ見つめる。


 あの時、本当なら綺璃亜の口に入るはずだった一粒。流風るかの口の中に放り込まれることになった一粒。サラリと長い黒髪を靡かせ、去っていった綺璃亜。真っ赤に茹だりながら、一人取り残された流風の、だらしなくも幸せそうな顔。

 どうして、あんなものを見てしまったのだろう?

 いいや、それよりも。そもそも、流風が不用意にして不躾に、綺璃亜の一人の時間を邪魔したりさえしなければ、こんなことにはならなかったのに。

 萌流水が真冬のさなかに取り残されたような気持ちを味わうこともなかったし、隠し持っていた巾着を広げることもなかった。ケミカルな水色を床の上に転がすこともなければ、得体の知れない何かに魂を狙われることも、外来星の天敵である葉山に校則違反が見つかって、退学か停学かの窮地に立つこともなかったはずだ。


 すべての元凶のような、ケミカルな水色の一粒。


 ――――あれさえなければ。


「ふっ。散らせたわりには、床の上は綺麗みたいね? もしかして、拾って食べたりしたのかしら? まあ、落ちたお菓子の方が下品な外来星であるあなたには相応しいわね」

「ふざけないでよ! 下品なのは、どっちの方よ! その外来星にすらなれなかったくせに! 僻まないでよね! 落ちているゼリービーンズが相応しいのは、最低クズ教師のおまえの方だ!」

「なんですっ…………むぐっ!」


 萌流水の中で燻り続けていたものが、一気に爆ぜあがった。


『やめておけ』


 そんな、内なる声が聞こえた気がした。

 その声を焼き払う。

 萌流水は、素早い動きで葉山の足先に落ちているゼリービーンズを拾い上げた。拾い上げた一粒を葉山の口の中に投げつけるように放り込んでから、その口を手のひらで押さえつける。

 すべての元凶の水色のゼリービーンズ。

 あの時の記憶ごと、目の前から消し去ってしまいたかったけれど、自分で食べるのは嫌だった。かといって、捨ててしまうのも躊躇われる。

 やってしまってみれば、こうするのが一番だったような気がした。

 最低のクズに食べさせることで、流風の大事な秘め事を汚してやったような気がして、少しだけ心が晴れた。

 こんなことをして、ただで済むとはもちろん思っていない。怒る狂った葉山は、何としても萌流水を退学させようと奮迅するだろう。

 でも、それでもいいと思った。

 綺璃亜に嫌われたままこの学校に通うくらいなら、むしろ退学になったほういいと、今は本気で思っていた。

 萌流水が手で押さえつけるまでもなく、葉山は突然喉の奥に放り込まれた一粒を、反射的に飲み込んでしまったようだった。突然の萌流水の強攻に目を白黒させていたが、飲み下した途端に、その目がカッと燃え上がった。

 萌流水に痛いところを突かれた上に、床に落ちていたゼリービーンズを食べさせられたのだ。愉悦に浸りきっていたところからの屈辱は、怒りを燃え上がらせるガソリンとなった。

 葉山は、顔を真っ赤にして、目に怒りの炎を滾らせながら、萌流水の手をはがそうと荒々しく掴みかかり、そして。

 そして――――――――。

 爆発する寸前だった目から、急速に光が落ちた。電源が落ちたみたいに。萌流水の手首を掴んでいた手も、ダラリと下へ落ちていく。


「…………え? 何……? 先生?」

「……………………」


 その急変ぶりに、さすがに慌てた。頭に血が上り過ぎて血管が切れてしまったのではと、不安になる。誰かほかの先生に知らせて救急車を呼んでもらうべきだろうかと冷静に判断しながら、同時に、これで校則違反が有耶無耶になるかもとも考えていた。見捨てるつもりはないが、同情するつもりもない。

 意識がちゃんとあるのかを確認しようと、萌流水は恐る恐る声をかけてみた。床に倒れたりするようなら、すぐに誰かを呼びに行くところだけれど、葉山はまだ自分で立っている。

 葉山からの反応はなかった。生気のない目で、ぼんやりとどこか虚空を見つめている。いや、どこも見ていないのかもしれない。

 魂を抜かれたみたいに。

 その目は、人形の目にはめ込まれたガラス玉のように、虚ろに世界を映している。

 魂を抜かれて、人形みたいに。


『七不思議の悪魔に魂を食べられた生徒は、人形にされてしまう』


 天啓のように、そのフレーズが浮かんできた。

 目を見開いて、一歩後ろに下がる。

 まさしく、雷に打たれた心地だった。

 全身に、震えが走る。口元に刻まれる、暗い喜び。

 萌流水は、知った。知ったのだと思った。

 悪魔に魂を食べられた生徒……いや、人間は、人形にされてしまうのではない。魂をなくして、人形のようにされてしまうのだ。

 つまり、葉山は。


「………………先生? あとは、私一人で大丈夫ですから、先にお帰り下さい」

「……………………」


 試しに萌流水が声をかけてみると、葉山は声もなく頷き、ノロノロとした動きで図書室から出ていった。

 扉が閉まり、図書室に残された人間は、萌流水一人だけになる。

 図書室には、まだ、“悪魔”の気配がしていた。けれど、葉山の魂を喰らって満足しているのか、“悪魔”に萌流水を襲う意思はないようだった。

 

「七不思議の悪魔。本当に、いたんだ……」


 感嘆の呟きが萌流水から零れ落ちる。その声に、恐怖の色は混じっていなかった。

不思議な気配が漂う空間を見つめる瞳は、今。

喜びに輝いていた。


「悪魔は…………いいえ、悪魔様は図書室に棲んでいる。だから、綺璃亜先輩は、図書室のある北校舎の下でゼリービーンズを食べていた。きっと、そういうこと。ゼリービーンズは、悪魔様との契約の証。そして、綺璃亜先輩は、悪魔と契約を交わした。ゼリービーンズを食べさせた相手の魂を悪魔様に捧げて、代わりに悪魔的な力をもらっている。そう。きっと、そういうこと。そうに、違いない。だから、つまり、流風は。流風は、悪魔様に捧げるエサにされただけ。エサの一人に選ばれたっていうだけ。全然、特別なんかじゃない。だって、そうでなければおかしいもの。わたしじゃなくて、何の取柄もない、つまらないだけの流風が選ばれるなんて、そんなの、おかしいもの」


 呟くようだった声は、次第に大きくなっていく。

 頬は上気し、瞳孔が開いていた。


「でも、わたしは違う! わたしは、本当の意味で選ばれた。ゼリービーンズは、契約に必要なアイテムだった。悪魔様は、わたしがゼリービーンズをカウンターの上に出したことで、わたしがゼリービーンズを持っていることを知った。だから、わたしの前に姿を現した。悪魔様は、わたしの魂を食べようとしたんじゃない。悪魔様の存在を、わたしに教えるために、契約のためには魂が必要だって、わたしに教えるために……。そのために、わざとわたしの魂を食べるふりをした」


 自分と“悪魔様”以外に誰もいない部屋で、萌流水は声を高ぶらせていく。

 すべてを失ったと思っていた萌流水にとって、それは素敵な考えだった。

 悪魔的に美しい綺璃亜。悪魔と契約をして、悪魔的な力を手に入れた綺璃亜。

だからこそ、綺璃亜は一人でも何でもない顔をして立っていられるのだ。綺璃亜は一人なのではない。だって、悪魔様というパートナーがいるのだから。

 そして、萌流水も今、その資格を手に入れようとしている。

 それは、二重の意味で、とても素敵な考えだった。

 悪魔的な存在である綺璃亜に相応しい生徒なんて、この学校にはいないと思っていた。いてはならないと思っていた。自分も含めて。

 でも、萌流水自身も、綺璃亜と同じ悪魔的な力を手に入れれば、自分は綺璃亜に相応しい存在になれる。別に、慣れ合う必要はない。ただ、綺璃亜と対等な存在になれる。それだけで、萌流水は満足だった。

 そして、その力さえあれば。綺璃亜が卒業した後も、綺璃亜の存在を感じていられる。綺璃亜との結びつきを感じていられる。

 スカートのポケットに隠し持っていたゼリービーンズなんかよりも、ずっと強く。


 それどころか、悪魔の力さえあれば、純血星たちの顔色を窺って、息をひそめている必要すらないのでは?

 そう、綺璃亜のように。

 誰の目も気にせず、一人で立っていることが出来るはずだ。


 純血星が相手だからという理由だけで、言うべき言葉を飲み込む必要も、目立たないように地味に見せるための髪形をする必要も、テストで手を抜く必要もない。

 それは、本当に、とても魅力的な考えだった。


『やめておけ』


 内なる声が、再び響いてきた。でも、その声は、自らの考えに酔いしれる萌流水には届かない。


「悪魔様! どうか、わたしと契約をしてください! 悪魔様に満足していただけるような魂を調達してきます。だから、代わりに! わたしに力をください! 綺璃亜先輩にふさわしいわたしになれる、悪魔的な力を!」


 祈るように顔の前で両手を組み合わせ、不思議な気配に向かって語りかける。

 答えはない。

 けれど、萌流水は喜びに瞳を輝かせていた。

 

 だって、不思議な気配はそこにある。

 萌流水を襲ったりせず、どこかへ消え去ったりもせず。

 萌流水の提案を受け入れるかのように、ただそこに、静かに佇んでいる。

 萌流水には、そう感じられた。


 だから、信じた。

 悪魔と萌流水の契約は、今まさに成立したのだと。

 信じて疑わなかった。


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